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(あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。

 (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。
 つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。

 (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。

 (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。




 (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと みなまとめて ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。

 (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。

 (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。



 (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば――《特異点》を見た思いである―― ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。

 (け) しかも やがては 名の違う神どうしの――または同じ名の神どうしでもの――ケンカは もう用無しとなるはずである。みな われがわれに還る。そのために 大嘘をついた。イエスという男。
  宗教のオシヘは――《無い神》という名の神を奉じる無神論なるオシへについても―― どうでもよい。のです。普遍神をさししめした。

質問者からの補足コメント

  • ご回答をありがとうございました。

     お礼欄をおぎないます。
     ☆☆(№12お礼欄 末尾から三つ目の段落) ~~~~~~~~~~
     賛同者がいくら出ても その非知なるナゾは じつはその多数の主観どうしにおいて互いに同じ神であるかどうかは ついぞ分かりません。検証のしようがないのです。つねに ナゾにとどまります。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     ☆ もしここで《ナゾとしては 共通であるではないか?》と問い返されたら こう答えます。
     《その共通なるナゾこそが 非知なる普遍神なのです》と。

     つまり 普遍神のもとでは 少数派工作は効かないですし オシへではないので分派することはあり得ません。
     
     これをイエスがつたえようとしました。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/03 10:25
  • プンプン

    (№23お礼欄よりつづく)

     ★ パウロの言葉を信じてキリスト教徒になるか、それとも、
     ☆ つまり《わが心に〈非思考において〉受け容れる――信じる――》のは 普遍神のみ。

     パウロは 《宣教という愚かな手段》を用いただけです。

     ★ そんな「新しい契約=新約」
     ☆ エレミヤ書の聖句を無視している。これが ネツゾウとしての出べそ。

     あんた クリスチャンでもなければ 聖書を信頼してもいない。な。

     引用箇所にしても こちらの説明にしても 省エネ投法です。あしからず。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/07 08:53
  • №26のお礼欄への書き込みが 消えています。

     ふたたび書き込もうとすると エラーが発生したと出ます。

     戸惑い中。

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/08 06:41
  • 回答№26へのお応えです。

         *

     すべて 出べそ発言です。


     ☆☆(№25お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
      №24で問うた(あ)と(う)の問いが まだ答えられていません。
      ★ わたしの解釈や翻訳がねつ造だというんでしょう?
      ☆ そのとおりです。
      ♪負けてくやしい はないちもんめ♪ の歌をうたっているようですから もうそうっとしておいて欲しいということですか?
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


     ご回答をありがとうございます。

      補足日時:2015/11/08 06:46

A 回答 (29件中11~20件)

>コピペーが 《心で読む》ことなのですか?



あなたの解釈には何の根拠もないが、
わたしのはちゃんと聖書に書いてあるという裏付けがある。

それに、コピペではなく、「引用」だ。
だから、ちゃんとどこそこに書いてある文章だという章と項を入れる。
論拠を示す際のお約束だ、ものすごく基本的な。

コピペとは、出典や引用そのものを示さず、そのソースそのものをごまかして
複写して自分が書いたように装うことを言う。

とても基本的な言葉の意味を知らないようだ。

なぜ、イエスが神を愛せと言ったのか?

自分が人生の道に迷った時、正しい道を神に教えてもらうためだ。
間違った道を進めば死をも招く。
正しい道を歩めば安泰だ。

だからこそ、イエスは自分の心のすべてで、頭脳のすべてで、魂のすべてで神を愛せと言った。
(マタイ22:37、申命記6:5)

良心のある者、愛ある者、真実を愛する者を神は愛する。
ゆえに正しい道を教えてくれる。

幸せになりたかったら、心に愛を、平和を、正義を宿せ、
地獄に行きたければ、恨み、つらみ、ねたみ、そねみを心に宿すがいい。

それを人類誕生以来、延々と語り継いできた本、それが聖書だ。

なので、何度も似たような言葉でこう書かれてある。
~Circumcise your hearts(心を磨け)(申命記10:16)


