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生きるために動物を食べるという主張についての疑惑と
それからちょっと派生した内容です

これが今回の質問内容
現代人は生きるために食べるということを建前にして
明らかに必要以上に肉を食べる これは動物虐待から殺すのと娯楽のために
殺すという点でどう違うのか

派生して法律は可能性だけでも適用されるの?と という話です
こっからちょっと長いのでよろしくお願いします
こういう話は口調が激しくなる人が出てくると思いますがそういうのはちょっとこわいので
そういうのがあったら読みません
これの思った背景はテレビとかでもよく見ますがバクバク肉は食うのに動物が殺される映像は泣く事が許される社会の風潮の疑問から思い始めたことです



大体の人は動物が殺されている映像を見てかわいそうという
でもその一方で大体の人は必要以上の肉食を行う

植物に関しては(そもそも植物に大体の人はかわいいといった形の愛し方をしないが)
今回は動物を食べないと生きていけないという主張と食べなくても暮らしていけるという
現状の齟齬について考えるので植物は生き物であるということを気にしない
植物も生き物という主張は気にしない

自分が思ってることは
別にそんなにいっぱい動物を食べなくても生きていけるじゃんということ


動物を食べていかなければ生きてはいけないという内容を子供に教育する
でも結局今の食生活で考えると人間は生きるために動物を食べているのではなくて
食という娯楽のために動物を食べている 肉をそこまで食べなくてもいいという例は
ベジタリアンから見ても明らかに現代人は肉のとりすぎであるといえると思う
(肉を全く取らないことは栄養的に難しいと思うが)
(今回は動物を食べなければ生きていかないという主張に関して考えるので
植物も生き物とかいう意見はずれている)

つまり過剰な肉の摂取が許されているという現在は
娯楽で生き物を殺すことは社会的に認められているということになる

それなのになぜ動物を虐待することは問題になる?
アメリカでは動物の虐待で警察が飛んでくる

ほかの人間に同じように危害を加えるかもしれないという可能性があるから問題なのか?
物理的に攻撃的な性格だから罪になるのか?
この二つの事柄には法律的に関しての問題があるだけなのか?

社会の秩序を保つために虐待者を罪とするのか?それじゃあ社会の秩序を守るという法律的な考え方
(こういう定義かどうかはしらない)以外には問題はないのか?

そもそも人に危害を加えるかもしれない、社会の秩序を乱すかもしれないというあくまで可能性しか
まだないのになぜ逮捕されないといけないのか、法律というものは可能性を持っているだけで
罰を与えていいのか

ということです

A 回答 (11件中1~10件)

法律というのは、人間が自分たちが存在する社会の都合で作ったものであって、地球上の他の生物の権利を守るためにあるものではない。

 動物愛護法はきっと、虐待を見聞きすると罪悪感を感じたり、不快に思ったりする人間が自分たちが正しいことをしているという正義感を満たすために考え出したものじゃないかな。 で、法律として成り立っているって事は、そう思った人のほうが多かった(もしくは強かった)からかな?

この回答への補足

回答ありがとうございます!
>正しいことをしているという正義感を満たすために考え出したものじゃないかな。

つまり感情論も法律には含まれても良いということでしょうか
法律は客観的な物でなくてはならないと考えていたため
この主観を含めてもよいという考えは考えていなかった発想でした
ありがとうございます!

補足日時:2014/01/10 02:19
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補足をいただきましたので、もう少し書かせていただきます。



>欲といえば汚い話になりますが獣姦も性欲からですが
これはペットをあれした場合虐待にあたります

欲情も暴走すれば合理的な理由にはなりえないというのはそのとおりだと思います。これは生物一般に見られるものです。
確かに人間の度を過ぎた美食追求は倫理に触れる場合があるかも知れません。鴨を拷問虐殺してその内臓を食うというフランス料理(フォアギュラ?)などその最たるものでしょう。私が言っていたのは量的な食欲なので、この面に限れば許容限度範囲だろうということです。


