プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

(あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。

 (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。
 つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。

 (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。

 (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。




 (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと みなまとめて ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。

 (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。

 (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。



 (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば――《特異点》を見た思いである―― ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。

 (け) しかも やがては 名の違う神どうしの――または同じ名の神どうしでもの――ケンカは もう用無しとなるはずである。みな われがわれに還る。そのために 大嘘をついた。イエスという男。
  宗教のオシヘは――《無い神》という名の神を奉じる無神論なるオシへについても―― どうでもよい。のです。普遍神をさししめした。

質問者からの補足コメント

  • ご回答をありがとうございました。

     お礼欄をおぎないます。
     ☆☆(№12お礼欄 末尾から三つ目の段落) ~~~~~~~~~~
     賛同者がいくら出ても その非知なるナゾは じつはその多数の主観どうしにおいて互いに同じ神であるかどうかは ついぞ分かりません。検証のしようがないのです。つねに ナゾにとどまります。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     ☆ もしここで《ナゾとしては 共通であるではないか?》と問い返されたら こう答えます。
     《その共通なるナゾこそが 非知なる普遍神なのです》と。

     つまり 普遍神のもとでは 少数派工作は効かないですし オシへではないので分派することはあり得ません。
     
     これをイエスがつたえようとしました。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/03 10:25
  • プンプン

    (№23お礼欄よりつづく)

     ★ パウロの言葉を信じてキリスト教徒になるか、それとも、
     ☆ つまり《わが心に〈非思考において〉受け容れる――信じる――》のは 普遍神のみ。

     パウロは 《宣教という愚かな手段》を用いただけです。

     ★ そんな「新しい契約=新約」
     ☆ エレミヤ書の聖句を無視している。これが ネツゾウとしての出べそ。

     あんた クリスチャンでもなければ 聖書を信頼してもいない。な。

     引用箇所にしても こちらの説明にしても 省エネ投法です。あしからず。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/07 08:53
  • №26のお礼欄への書き込みが 消えています。

     ふたたび書き込もうとすると エラーが発生したと出ます。

     戸惑い中。

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/08 06:41
  • 回答№26へのお応えです。

         *

     すべて 出べそ発言です。


     ☆☆(№25お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
      №24で問うた(あ)と(う)の問いが まだ答えられていません。
      ★ わたしの解釈や翻訳がねつ造だというんでしょう?
      ☆ そのとおりです。
      ♪負けてくやしい はないちもんめ♪ の歌をうたっているようですから もうそうっとしておいて欲しいということですか?
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


     ご回答をありがとうございます。

      補足日時:2015/11/08 06:46

A 回答 (29件中1~10件)

べつになにも。

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この回答へのお礼

ぢゃあ そのままどうぞ。

お礼日時:2015/11/01 08:12

宗教そのものが大嘘の塊ですから、教祖様が


大嘘つきであるのは、当然です。

何を今更、という感じですね。

そんなウソに振り回され、挙げ句の果てには
命まで亡くして・・・
人間ってつくづく愚かなんですな。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうおございます。

 ★ 教祖様
 ☆ になる成らないとはかかわりのない思想と行動とであったというのが 大嘘の中身です。

 何も読んでいないんですね。
 読んでも理解できないでしょうか。
 
 あいにくでした。

お礼日時:2015/11/01 09:18

何を質問さ?

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この回答へのお礼

何を回答さ?

お礼日時:2015/11/01 09:18

究極の詐術が宗教です。

2000年続くと言うことは人間は簡単に騙されるという証明です。知を持った人間というイキモノの本質(不安)に根差す詐術です。宗教は不安感情に根差し信者に都合のいい(真実は無関係)解答を与え安心させいろいろな教義で宗教が人間を支配する。支配するやつ(聖職者)は詐術と知りながら詐術の効能を信奉し最大限に利用する。こいつらは別名悪魔というが聖人と言われている。聖職者=悪魔。

叩けよさらば開かれん。汝疑うことなかれ。最後の審判。で気の弱い者は信者になったら脱出できない罠も用意されています。あくどい仕掛けです。

インチキな考えでも社会を安定させ発展させればいい宗教。ウソも方便。悪い宗教は己の欲望のため戦争、殺人を正当化し権力独占を謀る。
古代より政治権力と宗教は切っても切り離せない関係にあります。無宗教の権力として共産主義がありますが、国民をまとめることができず人権無視国民弾圧殺害という恐怖の支配に陥りました。ソ連滅亡後は宗教復活です。