これがこの本のすべての結論だ。
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この回答へのお礼

この問いは われわれがすでに神を愛している
(――そこには 神を嫌い憎んでいるをもふくみます――)という事態から出発しています。

 その但し書きの上でですが
 神を愛するということについて あなたは 間違って認識しています。

 神を愛するも何も――つまり《愛する》には 神を嫌う・憎むも入ります――
 あるいは信仰を持つようになるもみな それは――むろん人間の側の経験的な
 意志行為によって受け取るかたちになるのですが それでもその始まりは――
 神の側からのみちびきによるわけです。恩恵です。

 だからこそ たましいを尽くして心を尽くして力を尽くして
 つねに神の心をどう自己表現すればよいかを――ヒラメキを得ることをつうじて――
 思い考え続けているのです。


 もう主を知れと言って いちいち説きまわる時代ではないのです。
 律法を説くあるいは要するにあなたのように説教をするというのは
 心に罪の意識を起こさせることしか何も出来ません。

 きちんと――たとえあやまとうと自分の言葉で――解釈していないと
 預言ではなく 異言(シャリバリ)であって
 ――自分を向上させうるかも知れませんが――
 人びとにはちんぷんかんぷんです。

 ふるい。よ。

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/11/05 09:41

>人びとは どのように 非思考の庭ではおのが信仰を持ち 思考の緑野(および感性の原野)では 経験的な思想および行動を採るか。

この問題に焦点が移った。
>哲学の中に 神からのめぐみとしてのヒラメキが――それと知られずに――ふつうの思想として含まれている。

言ったはずです。
神は人を選ぶ、と。

いくらあなたの頭でこねくりまわして妄想しようと、勝手な解釈をしようと、
あなたには「理解できない」ですよ、
って言ってます。

だって、聖書は神が選んだ人にしか教えられないんです。

そうダニエルにもイザヤにも書いてあるし、イエスの言葉にもある。

~聖書の言葉は終末の時代まで封じられている。
 多くの者が浄化され、その心が磨かれる。
 だが、悪意ある者は今後も悪意を持ち続けるだろう。
 悪意のある者は誰一人としてこの書を理解することはできない。
 心賢き者だけがこの書を理解する(ダニエル12:9)~

~お前たちにとってすべての思想は無意味だ。
なぜならこの書の言葉は封じられている。
たとえ、この書を読める者にこの書を渡して読んでくれと言っても、
読めないよ、だって封じられているからと答えるだろう。
逆にこの書を読めない者に渡して読んでくれと言っても、
やっぱりどう読むのか知らないとしか答えない(イザヤ29:11)

~聖書の中の預言者たちの言葉にもこう、ある。
 彼らは皆、神によって教えられる(ヨハネ6:45、イザヤ54:13)



哲学の中に神からのめぐみとしてのヒラメキなどありません。
それはあなたとあなたのように哲学を教えだと思っている人達だけの妄想です。

あなた方にはこの書はいくら読んでも読めない。
いくら妄想をはせても、それは無意味です。

心で読む本。それが聖書だから。
そして、心が磨かれていないと読めない本、それが聖書だから。

いくら思想や頭でこねくり回して解読しようとしても、読めない本。
それが聖書だから。
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この回答へのお礼

読めた結果を自分で明らかに出来ていないのに どうして読める・読めないと決めつけることができるのか?

 書いてあることを 右から左へ移しているだけぢゃん。

 コピペーが 《心で読む》ことなのですか?


