アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

邪馬台国の場所については北九州説と畿内説があると思いますが、畿内説の場合、統一国家ではなく大きな豪族の一つでしかなかった邪馬台国がなぜ中国に遣いを送ったと考えているのでしょうか。

貿易的なことをするにしろ、中国からの援軍を頼りにしたにしろ、大陸に近い北九州ならまだしも機内では場所的に恩恵が受けられないと思うのですが。

A 回答 (3件)

倭が使者を送った理由は、実はよく分かっていません。


魏が攻める前は公孫氏が朝鮮半島を支配しており、このときの記録は残っていませんので、倭が不定期的に公孫氏に使者を送っていたのではないか、と考えられているのが一般的だと思われます。

魏志倭人伝に書かれていることを簡単に書くと、魏が公孫氏を滅ぼしたら倭が使者を送ってきた、天子(中国の皇帝)が大変喜び褒美を送り届けた(1回目の魏使)、数年後にまた倭の使いが来た、再び褒美を届けようとしたが朝鮮半島で反乱があり郡司が死んだので届けられなかったら、3度目の倭の使いが来て助けてくれと言って来た、とりあえず届けられてなかった(2度目の倭の使いの褒美を)送り届けた(2回目の魏使)。

という流れです。3度目の倭の使いと、2度目の魏の使いが、重なってしまっているために、さまざまな憶測を述べる人がいますが、3度目の倭が助けてくれと言ってきたことに対しては魏は何もしていませんので、注意してください。

さて、2度目および3度目の倭の使いですが、これが最初に不定期的に魏(公孫氏)に使いを送っていたためだろうという根拠になっているのですが、実はそうかどうかは断定しにくいところなのです。

というのも、ちゃんと魏志倭人伝を読めば、3度目の倭の使いはイヨが送ったことがわかります(卑弥呼はもう死んでいた)。そのときの説明文を読めば、イヨの前に男王が立っていたことが書かれています。つまり、2度目の倭の使いは男王、3度目はイヨ、が送った可能性も十分考えられるのです。ということは、王が変わるなどの大きなことが起きたので魏(中国)に使者を送ったということになり、普段から不定期的に倭が使者を送っていたかどうか、断定てきには言えないとも考えられます。

時間がないので、中途半端ですが、このあたりで。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
つまり、畿内説だった場合、中国まで遣いを送った理由が説明できないということですね?
それと、畿内説では、どうやって遣いを送ったのかも説明できないんじゃないですかね。自国の領土から、かなり離れた他国の領土である北九州から遣いを送ったというのは無理があるように思います。

しかし、そうだとすると、北九州説と対等以上に畿内説が唱えられているのが不思議ですね、

お礼日時:2015/07/16 18:58

できれば明日の夜まで閉めずに居てください

    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2015/07/16 18:58

お待たせしました(待っていないかもしれませんが)。



前回はざっと、倭の使いの2回目(正始4年・西暦243年)と3回目(正始8年・247年)は倭の王が変わったというビックイベントがあったためのもので、不定期的に中国に使者を送っていたのではないかもしれない可能性を書きましたが、しかしながらやはり邪馬台国は不定期的に使者を送っていたと考えるに十分な記述もあります。それが伊都国の『郡使往來常所駐』、簡訳すると『郡使は常に(いつも)ここに留まる』です。

この”常”という部分が肝で、伊都国に行ったのは1度目の魏使の梯儁なのですが、まぁ2度目の張政だったとしても、1・2回泊っただけで”常”と書くというのは飛躍がありすぎです。つまりこの文の郡使は魏使ではなく公孫氏時代の帯方郡(または楽浪郡)の郡使が”常”に留まっていたというのを、倭人から聞いて書かれた文だろうと推測されるのです。ここで、公孫氏の郡使がよく来ていたということは、やはり倭からもそれなりに使いを送っていたからだろうと考えられるわけです(でなければ公孫氏がわざわざ倭に使いなどよこさない)。

魏志倭人伝に書かれている最初の倭の使いが、記述通りの景初2年(西暦238年)なのか景初3年なのかという論争もありますが、景初2年6月ならば公孫氏が魏の司馬懿に攻められて、しかしながらまだ生きていて戦闘状態の真っ最中であることを知らずに、のこのこと公孫氏に貢物を持っていったら公孫氏がボコボコにやられていたので、それを魏への贈り物にしたら大変喜んだ、という話になります。
景初3年なら、公孫氏が滅ぼされたので、新しく帯方郡を支配した魏に挨拶がてら使者を送ったということでしょうか。こちらだと(相手)国が変わるというビックイベントがあったから使者を送ったという感じが強くなりますね。

