プロが教えるわが家の防犯対策術!

じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が、忽然として近くに現われ、坐つたまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく、兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると、その大男は川の方へ飛び出し、胸一杯息を吸い、喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。このときカエサルは言った。
「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」と。
(スエトニウス『ローマ皇帝伝』第1巻32節 国原吉之助訳 岩波文庫(上)41ページ)

*** *** *** *** ***

カエサルがルビコン川を渡るにあたつて、「大きく容貌のきわだって美しい男」が現れたさうです。これは兵士の一人ですか。また「神々の示現」ならどの神ですか。兵士たちを奮ひ起こすために必要な出来事だつたのですか。

質問者からの補足コメント

  • さきほど仕事から帰りました。今日は疲れたのでもう寝ます。Tastenkastenさんとiacta-alea-estさんの文章は職場で拝見しました。

      補足日時:2016/01/10 22:58
  • 私は通訳の経験がなく、もちろんそんな能力もありません。知らない言葉、未経験の状況などにどのやうに対応してゐるのか、不思議に思へます。書物の翻訳なら調査することもできますが、通訳となれば瞬時に対応しなければなりません。よほど機転のきく人でなければ務まりません。回答番号10のコメントに書いた催しでは、碁のこと知らない人が韓国語の通訳をしてくださるのですが、それなりにわかるやうに話してくれます。もちろん囲碁用語は無理ですけれど。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 08:50
  • うれしい

    今回はiacta-alea-estさんについての質問でしたので、回答番号1をベストアンサーにいたします。みなさまありがたうございました。

      補足日時:2016/01/15 17:51

A 回答 (22件中11~20件)

#12で書き忘れたことがありますので、付け加えて置きます。



日本の歴史の中で、本当に公用語が英語になってしまう危機が一度だけありました。

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1147280 …

に載せてありますので、参考にして下さい。
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この回答へのお礼

>日本人は重光葵がいたことに感謝しても仕切れないほどの恩を感じるべきだと思いました。

この話は初めてうかがひました。そんなことがあつたのですか。まさしく恩人です。

>そのお陰で日本人は相変わらず英語が下手です。でも、それはむしろ喜ぶべきことで、誇らしいことなのだと思います。

希望がわいてきました。ありがたうございます。

お礼日時:2016/01/13 10:02

本当の馬鹿は、公用語や社内での書類を英語にしようなんて言い出だし、漢字自国文字の表記を止めて自国文字だけにしようなんて言い出すんですが、幸運にも日本ではそんな馬鹿が相手にされなかったので人類の貴重な財産が残されていますね。



漢字軸に、ひらがな軸に、カタカナ軸に、アルファベット軸の4次元空間で世界を表記している日本語は、アルファベットだけ、あるいは漢字だけ、あるいはハングル文字だけと言う、1次元空間で生きている生物より桁違いに自由度がある多次元空間に生きているので、やはり日本人だけが残りの民族とは違った異次元の世界に住んでいるのでしょう。次元の低い世界に住む生物は、それより高次元からの作用を見ることも実感することも想像することも出来ない。だから、高次元に住む生物は、低次元に住む生物から神、ないし鬼と呼ばれているようです。

ところで、明治以来のアルファベット表記運動の動機の重要な動機の一つに、西欧の軍事的先進性に魅せられたと言う理由のほかに、私はタイプライターで文字が打てることがあったのではないかと思っております。多分、手書きに比べて遥かに効率の良いタイプライターが、西洋の軍事的先進性を助長しているのだと考えた日本の教養人も一杯いたのではないかしら。

今から考えると、ワープロの実現が、日本語の多次元的な利便性を一気に高めてくれているので、西洋のタイプライターの効用に触れるのも馬鹿馬鹿しくなってしまいましたが、それ以前は、本気でそれをアルファベット表記の根拠にしていた人も一杯いたかと思います。