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/11/04 23:18

>あなたは 人間には自然本性として心があるから 世の中まったく大丈夫だと言いたいのか。


>それとも 人びとはその心に逆らい 心を忘れ もはや心の庭からは遠く離れてしまったではないか と言いたいのか。

人間には両方が混在する。

神(善)に従う人と、従わない人。

別に
何らかの宗教に属している=神(善)に従っている
わけではない。

キリスト教しかり、仏教しかり、ユダヤやイスラム教もしかり。

巷をにぎわせる、バチカンの僧侶が買春してたとか、
日本の宗教家が政治家に賄賂を贈って権力を買い占め、自分たちの都合のいいように法律を書き換えたり、
金もうけの道具にしているとか、
別に宗教=神(善)ではないことはこのようにまぎれもない事実である。

なので、宗教≠神(善)、とわたしは思う。というより、事実だ。
そこに神(善)が存在するなら、これほど腐った組織はできないはずだから。
社会も同じ。

だからと言って、全員が全員、良心のない人達ばかりではない。

ノアが生きた時代も似たようなものだった。
皆が皆、腐って怠け者だったわけじゃない。少なくとも、ノアとその家族は心ある人間達だったのだ。
だから、地球は存続した。

その後も、似たような状況は続いた。

人間は何度も神(良心)に逆らい、己を滅ぼし、それを残った者が教訓として覚え、
反省し、また、神(良心)に戻り、
また、その時代を忘れて失敗し、再び悔いて身をもって実感して
神(良心)に戻り、
また、それを忘れて調子をこき、身を滅ぼす。

だからと言って、人類のすべてがそうだったわけじゃない。

最悪な時代を生きながらも、人々の間には決して神(愛や善)を失わない人々は必ずいた。
その人達の心が伝え続けた本、それが聖書だ。

~その時、神を恐れる人々がお互い話し合ってその声を神は聞いた。
神の御前で神を恐れ、敬う人達がどうなったかについての記録の書が書かれた~(マラキ3:16)

最悪な時代であっても、荒んだ社会であっても、
その中で神(良心)を忘れず生きる人々は、必ず輝くし、必ず奇跡を起こす。

それが聖書が永遠に語り継がれる所以である。
人類の希望の書、それが聖書だ。
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この回答へのお礼

問いは:
 1. すでに人類は普遍神の時代に入っている。それは イエスが十字架上に去って行ったときに――エレミヤ書31:31以降に預言された《あたらしい契約》が成就し―― 始まった。
  ・・・この想定について 見解を尋ねています。

 2. 言いかえると 必ずしも:
 ★ 人類の希望の書、それが聖書
 ☆ の問題ではなく――つまり その焦点が大幅に移って行き―― その旧約のアブラハムの頃からの信仰の歴史としての内容を 外に開いて神がいかなる名で呼ばれているかに関係なく・また いわゆる宗教のオシへはすでにまったく要らなくなったところで 人びとは どのように 非思考の庭ではおのが信仰を持ち 思考の緑野(および感性の原野)では 経験的な思想および行動を採るか。この問題に焦点が移った。
  ・・・この見方について 問うています。


 ☆ 言いかえると すでにやり取りの中で述べましたように そふぃあろんどんさんが こうして明らかにして述べた内容については ふるい。マチガイがありましたが 持ちこたえるところは それでも ふるい。
  ・・・こういう見方に立って 問いを掲げていますと何度も説明して来ています。

 ということは いまここに到れば (1)(2)の問い求めをしっかりと踏まえて回答を寄せていただきたい。こう考えます。
 すなわち:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >あなたは 人間には自然本性として心があるから 世の中まったく大丈夫だと言いたいのか。
  >それとも 人びとはその心に逆らい 心を忘れ もはや心の庭からは遠く離れてしまったではないか と言いたいのか。

 人間には両方が混在する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という問題ではないのです。問うたのは 混在という見方がはっきりしないばかりか そのどちらとも見分けがつかない議論をしているという点です。混在の見方に立つならば ただちに(1)(2)に戻ってください。
 と何度もお伝えして来ているのです。

 独自の見解を述べて批判することは歓迎ですが 話がかみ合っていないのです。
 哲学の中に 神からのめぐみとしてのヒラメキが――それと知られずに――ふつうの思想として含まれている。そういう議論をすすめて行く時代ですよと問いかけています。

