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水上戦闘機というのは主流でなかったにせよ、空戦能力が良好なことは当初から知られていたのではないかと思いますが、陸上戦闘機に改修された際の種々のトラブルによって悩まされたことは、その後の紫電改の製造とともに、戦局を変えなかったにしてもどこか不必要な廻り道だった感じがします。当時の航空機製造会社の諸事情を、「雷電」や「屠竜」などの開発製造も含めてご教示いただければと思います。

A 回答 (6件)

まあ、漫談です。



海軍の機体分類記号だと、零戦がA6、艦上戦闘機です。雷電はJ2、これは迎撃機、インターセプターです。で、強風はN1で、水上戦闘機です。アルファベットの後ろの数字は、帝国海軍が採用した順番で、零戦なら6番目の艦上戦闘機という意味ですが、強風は帝国海軍が採用した、一から設計された純粋な水上戦闘機でありました。零戦を水上戦闘機化した、A6M2-Nがうまくいったので、基地や空母のないところで戦闘機を活動させようと、わざわざ一からデザインしたわけです。


正式採用が昭和18年、おそいよ、だったので、琵琶湖を基地にして西日本の防空をしていました。でも、このご時世にゆとりある設計スタッフがつぎこまれたので、戦闘機として、特に翼の設計がうまくいったと評判でありました。
自動空戦フラップ、というアイテムもついています。

そのころ三菱で零戦をデザインした堀越技師は、次の零戦(烈風)をデザインしつつ、迎撃戦闘機(J戦闘機、雷電)までなぜかデザインしており、かつ零戦の改造までやっているというありさまでした。
しかし、次世代零戦はエンジン選定でもめており、J戦闘機はエンジンとプロペラの振動問題がクリアできず、そこに前線が「戦訓」と言って持ち込んでくる零戦バージョン・アップ作業という負担がかかり、その状態なのに海軍当局はJ戦闘機のカタログスペックだけみて、海軍はすべてJ戦闘機にするのだっ、と言いだすありさまです。

メーカーの川西が、ここで「N1(強風)を陸上機にしませんか?」と、海軍技術本部に提案したのです。零戦は先細り、次世代零戦は見込みが立たない、J戦も振動問題でまだまだ、という状態に陥っていた当局が、この提案にとびついたわけです。

これも「川西は陸上機の経験が浅いから……」という意見が出て、その後ももめるのですが、とにかく強風は8割をリ・デザインして、紫電一一型となりました。

この混乱が名称にでていまして、紫電も紫電改も、正式番号はN1Kのままです。水上戦闘機の記号、Nがそのまま使われています。しかし、現場ではJ戦闘機、と局地戦闘機の記号で呼ばれていたりしました。
これは、でるでるといわれていた雷電、本命の迎撃戦闘機、J番号戦闘機がでたと思われたからです。一方、雷電はJ2と正式に名付けられています。

雷電は開発おくれ、紫電は応急措置、だと思うのがいちばんいいとおもいます。紫電改は、応急措置を少しよくした手当てといえるでしょう。それでも、紫電から「改」にして、4万ほどパーツは減ったのですから、いいと思います。

で、雷電、紫電、紫電改とも、戦時にデザインされた海軍の航空機です。戦前にデザインされた陸軍の双発航空機キ45と一緒にして論じるのは私には不可能なので、ここまででカンベンしてください。
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この回答へのお礼

私の知識不足から出てきたあやふやな質問に対し、ご丁寧にご教示いただき感謝いたします。いずれにしても勝てない戦争だったのですが、当時の人々の奮闘ぶりが想像できました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/07/18 00:03

>水上戦闘機というのは主流でなかったにせよ、空戦能力が良好なことは当初から知られていたのではないかと思いますが



  水上戦闘機は陸上戦闘機にはぜんぜんかないません。余分な重量と空気抵抗大ですから。


 紫電改(←紫電)、疾風、五式戦闘機(←飛燕)   結局は戦闘機はエンジン性能がそのまま機体性能に直結します。

 あのP-51ムスタングだってマリーンエンジンとの組み合わせがあってこその性能。  
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この回答へのお礼