宗教なしに戦争は戦えません。宗教イコール戦争遂行装置です。とりわけ一神教は強力装置です。
一神教も共産主義も絶対者(権力)による支配ということで同じ穴のムジナ。日本のような多神教のほうが争いが少ないのです。日本人は〇〇の神と言っても絶対神と思いませんね。イワシの頭も信心から。程度です。

宗教が無ければ人間は一人一人が自分の存在理由から生きる理由死ぬ理由を理解しなければならないが、ウソでもそれが解決されたかのような錯覚を与えるのが宗教でしょう。あんちょこです。

余談です。韓国のキリスト教は教祖の金欲と性欲のために存在します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ 究極の詐術が宗教です。
 ☆ ということをも おまけとして 指摘する思想と行動とであり そういう内容としての大嘘であったのではないかという問いです。

 ★ 支配するやつ(聖職者)
 ☆ とは何の関係もないということを示したのではないでしょうか。

 ★ 最後の審判。で気の弱い者は信者になったら脱出できない罠も用意されています。あくどい仕掛けです。
 ☆ といったオシへとその仕組みは 普遍神〔とわれとの関係〕にとっては 何の関係もないということでは?
 そうでなければ ハリツケはそれに甘んじることなく全力で回避したでしょう。

 ★ 日本のような多神教のほうが争いが少ないのです。日本人は〇〇の神と言っても絶対神と思いませんね。
 ☆ いいえ。それらの神々は 単なる分身です。
  日本教という一神教があります。クウキ教とも言い 聖典はないでしょうが。

   日本教総本山
    神道支部
    仏教支部  
    基督教支部
    マルクス教支部

 といったふうにレッキとした一神教です。つまりは 多神教をよそおってほかの一神教を排除するもうひとつの一神教です。

 イエスが指し示した普遍神は そのような神の違いほどくだらないことはない。ということではないでしょうか。

お礼日時:2015/11/01 09:31

皆様のお答えは福音書を表面通り受け取ると云うカトリックの伝統を鵜呑みにしていますが、それが大嘘。


映画にもなった「ダビンチコード」と云うバカ話の10%は正しく、さらにバーバラ・スィーリング、NHK出版、1993年初版「イエスのミステリー」を読むと、ほとんど分かる。
1.まず、マグダラのマリアはナザレのイエズスの正妻であった。
2.イエズスの母もマリアだが、「マリア」はユダヤの第二の国、イエズスを王とし「マリア」は代々王妃の称号だった。
3.この第二の国はユダヤ国内を始めギリシア文化圏をも含む強大な経済国家で、常にユダヤの形式的な国家を脅かし続けて居た、ナザレのイエズス君はこの分散国家の王だったのだ。
4.それは福音書がヘブライ語、のみならずギリシア語でも同時に書かれた事からも理解出来る。塩野七海先生の大著「ローマ人の物語」を読むと分かるが地中海世界の共通語はギリシア語であったからだ。
5.上記の様にあまりにも強大となった第二の国家は早期に潰さねばならないと政権側は考えていた、ローマ帝国のユダヤ総督ポンテウス・ピラトゥスはウンザリしていた、勝手にしろ俺は知らぬと、水で手を洗った、これは解釈次第で「水による洗礼」だとも言われる、政権側はローマ帝国にすり寄ったと言われたくないので、ピラトゥスを洗礼しユダヤ人待遇にし、ユダヤ人がユダヤ人を裁いた事にしたのだ、アホくさくてたまらん。
6.政権側はイエズズに難癖を付けて死罪に追い込んだ、だがユダヤの磔は非常に残虐かついい加減、罪人を最も苦しい位置に固定して死ぬまで放置する、他国の様に槍で両方から刺したりしない、それだとすぐ死んじゃうので安楽死に等しい、かなり経ったので兵士がイエズズの脇腹を槍で刺した、生きていれば当然血が流れる、死ぬと心臓が止まるのでほとんど出血しない、なぜかイエズス君はほとんど出血しなかったので、死んだとみなされた、どこの国でも通常死んだ奴は「粗大ゴミ」扱い、誰が持って行こうと勝手、じゃまなだけ。
7.なぜ第二の国はイエズス君を助けに立ち上がらなかったの?早い話この国は「経済国家」で軍事力など無く、さらに本国よりギリシア文化圏が主体だったから、情報は届いても動きが取れなかった。
8.看護の成果か運が良かったのか、イエズス君は生き返った、福音書の後に付いている手紙の多くはイエズス君自身が書いたのだろう。
9.ローマ帝国のキリスト教徒に対する態度はデタラメで弾圧してみたり、金で解決してみたり、無視したりだ。運悪く名前忘れたが有名な使徒が弾圧に耐えかねて逃げ出したら、あっちからイエズズ君が来るので「クオバディス・ドミネ」主よいずこへ行かれるのですか?と訊いた、イエズズ君曰く「オメーが逃げるなら俺がまた磔にされに行く」ガックリ来た奴はローマに戻り殉教した、以上大作映画「クオバディス」の要点、だがこの時イエズズ君は生きていたので、奴は本人から罵られたのだ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 (あ) あたらしい見方のようですが 初耳でした。つまり そのバーバラ氏の本は読んでいなくても 取り上げるに足る内容であれば 学者はすすんでそうするはずですから 初耳なわけはないと考えます。残念ながら そういうたぐいの情報であると見なさざるを得ません。