お礼日時:2015/11/04 08:15

>人間の自己表現に過ぎない命題を ただ勝手に神に関係させているだけなのです。


>人間は そういう相対的な・朽ちざるを得ない存在であることを知りなさいというのが ヨブ記のテーマです。

人間だけが賢い、人間だけが神を知っていると思いあがってるから、そう思うのです。

犬でも人を助けます。
ハーネスをつけた盲導犬は餌がなくても、主人を守ろうと仕事をします。
自分の命すら投げ出すこともある。

ネコでも赤ん坊をあやします。
鋭い爪でひっかいたりもしません。

これすべて、心があるからです。

心があるから家を守る、仲間を大切にする、人やものを愛する、それが正しいことと
人も、動物も、知っているからです。

動物園にでも行って動物の群れでも見てみなさいな。
動物には動物の秩序があり、ルールがあります。

それを全員が守っています。
でないと、お互いを守れない、生きれないと思っているからです。
お互い、仲間を守り合うことが自分も、相手も生きて幸せになる、正しいことだと動物も心で理解するからこそ
その通りに従います。
どんだけ子供の頃はやんちゃをしていても、大人になればそのルールに従う。

人間も同じです。

社会の中で生きていくには、お互いの秩序を保つことが正しいことだと心で理解します。
いいこと、悪いことは自然とわかる。

それが善悪の判断です。
親がこうして善悪を判断しなさいといちいち説明し、言葉がわかってから理解するのではなく、
単に「ダメ」と怒られたり、そういう表情を見ると子供は、赤ん坊でもそれはいけないことだと理解します。
逆に笑って褒められたら、それを喜び、自信を持ちます。それがいいことだと理解するからです。

人の心に良心があるからこそ、神の一部である善が備わっているからこそ
それに従って人は生きるのです。

それに従わず、くそばからしい人間の妄想でできた哲学とやらであーだ、こーだと理屈をこねくり回して
人間は生きているわけではありません。

少なくともあなたの言葉は世間のほとんどの人には通じません。

別にイエスを大うそつきだという「主観」を持つことはあなたの勝手ですが、
あなたの大ウソをこれが聖書の正しい見方だと他人に押しつけるようにして主張するのは
おかしいと思ったから、反論したまでです。

そして、あなたの主観にはまったく根拠がないことを聖書で持って反論したまでです。
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この回答へのお礼

反論する自由は むしろ反論や批判を受けることを織り込んで質問をしているわけでもあるのですから まったく わたくしのとうとび守るところです。

 今回は このことをお伝えすれば よいはずです。


 ご回答をありがとうございます。



 これだけではさびしいかも知れませんので もう一言。

 あなたは 人間には自然本性として心があるから 世の中まったく大丈夫だと言いたいのか。

 それとも 人びとはその心に逆らい 心を忘れ もはや心の庭からは遠く離れてしまったではないか と言いたいのか。

 ・・・

お礼日時:2015/11/03 19:38

≫ ☆ というおよそ一般的な見方考え方であっても 手放しでは賛同しがたい。



 そういうことなのだと、思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

 哲学ですので 七面倒になってでも そう考えるということをしるしました。

お礼日時:2015/11/03 16:18

× ソレは、ソレを正目期できるのは、アナタ自身のモノでしかない。



○ ソレは、ソレを証明できるのは、アナタ自身でしかない。
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この回答へのお礼

