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日本軍には優秀な熟練搭乗員が数多く存在したと聞きます。
しかし、大戦後期にはそのパイロットはほとんどいなくなったとか・・・。
彼らは数多の戦闘により単純に消耗していったのでしょうか?
それとも、米軍の新戦術の考案やF6Fの登場、もしくは無謀すぎる作戦により散っていったのでしょうか?
自国の誇る優秀な人達が真っ向勝負で敗れたとすれば、悔しくてなりません。
実際の所、日米の空戦で命運を分けた最大の要因は何だったのでしょう?

A 回答 (10件)

いくつかの理由があります。



・飛行機の頑丈さが違う
「ゼロ戦は防弾性が皆無だった」とは有名な話ですが、ゼロ戦に限らず、日本の航空機は戦闘機だろうが爆撃機だろうが攻撃機だろうが全部おせじにも頑丈とはいえない作りでした。
一方のアメリカ製の航空機は、これまたアメリカ製らしくて基本的に頑丈です。よく米軍の戦闘機が空母の着艦に失敗して環境に激突する映像がありますが、あれ、パイロットが中から脱出してるでしょ。もしあれが日本軍機だったら、バラバラになって搭乗員全員死亡は確実です。
特に日本軍機の共通する弱点がブレーキで、これがプアーだったために訓練中、あるいは移動による事故で多くの機体とパイロットを失いました。日本軍機が頑丈さに欠けていたのは工業製品全体に対する質の悪さと、エンジンの馬力不足(それもある意味工業製品の質の悪さですけど)が主な原因です。もし米軍機なみに頑丈に作ろうとしたら(実は同じようには作れないんですけど)、エンジンの馬力が不足して使い物にならない飛行機になったでしょう。ランクルのボディに軽自動車のエンジンを載せたら走らないでしょ。

・パイロットの救援体制が違う
米軍機の場合、撃墜されて洋上を漂うことがあっても、飛行艇や魚雷艇や潜水艦から救助されるシステムが整っていました。あのブッシュ大統領(父)も太平洋戦争で雷撃機の搭乗員として参戦し、確か2回撃墜されて救出されたはずです。「だったら日本軍もそういうシステムを作ればよかったのに」と思うのですが、実はそれも無理なんです。
なぜかというと、当時の日本では、航空機に載せて使い物になる無線機というのが作れなかったのです。米軍は無線で戦闘機を誘導するってことができたのですが、日本軍はそれができません。日本の誇るエースパイロット坂井三郎さんがとてつもなく目が良かったのですぐ敵機を発見したという話は有名ですが、いくら坂井さんが早く敵を発見しても、それを仲間に伝える術がなかったのです。だから坂井機が急に動いたのを見て周囲が「あっ、坂井が動いたから近くに敵がいるのかな?」と思うしかなかったのです。
無線機が使えないので、「今どこに墜落したか」とか「何で助けに行くか」ということを連絡する手段がないのです。
その顕著な例が南太平洋海戦で、日本側は140名以上の航空機搭乗員を失いましたが、米側の損害は一説によると14名に過ぎなかったともいわれます。南太平洋海戦は「日本軍最後の勝利」ともいわれ、一時的には米側の空母が一隻もいなくなるという状態にもなったのですが、結局日本軍はこの海戦で失われたベテラン搭乗員の補充をすることができませんでした。

・パイロットの勤務体制が違う
米軍の航空機搭乗員は、シフト制になってました。そのローテーションをちょっと思い出せないのですが、最前線にいても「今日はお休みの日」というのがありましたし、しばらくたてば交代で後方に下がります。後方に下がったら休養した後に再訓練して前線に出るわけで、そうなれば基本的に以前より狡猾なパイロットになっているわけです。もちろん、前述の撃墜されて救出されたパイロットもその経験が糧になり狡猾なパイロットとなります。
一方、日本側は毎日毎日出撃です。後方に帰るのは、運よく負傷するか戦死したときだけです。何をいってるんだ、日本では「休むことは悪」です。今でも「365日24時間働け」と公言する経営者がいて、どのサラリーマンもダラダラと残業します。みんな毎日必死で戦ってるのに「僕疲れたので今日くらい休みたいです」なんて口にできるわけがありません。
かくして、英気を養ってコンディションを整えて戦う米軍と、死ぬまで命をヤスリで削りながら戦う日本軍、という図式が生まれます。

>実際の所、日米の空戦で命運を分けた最大の要因は何だったのでしょう?