 (い) ローマ総督ピラトは イエスを尋問して何の罪もないと判定したのですよ 福音書によればですが。

 (う) 洗礼は まさにバプテスマのヨハネが――イエスのあたかも露払いとして登場し―― ヨルダン河で始めたとされています。悔い改めよ 主の道をまっすぐにせよと。

 (え) 旧約聖書は ヘブル語で書かれていますが これはギリシャ語にも翻訳されています(セプトゥアギンタ)。パレスチナは すでにローマ帝国に編入されていたわけですが アレクサンドロス以来のギリシャ語が使われていたと同時に じつはヘブル語の姉妹のようなアラム語も日常に使われていました。

 (お) ハリツケになったイエスの脇腹を突いたら血が流れたのですよ。ただしすでに 痛みをやわらげてやるためにローマ兵士が水をふくませようとしたら イエスは息を引き取っていました。死を死んだのですよ。墓の中から亡き骸が無くなっていたというだけのことです。

 (か) 高等法院のユダヤ有力者たちは イエスの人気があまりにも民衆のあいだにあり過ぎるので その勢力としてローマと一戦を交じえたなら ユダヤはさらに従属し隷属しなければならないと見て その《首謀者》のイエスに全責任を負わせた。だから ピラトに神の冒涜の罪で磔死させるように話を押し込んだ。

 (き) 磔の刑は ローマのナラハシですよ。ユダヤなら 石打ちの刑。

 (く) ユダヤ・サンヘドリンの手にイエスが渡ったあと ペテロを初めとする弟子たちはみな イエスを裏切って逃げたし 知らんふりをしたのです。

 (け) イエスが十字架上に去って行ったあと 弟子たちは あたかもそのあいだ目くらましを食らっていたかのように・そして十字架上にあたかも《うしろ姿》を見ることによって 目覚め イエスという男の話と歴史を伝えるようになったのです。