主観は 感覚にしても理念のようなものとしても かなり強固なものがあるかと思います。

 なのでその主観としては 証明されていてもはや自明であると思っている場合もあるかも知れません。

 でも 残念ながら じつは 自分でも証明できたというようなことは ほとんど無いのではないかと思います。

 
 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/11/03 16:17

交わる事のない、主観の元で生きる我々は、我々の生は、アナタは、アナタの生を生き、僕は、僕の生を生きる。





≫人間が勝手に神をこしらえ これを《信じる つまりこの場合には 思考やその思念において堅く思い込む》といったお遊びにしかなりません。

お遊びであるか?無いかは、それぞれが決め、そのそれぞれの価値の元で、神は 在 り 、、、または 無 い の、だ、と、思います。



≫なお 少しのうたがいが残るのではないでしょうか。

どの? 生 を、生きるのか?は、それぞれであり、様々である。

ただ、交わる事のない、主観を交えようとして、出来たもの、、、 言 葉 は、神なのかもしれません。


今、ここ、 の、接点として、存在する、ソレゾレの 主観 は、在ると言えば在り、しかし、ソレは、ソレを正目期できるのは、アナタ自身のモノでしかない。

アナタ自身が証明できるのは?アナタ自身に対し、アナタ自身しか?証明は、出来ない。

我思う故に我有りとは、思わない。
しかし、  独生独死独去独来

本能が壊れることにより、生まれた、我々の生の一部として存在する主観の、或いはお遊びの中?疑いの中?或いは、神を造り、神を殺し、僕は、僕の、アナタは、アナタの、只 生を、生きる。

合唱。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ☆☆(№8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 じつは その《無条件に心に受け容れる》という意志行為――これが 信じる――をおこなうことはそれを

 そのナゾの普遍神のほうから与えられる という仕組みになっている。霊の問題なのですから。
 
 そうでなければ 普遍神の霊ではなく ただ神という名をつけたものとして人間の思考や想像の産物であるとなります。

 人間が勝手に神をこしらえ これを《信じる つまりこの場合には 思考やその思念において堅く思い込む》といったお遊びにしかなりません。

 と見られます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり――議論の問題ではなく 《信じる》に行き着くとおっしゃるときの注意点について触れようとしているのですが―― 《お遊び》だというのは 《思考や想像の産物》として神を捉えている場合という条件がついています。ということを 考慮に入れていただくとよいのでは?

 ですから 提出された《信じる》説について:
 ☆☆ なお 少しのうたがいが残るのではないでしょうか。
 ☆ というのも 同じ場合です。

 つまり 単純には(無条件で)
 ★ アナタは、アナタの生を生き、僕は、僕の生を生きる。
 ★ どの? 生 を、生きるのか?は、それぞれであり、様々である。
 ☆ というおよそ一般的な見方考え方であっても 手放しでは賛同しがたい。

 どうでしょうか。

 世界は主観から成り そこには自由主観しかなくもしくは主観自由でしかなく その主観が互いに互いをとうとぶ この地点から〔世界は・またわれわれの生も〕始まっている。といったお考え〔として受け取ったもの〕については 見解を同じくするところです。

お礼日時:2015/11/03 12:46

>《こころ》は 残念ながら 経験事象です。



いいえ、「心」は最初から存在するものです。

存在するからこそ、この地球と宇宙は規則正しく「動く」のです。

心がなければ動きません。

人も同じ。

想像して、経験して動くのではなく、人は正しいことを正しいと認識しているからこそ
動くのです。
親からどう教わるわけでもなく、
ある日突然、赤ん坊が立って歩くのも、
人として正しい、そうやって生きていかなければいけないという心があるからこそ、
人は独り立ちするわけです。

神(善)というものを知っているからこそ、親にダメ、危険だ、と言われたら
人はその判断を自分の心で行うのです。

理にかなった、理性ある言葉を受け入れ、人は成長していきます。

経験はあくまでその理性ある言葉の積み重ねでしかありません。
段階を経るごとに理性を理解できるレベルが上がるだけのことで、最初から人には「心」があるので
その心に従って生きているだけのことです。