ここにも人間の未来予測能力が如何に当てにならないかの好例を見ることができるようです。時計のテンプの発明が、波の揺れにも動じない時計を可能にして、一定時刻での星座の位置の観測から、南北でなく、東西の移動位置を同定できるようになって、陸地を見ずに大洋を航海できるようなり、大航海時代の大進歩をもたらした。

あの糞熱い灼熱地獄のテキサスの夏にエアコンが導入され、研究環境が整ったので、札束に引かれた著名な教授方がテキサス大学に留まるようになり、テキサス大学の質が飛躍的に進歩しました。皆、一寸した技術の進歩だったのだけれども、それが社会に決定的な変化をもたらして来たのです。

私は、日本でのワープロの導入が、タイプライター社会の西欧にその利便性で一気に追いつき、さらに、漢字かなアルファベット混じりの多次元空間の日本語の潜在能力を一気に具現化して、神か鬼と畏怖される日本人の出現を実現しつつあるんじゃないかと思っているんですが、どんなもんでしょうか。

だから、ワープロ出現後にまだ、日本の会社で公用語を英語にしようなんて言う奴がいたら気が狂れた痴れ者として、精神病院に入院させられてしまう、そんな世の中に進歩したんじゃないですか。あっ、最近どこかのニュースでそんな痴れ者が出現したっえのを聞いた気がしないでもないでもないですが。


http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1151964 … 『圧縮式室内空気温度湿度調節器の功名』も参考にして下さい。
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この回答へのお礼

毎回興味深い話をきかせてくださり、ありがたうございます。時計やエアコンの内容は、cyototuさんならではです。

若いころは仕事でタイプライターを使用してゐました。時の流れとともに、ワープロになり、パソコンにとつてかはられました。タイプライターが使へないから日本語の文字は駄目だ、なんて発想は本末顛倒に思へます。人間の使ふ文字に合せて機械を改良してゆくのが普通の人の考へです。今の職場でも似たやうなことがあつて困つてゐます。本社から与へられるものを金科玉条としてありがたがり、すべてそれに沿つて行動します。現場作業で使ふ書類は、すべてカタカナ書きで、印字は小さく薄く読みにくくて、商品の順番を倉庫に陳列された順に並べかへることすらできない最悪のものです。パソコンが設置されてゐても、いまだにタイプライターの時代です。

機械と同様、教育についても本末顛倒だつたのではないでせうか。多くの文字を教へるのは時間の無駄だからローマ字がいいのだ、なんて見解がまかりとほつてゐました。便利の良い文字を教へるために教育があるのに、教へるのが面倒だから文字のほうを変へてしまふのは常軌を逸してゐます。かういふ発想がゆとり教育にうけつがれていつたのではないでせうか。

お礼日時:2016/01/13 09:57

#10関連で。



以下ウィキからの引用です。

フクロウ:
「和名は、毛が膨れた鳥であることに由来する、鳴き声に由来する、昼隠居(ひるかくろふ)から転じたなどの説がある。異名として、不幸鳥、猫鳥、ごろすけ、ほろすけ、ほーほーどり、ぼんどりなどがある。古語で飯豊(いひとよ)と呼ばれていた。日本と中国では、梟は母親を食べて成長すると考えられていた為『不孝鳥』と呼ばれる。日蓮は著作において何度もこの点を挙げている。

譬へば幼稚の父母をのる、父母これをすつるや。梟鳥が母を食、母これをすてず。破鏡父をがいす、父これにしたがふ。畜生すら猶かくのごとし

— 日蓮開目抄

『梟雄』という古くからの言葉も、親殺しを下克上の例えから転じたものに由来する。あるいは『フクロウ』の名称が『不苦労』または『福老』に通じるため縁起物とされることもある。広義にフクロウ目の仲間全体もフクロウと呼ばれている。」

