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単なる知的好奇心からの質問なのですが、「コギトエルゴスム」(「我思う 故に我有り」)をアラビア語に訳して、それを再び日本語に訳したらどうなるのでしょうか?

A 回答 (2件)

 


  わたしはアラビア語に別に堪能でもなんでもないのですが、まず、「我思う故に、我あり」というデカルトの言葉は、ラテン語で、Cogito ergo sum. ですが、このラテン語の訳として、「我思う故に、我あり」が妥当かというと、これは文脈を考慮した上の訳文で、この三語だけだと、ラテン語原文は、もっと色々な意味の可能性があります。
 
  つまり、これをデカルトの著作のなかの「文脈」で読まない場合、別の日本語訳も可能なのです。そして、上の訳は、実は、日本的な「解釈」が入った訳です。日本語よりラテン語にずっと近い英語で言うと、この言葉は、「I think, therefore I am.」とされますが、「I am.」というのは、「わたしはある」という「存在動詞」としての意味と、「わたしである」という「コプラ動詞」としての二つの意味があるのです。
 
  デカルトのこの有名な言葉は、「明晰確実性」を求めての思索の結論的な言葉です。すると、「私が存在する」でも「私である」でも、どちらでもよく、むしろ、「存在性」ではなく「真実性・明晰確実性」という見地からは、「私である」の方が適訳だという考え方もできます。(「思惟」によって、「存在」が生成されるのは、「神」であり、人間の思惟で、存在が生成されるとは普通考えないというのもあります)。
 
  デカルトの懐疑は、世界やわたしが「本当に存在するか?」ではなかったはずです。「認識の妥当性」の議論で、「わたしが存在する」はまず自明でしょう。問題なのは、世界やわたしが、「どういう姿・意味」で存在するのか、というのが主題だったはずです。
 
  何が騙していたとしても、「この私がある」これは明晰確実だとも読めれば、「この私は私である」これは明晰確実であるとも読める余地があるのです。「sum」というのは、「わたしが存在する」と、「(これが)わたしである」の大きく二種類の意味があるのです。デカルトの結論は、「わたしが存在することは、明晰確実だ」というのと、「わたしがわたしであることは、明晰確実だ」の二つの意味を含みます。
 
  実際、デカルトは「世界の存在」まで疑っていたのではないはずです。すると、Cogito, ergo sum. の意味は、ますます、「わたしはわたしである」という確認の意味だという解釈が可能です。この問題は、存在動詞がコプラ動詞と同じであることに淵源します(つまり、ラテン語 esse が、存在と、コプラ動詞機能の二つを持ち、西欧の言語はほぼすべて、同じような動詞―英語で be, フランス語で etre, ドイツ語で sein, ギリシア語で einai ―を持っているということから、有名なカントの「神の存在論証反駁議論」にまで展開しているのです)。
 
  従って、西欧語で、固有に起こった問題を、日本語に翻訳するとき、実は「解釈」が入っているのです。
 
  デカルトのこの言葉をアラビア語に翻訳しようとすると、その点がまず問題になると思います。アラビア語でも、確か、西欧語のような極端な、存在動詞=コプラ動詞というような構造はなかったはずで、また、「主語人称表現」がアラビア語では、動詞の後に付く、後置人称詞で決まったはずです。また、「時称」が、アラビア語では、西欧語とは異なり、「直説法現在」などという時称はなかったはずです。(複雑な、動詞のモードがあり、それは西欧語文法の「時称」とは別のものです)。
  
  Cogito, ergo sum. の訳が、「我思う故に、我あり」というのがすでに疑わしいのであり、アラビア語に翻訳する過程でも、「解釈」が入るはずで、何と訳されるのか分かりませんが、ラテン語原文とは違う「意味範囲」「主張範囲」の表現になることは間違いありません。
 
  これを日本語に訳す時、「デカルトの言葉だと知って」訳すと、アラビア語の言葉が言っていることに忠実に訳さない可能性が高いです。デカルトの言葉の訳らしいが、それは無視して意味を訳してみると、例えば、「私は認識する、それ故、私は私である」というような訳が出てくる可能性があります。あるいは、もっと違った訳が出てくる可能性があります。
 
  ラテン語の動詞の「意味範囲」、文法的「規定意味範囲」、これに、アラビア語の動詞の「意味範囲」、文法的「規定意味範囲」のずれが起こり、全然「我思う故に、我あり」とは違う訳文になる可能性が高いです。
 
  すでにラテン語から日本語への翻訳過程で、「解釈」が入っていると上で述べました。アラビア語にいかに堪能な人であっても、デカルトの言葉の翻訳だと考えると、原文の意味の広がりを把握し考慮しない可能性が出てきます。逆にアラビア語を知らなくとも、同じ意味領域の動詞はなく、同じ意味領域の動詞モードもないという大前提からすれば、同じ訳になれば、その方がおかしいということになります。(セム語の場合だと、「思惟行為」によって、文字通り「存在の生成」が行われるという可能性もあり、そういう意味まで入ってくると、原文とはかなりに違う意味になるのが、むしろ自然だとも云えます)。
  

この回答への補足

ありがとうございます。
デカルトのこの言葉は、近代合理主義(「パーソナリティ」という概念の生まれた基盤)のバックボーンになった言葉です。(スペインの哲学者オルテガによると、デカルトはこの近代合理主義の原則を発見して感謝のあまりロレートの聖母マリアにお参りしたそうです。)当然この時代にはまだ近代合理主義は勃興していないわけで、極論すれば近代合理主義が勃興した後にラテン語を語源に持つ言葉はすべてこの近代合理主義を前提に変化してきました。だから厳密に言えばたとえ現代の英語に訳しても解釈の問題が出てくることは織り込んでいます。仏教にも実は似たような概念があるようで、例えば禅問答で「おまえは誰か?」「お前は名前か?」「おまえは肩書きか?」ということを考えなければいけません。しかし「おまえは誰か?」という問いかけに「私はモスリムだ」という返答を自明の理とするイスラム教徒が、「コギトエルゴスム」をアラビア語に訳した場合どのような解釈、修正を加えるのかに単純に興味があったのです。どうもありがとうございました。

補足日時:2002/03/24 10:38
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 すいません、言っている意味がわかりません。

どんな内容の外国語文であれ、内容を翻訳すれば定訳というものがある以上、その通りにしかならないと思うのですが。特に「我思う、故に我あり」などという有名(?)な一文であれば、何語を経由しても日本語に訳せば「我思う故に我あり」となってしまいます。

この回答への補足

ありがとうございます。
デカルトのこの言葉は、近代合理主義(「パーソナリティ」という概念の生まれた基盤)のバックボーンになった言葉です。仏教にも実は似たような概念があるようで、例えば禅問答で「おまえは誰か?」「お前は名前か?」「おまえは肩書きか?」ということを考えなければいけません。しかし「おまえは誰か?」という問いかけに「私はモスリムだ」という返答を自明の理とするイスラム教徒が、「コギトエルゴスム」をアラビア語に訳した場合どのような解釈、修正を加えるのかに単純に興味があったのです。どうもありがとうございました。

補足日時:2002/03/24 10:36
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