ところが、中には経験を経るごとに人は妄想を膨らませ、他人の妄想の言葉にも惑わされて
本来持っていたはずの「人の心」を失います。

あなたのおっしゃるような、人の妄想でしかない妄言的な宗教や世迷言に騙され、うつつを抜かし、
本来の善の心を忘れます。

そうして悪の道をたどりだす。人の道に迷いだす。

その迷い道の案内人がさらなる宗教家や僧侶であれば、ますます人は迷い込み、滅亡の道をたどります。

でも、正しい理性ある真実の言葉を話す案内人が迷い人に道を教えると、人は正しい道に戻ることもできる。

だから、イエスはこの世に生まれた。
その案内人をするために。

神(愛や善)に戻れ、(ヨエル2:13)と人々に伝えるために。

社会が荒れ狂い、世の中の多くの人が飢えや悲しみに苦しむ、それは人の心が荒んでいるからです。
愛や善の心を失い、我が利我が利と我利我利亡者と化した時、人は同じ仲間の人を食みだす。

人類滅亡とは、神がするものではなく、人が人を殺し合って人を追い落とそうとする地獄を自分たちが創るからです。
それもすべて人々の妄想から始まる。
あの国が攻めてくるかも、あの人がわたしの仕事や利益を奪い、わたしだけが損をするかも、
そうやって人を憎み、人をうらみ、人を殺す。

その憎悪の地獄を創るのは私達、人間の心が神(愛)を失った時です。

ヨブ記にこんな話が書いてあります。

「人間がいかほどに神より偉いのか?

神はこの宇宙と地球を統括している。
日が差すのも神のおかげなら、地球が海にのみこまれるわけでもない。
神はいくらでも雨や雪を降らすこともできれば、この地球と宇宙をひっくり返すこともできる。
でも、そういう悪意を神は持たないからこそ、私達、人間はつつがなく日々を過ごすことができる。
人はいくらでも勝手な欲を持つ。
あれをしてくれ、こうあってほしいと神に文句や不平を言う。
だが、神はどの人にもそれぞれの人生を与える。
それぞれ一人ひとりの人生に、同じ太陽を照らしてくれる。
必ず一人一人の人生を見続けてくれている。
それが人間にできるのか?

お前に他人の何がわかる?神の何がわかる?」

だからこそ、善人中の善人と言われ、自分ほどいい人間はいない、自分は間違っていないと言っていたヨブですら
自分は間違っていたと神に謝ったのです。

あなたに何がわかる?
あなたも、わたしもたかが人間。この地球を一つも動かさなければ、明日をどうすることも、己の寿命すらも
延ばせない。
それが人間の限界です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございました。

 ★ 人は正しいことを正しいと認識しているからこそ
 ☆ のっけから批判に回りますが この《ただしい》という判断は ただ人間の為すものごとに過ぎないのです。

 限りある能力による相対的な正不正の判定に いかんせん とどまります。

 非知なる神が 絶対としてただしい義だと 想定されたことはあります。
 ですが いまは・あたらしくは 善悪の彼岸といった見方に始まり 義無きを以って義とする・あるいは 無根拠を根拠とする という説明命題に取って代わられつつあります。
 《絶対》とは そういうものです。やはり《非知》なのです。

 言いかえると 《正義や至高の善や慈悲・慈愛あるいは絶対の真理》などをかかげるのは あくまでそのように言う人間なのです。
 人間の自己表現に過ぎない命題を ただ勝手に神に関係させているだけなのです。

 人間は そういう相対的な・朽ちざるを得ない存在であることを知りなさいというのが ヨブ記のテーマです。


 ★ 社会が荒れ狂い、世の中の多くの人が飢えや悲しみに苦しむ、それは人の心が荒んでいるからです。
 ☆ と見てしまうのは ご自分の心が荒んでいるからか またはそうでなくても周りの情況に影響を受けてそのような自己表現をしか為し得なくなっているかです。

 そこへ 神をむやみやたらに持って来ても いかに預言として得られた神の言葉であったとしてもそれはすでに人間の言葉になってしまっているのです。
 だから その神の言葉を持ち出すということは 人間の言葉であるものを神の言葉だとして――または神の権威を笠に着て―― みづからの心を膨れ上がらせようとするに過ぎません。そう言えば 相手は それにひょっとしたらひれ伏すかも知れないとでも思っているだけの心になってしまっているのです。

