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芸術に関しては完全に素人ですがご了承ください。

はっきり言って一般人に理解しにくい絵画を評価する人たちは本当にその作品の本質を理解してそういう判断を下しているんでしょうか。
自分はフェルメールなどの描いた作品を見た時、その色鮮やかさと美しさに衝撃を受けました。
理解出来たとまでは言えないにしても、それなりに鑑賞できたつもりです。
しかし、いわゆる前衛的で、わかりにくい作品に芸術的価値が見出されている事には素直に納得がいきません。
極端な例を言えば、ピカソです。(本当に申し訳ないですが)
自分がそういった評価にあまり共感を得られないのが原因ですが、理解しにくい作品を理解したと言っている芸術家たちは、本当は一般大衆に理解出来ない作品を理解したと主張し、体裁を立てて自己満足に浸っているだけなのではないかと思います。
あるいは、時代の流行を新たに生み出すために計算された評価なのではないのかとすら考えています。
絵画は、必ずしも見る側にその作品の背景を提示してはくれないですよね。絵画において、(古い時代ものならなおさら)作者が作品を創った心境や論理を説明しない限り背景が明確に示されることはなく、(提示されていたとしたらそれはそれで奥行きがなくなるでしょうが…)あくまで個人の推測と嗜好でしか作品を評価出来ないと考えます。
つまり、大多数が分かりにくい絵画の作品に対して高評価を示すことがあるのは、おかしな話だと思います。
これは単に僕がそういった作品が理解出来ない自分から目を背けて作品を批判的に見ているからでしょうか。僕の言っていることに一理あるでしょうか。
そして、本当に絵画を理解して評価することは可能でしょうか。

A 回答 (13件中1~10件)

絵など、芸術作品はすべて好みなんです。

どの歌手が好きで、といったような。ただ、作品としての評価は、正しい鑑識眼によるものがほとんどです。分かるひとが評論します。ピカソの絵は僕は好きですよ。お店に飾ってあるのを見たことがあります。お店の雰囲気に見事に溶け合っていました。ピカソの絵は「面白い」んです。絵にも楽しみ方が色々あります。理屈や理論や意味とかではなく、もっと力の抜けた、自由で心のままに描かれた作品群です。芸術作品はすべて、心の表現です。様々な心があります。子供の心、心象風景、苦しみの表現、幸せな気持ちなど、考えられるすべての心の状態が、創作意欲につながります。知らないのに、色々決めつけてはだめです。知らない人ほどいい加減な批評をするものです。作品から制作意図や心理状態を推測したり感じ取ったり、心の表現なのですから、心や気持ちで「感じる」ことが大事です。無理に理解しようとする必要はないわけですし。興味がわいてきたら、ということです。音楽でもそうでしょう。いちいち調べず、作品から感じ取るでしょう
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/06/13 01:15

>それに、ピカソはあくまで具体例で、彼に固執することは無意味です。



もちろん私も具体例として挙げています。
画家はピカソだけではありませんから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうですね。
少し言い過ぎてしまいました。
すいませんでした。

お礼日時:2014/05/25 20:13

#11です。


しかし玄人の見方があるのは何の分野でもあることだと思いますし、通好みが発生するのも仕方がない(という言い方も何ですが)ことだと思いますよ。

何にでも評論家がいたり、バイヤーがいたりしますよね。
自動車でもそうだし、服飾でもそうだし。
(パリコレのオートクチュールなんてデザイン的にもお値段的にも普段着られない服ばかりです)
鉄道オタクの人はその他の人と違う視点で電車を見ているでしょう。
クラシック音楽を聴き込んでいる人とそうでない人も違うはずです。

質問者さんがおっしゃっているような問題は、作品そのものの問題ではなく、業界の体質とか、批評する人の問題ではないでしょうか。
評論家が、見る人が漠然と感じていることを言葉や文章にして語れるとしたら、それも才能だと思います。
ただ、悪い批評家もいるそうで、絵画ではないんですが、『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』(ジュリア・キャメロン著)という本を見ると出てきます。