お礼日時:2015/11/01 13:04

お礼ありがとうございます。

誤解がある様なので追記します。
>あたらしい見方のようですが 初耳でした。つまり そのバーバラ氏の本は読んでいなくても 取り上げるに足る内容であれば 学者はすすんでそうするはずですから 初耳なわけはないと考えます。残念ながら そういうたぐいの情報であると見なさざるを得ません。
この本が出たとき(20年前ですが)全世界のキリスト教学は驚天動地の状態に陥りました。当時著者はオーストラリア、シドニー大学の教授であり、既に福音書学、死海文書学の権威でありました。この本が発表されると他の学説は時には完全に時には部分的に崩壊してしまいました。彼女の文献調査の深さは驚くべきもので、いわゆるグノーシス派の最新文書(見つかったばかりと云う意味)まで詳細に分析しています。この本はその学殖の10%にも当りません。
>ローマ総督ピラトは イエスを尋問して何の罪もないと判定したのですよ
おっしゃる通りです、だがピラトスは生命の危険を感じていたので、黙るしか無かった、だから「私はこの問題に関わりたくない」と言いました。
(え)は私の議論とは無関係なので飛ばします、旧約を論じても仕方が無い。
>脇腹を突いたら血が流れたのですよ。ただしすでに痛みをやわらげてやるためにローマ兵士が水をふくませようとしたらイエスは息を引き取っていました。
既に述べた様に死体を突いても血は流れます、量の差だけです、ローマ兵士はピラトス同様ユダヤ民族のやり方に嫌悪感を抱いていました、そのため水を飲ませようとしました、だがイエズズには飲む力は無かった、だが死んでいたかどうかは「死刑執行人」の「個人的判断」で「勝手に決めることが出来る」心電図など無いのです。
>ピラトに神の冒涜の罪で磔死させるように話を押し込んだ。
前半は議論しても仕方が無いので最後だけ。ユダヤの高等法院は旧約を掲げるユダヤ教徒、だがピラトスはローマ人だから「ユダヤの神の冒涜」などどうでも良い、だってローマは多神教、その中の一柱が冒涜されても「ああそうかい」程度の認識、頭に血が昇った連中など相手にする気は無かった。
>磔の刑は ローマのナラハシですよ。ユダヤなら 石打ちの刑。
それは単にあなたの無知、何の刑でも石打ちをするわけでは無い、多くの刑がある。
>(く)はその通り、冷たい奴らだ。
>イエスが十字架上に去って行ったあと 弟子たちは あたかもそのあいだ目くらましを食らっていたかのように・そして十字架上にあたかも《うしろ姿》を見ることによって 目覚め イエスという男の話と歴史を伝えるようになったのです。
それはおかしい、少なくともマタイオスによる福音にはそんな事は書かれていない。
以上。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 (こ) ★ だがピラトスはローマ人だから「ユダヤの神の冒涜」などどうでも良い、
 ☆ これは 舌足らずでした。ユダヤ人有力者らのあいだでは 神の冒涜の罪です。その自分たちの主観的な主張を 内容をではなく 刑死にあたいするという結果としてみとめさせようとしたという意味です。
 
 (さ) すなわち ローマは多神教といっても 皇帝が唯一神のごとき神のようなものでした。だからイエスは カエサルのものはカエサルへ 神のものは神へという解答をあたえたことがあります。だから ローマ人ピラトにとっても 主義主張は違っても まんざら通じない話ではなかったとも捉えられます。というよりも ピラトは イエスは無罪だと思っていたのです。

 (し) ★ だがピラトスは生命の危険を感じていたので、黙るしか無かった、だから「私はこの問題に関わりたくない」と言いました。
 ☆ 民衆が黙っていなかったのを見て 統治じょう ユダヤ人の思わくに従ったのだと見ます。

 (す) 十字架じょうのイエスの死は 息をしているかどうかで ほぼ判定できるのでは?

 (せ) ★ それはおかしい、少なくともマタイオスによる福音にはそんな事は書かれていない。
 ☆ 解釈として述べたのですが ぢゃあなぜ ぼんくらな弟子たちが イエスの死後 人として立ちあがったのでしょう?

 (そ) スィーリング氏の
 ★ その学殖の10%
 ☆ にかんしましては ゼロと見なします。
 万が一 その仮説のとおりにイエスの史実があったとした場合 その意味するところは だからどうなの? という問いに表わされます。

 (た) 神はどんな神か?――つまり ユダヤ民族のための神を 外に開き高いところに揚げ ふるい姿(ふるい契約)は棄てたというときの普遍神の問題―― これは そのふるい神としても律法のモーセだけが 問題なのではなく 信仰のアブラハムがいるからには 避けてとおれない聖書の中身です。
 
 (ち) 面白半分に バーバラ説を持ち出したのだと思っていました。

お礼日時:2015/11/01 16:57

愚かな民衆を惹きつけるのは


大変だったんじゃないですかね

うそも方便ということで

あなたのその神レベルの優しい慈悲のこころで
許してチョンマゲ
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この回答へのお礼

元気 出ますか?