 もう罪については覚えない 忘れる。(罪はゆるされた)。そして もう神を知れと言っておしえることはない。オシへは要らなくなる。
 ――この二点が エレミヤ(31:31以降)の預かった言葉の意味内容であり へブル書(8章)が引用して確認するところです。
 つまりあたらしい契約のことであり それは イエスが十字架じょうに去って行った出来事をとおして成就されました。

 あとは 人間が互いに 経験思考で話し合って行くということになります。

お礼日時:2015/11/03 12:30

God is Spirit.


聖霊ではありません。心です。善です。
善は善です。

目に見えない、形のない、どこにあるのか、どういうものなのか、人類すべてがまったく知らない
未知なるもの、それが心です。

人にも、この地上に住むありとあらゆる植物、動物にも神が与えた心がある。

家族をいつくしみ、平和を愛し、秩序を保とうとする「心」がある。

それが神が私達、地球に与えた神の一部です。
そして、息(寿命)も与えた。
その息を吹き込むのも、その息を引くにも、神しかできない。

イエスはそのことを知っていた。
自分が神に従ってこの神の御言葉を伝える限り、どれほどの人間が自分を殺そうとも
自分は死ぬことはない。
たとえ一時、死ぬような目に合ったとしても、必ず救いがある。
それを自分が身をもって立証して見せる、わたしはそのために生まれてきた、
そういう意味です。

イエス、ユダヤ語ではヨシュアの名の意味は「神が救う」です。

神が彼に与えた名前とともに、彼は本当に死にかけたけど、生きて戻ってきた。
それを人々は奇跡と呼んだ。
人類すべてに知らしめるために。

神(善)に従った人がどうなるかを身をもって人々に知らしめる使命。
それがイエスがこの世に生まれてきた使命です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

《こころ》は 残念ながら 経験事象です。

 ただし この経験世界を超えたところ――《非経験の場》――を想定することができます。
 
 想像も思考もしますし(たとえば 《あの世》だとかパラレルワールドだとか) そのことを思念としてつよく思い込むことさえをします。
 でもそうではなく 非経験の場は 経験的な知覚や思考や認識やから自由な場の《想定》なのです。

 想定に成るというのは その場が《知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ないナゾ》だという意味です。
 これを――《未知》やまた《知り得ないと知り得た或る種のナゾとしての 不可知》とはまったく別に―― 《非知》と言いますが したがってその結果は 人びとが自由にこの《非知なるナゾの何ものか》について それは有ると見て受け留めたり いやそれは無いとして受け取ったりすることになります。

 早い話が 神は有るとも言えるし 神は無いと言って受け取ることも できます。自由です。
 なぜなら 有る神も無い神も 互いに同等に非知なるナゾであるからです。

 《こころ ないし 精神》は これらのことを知解します。
 ただし 《非知なる非経験の場 つまり 神》については それを想定において受け容れているのであるからには じつは分かっていないのです。

 分かったというのは――つまりおれは神を見たんだとか言うのは―― これも自由ですが あくまでその人の主観の内にとどまるものなのです。
 賛同者がいくら出ても その非知なるナゾは じつはその多数の主観どうしにおいて互いに同じ神であるかどうかは ついぞ分かりません。検証のしようがないのです。つねに ナゾにとどまります。

 しかも わが心には――つまりあるいは 心ぷらすアルファとして―― じつに非知なる神を受け容れた《非思考の庭》が成っています。
 この庭に われわれは それぞれが主観において 言わば神からのメールを ヒラメキとして受け取るかたちになっています。