エンジンは重要な要素だったのですね。ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/17 23:58

>戦局を変えなかったにしてもどこか不必要な廻り道だった感じがします。



紫電改は、以下の経緯から、もともと主力として期待されていなかった機体でした。
開発の経緯も、欠点の発見→改良 の繰り返しはありましたが、それが不必要とは思えません。
質問者様は、最初から完璧な機体が開発できて当然と思っているのでしょうか。

川西航空の「強風」は、世界初の最初から水戦として開発された機体です。
強風開発後、川西航空は陸戦機市場への参入を図り、軍に願い出て開発許可を得ます。
(これには、同時期に開発中だった「雷電」が難航していたこともあって、軍としては保険の意味もありました。)

川西航空は、まず「強風」の機体をベースにして、局地戦闘機「紫電」を製作しました。
この紫電は、問題点が多かったのですが、それでも零戦より高速で武装も強力だった事と、他に使える機体がなかった為に、軍は量産を命令します。

紫電の問題点
1:中翼機のままだったので、主脚が長く機構が複雑になりトラブルが多発した。
2:中翼は視界が悪い
3:誉エンジンの不調
4:誉に出力制限がかけられていた為(生産環境の悪化や燃料の質の低下の為)に、計画時の速度が出せない。

その後、川西航空は紫電の改良を軍に提案し、それが認められ「紫電改」が製作されます。
紫電→紫電改への改修点
A:中翼→低翼 
B:Aによる主脚トラブルの改善
C:部品数の減少→生産性の向上
D:誉エンジンに合わせて機体を再設計
結果として、紫電とは全く別の機体になっています。


雷電ですが、乙戦(対爆撃機用の迎撃機)として開発されたもので、戦闘機との格闘戦には向きませんでした。
甲戦(対戦闘機用の制空戦闘機)の「烈風」も開発が遅れていました。
この時期には零戦は、敵の新型機に対抗できなくなっており、零戦に代われるものは紫電と紫電改しかありませんでした。
紫電改は分類上は乙戦でしたが、甲戦としても十分な性能がありました。
このような状況の為、軍は他社にも紫電改の生産を支持しましたが、すでに敗戦は避けられなくなっていました。

陸戦である紫電・紫電改や雷電が海軍に使われた理由ですが、軍の用兵思想の変化が原因です。
空母の不足から漸減邀撃が難しくなり、中国大陸の戦場では、基地航空隊の戦力が重要になりました。


屠竜は、陸軍が開発した双発戦闘機です。
当時は、エンジンが二機なら、高速(高機動)、頑丈、重武装、の機体ができると期待して、世界中が双発戦闘機を研究していましたが、実は出力より、重量増、空気抵抗の増加、重量バランスの悪さによる、機動力の低下が上回り、単発の戦闘機には勝てませんでした。
それは屠竜も同様で、その為に、戦闘機との戦闘には使われず、南方戦線では、主に地上攻撃や対艦攻撃、船団護衛等に使われていました。

しかし、本土防衛戦では、37ミリ上向き機関砲を搭載した機体が、B29との夜間戦闘に使用され、多くの戦果をあげています。(紫電改の戦術は、上方からの垂直降下、背面降下による20ミリ機銃×4の一撃離脱です。)


>ほかの航空機製造会社からの援助協力はなかったのでしょうか。

競合機を開発している民間企業が他社に支援をする義務はありません。
よく誤解されていますが、戦時であっても、軍や政府が民間にどのような命令でもできるわけではありません。
これは他の国でも同様です。(共産圏のソ連ですら、開発局間の競争は熾烈です。)
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この回答へのお礼

ご丁寧に教えてくださって感謝いたします。大変為になりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/07/17 23:57

 あと一つ。

当時の日本は零戦の活躍もあって、いわば蝶のように舞う軽い戦闘機が念頭にあった(石頭とも言える)。なので米軍機みたいな強力な発動機でぐんぐん機体を引っ張り上げるという考え方自体が革新的なところがあった。