 まづは ご回答をありがとうございます。

 んでも
 ★ 愚かな民衆を惹きつける
 ☆ これは ないでしょう。愚かか利口かは 人間性に決定的には作用しません。

 それに 羊は よき羊飼いをちゃんと見きわめるものです。そう書いてあります。

 ☆☆ うそ
 ☆ は ほんとうは 《想定》だと言いたいのです。神論というものは どうしても《想定》として話を始めなくてはならない。こう考えます。

 たのしい問い求めであったなら よかったです。

お礼日時:2015/11/01 20:00

(ん) 信じるモノは、救われる。

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この回答へのお礼

《ウソ》を信じるのではなく 《普遍神》をなのでしょうが 
 
 ただし 普遍神を信じるというときには 注意することがあると思います。

 じつは その《無条件に心に受け容れる》という意志行為――これが 信じる――をおこなうことはそれを

 そのナゾの普遍神のほうから与えられる という仕組みになっている。霊の問題なのですから。
 
 そうでなければ 普遍神の霊ではなく ただ神という名をつけたものとして人間の思考や想像の産物であるとなります。

 人間が勝手に神をこしらえ これを《信じる つまりこの場合には 思考やその思念において堅く思い込む》といったお遊びにしかなりません。

 と見られます。

 ですから
 ★ (ん) 信じるモノは、救われる。
 ☆ という命題に どこまでそのまま行き着いていてよいか。なお 少しのうたがいが残るのではないでしょうか。

 どうでしょうか。

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/11/02 05:33

(あ)>神の子でありみづからも神であると言ったのです



自らも神だなんて一言も言ってない。
聖書には自分は神だなんて言葉は一言も書いていない。
後世の人間が勝手に解釈しただけだ。

(い)>アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった

そんなことも言っていない。
単に人にはそれぞれ「心」もしくは「精神」がある、と言った。
誰しも生まれた時から善の心、良心がある、それが神の一部だと言っただけだ。


(う)(え)>イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです

そんな話は一言も言っていない。
あなたの勝手な解釈にすぎない
イエスは神がなんであるかを知っていると言っただけだ。
それが人間の良心であり、人間は皆、神から良心というものを授かってるって話しただけだ。
善があるから、愛が生まれ、思いやりや真心で人は社会を創るって話をしているだけだ。

そのいたってシンプルな、当たり前すぎる説明に、
それまで何十年と宗教を研究していた学者や専門家、僧侶は自分達の無知や大ウソ、解釈のいい加減さに気づかされて
大恥をかき、彼に嫉妬し、殺そうとしただけだ。

(お)>神は どんな名であろうと みなまとめて ただひとつであると言いました

別に神に名前はない。人間が勝手に名付けただけだ。日本では「神」、英語では「GOD」
フランス語だったら「DIEU」など、いろんな”名前”で神を呼ぶ。
だが、神様は神様だ。その意味に変わりはない。
世界のどの言語で名づけようと、神は一つでしかない。
世界中のどの人の心にも真心はあり、愛も真実も変わりはない。

人を好きになる、家族を大切にする、わが子をいつくしむ、それに何の違いがある。
これすべて、神が人間に教えた心、良心である。

最後に彼は死んでない、十字架にかけられて生きていた、それも聖書に書いてある。
だから、死ななかったから奇跡と言われたんだ。

命を大切にするってことを人間に教えるために、神がそのような試練をイエスと人間に課した。
そして、命を粗末にした人々と、命を大切にしたイエスとその仲間の功績話が
聖書に書かれているだけのことだ。


キリスト教徒にも、イスラム教徒にも、ユダヤ教徒にも、その他、どんな宗教好きな人間にも
その聖書は読めない。
それをもてあそんで、自分たちの好き勝手に解釈し、それでもって人の命をもてあそぶ、
それがどれほど許されないことか自分で気づかないから、毎年、毎年、血で血を洗うような戦争を続け、
意味もなくお互い殺し合って、生活すらも成り立たなくなっていくんだ。

イスラエルを見てみろよ。
中東を見るがいい。
そこにキリスト教の旗を振って兵士を送り込む欧米人達、
そこに支援金や一部、兵隊を送って金もうけをたくらむ日本人と中国人。