>大多数が分かりにくい絵画の作品に対して高評価を示すことがあるのは、おかしな話だと思います。

逆に、「多くの人に好まれない絵画には価値がない」と言われるのだったら、それも違うと思います。

ピカソのようなタイプの芸術作品はインダストリアルデザインや実用品ではないので、一般的な意味で美しい必要はないし、一般向けに心地良く分かりやすい必要もありません。
ああいうのはある種の世界や精神の追求ですから。

※優劣や高級低級に関係なく、「目的が違う」という意味です。

前に挙げたサイトより。
 ↓
「絵をわかる vs 絵の意味をわかる」
http://www1.bbiq.jp/~egapemoh01-21/art21sozo/art …
理屈でなく感覚で描いている人。

「美術の評価は水物?というメカニズム」
http://www1.bbiq.jp/~egapemoh01-21/art21sozo/art …
年齢とかか~。人間だからいろいろだな・・・と思います。

だから、「業界の評価なんて」と思うんだったらそれで良いと思います。

ただ、変な絵が好きな人もいるんですよ。それは否定しないでいただきたいです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
先ほどから申し上げていますが、僕もあなたと同じく、好きな人を否定するつもりは全くないですよ。
僕の質問は作品をけなしている質問ではないです。
そうですね。むしろ評論家という権力者の存在と彼らの評価の真否に疑念を抱いていると言った方がいいかもしれないですね。
〉逆に、「多くの人に好まれない絵画には価値がない」と言われるのだったら、それも違うと思います。
もちろんそんなことはありません。
世間が評論家の意見を鵜呑みにして、あるいは、その絵の商品価値ばかりを気にして、自ら絵を評価していないのではないか。と言いたいのです。
それに、ピカソはあくまで具体例で、彼に固執することは無意味です。

お礼日時:2014/05/23 20:37

#7さんの「大人向け」がいけなければ、玄人好みや通好みがある、というのはどうですか。

マニアックとか。

>一般大衆に理解出来ない作品を理解したと主張し、体裁を立てて自己満足に浸っているだけ

という専門家達もいるのかもしれませんけど。

ファンかどうかは別として、ピカソは上手いと思います。
私は花とか鳩のような素朴なピカソ(←こういうのは一般ウケしますね)が好きですけれども、#1さんがおっしゃっているようにTVで見て、線を引いただけで上手いなと思いました。

書道家も一般人と違いますよね。筆で一筋書いただけで何か違う。
絵もそういうのがあると思います。

デッサンが苦手だったという画家もいますが(ジョアン・ミロ)、ピカソは少年の頃から絵が上手な人でした。だからあんなところまで行っちゃったんだろうなーと思ってますが・・・・

【衝撃画像】 ピカソの絵柄の変化がヤバ過ぎwwwwww これは確かに天才だわ
http://2ch.ki9.biz/archives/20515.html

ピカソは新しいこともやったし、そういう意味でもすごいんだろうと思います。

個人的にはキュビスムには、「これが肖像画なんてヒドイなあ」と思う絵もありますが、わりと理屈があるゲージツだったりもすると思います。いろいろな面から捉えるとか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5% …

しかし今や有名な印象派もキュビスムも、最初はボロクソにけなされたんですよ。評論家も芸術家も、斬新すぎるものはついていけない時があるのでしょう。いつからウケるようになったのか存じませんが、、、

だけど現代美術も問題ありと言われてますよ・・・・行き詰まりとか。
と思って探してみたら、ピカソ以降を考察したり、現代美術を考察するようなサイトがありました。
  ↓
http://www1.bbiq.jp/~egapemoh01-21/art21sozo/ind …
何かすごい記事数なので、幾つかしか開いてみていませんが・・・。


でもシュールとか抽象とか好きな人は、感覚で見てるんです。理屈でなくて。それは本当にもう好みの違いだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
僕が気に入らなかったのは、その絵が好きではない人と比べて、その絵を好きな人が大人だとか玄人などといったような、あたかも上の立場にいるように表現していたことです。
好きな人がごく少数派であるなら、捉え方によっては好きな人は奇人にもなり得ます。
つまり、好き嫌いは自由ですし、人の好みで簡単に優劣を付けるような言い方はやめた方が良い思います。

