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旧日本軍の後方兵站部隊の戦闘について質問です。

素朴な疑問なのですが、質問させて頂きます。

1、旧日本軍で、例えば第一線で戦闘する歩兵や砲兵などではなく、後方兵站を担当する部隊(輜重兵や工兵など)は部隊の移動中などはとても役に立ちますが、いざ戦闘の時には丸腰で何も抵抗できないと思うのですが、戦場ではどのように過ごしていたのでしょうか?

2、また、戦闘で歩兵や砲兵などが死傷して数が減った場合には、後方兵站部隊とて何もしないわけにはいかないと思うのですが、武器や弾薬等が無ければ戦闘になりません。もし戦闘に参加したならば、どのように戦っていたのでしょうか?

そもそも後方兵站部隊は、小銃などの装備を持ってなかったのでは・・・という認識の上での質問ですが、お分かりになる方がおられましたら、ご教示頂ければ幸いです。

A 回答 (3件)

>1、旧日本軍で、例えば第一線で戦闘する歩兵や砲兵などではなく、後方兵站を担当する部隊(輜重兵や工兵など)‥‥



 まず、輜重兵は後方(兵站)部隊ですが、工兵は工兵部隊であって、たとえば1932年(昭7)の第一次上海事変の廟江鎮の戦いにおいて歩兵の突撃路を開くために敵前の鉄条網を爆砕して戦死した三名の工兵が「肉弾三勇士」と謳われたように、工兵は後方部隊に分類されてはいませんでした。

>2、後方兵站部隊とて何もしないわけにはいかないと思うのですが、~もし戦闘に参加したならば、どのように戦っていたのでしょうか?

旧陸軍において、兵役法に基づく徴集により、二〇歳の男子は検査にのぞみ、合格した定員者は本籍地の歩兵、騎兵、砲兵(野・山)、工兵、輜重兵など各連隊に入隊し、その後約四か月間(騎兵は五か月間)基礎訓練を受けました。それには小銃射撃訓練、銃剣術、射撃教範、野外演習、体操、小隊教練、各個教練、軍隊内務などがあってそれを修了すると連隊長による「一期検閲」(兵の順位が決定される)を受けました。

したがって、どの兵種によっても小銃の射撃は一応できるようになっていました。

ただし、たとえば徴兵検査によって合格しても定員外(くじ逃れと称した)になって、市井人として演習召集により小銃の操作を習得したのちに事変が生起した際に補充兵(第一補充兵役)として充員召集され、すぐに戦地へ派遣された時には、現地にて訓練を受けることになっていました。

>そもそも後方兵站部隊は、小銃などの装備を持ってなかったのでは・・・という認識の上での質問です‥‥

 代表的な兵站部隊の編制、武装に関しては、

1:兵站地区隊:兵站地において補給業務、警備、などの全般を統括する部隊で 兵站地区隊本部、兵站警備隊、兵站勤務中隊からなる。
 
 兵站地区隊本部:隊長(大佐)以下、一般兵、特業兵、工務兵など203名。

 兵站警備隊:隊長以下1035名 警備隊本部、一般中隊四個、機関銃中隊、歩兵砲小隊からなる。

 兵站勤務中隊:中隊長以下511名 中隊本部、勤務小隊三個からなる。

2:野戦輸送司令部:港湾地から兵站地、さらに前線までの輸送に関して統括する司令部。指揮下に自動車連隊、独立自動車大隊、独立自動車中隊などをおいた。 司令官(少将・大佐)以下37名 乗用車4、トラック2、軍刀5、小銃17(実包510)、銃剣18。

3:独立自動車中隊:軍直轄の独立部隊で中隊長以下132名 指揮車1、サイドカー1、軽修理車2(一組)、トラック35。小銃104(実包3120)、拳銃19、軽機関銃3(実包6000)。

4:師団野戦病院:将校20名、下士官52名 兵255名 小銃50、軽機関銃1、輜重車43、トラック5、患者用トラック7。

 後方輸送任務に従事していても、ゲリラや航空機からの襲撃、空襲遭遇することがあり、機関銃や小銃で武装をしていました。また、兵站警備隊の編制は、歩兵部隊である独立歩兵大隊の乙編制に準じており、兵の質はおいても武装はそん色ないものでした。

 また、当時陸軍軍務局員であった西浦進氏の回想記では、支那事変が長期化するに伴い、兵站部隊を多数編成したために、小銃の供給が追い付かなかったとあります。

 

