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初詣行く人は、そこで一年幸せになれる確率を上げるために行くのでしょうか?
正直、気の持ちようだと思うのです。

おせちを食べるときも縁起の良いものを食べますが、食べたからといって幸せになれるとは思いません。

初詣行って交通安全のお守りを買って、帰るとき接触事故をおこしたが、お守りのおかげで骨折だけで済んだ、という話を聞いたことがあります。

嫌なら行かなければいい、というのではなく、単純に問いたいのは、初詣に何を期待して行くのでしょうか?

A 回答 (10件)

日頃お世話になっている上司や先生、恩師などに新年の挨拶をしに行くのと同じ。


あくまでもご挨拶ですから、本来は大きなことだろうと個人のことだろうと祈願をする場ではありません。
表敬訪問とはそういうことです。
でも頑なに避ける必要もないので「一年の計は元旦(元日)にあり」で一年の目標や抱負を報告する事はいいことだと思います。

神社で祝詞というものを聞いたことありますよね。祝詞とは「法吐」とも書きます。「法」は定められたものを意味し、「吐」は息を吐くことです。つまり祝詞とは「定められたことを声に出して神に奏上する」ことを意味します。だから参拝に行ったら祈願は声に出さなければいけないんです。だから祈願に行くと願い事を大きな声で神様に伝えてくれるわけです。
よく「人に聞かれたら願いは叶わない」なんていう人が居ますけど、アレには何の根拠もない迷信です。
リアルで成功者の多くの意見の中で「目標を壁に書いていつも目にする」「人に望みを宣言する」などと言うものがありますよね。神道では遥か前から実践していたわけです。

おせちに縁起がいいものを食べるというのは後付の理屈で重要なことじゃないです。
ウチの父は栄養がどうのとか縁起がいいなどと言われると途端に食べなくなってしまう人(でも霊能力がありました)。だからウチでは禁句ですし、そんなもの信じてもいません。
毎年家族の好きなものだけ買ったり作ったりして食べてます。

お守りは本来自分のための物というより他人のためのものなんです。愛する人、旅立つ大事な人のために神社の中の石や御神木の葉、社殿の修繕のときの木っ端や神饌の米などを袋に入れて持たせたのが起源。さらに生国などを記した木札を氏神社に発行してもらったので、それが一緒になったのが今の形の御守りの最初です。
また祈願した証しとして授けられた護符が変化したものでもあります。

祈願というのは棚ボタやマジナイではありません。努力しチャンスは自分の手で掴まねばご利益は手に入りません。もちろん思わぬ事故で助かった場合もご利益ですがそれだけじゃありません。
さてあなたは「そんなの偶然さ」で何を得られるんでしょうか?そこには何もないですよね。ホッとする?そんなもの無意味な感情ですよね。「軽く済んでよかったね」となれば気が楽になる、プラス思考ですよね。
さらに「お陰様で」とつけば更に感謝の意がこめられるプラス思考の実践です。神様事というのはプラス思考の実践なんです。

「プラス思考なんていつでも出来る」と言う人の多くはできていません。落ち込んだときや悪い状況に堕ちたときにプラス思考が働かないんです。「九死に一生を得た。神仏のお陰です」最悪の状況で感謝を述べられるこれがプラス思考の究極なんですよ。

神道は世界の多くの宗教とは異なるもの。それが災害の国土に住む日本人が生み出した最上のプラス思考なんです。神道の基本は「感謝」なんです。
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 まぁ、ハロウィーンで騒いで、クリスマスにケーキを食べて、年末には除夜の鐘を聞き、年初には初詣で神社へ、お葬式はお寺でって日本人ですから。

初詣もその一部としての`年中行事’に過ぎないでしょう。誰も「初詣に行ったから・・・・・」なんて考えていませんよ。ただ、何となく、行かないと行事の一つをすっぽかしたような気になるんでしょうね。でも、「知り合いの結婚式の3次会まで付き合わなかった」とか、「知り合いのお葬式で火葬場まで付き合わなかった」の方が‘罪悪感?’が残る?ってくらいなもんです。(笑)
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世間一般に誤解されていると思うのですが、神様は個別のお願いを聞く存在ではないのです。


お願いを聞いてくださるのは仏様、現世ご利益なら観音様にお願いするのが正しいのです。

では何のために神社にお参りするのかといえば。
「私は神様を敬っています。こうしてご挨拶に来ました。怒らないでください」
って神様がお怒りになるのを防ぐ意味があるのです。

ですから初詣は
「新しい年を迎えることができたのは全て神様のおかげです。ありがとうございました
今年も神様を敬いますので怒らないでくださいね」とお願いするために行くのです
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新しい年を迎えるわけだから良い一年になりますようにとお祈りをしに行くだけのこと。


それ以外の理由はない。


でもそもそも初詣に行く行かないなんてその人達の勝手だから赤の他人が不平不満をぶつけるようなことでもない。
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 「正月感」を味わうためです。



 普段、人のいない神社やお寺がお祭り騒ぎになっているのは正月くらいなので、そこへ行ってお参りしたりおみくじ引いたりするのが楽しいので。

 年配の方は信じていて、毎年高いお札を買っていったりしますね。
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宗教的行為に実際的な理由を求めるのは無意味です。


お正月には初詣に行くことになっているから、ただそれだけですよ。
私はそれに従うことでなんとなく幸せな気分になれるからいきますし、そうじゃない人は行かないからとって何も悪いことは起こりません。

ただその種の行為は、そのコミュニティのお約束になっている場合があります。
その場合、あなたのようなへそ曲がりは村八分にされる可能性があります。
つまり、その行為はコミュニティの一体感を維持するためになされているわけです。
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TVも面白くないし、初詣に行けば知り合いに会える可能性もありますし・・・・

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普段と違うことをしたい、



お祭りとか、観光地、に行く気持ちと
友達、知人に、もしかしたら会えるかなと期待したり、

ついでに今年こそは、恋人に出会えるように、入学試験、その他の試験に合格できるように、とかお年寄りなどはぽっくりと死ねますように、子供が授かるように、とかいろんな願い事をするために。

みんなが行くから、行ってみようかな、等、いろんな思いが入り交じったような気持ちで出かけます。
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伝統的なしきたりを守ったり、家族や親族のつながりを大事にする人は、そうでない人に比べると経済的にも精神的にも豊かであろうと推測できます。


伝統文化の教養がなく、家族から孤立しており、ルールを守らなかったり初詣という行事に疑念を抱いて家でテレビを見ているような人種と比べると、幸せになれる確率は相当に高そうですよね。
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別に期待とかではなくて、


殆どの人は、一種のお祭りだと思ってるはずですよ。
質問者様はお祭りは嫌いですか?

普段会わない人とあって交流したり、
屋台でいい臭いがしたら買って食べてみたり、
私の場合は、運試しにおみくじを引くのが目的だったりしますね。

いろんな祈願とか、お守りとか、そういうものがありますが、
それはお散歩の目標地点と考えればいいと思いますよ。
例えば、山登りの頂上地点についた記念みたいなものと考えればいいと思います。

論理的に考えてみても、「ご利益がない」という事は証明されてません。
もしかしたら因果応報で良いことがあるのかもしれませんし・・。
信じるかどうかは自分次第という事になります。
だから、やらないよりやってみた方がよいと考える人が多いんでしょうね。
自分の意志がどっちを向くかだけの話です。

私の場合は、毎年、まーどっちでもいいやなんて思ってますw
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