それがうそつきと愚か者の巣窟だ。

うそつきと愚か者のいいなりになって、その言葉通りに聖書を解釈しているあなたも似たような穴のむじなさ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。字数制限のため簡略投法です。

 (あ)については 基本的に ヨハネ福音・冒頭のくだりが間接的に触れています。
 ▼ (1:1) ことばは神であった。

 そして:
 ▼ (マタイ福音 16:20)イエスは、ご自分がメシア(クリストス)であることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 ▼ (ヨハネ福音 4:25-26) 〔サマリアの女の言う《メシア》は 自分のことだとイエスが言っている〕。

 ▼ (ヨハネ福音 14:6-14) ~~~~~~~~~~
  イエスは言われた。

  「ピリポ、・・・
   わたしを見た者は、父を見たのだ。
   ・・・
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、
   信じないのか。
   わたしがあなたがたに言う言葉は、
   自分から話しているのではない。
   わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、
   わたしが言うのを信じなさい。
  ~~~~~~~~~~~~~~~
 
 それに イエスが神の子だという趣旨を聞いて 大祭司カヤパは 神の冒涜だと言いました。(マタイ福音26:63-66)

 (い)は 《神の一部》でよいわけです。

 (う)は (あ)の問題です。

 (お)は ★ 世界のどの言語で名づけようと、神は一つでしかない。
 ☆ ということに尽きます。
 また:
 ▼ この杯をわたしから取りのけてください。しかし・・・御心に適うことが行われますように。(マルコ福音14:35ー36)
 ☆ は 死を死ぬことを言ったのでは?

 マルコ8:31には そのあとの復活のことにも触れています。
 あるいは こうイエスが言っています。:
 ▼ (ヨハネ福音16:7) もしわたしが去って行かなければ、助け主(パラクレート:弁護者・聖霊)があなたがたのところに来ないからです。

 あと 130字ほど余しましたが さらにツッコミをどうぞ。

お礼日時:2015/11/02 10:11

>(あ)については 基本的に ヨハネ福音・冒頭のくだりが間接的に触れています。


>▼ (1:1) ことばは神であった。

愛を表わすのに人は言葉を使う。
人類が愛や真心を示す最たる手段は、言語だ。
神は動物には動物の言葉を、人には人の言葉を授けた。

人は言葉によって感動し、言葉によってしつけられ、言葉によって愛=神を知る。
言葉以外で神を知る術が人間にはない。

だから、イエスは人々に話した。
話さなければ、神を知ることが人にはできないから。
彼が語らなければ、人は神がなんであるかを知らないままになる。
だから、神はイエスをこの地上に送った。
その生命を与えて、その口に言葉を宿らせた。(エレミア1:9)
どの預言者もそうやってこの地上に生まれ、神を伝えるために預言者となった。
イエスも同じだ。
天使とは、天からの使い、神というものを、その救いというものを人に教える「人」のことだ。



 >▼ (ヨハネ福音 14:6-14) ~~~~~~~~~~
  >イエスは言われた。
>「ピリポ、・・・
   わたしを見た者は、父を見たのだ。
   ・・・
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、
   信じないのか。
   わたしがあなたがたに言う言葉は、
   自分から話しているのではない。
   わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、
   わたしが言うのを信じなさい。
  ~~~~~~~~~~~~~~~
 
エレミアも神から預言者を命じられた。
その時、エレミアは言った
「ああ、わが主である神よ。
どう話していいのかわたしにはわかりません。
わたしは何の力もない子供のような者です」
「力がない子供みたいだ、などと言うな。
おまえはわたしが送るどこへでも行き、わたしが命じるすべてのことを話せ。
人を恐れることはない。
わたしがいつでもおまえのそばにいる。
そしておまえを必ず救ってやる」と神はおっしゃった。

そして、神はエレミアの口にその御手を置かれ、こうおっしゃった。
「おまえの口にわたしの言葉を置いた。
ほら、本日、ただいま、おまえはこの地上のありとあらゆる国々、王国という王国を
ひっくり返し、ぶっ壊し、ひっかきまわしてもう一度、再建し、
新たな社会を作り上げる者としておまえを指名する」
(エレミア1:6-10)