まぁ伊都国の記述から(景初2年か3年かは別として)、おそらく不定期的に使者を公孫氏に送っていた可能性が高いと考えて良いでしょう。

で、(ようやく質問の)何でわざわざ使者を送っていたのか、となるのですが、これはやはり大陸の進んだ技術や制度を学ぶためでしょう。
それが良く分かるのが、やはり伊都国の記述で、伊都国で文章やら贈り物は全部受け取りますよとか、一大卒ってのがその辺りの国々を統率してますよとかって、結局何をいっているのかというと、魏が”洛陽に天子(王)が居て、それが支配する1つに帯方郡があって、そこに太守(前回は郡司とテキトーに書いた)がいて郡を支配している。倭から使者がいけば郡がまず魏の出先機関のように帯方郡が相手をして、文章やら贈り物やらを預かり、必要があれば洛陽の王に取り次ぐ”みたいなのを、そっくり真似ていることが分かると思います。
最初の倭の使いが景初3年(239年)ならば、最初の魏使は正始元年(240年)と、1年もない内にばたばたと伊都国を出先機関にして一大卒を新たに作って、などとやって、それが本当に上手く機能していたのかどうかなどと穿ってしまうところです。
一応言うなら、公孫氏も漢の帯方郡および楽浪郡の太守で、更に言うなら倭奴國が金印をもらった頃から漢はそのような仕組みだったのだから十分に仕組みを学ぶ時間はあったのかもしれませんが、しかしながら私は、邪馬台国の人々が魏使に対して、これみよがしに自分達が魏と同じ制度を持つ文明国であることをアピールしていたのではないかと思っております。
そして、やはり、そのような進んだ中国の技術や制度などを取り込むために、使者を送っていたのだろうと思います。

ならばこれは、邪馬台国が九州だろうが近畿だろうが、使者を送るに十分な理由・動機になると思います。

ついでに倭の使いの3度目、正始8年(247年)に窮状を訴えていますが、魏の対応はかなり冷たく、天子の言いつけどおり(正始6年の記述)難升米に黄幢をあたえて、窮状を訴えてたのでついでに難升米と臺與に檄を飛ばして(つまりガンバレよって言って)、それだけしかせずに帯方郡に帰ってます。
ただ、黄幢というのは、日本人的な感覚でいう『錦の御旗』であり、これを持って戦えば全戦全勝間違いなしの、ありがたいものです。それをわざわざ与えたのだから、それで十分だろう、という感覚だったのかもしれません。

ちなみに臺與を、前回は間違えてイヨと書いてしまってますね、トヨです。

さて、そんな檄を飛ばされただけで、いやいやそれだけじゃ困ると、帯方郡に帰る張政に付いて行ったのが、魏志倭人伝に書かれている4回目の倭の使いで、やはり正始8年(247年)のことです。
当たり前のことですが、張政は天子の命令で難升米に黄幢を届けにやってきただけなので、任務を完了させてとっとと帰りたいわけです。好きで倭にやってきて観光して、ごたごたを眺めつつ時には介入して、などといったことは一切全くこれっぽっちも考えてないのです。倭の内情など知ったこっちゃないのです。だから、難升米に黄幢を渡して檄を飛ばしトヨに檄を飛ばして(二人に檄を飛ばしたのは窮状を訴えられたためでしょう)、さっさと帯方郡に帰って行っちゃった訳です。
なので、その帰る難升米に付いていった4度目の倭の使いも、正始8年(247年)のこととなります。

さてこの4度目の倭の使いは、頑張って(天子の居る)洛陽まで行っています。天子にお目通りがかなったかどうかは分かりませんが。おそらく太守(郡)ではなく直接に魏の王に助けを求めに行ったのだろうと思います。
しかしながら魏は動きませんでした。助けのない邪馬台国は南の狗奴國に滅ぼされたのでしょう。

さて最後に、正始8年の記事について書いておきます。
張政が難升米に黄幢を渡して檄を飛ばしてから、トヨに檄を飛ばすまでの間に、次のようなことが書かれています。
・卑弥呼が死んだので大きな塚をつくった
・男王が立ったが内乱になった(千人が死んだ)
・トヨが新しい王となった
これ何かというと、トヨって誰?って話なんです。いきなりトヨに檄を飛ばしたって言われても『誰だよそれ?』ってなるから、トヨってのはこうこうこういう人なんですって説明が延々と書かれているんです。
だから張政が倭に来てやったことは『難升米に黄幢を渡し』『難升米とトヨに檄』の2つだけなのです。倭人伝には、これしかやってない、ってちゃんと書かれているんですよ。


おそらく魏志倭人伝に興味がある方なら、私の書いたものが、一般的に言われているものとはかなり違うことはお分かりでしょう。しかしながら、これらを頭の隅に入れて魏志倭人伝を読んでもらえば、私の書いたことが全くのウソでも、無理解釈・トンデモ理論でもなく、おおよそそう読める範疇のことであることがお分かりいただけると思います。

今回は、比定地論争には全く係わっていませんので、使いやすいのではないかと思ってます。これらの話を取り入れるも良し、異論を考えるも良し。私もシロウトが一人で読み解いたものですから、いろいろと抜けもあることでしょう。
しかしながら、もし何かの役に立てるようでしたら幸いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

論点ではないですが、大変、丁寧な説明をありがとうございます。

ところで、邪馬台国は倭の国の中で、どのぐらいの割合の勢力を持っていたのでしょうか?
倭の国が30か国程度で構成されていて邪馬台国はそのうちの20か国を領有していると書いてあるサイトもあれば、邪馬台国が30か国ほどの国を支配していると書いてあるサイトもあったように記憶しております。

お礼日時:2015/07/16 19:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!