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教会で賛美歌を歌ってる人達にはイワシの頭ではないにしても、それ以外の一般人にとっては奇跡を説くイエスキリストなんぞイワシの頭に過ぎないのではありませんか。

A 回答 (11件中1~10件)

何を言っているんだあなたは。


万物の根源を崇拝しておきながら、イワシの頭を馬鹿にするな。
人間は、聖書や教義を作ることは出来ても、完全なイワシの頭を一つたりとも作ることはできないのだ。

イワシの頭は、宇宙の法則、万物の根源、アルケーの神に従って創造されたものだ。イエスキリストなんぞの教義とは格が違う。
そうだろ。
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#8です。



>宇宙の根源的原理が神の意志と理解すればよいのです。
これで何の問題もないではありませんか。

基本的には、おっしゃるとおりです。
しかし、あくまで

象徴として、あるいは、比喩として

でなければならない、と思います。
「宇宙の根源的原理」と認識する場合、そこに意志が存在しないことは、容易に人びとの理解に耐えるでしょう。
しかし、「神の意志」と認識すると、「人格神」として意志を持っている、というニュアンスが急激に濃厚になってしまうと思われませんか。
また、聖書もコーランも、そう信じさせるような方向で記されているのであはないでしょうか。
そこに諸悪の根源のひとつが潜んでいる、と私は思います。
なぜ悪となるかといえば、それは真理ではないからではないか。
このようにも思っています。
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★(№5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~


 >1. 聖書はすべて物語ですよ。

キリスト教はその聖書が活動舞台であり、キリスト教の全てはその聖書の上で演じ
られています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ローマ教会を初めとする・オシへを戴く宗教つまりキリスト教とそしてイエス
がキリストを超えて普遍神を指し示したその信仰とは 別です。

★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >2. 聖書記事は おおむねタトヘによる表現です。

タトヘであれ何であれ、そのことを意味しています。
そのタトへが中身であり、内容であり、その全てである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ オシへを信じよという宗教とそして普遍神の信仰とは ぜんぜん別。

★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >5. ラザロが死んで一たんすでに埋葬されており四日も経ったところで イ
 エスが 起きて出て来なさいと言ったら 起き上がって出て来た。
 ――これは 表現の脚色はともかく すでに墓の中にほうむられたあと生き返る
 という事例は 世界は広いもので いくつか報告されているようです。よ。

これは宇宙の法則に反することであり、絶対に有り得ない無いです。
これだけでイエスキリストは大嘘つきであり、ペテンであることははっきりしてい
るのです。
カルトの印です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 知らないなら 仕方がない。

ただし 人間イエスが自分を神の子キリストであると言ったのは 大嘘です。


★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >7. いまひとつは 例の水上歩行という話。弟子たちがガリラヤの湖で漁を
 していたとき大嵐に遭ったがそこへイエスが水の上を歩いてやって来て 《わた
 しだ》と言ったという話。

これは今風に言うと空中浮揚のことである。
いまどきこんなことをやらかすとたいがいは刑務所行きとなり、そこで臭いメシを
喰らうことになります。
これはカルトの考えることであり、既に前例が出来ています。
日本では皆が知ってる話なんです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ タトヘだと言ってんぢゃん。弟子たちの心にイエスが拠りどころとなっていた
ことを 物語にして・脚色して話をネツゾウしているだけのこと。大嵐に遭ったこ
とは おそらく事実なのであろう。それだけのこと。
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#3です。



>なぜ神と言ってはダメなんでしょうか。
>「万物の根源」「根源的原理」であれば、これを神と呼んでよいのではありませんか。

象徴的に
または、
比喩的に
そう呼ぶのは構いません。
しかし、「万物の根源」「根源的原理」に意志、つまり恣意性がないことは自明のことですし、それはhitonomichi34さんもご存知のはずです。
また、そこが重要なのではないですかね。
ところが、
「アルケーという神」
「ヤハウェ(あるいはキリスト)という神」
etc.を想定することによって、
それぞれの神は意志を持つことになる、または、そのように錯覚する、あるは、そのように錯覚させるわけです。

神に意志があるのであれば、その神を信仰している「我」は選民ということになる。
こうした真理誤認を招くゆえ「ダメ」と言って良いように思うわけです。
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この回答へのお礼

>それぞれの神は意志を持つことになる、

宇宙の根源的原理が神の意志と理解すればよいのです。
これで何の問題もないではありませんか。

お礼日時:2016/01/24 21:59

ちゃちゃを入れます。


イワシの頭は信仰と云うよりも信心でしょう。そこに精神的な真理や哲学はないでしょう。
大乗仏教では、仏教で示す精神的な真理は簡単には理解できないであろうから、その代案として説話や曼荼羅で説明して理解させる。これでも理解出来ない人には念仏とその功徳を説いて導くとします。そこまで人間を厳しく見つめています。
キリスト教はそこまで人間に対して露骨ではないので、教会で説法を聞き、神を讃える歌を詠い一体感を保つのでしょう。
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イエスは奇跡を説いたわけではありません。