西洋ではフクロウは知恵の象徴となっています。学問の象徴ともされ、西洋の多くの大学ではフクロウをシンボルとしているとことを多く見かけます。でも、皮肉なことに、フクロウはスズメやカラスやムクドリと比べてずっと進化の遅れた種類となっているようです。フクロウは捕食者であるために、目が人間と同じように顔の前についているので、利口そうに見えてしまうのでしょう。目が前についていると、獲物との距離が正確に測れるからです。でも、視野が狭くなる欠点があり、その点、被食者の小鳥たちは距離の把握を犠牲にして目を顔の両側に付けて視野を広くしていますね。

近代の非西洋人は西洋文化崇拝の余り、自分たちの文化で作り上げてきた世界のシンボルを簡単に捨てて、西洋人のマスコットを欲しがる傾向にあるようです。

哲学的なネコに付いての私の考察、

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1195082 …

もご参照下さい。
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この回答へのお礼

追加回答をありがたうございます。梟についての情報は初耳でした。我が家は穏健派で熱死状態の浄土真宗ですので、日蓮は読んだことがありません。法華経は岩波文庫で読みました。

>視野が狭くなる欠点があり、その点、被食者の小鳥たちは距離の把握を犠牲にして目を顔の両側に付けて視野を広くしていますね。

私は敵が多いので背後を警戒しなければなりません。うしろに目が一つほしい。さきほども、あほなさんの奇跡のレッスンに反対意見を投稿しました。

>西洋人のマスコットを欲しがる傾向にあるようです。

おつしやるとほり、日本の大学では、梟とか、ラテン語の名文句を教育方針にしたり、西洋崇拝の姿勢があちこちに見られます。叱られさうですが、私はギリシャ文化が好きです。ローマはどうでもいいと思ひますけれど。それからキリスト教よりもユダヤ教に好意的です。鈴木孝夫さんが書いてゐましたが、明治以来、日本語をやめて英語やフランス語を公用語にすべきだとか、漢字を廃止しろとか、カナもなくしてローマ字で書けとか、そんな主張をしてきた者は、ユダヤ人を見て反省せよ、死語となつたヘブライ語を復活させるといふ奇跡を起して民族の独自性を貫いた。もちろんローマ字などではなく、世界のどこでも使用されないヘブライ文字です。

>哲学的なネコに付いての私の考察

拝見いたしました。「猫はこたつで丸くなる」、そのままの世界です。

お礼日時:2016/01/13 01:44

私にとって、賽の河原、という言葉は懐かしいと感じるものがあるようです。


人間は思想によって創られる。私の幼児期の思想は、10歳までに死のう、それが無事だ。というものでした。人間が死んだらどうなるの?と慶応生まれ、寺子屋卒の祖母に、聞いた時、嘘をつかず、欲深な事をせず、生き抜いたら、極楽に行くが。そうでなければ地獄に落ちるといいました。知識のない子共が死んだらと聞くと、賽の河原、にいく。石を積んでは壊れる、の繰り返しになるが、地獄ではない。と言い。また子共は何歳までと聞くと、10歳まで、と答えたのです。
その時私の心は決まりました、10までに死のう、まだ大分あるでした。
10歳になったとき、9っ上の兄が交通事故で死にました。誰もいないのを見計らい、包帯で巻かれ、ミイラ男になって布団に寝せられている、兄貴の死体に添い寝し、かってそうしていたように、胴に手を回した時、感じたのは、鉛のように、重く、冷たい、物体、でした。
夜、月を見上げ、自分が死ぬことは忘れ。俺が兄ちゃんの分まで生きてやるからな。とつぶやいていました。それが私の幼児期の思想でした。
ミノルベの梟は夜の帳が降りてから飛び始める。
歴史と歴史認識の問題でしょうが。賽は投げられた。は遠征軍を率いて帰ってきたシ-ザ-に。軍を率いてオルコン川を越えてはならない、という、元老院、反対勢力の要求を無視し、オルコン川を越える時シ-ザ-が、兵士達に、賽は投げられた(もう、ロ-マを支配するか、反乱軍となるかしかないのだ。)と叫んだ。
歴史認識としては、それくらいでいいのでは。
日韓の政治合意にしても、嘘か本当か解らない慰安婦問題などの何に合意するのでしょう。ラバウルには、朝鮮ぴ-とか、沖縄ぴ-とか一般兵士には関係ない存在として、いた。と水木しげるの漫画にありました。信用できそうな話はそれくらいです。
合意が必要なのは、竹島、が日本領なのかどうかでしょう?合意文書にふくまれない、とは韓国領と認めると言うことでしょうか?
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この回答へのお礼

