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デカルトのこの言葉、どこかおかしい気がします。反症できますか?

A 回答 (15件中1~10件)

 No.9です。

もう少しくわしく書きます。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  *(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。

 我れに還った我れをもうたがうなら それは悪しき無限に落ち入ります。と我れは知っているようです。
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デカルトは「方法序説」で「われ思う、ゆえにわれあり」と言って、それが推論と勘違いされるのを避けるために次の「省察」では、「われ思う、われあり」と言って、「ゆえに」を削除しました。


デカルトみずからはそれを推論ではなく、直観だと言っています。
経験的に言うと、思うことがある以上、その思う主体がなければならないというのはいわば常識です。
しかし、デカルトは私が存在しなければ私が思うこともないという常識的なことを言ったのではなく、むしろ超越論的な意味で、私の思考には否応なく、それを思っているものとしての自我が付きまとっている、どんな思考も私の思考だということを言っていたのだと思います。
つまり意識的であろうと無意識的であろうと私の思考には私という自我の存在が不可分離に付きまとっている、ということ。
いいかえるとデカルトの「コギト」は数学の特異点のようなもので、それがあるから世界が秩序だって見える「視点」のようなものだということができます。
ところがデカルトはその「コギト」を「思考するもの」「コギタンス」と同一視して、独自の形而上学、自我の形而上学を構築しました。
カントに言わせれば、「われ思う」からといって、それは単に私の思考作用があると言っているのにすぎず、思考作用があるからと言って「われあり」とはならないと批判しました。
デカルトは「われ思う」を直ちに「われあり」に直結してその「われ思う」という思考作用を実体だといい、思考と身体、精神と物質の二元論を導きましたが、カントにすれば、それは思考を実体化するもので、「実体論的誤謬推理」にほかなりませんでした。
「実体論的誤謬推理」とは文法の主語を実体と取り違えることです。
例えば「私は・・・・」とか「時間は・・・・」とか、私や時間を主語において語れば、その主語が実体的に存在するモノと錯覚する傾向が人間にはあります。
デカルトも「われ思う…」と言って、私を主語において語ったので、その主語である私が実体的に存在するモノと錯覚しました。
そこからデカルトの自我の形而上学が始まりました。
かつて古代ギリシャのアリストテレスは「主語に置かれたものが実体である」と言って、主語と実体を同一視しました。
カントはデカルトの「コギト」と「コギタンス」の同一視は「実体論的誤謬推理」なのだと批判しました。
たとえ何ものか「思う」ものがいたとしてもそれが存在するかどうかは直観によって規定されなければならない、と言います。
直観によって規定されるとは感覚で確かめられるということです。
私が思うからと言って、私が存在するとは限らないのだから、私が存在すると言いうるためには感覚によって確かめなければならない、そして感覚によって確かめられないものは存在しないということです。
デカルトは「われ思う」のだから「われあり」と、その中間を飛ばして両者を直結しましたが、それはデカルトにとって中間に神の存在があったからです。
神がいて、私の思考と私の存在を媒介し、両者が正しいことを保証していたからでした。
神が世界を創造したのだから、その神が人間を欺くことはあり得ず、したがって私が思うことは直ちに私の存在に直結する、とそのようにデカルトは考えていたことになります。
もし、神の存在がなかったら、私が思考しているからと言って、私の存在があるとは到底言えなかったでしょう。
そしてカントの時代になると私の思考と私の存在を中間で保証していた神の存在が怪しくなりましたので、改めて私の思考が私の存在に一致するのかが大問題になりました。
それがカントが近代に認識論を始めなければならなかったゆえんです。
カントはどういったかと言えば、人間の内側には普遍的な思考の仕方である「カテゴリー」という組織・構造があるのだから、人間の認識は外界の経験を必要とせず、また外界の事物との一致を確認することを要せず、ア・プリオリに正しいと言いました。
これがカントによる認識論上の革命「コペルニクス的転回」ですが、カントはデカルトが神の存在をもって正しいとされた私の思考と存在の一致を神の存在を抜きにして、普遍的な「カテゴリー」をもって代えたことになります。
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私は何かを感じ取っている。

臭いや音、痛み、リズムなどを
意識しなくても感じている。
感じ取ってるから ”私にとって”世界は存在し、主体である私も存在していると感じる。

と思うんで、我はあるけど 思う根拠やなんで物を思うのかなぁ?に対応する世界部分が欠けるんじゃないの? とは感じます。
言外に よって世界は存在する も含まれてるのかも知れないけど。

他の回答者が書いてるのをみると、言葉だけが有名になってその背景が無くなってるから、前提条件部分が欠けた形で伝わってる歪みかも~
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正確には


我思う
故に
我の思考あり
とみています。

考えている(感じている)自分こそが我との見解には賛同出来ません。
ならば脳死状態なり重度の障害を持つ人はこの世に存在しないことになるのではないでしょうか?