>女性やマスターベーションで代用出来るというのはそれは植物を食べたりすることに当たると
思います

代用はあくまで代用なので、ステーキ嗜好などの王道を非難するのは間違いだと思いますよ。

>同じ事象の事で多数派少数派というだけで有罪無罪が決まっていると言えないでしょうか

誰が考えても誤謬のない完全な論理が現れなければ、とりあえずは多数決でいくのがいまの人間の考え方で、それは間違いが少ないやりかただと思います。
ともかく、自然物理の世界でも現在ではすべてを説明できる理論はまだ現れては居ませんし、人間は人文倫理の面ではさらに自縄自縛に陥っている傾向はあります。ひとつひとつほぐしていくひつようがあるでしょう。
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この回答へのお礼

回答有難うございました
嗜好というのは娯楽だと思うのでちょっとそこは納得出来ないです

味の代用にはならないですが栄養的にはある程度代用出来るはずです
多数決はその動物を好きかどうかでも大きく変わってくるのでちょっと嫌ですね
人間が好きだから守るという理論ならわかりますがそれを命は大切という理論で言われたら
他はどうなんだと思います
ありがとうございました大変参考になりました

お礼日時:2014/01/11 16:52

だから、ベジタリアンは身勝手な考えなんだよね。



動物の生命を断つことだけが殺生じゃないよ。

植物にも寿命ある生命体なんだから植物の命を断つことだって殺生だと思わないか?

家庭菜園などで野菜を育てると植物も命ある生命体だと理解することが出来るはずだから試してみてから疑問を抱きなよ。

この回答への補足

はあ そっすね 

補足日時:2014/01/10 20:54
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この回答へのお礼

自分ベジタリアンじゃないっすよ
雑に言えば質問内容は社会の動物に対するダブスタのことなんで、植物は関係ないって書いてるでしょう
人に疑問を抱くことを勧める前に質問を読んでください

お礼日時:2014/01/10 21:03

出来ますよ。


命を無駄にせず人の命を保つことは…
それは組織培養して直接肉を作れば良いのです。
現在の技術を駆使しすればすでに不可能な事では無くなってます。
後はコストの問題と食べる側の認識の問題でしょう。
動物を飼う、あるい捕まえて殺して食べるよりコストが安くなれば急激に普及するでしょう。
近い将来食料危機対策なども考慮してこのような組織培養による肉食が可能となります。
ロスが出ないので効率的でもあります。

マグロだってトロの部分だけを培養すればトロの塊が出来ます。
組織は生きてるけど、動物じゃないから命では無いです。
元の動物からは極一部の細胞を取るだけですから元の動物は殺さずとも食えるでしょう。

この技術を持って人間は生態系から離脱出来るのだと思います。
すでに人を捕食する立場のものがいないですから…。
この技術を持って自分の食料を他の生命を犠牲にする事無く自分たちで作る事ができる。
やがては命を犠牲にして自分の命を保つ事が野蛮となり、禁止される日も来ると思います。

ただ、それまでは従来の方法を行うしか無いでしょう。
人だって生物の一種なのですから。

動物虐待が罪になるのは法にそういう規定があるからです。
それ以外の何物でもありません。
法に規定がある以上それを犯せば違法行為なのです。
もし、それ不服があるなら法的な手順を踏んで法自体を改定しなければなりません、
これが法治国家と言う物です。
いくら疑問だと言ってもすでに制定された法は守らねばなりません。
それが法律なのです。
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基本線として人間が人間らしく快適に生きていく必要性から法律やら倫理が発生しました。

そして人間は世界中にいてさまざまな文化が混在し、その線からもぐちゃぐちゃになっていておたがいにそれぞれの論理が錯綜し、矛盾しまくっている面はあります。グローバルな時代になってからそれは顕在化し問題化されつつありますから、いずれは整理されると思いますが、おっっしゃることはその考え方で理解できることでしょう。
食肉の合理性と動物愛護観との矛盾がそのひとつでしょう。世界には犬やらネコを食う社会も存在しますし、牛はだめだ豚はだめだ鯨はだめだ、こういった混乱は文化が異なるせいです。肉の食いすぎと動物虐待は私見では客観的にも相当離れた事象で矛盾といえるかどうかは議論があると思いますが、確かに新しいユニークな指摘です。いずれにせよ人間が愉しみのためとはいえ食肉をするのは肉が美味しいからだけではなく、基本的に食欲がわくからで、食欲が満足したらそれ以上は食べません。昔のローマ人が吐いては食したような下種な食事は現代人はしません。そこに動物虐殺とはあきらかな一線があると私は思います。
動物虐待が警察沙汰になるのは、先進国の文化からの二次的発生だと私は思っています。つまり愛玩動物は彼らにとって人格を備えた愛すべき家族なので、その人格侵害が問題になるのです。野犬、野良猫への言及も自分たちの責任感からもたらされたのでしょう。