御回答ありがたうございます。

>賽の河原、にいく。石を積んでは壊れる、の繰り返しになるが、地獄ではない。

子供は単純な繰りかへしはさほど苦にならないのでせう。元の話を読んだことはありませんが、hannya-glさんのお考へのほうが、現実に近いと思ひます。うなづかされる経験談です。

>俺が兄ちゃんの分まで生きてやるからな。とつぶやいていました。

それがよろしいかと存じます。幼少期から深遠な思想をお持ちだつたのですね。

>ミノルベの梟は夜の帳が降りてから飛び始める。

ギリシャではアテナですね。知恵と戦争の神ですから、ルビコン川の場面にも合致します。ホメロスはアテナの枕詞として「グラウコーピス」(梟の目の)を使つてゐます。夜でも、何でもお見通しだつたのでせう。「神々の示現」といふことですので、アテナもふくまれてゐるのかもしれません。

>日韓の政治合意にしても、嘘か本当か解らない慰安婦問題などの何に合意するのでしょう。......竹島、が日本領なのかどうかでしょう?

韓国の問題は面倒ですね。私の地元では毎年日韓親善の囲碁大会が催され、お出でくださる韓国の方はみなさん親日派です。特に女性棋士はチマチョゴリが素敵で、いくらでも写真を撮らせてくれます。韓国人の反日姿勢が全体としてどの程度なのか私ではわかりませんけれど。

民法にも「占有」とか「善意の第三者」とか、実効支配の優位を認める規定がありますが、韓国政府の竹島問題への対応はきはめて現実的です。理想のみの空論いはゆる平和ボケからの脱却といふ面で、現内閣は評価されてしかるべきです。

お礼日時:2016/01/12 23:16

>貧乏暇なしで、さきほど帰宅したばかりです。



いささか働き過ぎでは? 私も貧乏ですが、開き直ってあまり働きません。ただ、今年は仕事をするつもりです。回答も大幅に減らします。

>さういへば先日、ドイツ人のユーモア感覚の御回答を無断で借用して質問を立てました。

2回ほど引用していただきました。率直に申し上げると、昨年来二手に分かれている議論では、私はどちらの側にも立ちませんので、若干困惑する引用ではありました。これは、ここではもう展開しません。

>アーレア(さいころ)が真ん中にくるのがいかにも古典ラテン語らしくて

はい、これもある論文で読んでおります。
In unserem Zitiergebrauch hat sich die Suetonische, dem Griechischen nachgebildete Version „Iacta alea est (esto)!“, „Geworfen ist (sei) der Würfel!“, zu einem spannungslosen „Alea iacta est“, „Der Würfel ist geworfen“, abgeflacht.
(「人口に膾炙した古代の言葉 ― 由来と意味」クラウス・バルテルス著)
Alea iacta estは、平坦で緊張感がないと書いてあります。

>パニックのもとの意味は初めて知りました。

パンとパニックが連想されるというのも、私の解釈ではありません。戦のときの神の顕示や夢との関係については、探せば研究がかなりたくさんあります。

>スエトニウスが現在では消失した何か別の資料を参照した可能性もないとはいへません。

これについても、プルタルコスの方に出てくる、アシニウス・ポリオという人の著作である可能性が高いと読みました。ポリオは、ルビコン川を渡る際現場に居合わせた人で、著作があったそうです。すべて失われましたが、スエトニウスもこれに基づいているらしいです(Die Erwähnung des Asinius Pollio deutet darauf hin, dass sich Plutarch (wie schon Sueton) bei seinem Bericht auf den Augenzeugen Pollio stützte, von dem bekannt ist, dass er ein (heute verlorenes) Geschichtswerk über den Bürgerkrieg verfasst hatte.)。