人の心に神の良心が宿るからこそ、その言葉は誰にも反ばくができない強い信念となる。
その言葉に人は神の声をみるからこそ、人は口答えもできないし、
どれほどの嘘つきでも、盗人でも、罪人でも太刀打ちができなくなるのだ。

真実に勝る言葉はない。

それが神である。神の言葉である。

その言葉にすら反論し、封じようとする無恥無謀な愚か者たちがいたからこそ、
イエスは十字架に架けられた。
死人に口なしと考えた愚か者たちは、イエスが語る神の話を怖れ、
自分たちが築いた宗教権威が見るも無残に崩されるのを嫌がって
僧侶や宗教学者、政治権威者たちはイエスを殺そうとした。

自分たちの説教や宗教学説よりも彼の言葉に真実があったから。

神は良心である、神は心である、神は精神である。(ヨハネ4:24)

たったそれだけのシンプルな教えが、いかに今まで築き上げた宗教権威やルールが無意味なものかをすべて語っている。

教会に行く必要もなければ、
お布施をする必要もない、
自分の宗派を守るために戦争をする必要もなければ、
宗派のルールに従って食事や服装を決められる必要もない。

単に人間にはみんな、生まれたときから神がいる、その心の中に。

愛がある人には神がいる。家族を大事にする人には神が救う。
反対に嘘をつき、人を恨み、人を殺す人に神は宿らないし、助けもしない。
いずれはその人生をその歩んだ経歴に基づいて報いが来るだけのこと。
因果応報。
それが古今東西、人類が誕生して以来、変わらない普遍的な宇宙の原則である。

それを伝えるためにイエスはある時期、神からこの地上につかわされた天使であり、預言者である。

そして、彼は十字架にかけられたが、死ななかった。
嘘つきで傲慢な、人を死に追いやることすらいとわない”人でなしの心ない”宗教学者や僧侶たちが
こぞってイエスに向かって「死ねっ!」といった。
だが、彼は死ななかった。
だからこそ、僧侶と宗教学者は負けたのだ。

神に逆らい、神の使いを侮辱したがために、
地球上のすべての国々にその恥をさらされた。
おまえたちは無知である、と神から宣告されたのだ。
そうやって彼らが恥をかいた記録が数千年たって今もなお、人々の間に語り継がれている。

それが神が彼らに課した永遠に決して消えない罪の証拠である。
死んでもなお、消えない罪の記録。
数千年たっても、その名と人生とともに彼らの無恥さが人々にののしられ、
さげすまれる。
神に逆らった阿呆だと。肉体を滅ぼされてもなお、人々からその墓に唾を吐かれるのだ。
それが神に逆らい、神の言葉を持ってきた人に対する無礼を働いた罰だ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ 神は良心である、神は心である、神は精神である。(ヨハネ4:24)
 ☆ こんな聖句はありましたっけ?

 ★ 因果応報。 
 ☆ は ウソです。ヨブ記が 懇切丁寧にそのウソの中身を説明しようとしています。

 言いかえると  仮りに善因善果および悪因悪果のごとき経緯があったとしましょう。
 しかもそれは そう見えるだけです。

 そのひとつの筋としての因果関係を捉えただけの話です。
 さらにしかも それをただ人間が人間の目でそう捉え あたかも裁判での判決とでもしたように思っているだけです。

 問題は 良し悪しという価値判断にあります。事実関係だけの話ではなくなるという意味です。

 言いかえると ひとりの人の主観の内では 成り立つのかも分かりません。
 と同時に 主観の内では 何でもが――どんな因果関係の筋でも 良し悪しの判断にとって都合の良い要素要因だけを取り出せば――成り立ち得ます。

 要するに ひとは 善悪を裁くものではありません。事実関係をめぐって 歴史の認識としておのれの見解を推し出せばよいだけです。


 ★ それ(因果応報という宇宙の法則)を伝えるためにイエスはある時期、神からこの地上につかわされた天使であり、預言者である。
 ☆ いいえ。普遍神を指し示すために――そしてその真理によるめぐみのことを伝えるために――送られたのです。

 しかも 天使でもなく預言者でもありません。
 神の子でありみづからも神である存在です。という想定が 聖書ではなされています。



 《かれら》は何をしているか知らないのだから とは考えないのですか?

お礼日時:2015/11/02 22:50

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