この回答への補足

>食肉をするのは肉が美味しいからだけではなく、基本的に食欲がわくからで

とありますが欲といえば汚い話になりますが獣姦も性欲からですが
これはペットをあれした場合虐待にあたります
女性やマスターベーションで代用出来るというのはそれは植物を食べたりすることに当たると
思います


愛玩動物と動物の線引も少し曖昧さを感じます 犬猫を飼っている人が多数いて
犬猫の虐待が嫌というのがマジョリティーな意見だから、怒る人がいっぱいいるから
犯罪になる。しかし仮に家畜の飼育が虐待認定されたとしてミニブタを飼っている人は
マイノリティながらいると思いますがその人が豚を食べることに怒っていればそれは
同じ事象の事で多数派少数派というだけで有罪無罪が決まっていると言えないでしょうか

補足日時:2014/01/10 15:53
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この回答へのお礼

回答有難うございました!
また気になるところがあったのに間違ってベストアンサーを決めてしまったので
また何かアドバイスを頂けるのなら他の質問に書いていただきたいです

お礼日時:2014/01/11 17:04

>これは動物虐待から殺すのと娯楽のために


殺すという点ではどう違うのか

食肉業者は「仕事として食肉用の牛や豚をしてる」だけであり、動物虐待でも娯楽で殺してる訳でもないです。

なお、私は魚釣りを趣味の1つとしてますが、海釣り(釣り船での沖釣り)釣った鯛などの魚は「釣り上げた直後に船上で活き締め〆」にしますけど鮮度を落とさず活きの良い状態で有り難く頂戴するためなので動物虐待でも残酷だとも思ったことはありません。

ちなみに、ベジタリアンは「植物しか食べないから動物を食べるのは残酷」という身勝手な考え方を持ってる人がいるようですが、動物も植物も命ある生物であることには変わりがないことを理解してつまらぬ疑問は抱かず「生きるために命ある生物を有り難く頂戴する」ことです。

この回答への補足

>生きるために命ある生物を有り難く頂戴する

その理論はわかりますがそれをたてまえにして思考停止し
過剰に肉を食いながらも動物の無駄な殺生は決して許さないという意見
を持っている人は多数いると思います
しかし過剰に肉を食うこと自体が動物の無駄な殺生になりうるのではないでしょうか

補足日時:2014/01/10 16:05
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野生動物も、次にいつ食えるか不安なので、腹いっぱい食べますが?



そもそもの前提がおかしいです。
この部分の開設をお願いします。

この回答への補足

>生きるために命ある生物を有り難く頂戴する

その理論はわかりますがそれをたてまえにして思考停止し
過剰に肉を食いながらも動物の無駄な殺生は決して許さないという意見
を持っている人は多数いると思います
しかし過剰に肉を食うこと自体が動物の無駄な殺生になりうるのではないでしょうか

補足日時:2014/01/10 16:06
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栄養的には、魚介類と乳製品と野菜・海草・きのこでOKなのではありませんか?



肉を食うのは肉が売っているからです。

動物の肉を買わなければ自然に肉食しなくなります。

日本人の健康には、そのほうがいいです。

動物の生命を絶つ権利は人間にはありませんが、作物を荒らす動物は駆除されます。

そのため、一部の狩猟だけは、必要かもしれません。

日本人は、鹿とイノシシの肉と魚介類と乳製品と野菜・海草・きのこでOKです。

イノシシ肉まったく癖がなくて豚肉よりもしっかりと旨いです。

鹿の刺身もね。 ちょっと高いからあんまり食えませんが少なくてもいいです。魚食えるし。。

この回答への補足

今回は肉食がいやと 言いたいわけではなくて社会が合理的な考えで矛盾しているのではないかと
感じたのが主といいますか

イノシシおいしいですよね もし肉がイノシシだけになると値段がすごいことになりそうです
自分は肉を食い続けてきたのでいまさら肉を食わないという選択肢は選べないです

でもそれじゃあ動物虐待とかも権利として認めてあげないといけないのではないかと考えました

※自分は肉も食うし虐待はしません

補足日時:2014/01/10 03:06
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動物虐待が犯罪なのは質問者様の以下の推測が主な理由ではないのです。


>ほかの人間に同じように危害を加えるかもしれないという可能性があるから問題なのか?
>物理的に攻撃的な性格だから罪になるのか?