>アイリッシュダンスの回答をマーブルシットさんがずいぶん喜んでいらつしやいました。

ああいう質問はなかなかないので貴重です。あれがきっかけで見つけたサイトは、資料として貴重です。私は民族音楽の研究もしましたし、民族衣装にも興味があったので、一石二鳥です。

(お話しする機会がなくなると思ったので、一応別に場所を設けてあります。御利用になるかどうかは、plapotiさんの御意思に任せます。私の過去の仕事等につきましては、諸事情からこのようなサイト上には公表できないので、非公開でしか御紹介できないのです。よろしかったろどうぞ。)
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この回答へのお礼

寝る前に少しだけ。いつもながら回答の際に充分な下調べをなさる姿勢には感服いたします。ラテン語のおもしろい語順の感覚のわかる人がなかなかゐないので、ほつとしてゐます。estoが出てきますね。ニュートラルさんは住所を教へてくださつたので、手紙を書きます。私はアナログのほうがやりやすく感じます。

お礼日時:2016/01/12 00:24

ご無沙汰です。

気まぐれに参加します。
でもプラポさん忙しくなってネットしなくなるの?
私もめちゃ忙しい。業務は増して、休みは疲れて家の用事をするのが精一杯。
絶対哲学カテで一番知能が低い私を良く言ってくれはったり、めっちゃ嬉しかったし、
めっちゃ癒されて、勉強とか啓発になってくれた存在だったので寂しい以上に惜しいです。

宣伝や噂話が嘘と見抜いて『そんなデマにひっかかるな』とかなんとかいうぅ。
ギリシャ語の扇動家という意味の「デーマゴースト」が語源?
もともと日本語でも仮言的表明を「でまかせ」って言うやんね。

天と地の狭間でウロウロと世を憂い想う私たちやから、
我を忘れてうっかり死ぬ運命にあって、いくら勉強して体力つけて悟っても、
うっかりしてなくてもいつか死ぬので「我ありき」など、儚いのに間違いないで!
死を得体の知れない追っ手と見なすよりか「儚くない場所」に連れ帰って
くれんねやなあと肯定的に想うように心がけてんねんよ。

瞼を閉じて想える居場所に帰れる。
わくわくトキメいたり、懐かしんだり、何かに感謝したり守り続けられたり
未来も過去も今の私に宿るってんでなく、ないでなくなる同じ想いの場所に。

そういう意味で私は生きながら半分死んでて(?)
想う場所に「ただいま」そして自分で「おかえりなさい」
待つのは辛い。それだから嬉しさも増して抱きしめると思う。

賽は投げられた、はきっと「覚悟せよ」ということ。
奇跡はオリジナルの発芽。
まぐれ当たりで予言。

気づいても虚無への覚悟が出来ないのであれば
「優しさを発揮」のオリジナル自己アピール
が唯一虚無の紛らわせにはなると思うねんわ。

ニーチェも虚無と永遠戦う覚悟をしたみたいやけど、
どうせデマならそれには「意味がある=心を満たす」ものが「書き残せないもの」
だと死ぬ前に証明できていたのか?知りたいです。

関西弁に女言葉もないんやけど、この賽やし。
gooで師匠からも世界や見解の広さを知れて、
「哲学が生活の役に立つ」は正直実感ないねん(笑)
けど!密かに楽しい想いあふるる人生でした。おおきにありがとう。
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この回答へのお礼