「国としての余裕の違い」です。あるいは「工業製品の基本的な質の違い」といってもいいでしょう。
現代の工場生産の現場で「QC運動」というのがあります。クオリティコントロールの略で、要するに一定の質の製品をいかに不良品を少なくしながら作るか、というノウハウです。工場生産の現場では最も重要な課題のひとつですが、このQCという考え方そのものが戦後米軍によってもたらされたものです。戦争が終わるまでの日本には、「一定の(安定された)質の製品を作る」ということが不可能だったのです。だから名機といわれたゼロ戦も、工場から出荷された時点では性能がバラバラで使い物にならないので、それを整備員さんたちが苦労しながら調整して使えるようにしていたのです。ちょっと信じられないのですが、工場で試運転をしなかったみたいなんですよ。「初めて飛んだときが試運転」ということがザラで、だから移動中の事故率が異様に高かったのです。移動中に事故が起きて行方不明になれば、パイロットも一緒に行方不明です。無線機も使えないから「応答セヨ」も不可能。
移動中の事故といえば、こんな話もあります。太平洋戦線で戦っていたのは海軍機ばかりだったので、陸軍機が一部参加することなったのですが、前線へ移動する最中に全機行方不明になるという事故がありました。その理由は陸軍は洋上を飛び慣れないので洋上飛行に不慣れだったせいですが、海軍機はフツーに飛んでるわけでさ。だったら海軍の担当者に飛び方を聞けばいいと思うのですが、「誰が頼まれもしねえのに陸軍にノウハウを教えてやらなきゃいけねーんだよ」「海軍に頭を下げて教えを乞うだなんて死んでも嫌だ」というメンツの張り合いで行方不明。

太平洋戦争に興味を持つとね、「ゼロ戦最強!」とか「戦艦大和は世界一ィィィ!」とか思うんですけど、もっといろいろ知ってくると最終的にそういう話ばっかりだってことに気づくんですよ。
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この回答へのお礼

国力の差は相当な物だったんですね。
零戦は工業力や技術等、米軍に劣っている物をなんとか補うために大胆な構造になった感じですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 15:08

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。



他の方も回答されていますが

【国の生産能力や資源の豊富さが違った】
GDPというかGNPが比較にならなかった。
末期は質のいい燃料が手に入らず、質の悪い燃料でかつ量が少なかった。
主に資源を輸入していたアメリカが輸出を止めたので無謀にも開戦し東南アジアに資源を求めたが敗戦が続きうまくいかなかった。
当然、粗悪品の燃料でゼロ戦の性能を充分に発揮できなかった。

米は大量生産を確立していますが、日本は名工と言われる人が作り、品質維持している面があって戦争末期は資源も不十分でその名工でさえも赤紙でいなくなった。
生産品のゼロ戦の質が落ちた。

【戦闘機の装甲の差】
F6F、ヘルキャットですね!
ヘルキャットは燃料タンク、エンジン、コックピットなど装甲がなされていた。
その負荷に負けない馬力のああるエンジンを積んだ。

対する、ゼロ戦(二一、三二、五二型、他)含め日本の戦闘機は装甲が殆どなされていなかった。
むしろ軽量化することで旋回能力や驚異的な航続距離、飛行距離を有した。
(三二型は航続距離は劣った)

コンセプトが逆の戦闘機です。
方や装甲を充分にして急降下や急上昇にもぶれない頑丈な機体をつくるか?
徹底的に軽量化して航続距離や最高速度や細かい戦闘能力を追求するか?

一概にどちらが優秀か何とも言えませんが戦後、アメリカで同質燃料でゼロ戦(海軍)や隼(陸軍)、疾風(陸運)など同じガソリンで米、戦闘機、グラマンの戦闘機などと比較したそうですが結構、日本の戦闘機の能力の高さに米関係者がびっくりしたと子供のころ本で読んだことがあります。
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この回答へのお礼

日本の資源の乏しさは大きなマイナスですね。
優れた開発者がいたとしても、限られた物資や生産力の中で良いものを開発するのは至難の技だったでしょうね・・・。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 18:31

No.4ですけど



弾丸の話が出てるんでお話しします
戦時中に米軍戦闘機が機銃掃射した12.7mm弾ですが発掘現場で発見される70%が徹甲焼夷弾です
この弾丸の威力はコンポジション爆薬A相当です
密度:1.6g/cm³
爆速:8,10km/s