「あなたが真実為に、この奇跡を起こしたのです」と彼は言います。

イエスの説いた教えの内大事な教えは「神を愛せ」「隣人を愛せ」「敵を愛せ」等です。

もしこの教えを守っていたら。世界はとっくに理想世界、平和で活力のある世界になっていたことでしょう。

鰯の頭も信心からと言うのは 鰯の頭でさえも信心すれば役に立つ、まして況やイエスをや という事です。
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1. 聖書はすべて物語ですよ。



2. 聖書記事は おおむねタトヘによる表現です。

3. はじめに神が天と地をつくったと言っても 別にそれを見て来たとは言って
いず そのように――人間の言葉で――表わすとよいのではないか。というのが聖
書記者のこころです。

4. 《奇蹟》をふたつ取り上げて吟味してみましょう。

5. ラザロが死んで一たんすでに埋葬されており四日も経ったところで イエス
が 起きて出て来なさいと言ったら 起き上がって出て来た。
――これは 表現の脚色はともかく すでに墓の中にほうむられたあと生き返ると
いう事例は 世界は広いもので いくつか報告されているようです。よ。

6. ということは そんな単純でよくある話なのに イエスがペテンをはたらい
たと言えるような書きっぷりであると同時に イエスはラザロが生き返るというこ
とをヒラメキで知っていたのかも知れない。と受け留められます。

7. いまひとつは 例の水上歩行という話。弟子たちがガリラヤの湖で漁をして
いたとき大嵐に遭ったがそこへイエスが水の上を歩いてやって来て 《わたしだ》
と言ったという話。
――これは きわめて単純なタトヘでしょう。弟子たちが おのおの心の中でイエ
スを拠りどころとしていた。というだけのことです。

7. そういうふうにイエスは その存在が神の子キリストであると受け容れた人
びとにとっては イワシノアタマ信仰となっています。ただし教会やオシへは関係
ないですよ。
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この回答へのお礼

>1. 聖書はすべて物語ですよ。

キリスト教はその聖書が活動舞台であり、キリスト教の全てはその聖書の上で演じられています。

>2. 聖書記事は おおむねタトヘによる表現です。

タトヘであれ何であれ、そのことを意味しています。
そのタトへが中身であり、内容であり、その全てである。
 

>5. ラザロが死んで一たんすでに埋葬されており四日も経ったところで イエス
が 起きて出て来なさいと言ったら 起き上がって出て来た。
――これは 表現の脚色はともかく すでに墓の中にほうむられたあと生き返ると
いう事例は 世界は広いもので いくつか報告されているようです。よ。

これは宇宙の法則に反することであり、絶対に有り得ない無いです。
これだけでイエスキリストは大嘘つきであり、ペテンであることははっきりしているのです。
カルトの印です。


>7. いまひとつは 例の水上歩行という話。弟子たちがガリラヤの湖で漁をして
いたとき大嵐に遭ったがそこへイエスが水の上を歩いてやって来て 《わたしだ》
と言ったという話。

これは今風に言うと空中浮揚のことである。
いまどきこんなことをやらかすとたいがいは刑務所行きとなり、そこで臭いメシを喰らうことになります。
これはカルトの考えることであり、既に前例が出来ています。
日本では皆が知ってる話なんです。

お礼日時:2016/01/24 21:30

2000年続いたオウム真理教ですね。



2000年続けば、麻原尊師だって、
キリストになれます。
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この回答へのお礼

2000年続こうが、3000年続こうがカルトはカルトである。

お礼日時:2016/01/24 21:40

イワシの頭もキリストも信仰の対象である、という、その一点において同等の立場を有していると思います。


いつも、おっしゃっておられるように、
「万物の根源」「根源的原理」を意味する アルケー という概念こそが本質だと思います。
この点では、おそらく、お考えに極めて近いと思っています。
ただし、「アルケーの神」と言ってしまうと、これまたマグロの頭ぐらいになってしまうような気がするんですよね。
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この回答へのお礼

>ただし、「アルケーの神」と言ってしまうと、これまたマグロの頭ぐらいになってしまうような気がするんですよね。

なぜ神と言ってはダメなんでしょうか。
では神は何なのでしょうか。


>「万物の根源」「根源的原理」を意味する アルケー という概念こそが本質だと思います。

「万物の根源」「根源的原理」であれば、これを神と呼んでよいのではありませんか。

お礼日時:2016/01/24 21:14

「鰯の頭も信心から」と言う事ですか。


それにも達していないと思いますよ。
早い話が一人或いは少数の集団で多くを操ろうとしている集団催眠手法でしょう。
昨今増えている日本国内の新興宗教も同じ穴の狢でしょう。
オーム真理教の様なテロも集団の上部の者達にとって必用と正当化する。
そう言う事でしょう。
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この回答へのお礼

イエスキリストは奇跡を行ったと吹聴した結果、ナザレの村の風紀を乱した罪によりローマ軍に捕らえられ磔の裁きを受けた。
オウム真理教の教祖は空中浮揚できたと主張したが警察に捕まり、今は刑務所の中で臭いメシを喰らっているという。
時が過ぎ、時代が変わろうと人の考えることは同じであり、斯くして歴史は繰り返すのである。

お礼日時:2016/01/24 21:40

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