しばらくお見かけしませんでしたので、心配してゐました。病気などではなく、日常生活でお忙しいのでしたら結構なことです。

>日本語でも仮言的表明を「でまかせ」って言うやんね。

鋭い新説ですね。扇動者のギリシャ語デーマゴーゴスは「民衆を導く」といふ意味ですが、「でまかせ」は「オレにまかせとけ」といふことなのですね。

>死を得体の知れない追っ手と見なすよりか「儚くない場所」に連れ帰って

cyototuさんが指摘してくださいましたが、戦争前のやうに、いざ死と向きあふといふ場面では、なにか特別なものが必要なのでせう。平凡な日常にあつても、ときにはそのやうなことを思ひめぐらすことは大切に感じます。

御回答ありがたうございました。もうしばらく、よろしくお願ひいたします。

お礼日時:2016/01/12 22:35

川を越すかどうかだけの問題ではないの?



その意味は みんな分かっているんだから。
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この回答へのお礼

賽の角のやうにただ独り歩む、ぶらげろさんですね。これまでの回答者のみなさんは、神の存在を大きくとらへていらつしやるやうです。年の初めに113番目の元素の命名権についての話題がありましたが、研究に際して、神社で113円を賽銭箱に投げ入れたといふ話も書いてありました。まさに賽は投げられたのでした。

そろそろ寝ます。また補足欄に書くかもしれません。水曜日はいくらか時間がとれますので、遅くともそれまでには以降のみなさまへのコメントも記入できると思ひます。貴重な御意見をお寄せくださり、ありがたうございます。

お礼日時:2016/01/12 00:12

アサシネイション(assassination;暗殺)とハッシシ(hachish;大麻樹脂)は語源が同じだと聞いたことがあります。

人を殺すには尋常な雰囲気ではいられないのでしょうか。戦争でいよいよ白兵戦が開始されるときには、今でも神々の助けがいるのか、こればかりは自衛隊の人に聞いてみなくては想像もつきません。

昔ギリシャの戦記を読んでいて、やたらに鳥占いと言うのが出てきて、戦争開始の時を決めるのに占いの専門家を連れて来て鷲の飛ぶ方向を妙に気にしていたと繰り返し出てきて訝ったことがあります。でも、これから死地に向うとなったら、異様な興奮が自分にも必要になるのかも知れないと思えました。戦国時代の武将が戦の前に茶の湯を嗜なみ、連歌の会を開いた。これもハッシシの効果を狙ったのかもしれません。

そう考えると、その場の兵隊にとっては、

「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」

の言葉の中で「神々の示現と」と言う部分の方が遥かに説得力があったのではないでしょうか。それを暖炉の周りで聞いている連中には死地に向う兵士の心情を実感ないし実体験できず、より詩的な「賽は投げられた」なんて言葉に触手が動いてしまったなんてことはないのでしょうか。

話は飛びますが、益川敏英先生がノーベル賞を受賞したとき、私はたまたま京都大基礎物理学研究所に滞在していて、受賞の翌日にそこで行われた記者会見を見物していました。益川さんは発見の経緯を語っているときに、

「自宅の湯船はらでたときに真っ裸で仁王立ちになって、皆が主張していた今までの部分でここが駄目なんだと決めたのです。そしたら一気に全体が見えて来て、正しい答えが解ったのです」

と言っていました。私にとって、この言葉の最も重要な部分は『決めたのです』でした。だから、彼の結論は本物だと思えました。しかし、その後の新聞記事を読んでみると、この『決めたのです』の言葉が完全に欠落していました。研究の創造的な営みを経験をしたことのない記者には、この言葉の重みがまったく理解できなかったのでしょう。トラック野郎さんも想像して見て下さい。いよいよ戦いを始める状況に置かれたときに、神々の示現と劇的言葉とどちらに軍配を上げるでしょうか。
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この回答へのお礼