防弾していない機体でコクピットに被弾したら
搭乗員はまず死ぬか、運が良くて手足喪失です

  零戦の防弾
五二甲以前:防弾対策なし
五二乙以降:50mm防弾ガラス装備
五二丙以降:操縦席後部に8mm防弾鋼板(30-06弾、7.62/54m弾、マウザー8mm弾対応)
  雷電の防弾
一一型:防弾対策なし
二一型以降:操縦席後部に8mm防弾鋼板(30-06弾、7.62/54m弾、マウザー8mm弾対応)
  紫電の防弾
コクピット正面に60mm防弾ガラス、防弾タンク、防弾鋼板は無い
  紫電改の防弾
コクピット正面に60mm防弾ガラス、防弾タンク、100mmの防弾木材

陸軍機は防弾タンクと防弾ガラスは開戦時から装備
  隼の防弾
1型:7mm防弾鋼板(30-06弾、7.62/54m弾、マウザー8mm弾対応)
2型以降:13mm防弾鋼板(12.7mm弾対応)

その他の陸軍機も九七式以降は7mm防弾鋼板、二式以降は13mm防弾鋼板装備

  12.7mm弾の貫通力(500m)
徹甲焼夷弾12mm・徹甲弾/圧延鋼板19mm表面硬化装甲14mm
  マウザー7.92mmの貫通力(500m)
徹甲榴弾8mm
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
日本も同じ口径を積んでいたらもっと戦えたかもしれませんね。

お礼日時:2014/02/02 17:32

おそらく主たる要因は熟練パイロットの損耗率よりもっと違う部分ではないかと思います。


戦争当初は空母戦によって起きるごく一部のパイロット、双方精鋭ぞろいが主に戦います。
それが大戦後期の本土迎撃戦や沖縄線となると、地上基地の爆撃とその護衛、それに対する要撃、近海に迫った空母に対する特攻機の派遣、こうなると戦争に参加する戦闘の規模、航空機の数がけた違いになります。
これは明らかに一部の熟練搭乗員の技量よりパイロットの大規模養成能力が双方問われます。
満足に練習用の燃料と練習機も用意できない日本はパイロットと呼べるだけのまともな技量の搭乗員の養成がおいつかず、アメリカはそれこそ大規模に大量な搭乗員を養成てきた、その差を表しているのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

確か育成されたパイロットの数でその後の戦力の差は開いていきますね。
恐るべしアメリカです。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 17:28

一番の原因は、米軍はパイロットの技能を簡単には補充できないと考えたのに対し、日本軍は(さすがに消耗品と考えていたわけではないのですが)バックアップ体制の不備や技術的な問題から、結果的に消耗品として扱ってしまったことだと思います。

いくら優秀な搭乗員だって、ろくに休みもなくてこき使われて、しかも信頼性の低い機体にのせられたらたまりません。

 詳しいところはNo.5さんにおまかせですが、搭乗員の損失には双方が装備している機銃の差があったともいわれます。
 当時の日本海軍機の兵装で有名な零戦の20mmは装弾数が少ないしあたらないしで、実は主兵装は7.7mm機銃だったとのこと。これは威力が小さくて、被弾した米軍機のパイロットの多くは治療の後容易に復帰できたということです。対する米軍機の主兵装はブローニングの12.7mm、威力は非常に大きくて、被弾した日本軍機のパイロットの多くは即死、運良く生き延びても飛行資格を失うことが多かったといいます。当時の日本の技術では優秀なバネをつくることが難しく、これがために優秀な機関銃や機関砲を製造することがかなわなかったのだそうです。
 生き残れなければ経験も詰めないし、優秀な搭乗員が一発の流れ弾で命を失うこともあった。米軍はたとえ最初はへたくそで撃墜されてもだんだん経験を積んで優秀な搭乗員に育つことができたと。

 そのほか、通信機の差も大きかったと。米軍機は僚機との連絡を密にして戦闘を行なったのに対し、日本機の通信機は役に立たず、常に数的劣勢の戦闘を強いられた傾向があったようで。

 人に余裕はないし機材もボロ、貧乏人は戦争には勝てません。だからやっちゃ駄目だという証明ですね。

 余計なことですが、有名なミッドウェイ海戦では空母艦載機搭乗員の損失は110名とされています。大量損失はその後のソロモンとニューギニアをめぐる消耗戦で、ここでは3000名以上の搭乗員を失っています。 
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この回答へのお礼