私が今まで肉体無しに存在し得た人を認識してない故かも知れませんが

肉体と魂(感知覚)を所有するのが人間だと思います
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/25 02:10

>自分の外に存在があり、二次的に認識が派生しているという、量子論以前の古典的世界観においてのみアンチテーゼとしての意味を持つ。



 全く#8さんの言う通りなんですよ。


 デカルトは、哲学者であると同時に(当代随一の)物理学者でもありました。なので自分の結論を言うと、デカルトは自分の外部に客観的に否定しえない実在があると確信していたと思います。

 ただ当時は、アリストテレス流の自然学が公式見解としてありました。そこではいわば、主観に基づいた自然の理論化が行われていた訳です。そこでデカルトは、客観的とは何か?を、彼なりに徹底的に追求します。

 その結果デカルトは、物体の重さ(質量)さえ、主観的なものだという見解に達します。何故なら、物体を支えている時に手の平は確かに重さを感じるが、ある一定以上の速さで手を下にふれば、(物体は一瞬浮くから)手の平は重さ(質量)を感じなくなる。これこそ重さ(質量)が、物体(物質)に対して感じる主観的な性質である事の証左だと・・・。

 デカルトはこのような無限後退とも思える内省を続行しますが、この行為自体は、尊敬に値するものだと自分には思えます。そして全ての常識的で日常的な足がかりを取っ払った末にたどり着いた結論は、「何にも信用できない」だったと思います。

 その時に唯一残ったのが、

  ・われ思う、故に我あり.

だったのでしょう。

 デカルトは間違いなく神を信じていたと思えますから、あるいはこれは#9さんの仰るように、アウグスティヌスの言葉を借りた(発想した)ものかも知れません。それでもひいき目に見れば、これは物理学者としてのデカルトの真情の吐露だったようにも見えます。


 そういう訳でデカルトは直接言った事とは裏腹に、自分の外部に客観的に否定しえない実在があると信じていたと思えます。これは素朴実在論ですが、それがなければ「われ思う、故に我あり」とは言えなかったと思う訳です。

 そして素朴実在論は、今でも多くの物理学者が信じている信念だと思えます。


 だってそうでなけりゃ、物理なんてやる気も起こりませんよね(^^;)。
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我ただボーとしてても、我あり。

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 こんにちは。



 症状が症状であることを明らかにし 批判・反証せよということかと思いました。


 この命題は アウグスティヌスの《もしあやまつならば われあり。 Si fallor, sum. 》に由来しています。

 あやまちを侵したと知ったときには――そのとき あやまち自体についていろいろ考えますから 考えるなら―― われに還る。わたしがわたしであることは わが存在そのものである。という捉え方にもとづきます。

 ただし もっとも 《われは われなり》というのは 自己同一性のことで もっと言えば 同語反復でしかありません。そのことに あやふやな感じはあります。あるいは そもそも人間という存在は あやふやなものだという開き直りによって支えられるという恰好なのだと見ます。


 あるいは別様に こうも考えられます。
 《あやまつなら われあり》は 《あざむかれるなら われあり》とも言いかえられます。

 すなわち ほかの人にだまされたといったときに われに還ると言っています。
 われは 欺かれることを欲しないということ。たとえそのことが 何の根拠も保証もないと言われたとしても 自分自身が他人に欺かれることを欲していないこと自体は もはや欺かれ得ない。とすれば そのときの《われはわれなり》には 或る種の確実さがある。・・・


 おそらく
 ● われ思う
 ☆ だけでは 話があいまいなのでしょうね。思うわれについて疑いをはさむわれについては もう疑うことは出来ない。と言いたげのようですが。
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あなたの感じている「世界」が、あなたの脳の中の


現象であれば、「ある」と「思う」はイコールであり、
この言明はトートロジーである。
自分の外に存在があり、二次的に認識が派生して
いるという、量子論以前の古典的世界観において
のみアンチテーゼとしての意味を持つ。
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誤植はつらいでしょう。


えぇっそうでもない?

思っている我=思っている内容たる我
という方程式の真理性を語っていないでしょう。
このことをヒンドゥの思想は扱っていますよ。
参考:
Self-Realization Fellowship ネットでいれるとでてきますよ。
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この回答へのお礼

ありがTOございました。 

お礼日時:2014/02/17 09:16

反証ですね。


半焼でも半鐘でも汎称でもありません。


この世は総てバーチャルリアリティかもしれない。
確かなモノなどありはしないのではないか。

いやそうではない。
バーチャルリアリティかもしれないと考えている
己の存在だけは確かだろう。

これが趣旨ですね。

しかし、そう考えている己の存在は、果たして確かでしょうか。

存在が確かなのは、そういう思考だけで、それ以上に
己が存在する、としてしまうことには、論理の飛躍が
あると思います。

つまり、思考の存在と、己の存在、その間に
何かロジックが必要なのではないか、ということです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。反証でしたw

お礼日時:2014/02/17 09:16

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