御回答ありがたうございます。

>アサシネイション(assassination;暗殺)とハッシシ(hachish;大麻樹脂)は語源が同じ

初見でしたので調べました。手持ちの大衆向け辞書NewWorldDictionaryにはアラビア語の大麻ハッシシに由来すると書いてありました。「人を殺すには尋常な雰囲気ではいられない」、それはさうだと思ひます。「鳥占ひ、茶の湯、連歌」などの御指摘にはうなづかされます。

>暖炉の周りで聞いている連中には死地に向う兵士の心情を実感ないし実体験できず、より詩的な「賽は投げられた」なんて言葉に触手が動いてしまったなんてことはないのでしょうか。

私もさうです。どうしても格好いい言葉に目が向きます。特に現代は誘導爆弾投下の映像が茶の間で見られる時代ですので、戦争がゲーム感覚になつてしまひます。実際に戦ふとなれば、神神に身をゆだねるのは当然の姿勢なのでせう。益川敏英さんは花のある話をなさる方で、いかにもノーベル賞にふさはしいと感じます。以前ブログで、ノーベル賞は祭なのだと教へていただきましたが、地道な努力だけではおもしろくありません。

大麻で思ひだしたのですが、たまに蛇行運転の車を見ます。車線を大きくはみだして、右や左にふらふらしながら進みます。をかしな薬でもやつてゐるのかと思つてゐたのですが、先日cyototuさんの投稿を読んで、理由がわかりました。高速道路のやうな状況では、運転手は爬虫類の脳を使ふ、といふ内容でした。蛇行運転をする人は蛇の脳で操作してゐたのですね。

お礼日時:2016/01/11 23:04

>織物と編物の違ひをご存じですか。

織物といふのは縦糸と横糸を絡ませたもので、編物といふのは小さなループを引つかけながら大きくしてゆくものです。

 いろいろお許しください。でも著述家で、丸谷才一を意識なさっているというのは、そうだと受け取ってよいでしょうか。私も好きな作家です。織物ですか……トラックでそこまで調べるのですか。記載されていることを分類するためでしょうか。頭が下がります。私などは分からないことだらけではないかと考えております。

 ここまで答えられて、私の方が大雑把でも答えないわけにはいかない気がして参りました。私の専門は……しかし、もしかしたら既にご存知ではないですか。複数あるのですが、一つは詩、またもう一つは芸術学です。神の話に比較的詳しいのは、美と神が一致するという話が古くはあったからです。専門は他にもあるのですが、これ以上はご勘弁を。詩の分類は私の十八番なのかもしれません。とぼけてすみません。でも安易なことを言えないので、逆に答えられないです。フランスにはもう住んでおりませんよ。

 ただの雑談ですが、テキストの語源は織物だそうですよ。言葉を書くことは、織物と重ね合わされていたのですね。元は織物の絵柄が物語と関連しているためでしょうけれども。運命の神が糸車を持っていたり、古代ギリシアの貴婦人らがタペストリーを編んだりいたしますが、今でいえば著述家と同じ意味を持つのかもしれません。

>なほ、得意なのは、倉庫で荷物をかつぐことと、Q&Aサイトで人をかつぐことです。

 Plapotiさんは文章に味があって面白いですね。猪突先生には新しい技を覚えるようにと諭されましたが、学びたいものですね。たぶんこれは年の功とか、人間力とか、もっと別の要素なのでしょう。こればかりは、鍛えようとしても鍛えられるものではありません。もしご助言があったら、お願い致します。衣料品という時にどのような話題になるのかがあまり分かっていないですが、服飾はある程度、分かるかも知れません。芸術関連は大体、雑談ができます。
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この回答へのお礼

おつきあひくださり、ありがたうございます。

>でも著述家で、丸谷才一を意識なさっている

著述家ではありません。書くのは、仕事の書類以外は手紙程度です。トラック運転手といふのは、私のやうなオチコボレや他にできる仕事のない者が最終手段としてやつてゐることも多く、社会の底辺です。