お礼日時:2014/05/22 21:05

確かに、解説されないと解釈しきれないものは、芸術として意味があるのか、なんらかのメッセージの発信や提言になっているのか、という疑問は同感です。



一方で、そういう理性的で逐次的な説明ではなく、頭の中にある「はっきりいって同時並行で多数の人やモノを認識している混沌とした状態」をそのまま自分がプロジェクターになったつもりで壁に投影したら、ピカソの『ゲルニカ』のようになるのではないか、という人間の非論理性も実感します。

ゲルニカについて私が語るというのもおこがましいですが、ナチスによって破壊されるゲルニカで起きている事を、実際に見える人々の様々な角度・時間を経ての絶望への表情の変化、同時並行で起こっている人々の逃げ惑う姿やいななく馬、それを攻撃している目に見えないなんらかの力の存在、そういうものを走馬灯のように思い出している人間の記憶を、「走馬灯を一枚のパノラマ写真に収める」ようにするにはどうしたら可能か、という考え方で捉えれば、複数の向きを向いている人の顔や現実にはありえない位置関係も「記憶の投影」としては非常にピカソ自身に忠実に油絵に残したのだと思います。

そういう解説や見方、なんらかの情報があれば、解釈できるハードルを越えられるとは思うのですが、それを説明するのは野暮とも思えますし、そこまで突き詰めないと何百年と意味を提示できるような人間の本質を描けない、というのが芸術家の宿命なのかな、とも思います。
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この回答へのお礼

なるほど。
一枚の絵に多面的な意味を持たせるためにああいった画風になったということですか。
少しわかった気がします。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/22 21:12

東山魁夷の絵を一般の人は百人が百人、高く評価するでしょう。

作家の司馬遼太郎も「同時代に生まれ合わせた幸せ」と最大限の持ち上げぶり。しかし一方、こんな声もあったんです。「美術に厳しい目を持つ人の間では東山芸術の現状に疑問と批判の声が多い。絵がいつも静かにおさまりすぎていて、自己主張に乏しいという。しかしそれが一般の人の目には好評なんだから皮肉なことではある」。一般の人の目は素朴なんです。フェルメールは素朴な目でも評価できるが、ピカソは素朴な目では評価できない。そういうことではないでしょうか。
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ピカソは、カニ味噌です。

それかナマコ。
対してフェルメールはマグロの赤身。別にウニでもいいけど。
要は、その評論家は 「カニ味噌やナマコうまいよね」 と言っているのに対し、質問者さんは 「いやマグロやウニの方がうまいっしょ」 と言っているわけです。
確かにマグロやウニはうまい。が、誰にでもわかるうまさだし、おまかせ寿司10貫セットが全部マグロとウニだったらやっぱり飽きる。
あと子供のころからさんざ食べなれてて、どんな味か食べなくてもわかる。
要するにピカソや前衛芸術は、大人むけの珍味なのです。
珍味なのだから、いや俺はナマコが嫌いだという人がいるのは自然なこと。
でも、だからといってナマコの価値がさがるわけではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
大人向けという言葉を用いるのは不適切ではないでしょうか。
芸術においてはクセがあることを大人向けと表現するんですか。

お礼日時:2014/05/20 21:04

ピカソは普通にうまいですね。


北斎とかもそうですがデッサン力があって筆の速い人は線のリズムがいい。
構図も非常にバランスがいい、どんなでたらめな絵でも。
ピカソの絵の高さは多分に土地バブルとかと同じ現象と思います。
役に立てるというより投資半分。
中世の絵は教会とかが文盲の信者に説明する目的で発注とか、
金持ちパトロンの肖像画とか面白くない題材ばっかだったんです。
近代になって画家が自ら書きたいものを描くという時代がやってきた。
表現主義とか。
ヒトラーの退廃芸術とかアールブリュットとか表現とは何かを考える題材になります。
基本的には自分の「好き」を追求した結果その絵にシンパシーをもつ人がいるというのが、
よい形だと思います。
分かる人にはわかるツボがあるのですよ。
これは説明が出来ない!!
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり好きな絵に出会う確率を考えても作者の作品の商品価値だけで作品を評価する人が多いように思われます。