 ちなみに紫電改は設計にも斬新な手をつかったので、試作機が飛ぶまで当時としても早い10ヶ月ぐらいで現物が飛んだらしい。(当時は戦争末期にこととて、設計図の書き直しの際に上司のハンコが必要とされ、その結果現場が振り回されることなく順当な組み立てが行われた結果と言われている。)
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この回答へのお礼

いろいろなことがあったのですね。ご教示ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/17 23:52

 紫電(改含む)っていうのは、局地戦闘機に分類されます。

これは日本海軍独特の表現ですが、要は迎撃戦闘機。本来海軍の飛行機は洋上作戦専門なので、そうしたものはあんまり重要視されていなかったのですが、実はこれがないために日中戦争で結構痛い目にあっていたんですね。
 当時の中国は意外にも航空戦力にかなり力を入れていて、ソ連製の最新鋭の爆撃機を保有しています。これが非常に速くって、日本海軍の飛行場の司令所が爆撃されて有力な将官が死傷したりする被害も出ています。ところが、当時の日本の戦闘機(96戦など)ではソ連製の爆撃機に追いつけないわ届かないわで、実際に手も足も出ない状態だったようです。

 そんなことじゃあ困るので、日本海軍は迎撃専用機の雷電の開発を昭和14年にスタートさせ、当時の日本海軍のお抱えメーカーと言ってもいい三菱に発注しました。ところが当時の三菱は零戦の開発と改良、それに加えて零戦の後継機の烈風の開発も受けちゃったものだから手一杯もいいところ、(凝りに凝った設計ゆえの)技術的な難関の多さなども重なって、雷電の開発はどんどん遅延していきます。
 そうこうしているうちに対米戦は始まり、米軍の重爆撃機の手ごわさ(特に防御)が明らかになってきます。諜報によればB-17をしのぐ超重爆も開発中との噂。B-17でもてこずってるのに・・・。

 そんなおり、それまで水上機や飛行艇を主に生産していた川西航空機が、このままじゃ仕事がなくなるってんで、水上機や飛行艇の陸上機型への改造案を海軍に持ち込みます。期待の星である雷電の目処がまったくつかない日本海軍は、渡りに舟とこの話に飛びつきます。その結果が紫電(改)ということで。

 ご存知の通り、強風は紫電を経て紫電改に至り、結果としてそれなりの高性能を発揮しましたので、質問者様のおっしゃるとおり、妙な回り道をせずにストレートに行っておけばという気もします。個人的には二式大艇の陸上爆撃機型は紫電以上に有望だったようにも思いますし。

 ただし、そもそも当時の日本の航空機メーカーは製造機種と採用先(陸海軍)の棲み分けが妙に固定化していましたので、こうした横紙破りのような例は異例のことだったのだと思います。また当時の陸海軍同士の反目は有名ですが、両軍御用達の航空機メーカー同士の反目も相当あったようです。日本海軍にしてみれば、お気に入りの三菱さえしっかりしていれば、実績のない水上機専門の川西なんぞに話を持ち込む必要もないのに、というところだったのではないでしょうか。

 なお、屠龍は最終的には防空戦闘機としても使われましたけれど、本来の開発目的は爆撃機の長距離援護でしたので、紫電・雷電そのほかとは性格が異なり、直接的な関係性はあまりないのではないかと思います。

 乱文失礼いたしました。
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この回答へのお礼

あまり知識がない私にも非常によくわかるご説明をいただきました。厚くお礼申しあげます。

お礼日時:2012/07/17 16:41

川西(現・新明和)は過去から現在に至るまで水上機のメーカーです。

陸上機のノウハウを持っていないので、改修命令が出た後の改良は地獄だったと思います。従業員は車輪式飛行機を作った事がありませので、どんな負荷が機体にかかるのか?その計算は大変だったと思います。

この回答への補足

ほかの航空機製造会社からの援助協力はなかったのでしょうか。

補足日時:2012/07/17 15:47
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この回答へのお礼

早速のご教示ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/17 15:47

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