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論理学を修めた人に質問です。

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白馬は馬ではない。なぜなら白馬は「白い」馬であり、「白い」とは色の概念である。「馬」とは動物の概念であり、「白い」と「馬」の2つの概念が結びついた「白馬」は「馬」ではないのだ。
つまりB ⊃ A ≠ B の原理を指している。
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これは論理学に正しく書かれている文章なのでしょうか?
現実では白馬は馬なのですが、言葉の上だけで見ればたしかに白馬は馬ではありません。
それとも、これは論理学には正しく書かれていない文章でそれゆえ間違った結論に至るのでしょうか?
論理学的に間違っているとすると、どこがどのように間違っているのでしょうか?

専門用語を使わずに説明してもらえると助かります。

A 回答 (6件)

 公孫竜の白馬非馬論ですね。

最後の、

>つまりB ⊃ A ≠ B の原理を指している。

だけは白馬非馬論にはないもので、独自解釈かもしれません。元の平文での陳述は紛れがあるので、いろいろに解釈できるようです。

 集合A、Bがあって、B⊃Aであるとき(B⊇Aではない、即ちBの要素でAに含まれないものがあるとする)、確かにA≠Bです。これに沿って文章で説明的に述べてみると、

「白馬の集合では馬の集合に欠ける要素が存在する(※例えば、栗毛馬がある、等々)。よって白馬では馬を満たすことができない。この状況を『白馬は馬でない』と定義する。」
(※栗毛馬について、白馬同様の主張を行うと栗毛馬も馬でなくなり、反例を出す方法はエンドレスになる点に注意。だからあくまでも、例えば、という便宜的な説明。)

とは言えます。

 白馬非馬の元の陳述がどれだけ曖昧なのかは要注意でしょう。上記の※のように、できるだけ文に沿った擁護論すら退けることができます。反例を出さないなら出さないで、「反例が出せないなら白馬は馬か、白馬が馬そのものなら、栗毛馬はどうするのか?」と問い詰めている限り、一種の無敵論法ともなります。ただし、自分から白馬は馬でないことを具体的に説明しようとすると、擁護論への反論が適用されて破綻します。

 あるいは「白馬は馬ではない」が曖昧だといえます。白馬が馬に含まれるのか、排他的なのかも言明していません。その点では、相手が「白馬が馬に含まれないという主張だ」と思って反論すれば、白馬が馬に含まれるように問い直し、それに対して白馬が馬に含まれるとして反論すれば、「それでは、馬でない、に反する」などと駄目出しできます。

 公孫竜の他の有名な説では、堅白論があります。白い小石(小石=堅い物、としている)なんですが、白は見て分かるもの、堅いは触って分かるものとし、白い小石というものは存在しないと述べています。

 古代中国では名実論が盛んで、孔子を含む諸子百家には、名(実、つまり実体が表す概念)と、実(実体そのもの)の関係を説く者があり、公孫竜は名と実が完全一致すべきである、そのように全てを理解し、さらに言い表すようにすべき、と考えたのかもしれません(彼の研究は未完で、まともに引き継いだといえる者もおらず、実際の意図は不明に近い)。

 白馬非馬ですら完成した主張とはなりませんでした。彼の思想にも見出すべき点があると考える人の中には、例えば「『白馬』という2文字は『白』『馬』に分解すると『白馬』については意味を成さなくなる、そういう言葉では論理を追及できない、と考えた可能性がある」といった解釈を試みていることもあるようです。

 公孫竜が属する名家は論理を追及する学派でしたが、論理学として完成せず、やがて詭弁すら辞さない弁論術になっていってしまいました。無敵の論法を扱えるけど、建設的なことも、真理も出てこない。

 一方、西洋で発展した論理学は記号論理なども用いて発展しました。最初の定式化からして、厳密性を求めます。厳密である限り、正しいか間違いかが明確になり、推論などには非常に役立ちます。しかし、厳密さを欠くと、しばしばとんでもない結論を導いてしまいます。

 例えば、「命題が真であるなら対偶は真である」があります。これは正しいんですけれども、自然言語で適当に用いると変なことになることがあります。例えば、ある人について、

命題「叱られ『ない』と、勉強し『ない』」

ということが正しいとすると(※正しい場合があることは、私自身の経験から保証しますorz)、「叱られ『ない』」を否定して「叱られる」、「勉強し『ない』」を否定して「勉強する」、対偶はさらに順序を入れ替えたものですから、

対偶「勉強すると、叱られる」

になります。あからさまにおかしいですが、自然言語で論理的操作を単純に施すとこういうことも起こってしまいます(正しくは例えば、対偶「勉強しているなら、叱られたからだ」等)。

 英語でnothingの用法の多義性を使った、こんなトリックもあります(日本語に訳すと切れ味が鈍るので英語のままで)。

Nothing is better than my wife.
A penny is better than nothing.(penny:ペニー、少額の小銭)
Therefore, a penny is better than my wife.(故に我が妻より1ペニーのほうがいい)

 英語は論理的などと言われることもあるようですが、こんなことも起こってしまいます。

 以上を踏まえまして、回答の結論としては、白馬非馬論は、

「曖昧な自然言語を曖昧にしたまま厳密な論理を扱おうとしたのが無理だった」

ということになります。記号論理の厳密な陳述である、「B ⊃ A ≠ B の原理」だけに限定できるはずもないですし、必要性もありません。
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この回答へのお礼

Dio_Genesさん、はじめまして回答ありがとうございます。

なるほど自然言語に理由があったんですね。
nothingの話凄くおもしろかったです。間違ってないけど間違ってますね。

パーフェクトな回答ありがとうございました。またお願いします。

お礼日時:2014/09/09 06:23

 論理は形式を扱うものです。

言葉を記号として一定の様式で組み合わせたもの(プロトコル命題)以外の言明は対象になりません。ですから、論理学的には、マチガッテいるとかそんなもんじゃなくて、単に論理の対象外。つまり論外です。
 そもそも日本語の文章としてすら意味不明であり、もちろん連想ゲームじゃ話にならない。