お礼日時:2014/05/20 21:12

>芸術に関しては完全に素人ですがご了承ください。



いや、いいんです。
極端な話、わかった顔をした専門家が、絵画などのアートを評価することを独占してきたことが悪いのです。
と同時に、ひとつ補足すると、絵画の評価は芸術家などの作り手自身がつくっているものではなく、評論家など評価の専門家がつくっているものです。
しかし、絵画などの評価や価値は、素人の「好き」or「嫌い」も十分に考慮されるべきですし、そもそも作り手側も、専門家の評価だけを頼りにしているわけでもないです。

極端ついでに言えば、ピカソですが、代表作「ゲルニカ」は、本物を見ると圧倒されますよ。
って、何よりも、そのデカさに。縦3.5m、横7.8mですから。思っていたよりとんでもなくデカい。
まあ、ピカソの場合、 当時も、これまでになかった新しい作風に賛否両論あったわけで、誰も(専門家も含め)が絶賛していたわけではないです。しかし後世になって、絵画史において新たな様式をつくり出した重要な画家として評価が定着したのです。

芸術を、そのもの美しさ、感動や作者の背景・思いといったドラマツルギーに委ねるのも鑑賞方法として悪くはないですが、しかし芸術的な価値というのは、結果として絵画史のような学術的側面の影響も大きく受けています。
ですから、鑑賞の手引きとして美術史や社会的背景などの説明が、多くの美術館で用いられていたりします。
逆に言えば、これまでには無かったような絵画が登場したとき、斬新さゆえに大多数の一般では認められないからこそ、それを評価し絵画史を更新する役目が評論家などの専門家に与えられているわけです。
専門家の評価というのは「こうした絵画があってもいいのでは」といった提案や可能性の提示であり、評価された絵画を一般の人が同じく賞賛しなければならない、といったルールではありません。つまり、絵画の評価は、消費社会における多数派の原理とはやや異なるものだ、と考えてください。これは作り手側の心理もそうですし、鑑賞の際の心構えとしても重要でしょう。

要約すると、芸術鑑賞としての感動と、芸術そのものの評価というのは、イコールで結ばれないものだ、という前提でいた方がいいと思います。
同時に、作品の背景を読み取ることが、作品を理解して鑑賞する際の至上と言うわけではないことも。

フェルメール、僕も素晴らしいと思います。そして好きですよ。
宝石のように透き通る深みのある画面と、意外に軽妙な筆致の巧みさ…時間が止まったかのように謎めくモデルたちの表情。

しかし絵画への理解は、表層的なもので構わないのです。フェルメールの絵画は本当に素晴らしいですが、描かれたモデルが誰でありどういった意図を持った絵であるのか…などなど、その絵の表面に説明されていないことは知る由もありませんし、知る必要もないと思います。
真珠の耳飾の少女は、真珠の耳飾りをつけた少女のままでいいのです(例えば)。
日曜美術館のようなテレビ番組が画家の半生や作品の背景などを過剰に誇張して放送しているので、そうしたことを理解するような鑑賞が「深い」と思わせられているだけで、もっと単純に、何が描かれているか、どんな色の絵であったか…といった表層的な部分を正確に見定められることの方が、むしろ鑑賞としては適切かつ真摯な態度であると思います。


…と、言いつつ余談ですが、フェルメールでさえ、今日では神秘的で謎めく絵画のように思われていますが、実際はオランダの地方都市デルフトの、今で言うところの挿絵画家やイラストレーター、肖像画家のような存在で、たまたま多くのパトロンに支えられていたに過ぎません。
しかし結局、戦争の勃発による経済低迷や、今日と変わらず当時もあった「流行の変遷」により絵が一枚も売れなくなってしまい、莫大な負債を抱えて死去しました。
これを今日に置き換えれば、IT関連株への投資で莫大な利益を得たオタク億万長者が、無名の萌え系イラストレーターの作品を買い、画商を通じて更なる資産拡大に向けて海外オークションに売り込んだら高値で売れ、それが評判となって萌え系イラストが新しいアートとして評価されるようになってしまった。世間ではオタクなど一部しか好かないイラストがなぜ評価されるのかわからない、といった状況になってしまう。しかしリーマンショックなどで株式市場が大荒れ、すると、海外オークションの金回りも悪くなり、そのイラストが全然売れず、億万長者も負債を抱えてしまう…といったところでしょうか。
フェルメールは萌え系イラストとは全然違いますが、当時は、誰も、後世でこれほど脚光を浴びるなどとは思ってもいなかったでしょう。