日米の戦力や国力の差が大きすぎた訳ですね。
さらに戦いの考え方の違いも結果に繋がった感じでしょうか。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 17:10

http://www.jterc.or.jp/kenkyusyo/product/tpsr/bn …

http://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/cmsfiles/cont …

1940年における自動車保有台数
アメリカ 3000万台 
日本    20万台

運転手の数もだいたい上記の数に匹敵すると推測されます。

パイロット予備の桁が違っていました。

補充も効くから酷使しない。
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この回答へのお礼

なんか圧倒的ですね・・・。
でも、日本は善戦した方ですよね。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 17:03

日本陸軍のエースは60名おりますが、半分以上は戦後も生きてます


日本海軍のエースは39名おりますが、18人は間違いなく戦後まで生きています
この大半が戦前に入隊した連中です

米軍エースの生存率も約半分です

新兵の損耗率ですと日本側が圧倒的に多いでしょうね

まず陸軍と海軍では分けて考えねばなりませんし、消耗率に関しては日本側は具体的な数字がありません
米軍の本土空襲に参加したB29は403機が撃墜ないし墜落しています

日本海軍に関しては防弾を軽視していたという問題があります
日本陸軍に関しては防弾もしてました
終戦直前に恐れられた飛行機は陸軍機で隼ですら米軍は要注意戦闘機としていました
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この回答へのお礼

日米のパイロット技量は良い勝負だったんですね。
やはり命運を分けたのは国力と思想の違いなんでしょうか。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 14:59

海上および未開地上空など戦場の特性上、


撃墜はそのまま搭乗員の未帰還につながります。
加えて米軍に比し搭乗員の救難体制も整っているとはいえませんでした。
ヨーロッパなどではエースとして成長するまでに、
数度の被撃墜をこうむっている搭乗員もたくさんいます

また日本軍の搭乗員の錬成もその消耗率に対し不足していましたので、
技量の低い搭乗員の割合が増える中でベテランの搭乗員らも、
その数をすり減らしていくという負の連鎖に陥いっていました。

大戦後期においては日本側のソフト面の問題に加え更に、
米軍の大出力を搭載した新型戦闘機の投入、
あるいは特殊信管を用いた新型の防空兵器などの出現により、
その消耗にますます拍車がかかってきました。

とはいえ日本でも実際のところ大戦初期から生き延びた優秀なパイロットは多数います。
最終的には本土防衛の切り札部隊として、、
各地から特に優秀なものを選抜して部隊編成をしたりなどもしました。

ただやはり戦闘機パイロットはその技量で生き残る可能性はあったとしても、
艦爆、艦攻、爆撃機などの搭乗員は常に損耗し続けましたので、
大戦初期の優秀な人材はほぼ戦死しています。

そのような複合的な要素の中でなかなかに最大の要因を特定するのは難しいことだと思います。
強いて言えば圧倒的な工業力の差がこの戦いの帰趨をわけたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

確かに色々な要因のトータルが結果となって現れた感じですね。
やはり相手にしてはいけなかったんですね・・・。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 14:51

>米軍の新戦術の考案やF6Fの登場



質問者様の仰るとおり、これが最大の要因ですね。

制空権を失ってしまった限り、ジリ貧です。

私は特攻を全否定していますが、飛ばしただけでは帰って来れないまでに悪化してしまった戦況では・・・


しかし私が私なりに考える、日本の最大の敗因は『財布が薄かった』です。
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この回答へのお礼

やはりF6Fは驚異だったんですね。
さらにアメリカにも良いパイロットが沢山いたなら歯がたちませんね。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 14:47

こんにちは。



優秀な熟練パイロットは、昭和17年のミッドウェー海戦の大敗で大勢(3千人と記憶してる)が戦死してます。

何しろ、米軍に作戦を事前に察知されて米軍機に待ち伏せされたのみならず、日本軍戦闘機が発着艦する主力空母4隻が米軍機による集中的な攻撃を受け壊滅的な被害を受けたのですから、戦わずして海の藻屑と散った熟練パイロットが多かったのです。
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この回答へのお礼

ミッドウェーで大損害をうけてたんですね。
今となっては考えられない損害ですね・・・。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/02 14:43

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