> 白馬は馬ではない。

 「白馬」が何であるかを定義せずに、あたかも共通認識があるかのように装って話を始めるのは、ソクラテスも大好きな古い詭弁のテクニックです。

> なぜなら白馬は「白い」馬であり

 これが発言者による「白馬」の定義なのか、それとも読者が持っているであろう「白馬」の通念について語っているだけなのか、曖昧です。前者なら話全体が破綻しているわけだし、後者なら勝手に決めつけているだけ。これがもし
  「白馬」とは白い馬のことだと仮定する
というのならまだ話は通じるんですがね。

> 「白い」とは色の概念である。

 「色の概念」という言葉の意味が不明ですから、何も言っていないのと同じ事です。もし「白い」というのは色が持つ性質だ、ということを主張しているのであれば、それは日本語の解釈としてまるきり間違いです。だって「白いもの」が共通に持つ属性を「白色」とか「白」と呼ぶんですよ。だから「白い」は形容詞なんです。(違うというなら、ものではない純粋な「白い」を持ってきて見せてもらいたいもんです。)というわけで、「白い馬」にはまだ問題は見いだされない。

> 「馬」とは動物の概念であり、

 「動物の概念」という言葉の意味が不明ですから、何も言っていないのと同じ事です。もし「馬」というのが動物が持つ性質だ、ということを主張しているのなら…頭おかしいんでしょう。「馬」は動物のひとつのカテゴリの名称だ、というのなら意味は通じます。で、「白馬」はそのカテゴリに属しているかもしれないし、いないかもしれない。それは「馬」というカテゴリと「白馬」というカテゴリ、それぞれの定義に依存します。それだけのこと。

>「白い」と「馬」の2つの概念が結びついた

「結びついた」とはどういう意味でしょうかね。「連想ゲームで謂わんとするところを察してくれ」ということでしょうか。

> 「白馬」は「馬」ではないのだ。

「白馬」は「馬」ではない、という主張だけを取り上げてみますと、おかしなところは何もありませんで、単に、これを主張している人が「馬」をたとえば「白くないヒヒンと鳴く四つ足の…」と定義したのであろう、ということが推察されるに過ぎません。ところで、「河馬」「竹馬」「鞍馬」は「馬」かどうか。これも「馬」と「河馬」をどう定義するかによって決まる。それだけのことです。

> つまりB ⊃ A ≠ B の原理を指している。


 これはそもそも式になってませんし、何の原理でもありませんし、一体何がそれを「指している」かも不明です。

> 言葉の上だけで見ればたしかに白馬は馬ではありません

 いたるところ曖昧で飛躍だらけの話のどこに「たしかに」と仰る根拠があるんでしょ?
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この回答へのお礼

定義が曖昧なことはもちろん知ってますよ、詭弁なのも百も承知です。

ただ自分が聞いてるのは定義のことやら、これが詭弁である理由を聞いてるのではありません。
あくまで文書の書き方のことだけを聞いています。

ちなみに、これは公孫龍という人間が言った白馬非馬という話らしいです。

この文書の主張はようするに
白い+馬 ≠ 馬 ということになるらしいです。
現実的には間違っていますが、あくまで言葉の上だけでは確かにこう書かれると馬ではありません。

おかしい文書ですし、定義の曖昧なことやら何で足すんだといったことは置いといて
文書の書き方だけはキチンと書かれているのかどうか、話の展開自体はキチンと筋道踏んで展開されているのかどうか、おかしいとすればどこでどうおかしくなっているのかどうか
それが知りたかったのです。

ようするに詭弁だどうだこうだじゃなくて、あくまで文書面のみのチェックを欲していたということです。

定義が曖昧であることや詭弁である理由などは誰でもわかります。

他の回答者の方がキチンと書かれた文書でも自然言語の曖昧さゆえにおかしな結論に至ることがあると回答してくれました。
こういう回答が欲しかったですね。

回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2014/09/09 05:57

論理学を修めていないので茶々入れです。


読み飛ばしてください。


「白馬」は、地名であり、人名(キャラ名)であり、列車名です。
ゆえに馬ではありません。
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この回答へのお礼

yamanka201さん、回答ありがとうございます

そういうのもありですね^_^

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/09/09 05:59

白馬は馬の一種ではあるけれど、馬一般の概念ではない。

他にも黒馬などがいる、という意味では正しい論理だと思われます。しかし一般的な感じ方ではこの文は説明不足に感じられ、たしかにおかしいと思います。

>白い」と「馬」の2つの概念が結びついた「白馬」は「馬」ではないのだ。

馬という言葉を出してきたので奇異に感じられますが、別の例でこの論理の正しさを確認することはできると思います。
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この回答へのお礼

kohichiroさん、回答ありがとうございます

説明不足ではあるけど展開としては正しいんでしょうかね?

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/09/09 06:08

「白馬は馬ではない」と言いながら、後の文章で、「白馬は『白い』馬であり・・・」と、馬であることを肯定しています。


自己撞着ですね。
早い段階で、論理破綻しています。
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この回答へのお礼

heisenbergさん、回答どうもありがとうございました

お礼日時:2014/09/09 06:05

「馬」の定義をあえて与えずに詭弁を弄しているだけです。



白い馬をA,馬をBとすれば

B⊃A

この状態を言葉で「白い馬は馬である。」といいます。
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この回答へのお礼

spring135さん、回答ありがとうございます。

そうなんですか?ちょっとその記号の意味を知らなくて

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/09 06:01

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