 資料:『昭和十六年度動員計画令』 
  
     西浦進『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』
                  日経ビジネス人文庫 

     など
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この回答へのお礼

皆様、ご回答頂きありがとうございます。
やはり、後方兵站部隊と言えども、基本的には最低限の装備は持っていたのですね。
知ってる人からは「当たり前じゃないか」と思われるかも知れませんが、意外にこのような事は一般に知られていないんじゃないかとも思います。今回知る事ができてよかったです。

お礼日時:2015/07/25 23:51

後方兵站部隊の状況は知りません。


ある戦闘部隊・・・重慶に最大接近した部隊であります。
2個中隊を主に編成された600人弱の規模。

進軍には輸送隊が馬を用いて重機関銃や弾薬を運びました。
もちろん戦闘部隊と一体の指揮下。馬が死んだら重機関銃
の分解部品、重さ90キロを輸送隊員が人力でかついだ。

背嚢は他の輸送兵が負担したが90キロを担いで行軍した・・・
それは死に近い行為。戦闘時の行軍は小休止が2分以内、
大休止でも10分以内という夜間長時間の歩き。

どんなに疲れても前の兵士に続いて進む・・・血豆で足は激痛。
血豆に縫い針で糸を通し結んで水を抜きながら歩く・・・
武器弾薬食料等を運びつつ行軍する輸送兵。

行軍する兵士の中には倒れる者も出る、しかしよけて列を離れれば
取り残されて敵の餌食。倒れた戦友を踏みつけて数100人が進んだ。
疲れでは死なぬが背嚢を背負った数100人に踏まれて多くが死んだ。

重慶近くで突然包囲され数1000人に攻撃された・・・
ただちに野戦防塁を数10築き防衛。敵はあまりにも多く攻撃は続く。
昼は攻撃され夜は見張りがさらわれ夜中じゅう悲鳴が続く・・・

味方への伝令はことごとく殺され援軍は来ない・・・
そんな戦いが2週間近く続いた・・・
防塁は全て潰され数100人が戦死し本部防塁に残るは輸送兵6名と

隊長のみ。夜が明け敵の攻撃が迫る。薄明かりの中、隊長が全ての
弾薬を点検する。そして銃弾を分配、一人1発から3発で底を尽く・・・
隊長が万策尽きた事を声に出し1~2時間で全滅の定めと知る。

声も出せぬ疲労と寝不足のなか銃を持ち直ぐに押し寄せる敵の
大群を待つ。静寂の中にわずかに聞こえる空の音・・・
やがて味方の偵察機が1機。上空を3回旋回し空の彼方へ飛び去った。

隊長が声を出し全滅するが果敢なる戦闘は故郷に伝わると兵士に・・・
全員があきらめの中、気力を起こし戦死覚悟の戦闘を待った。
10時を過ぎ11時を過ぎても攻撃が来ない。

2名が周囲の偵察に出た。敵兵のすがた一人も無し、全滅から生環。
輸送兵は弾薬を運ぶ任務上、戦闘時は隊長に近い位置を取る。
戦闘兵と変わらない。厳しく辛い輸送の褒美は部隊で最後に殺される事。

戦闘の真実を語ってくれた鈴木上等兵に大なる謝意を表します。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
お礼が遅くなり誠に申し訳ありませんでした。お礼を書いたと勘違いしていました。お許し下さい。
頂いたご回答もとても勉強になりました。
戦前の人には当たり前の事でも現代にあまり正確に伝わっていない事も多く、いざ自分で調べるとなると難しくて閉口してしまいます。

お礼日時:2015/08/01 22:06

>いざ戦闘の時には丸腰で何も抵抗できない


ンな事は無い
火砲・分隊支援火器などは無くとも、個人装備は一般兵と同様

>戦闘で歩兵や砲兵などが死傷して数が減った場合には
と言うことは周辺には味方兵が死傷して横たわっている、彼らの装備品を使わせて貰う
まぁ砲兵の代わりはそう簡単には行かないが、力作業程度なら支援可能
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
お礼が遅くなり誠に申し訳ありませんでした。お礼を書いたと勘違いしていました。お許し下さい。
頂いたご回答もとても勉強になりました。
戦前の人には当たり前の事でも現代にあまり正確に伝わっていない事も多く、いざ自分で調べるとなると難しくて閉口してしまいます。

お礼日時:2015/08/01 22:08

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