では、どういう理由によって動物虐待は犯罪と定まられるのかというと

生きるものを虐待する行為そのものが倫理観に鑑みて「罪」であると感じられるので法律で制限されるのです。

ただし、この罪の概念が及ばない生き物については大量殺戮も法に触れません。
昆虫や軟体動物、腔腸動物などです。
昆虫になると胸を痛めるひともいますが、ゴキブリだのカだのの大量死について多くの人は何も思いません。

また、日本人は伊勢海老の活け造りなんかを喜びますが、オーストラリアでは甲殻類の調理法にまで虐待の概念が及ぶので違法になります。

ひどく芯の定まらない基準で法律化されているじゃないかとお考えでしょうが、感情抜きに社会も倫理も成り立ちませんし
人間に直接の外を及ぼさない様々な行為については宗教観や習慣とそれに伴う感情を基準にルールが作られるのは不自然ではないと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます!
>ひどく芯の定まらない基準で法律化されているじゃないかとお考えでしょうが

そうです!そう感じていました
私にとって法律は客観的な事柄でしたのでそういった感情論の主観?が入ってくるのに大変
違和感を感じました
倫理にも主観の価値観がはいってくるのですね、たとえそれが合理的に考えて
ダブルスタンダードになってしまったとしても
罪の意識、それはその動物を人間の価値観から見て(これかわいい動物は人間の赤ちゃんに似てるという
考えから適用されることだと思います、そしてその感情は今回人間の赤ちゃんじゃないので全く違う場合に適用されて私はその感情は抑えるべきだと思いますが)かわいいかどうかで判断し
かわいければ罪の意識が発生し、私にとっては合理的じゃないと思いますが
それが一つの感情として法律に含まれる
法律にはここまでの価値観が適用されるのですね
大変勉強になりました!ありがとうございます!

補足日時:2014/01/10 02:35
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この回答へのお礼

回答有難うございました!
また気になるところがあったのに間違ってベストアンサーを決めてしまったので
また何かアドバイスを頂けるのなら他の質問に書いていただきたいです

お礼日時:2014/01/11 17:03

かなり掘り下げたご質問ですが、どうして人間が動物の肉を食べることと、娯楽で生き物を殺すことや動物虐待とを結びつけてしまうのかが疑問です。



この世の中で、生きとし生けるものの全てが食物連鎖の中で生きています。弱いものは強いものに食べられてということを繰り返すことによって、生態は成り立っていますよね?
その食物連鎖の中の頂点に君臨するのが人間なのですから、その下に位置する動物を摂取することは自然なことと言えます。
また、人間は雑食ですから、植物(野菜や茸などですね)や肉をバランスよく摂取しなければ栄養が偏ってしまいます。従って、食べられるものは全て食べることが出来るのは人間だけと言えるでしょう。

そのような動物の肉を摂取することと、動物虐待とは全く論点の違う別物です。動物の虐待は、食するに当たって殺す行為ではなく、動物が苦しんで死んでいく姿などを見たいという面白半分の悪質な行為です。ここから派生して、動物では飽き足らなくなって人間をも殺してしまうことに発展したケースは過去に何度もあることです。倫理的、いや人として最もしてはいけない犯罪行為なのです。

従って、動物を摂取することは、言わば人間が生きていくためであって、本能と言ってもいいものだと考えます。動物の虐待と関連付けることは飛躍しすぎたものだとしか言いようがありません。

この回答への補足

ぼくらはそれでも肉を食うという
本に書かれているのですが動物虐待と暴力犯罪が結びつくかはわかっていないらしいです
相関関係ですらそのつながりは証明できていないようです

>動物の肉を摂取することと、動物虐待とは全く論点の違う別物で
とあるのですがそれはどういうことでしょう
過剰に生き物を殺し食べること、それは味がおいしいため食べるという娯楽、
娯楽のために殺しているということになると私は考えました

補足日時:2014/01/10 02:14
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