ある1枚の絵や画家の人気は今日的な時代の中で生み出されますが、その絵や画家の評価は必ずしも今日で定着するのではなく、後世で判断されるものでもあるでしょう。


簡単な例として、ミシェラン・ガイドに載っているレストランをすべての人がその価格に納得するほど「美味しい」のではなく、観光客に向けた格付けという価値基準を提示しているに過ぎないとともに、実際の店の人気度とはまったく異なるのと同じです。東京の高尾山もそう、ミシェラン・ガイドに載ったことで一気にブームになっただけで、それまではただのマイナー観光地で、多くの人がそうした格付け(評価)に踊らされてしまっているのです。
印象派というだけで「素敵ねー」「感動だわー」と言った感想ばかりを連呼するおばちゃん達のような鑑賞者では意味がなく、質問者さんのように「なぜこんな絵が評価されているのだ? 個人的にはまったく好きになれない」といったありのままの感想を述べてくれる人の方が、例えば美術館や作り手などにとって貴重な意見となってくるのですし、そうした鑑賞者がもっと増えてくることを望んでもいるでしょう。
なぜなら、既存の評価に対して懐疑的な眼差しを向けることも、後世のために絵画史を更新していくうえで重要であるからです。


余談ばかりの長文で申し訳ありませんが、美術鑑賞などに少しだけ関わる側として、質問者さんのご質問に賛同するとともに、個人的な見解を答えさせていただきました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうごさいます。
なんとなく想像してみたのですが、評論家の嗜好や感性にそぐわない芸術作品は日の目を見ることなく埋もれることもありますよね。つまり、僕らが往々にして鑑賞できる機会があるのは、自然と彼らの評価が良いものになり、僕らはそれを受動的に見ることしかできない。(良いものは良いんだ。的な)
そういった意味では身近に目にする芸術というのは、(個人の好き嫌いは別として)評論家という支配階級が、彼らが独断で決めた評価を鑑賞者や作者に押し付けていている幻影なのかもしれないですね。笑

お礼日時:2014/05/20 21:38

そもそも、芸術の批評家でも芸術家になれず頭で考えたあれやこれやを説明したがる批評家が大半でしょう。


しかし、その批評家の中にも時代に埋れた芸術の価値を見出す確かな目と知識豊かな批評家もありますね。
そもそも、芸術は新たな価値を表現する側面をその働きとして内包していますから、過去の技法だけに固執すればそこには発展の余地はありません。
芸術の表現形式や技法を踏まえ、芸術を多面的に理解するには、その時代背景というもの、文化や思想といった影響などを広く知っている必要は確かにあるでしょう。しかし、芸術とはそれを見るものとのコミュニケーションであって、それ以上でもそれ以下でもないのです。大衆に広くコミュニケートする作品もあれば、まったく世の中の誰にも理解出来ないような、受け入れられないような駄作?もある訳です。そして、ブラックやピカソの描いたキュビズムなど実験的な表現形式が広く大衆に理解できるものだとは言えないでしょう。批評家が評価するのは、その背後にある時代や作者の意図を踏まえた総合的知識を必要とする解釈であり、評価なのですから、素人の私らにはそれが的をいているものであれば、確かにその絵画の理解の導きにはなると思います。
ははぁ、なるほど、そういう意図でこの画家はこういう絵を描いたのか⁈なるほど、そうやって眺めると確かに面白い!といった具合にです。
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この回答へのお礼

ありがとうごさいます。
絵画を解釈するにせよ批評家の判断にケチをつけるにせよ芸術に関する知識がないとなんにもならないですよね。
サルが騒いでいるかのようにまるで相手にされないでしょう。
これからはある程度の知識を身につけて鑑賞したいと思います。

お礼日時:2014/05/20 22:21

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