 この《心+α》としての非思考の庭が 《たましい 霊》のことです。
 たしかに ほかの言語においても ルーアハもプネウマ(またはプシュケー)もスピリトゥスも みな《風 もしくは 息》を表わす言葉から出ています。
 つまり もとは ナゾではなく経験的なものごとを表わしていた。それを 非知なるナゾとして転用したのです。

お礼日時:2015/11/03 10:13

>神の子でありみづからも神である存在です。

という想定が 聖書ではなされています。

なされていません。
勝手にあなたが解釈しただけか、どっかの宗教本の受け売りでしょう。

イエスは神ではありません。
神がこの世に生まれさせた人間です。

人の生命を創るのは人ではありません。

いくら人が頑張ってデザイナーズベイビーを創ったとしても、
その子の寿命や実際にその子が生まれてこれるかどうかは人間には確定できません。

一つの技術として精子を合わせることはできても、それが必ずしも100%成功するとは限らない。

そして、人の人生や人の心はだれにも操れない。

だからこそ、神が存在するのです。

イエスが神ならば、何も苦労して人間に話しかける必要も、
自分に反発し、石を投げ、ののしり、唾を吐きかける人間もいなかった。
重い十字架を背負わされ、茨の冠を上に載せられることもなかったはずです。
彼が神ならば、神が人の心をどうとでも操れたはずです。

でも、彼は人間だからできなかった。

神はそれができる。でも、神は人を選びます。
改心しない、神に逆らう人間を救う神はいません。

だからこそ、イエスを使って神は試した。
イエスだけじゃなく、人類が生まれて以来、何度も預言者たちは地上に降り、
そして人々にこう訴えかけた。

神(善)に逆らうな、神(善や正義)に従え、と。

でも、それに逆らって自分達、人間の方が正しい、神をしのげるはずだと傲慢にも思いあがった結果、
そうした人間がどうなったかについて記録したのが、聖書です。

バベルの塔しかり、モーゼのエジプト脱出の話もしかり、ダビデ王の話もしかり、
イエスの話もしかり。
すべては人間が神(善)に従った場合と、神(善)に従わなかった場合の歴史を描いています。

それが個人レベルだったり、国レベルだったりするだけのことです。

ちなみにわたしが使っている聖書は英語版ですから、日本語のどの聖書を探しても
同じ訳はありません。

GOD IS SPIRIT. spiritは聖霊ではありません。心です、精神です。

勝手な宗教解釈で霊が出てきてるだけで、キリスト教誕生以前から霊など一つも書かれていません。
終始一貫、人の愛や心について書いている本、それが聖書です
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この回答へのお礼

▲ (創世記 1:2) 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の≫ 霊 ≪が水の面を動いていた。

 ▲ 1:2 וְהָאָרֶץ הָיְתָה תֹהוּ וָבֹהוּ וְחֹשֶׁךְ עַל־פְּנֵי תְהֹום וְרוּחַ אֱלֹהִים מְרַחֶפֶת עַל־פְּנֵי הַמָּֽיִם׃
  we-ha-'erez hayitah tohu we-bohu we-chosek 'al-paney tehom we- ≫ ruah ≪  'elohim merechapet 'al-paney ha-mayim.

  https://www.blueletterbible.org/kjv/gen/1/2/p0/t …

 ▲ 1:2 ἡ  δὲ  γῆ  ἦν  ἀόρατος  καὶ  ἀκατασκεύαστος  καὶ  σκότος  ἐπάνω  τῆς  ἀβύσσου  καὶ  ≫ πνεῦμα ≪  θεοῦ  ἐπεφέρετο  ἐπάνω  τοῦ  ὕδατος

 ▲ (Gen 1:2) And the earth was without form, and void; and darkness was upon the face of the deep. And the ≫ Spirit ≪ of God moved upon the face of the waters.




 ▲ (ヨハネ福音 10:7-18) ~~~~~~~~~~~~~
 ・・・
 11: わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
 ・・・
 17: わたしは命を、再び受けるために、捨てる。
 18: だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/11/03 06:11

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