>一つは詩、またもう一つは芸術学です。

回答番号4の方はクラシック音楽の作曲家です。しばしば私の質問に名回答を寄せてくださいます。iacta-alea-estさんと気が合ひさうです。私は凡人なので、さつぱり駄目です。散文人間です。お話はうかがひたいと存じますので、よろしくお願ひいたします。

>言葉を書くことは、織物と重ね合わされていたのですね。

私もさういふ意味において衣類が好きです。テクニックも同語源で、文章のレトリックの必要性も感じさせてくれます。

お礼日時:2016/01/11 22:38

以前ならこういう内容の御質問は文学カテにお出しになっていましたね。

私はもうここはやめましたが、退会なさるということですし、それまでに機会があるかどうかわからないので、とりあえず一回答だけ寄せておきます。

「大きく容貌のきわだって美しい男」という部分は、原文でははっきり表現されておらず、「男」とか「人」と訳すのは誤解を招くとされています。つまり、人間界のものかどうかもわからないわけです。
戦のときに神の顕示(エピファニー)があるというのは、古代メソポタミアからある考えのようで、明確な表象を取るに至らない超自然的存在、ヌーメン(意志、神の意志、原義:うなずく)の魔術的な力が働くという記述は、古典文献にあるようです。ホメロスの時代は神々が、そのあとは英雄神たち、ヘロスが戦いに加わったので、ヘロスやアポロン、ポセイドンが人の姿に変身して戦うという話はあるでしょう。この辺はplapotiさん御自身の方がお詳しいかと思います。
ここでは、葦笛と牧人が出てくることから、「大きく容貌のきわだって美しい男」はパンの化身を連想しますが、必ずしもパンと特定はできないとされ、アポロンという説もあります。しかし、葦笛の代わりに喇叭を取って兵士を駆り立てるという場面もパンを思わせるところがあります。パンは音楽や舞踊を楽しむ神ですが、昼の時間はパンにとって神聖なもので、この時間に邪魔をされると立腹し、家畜を駆り立てて集団的パニックに陥れました。パニックという言葉の語源はパンで、パニック的恐怖というのはパンとともに出てくるのではないでしょうか。
同様に、「神々」も特定はできないとされます。いろいろな可能性があるでしょう。兵士たちを奮い起こすために必要だったと考える場合、この理由もすぐには解明できませんが、戦の目的をローマ侵攻ではなく、神々のためとすることで正当化したか、あるいは、古代の兵士たちは、自らを特別な神々を守る存在と見なしていたということなので、その意味でも神々のためとした方が士気が上がったという考え方もできるかもしれません。
「賽は投げられた」という言葉は、ギリシャ語で叫ばれたとされますが、スエトニウスの著作として伝わるラテン語は誤りだという説があります。エラスムスが1518年に出したスエトニウス著作集には、estではなくestoという命令形が正しいとされ、ルイス・アンド・ショートもestoを正しいとします。「賽を投げよ!」ということになりますが、カエサルは、メナンドロスを好んでおり、この言葉もメナンドロスの一節の後半と言われています。メナンドロスの方は結婚に関する会話の部分ですが、やはり、「事を待とう。賽を投げよ!」というような意味のように見えます。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。貧乏暇なしで、さきほど帰宅したばかりです。さういへば先日、ドイツ人のユーモア感覚の御回答を無断で借用して質問を立てました。

>以前ならこういう内容の御質問は文学カテにお出しになっていましたね。

今回は、回答番号1の方と世間話をしたかつたので哲学カテゴリに投稿しました。ニュートラルさんがiacta-alea-estさんのファンなのださうです。アーレア(さいころ)が真ん中にくるのがいかにも古典ラテン語らしくてiacta-alea-estさんのセンスの良さを感じます。(iacta estは動詞iactoの受動相完了形)

>アポロンという説もあります。

スエトニウスがはつきり書いてゐないので、いろいろな解釈ができさうです。iacta-alea-estさんもアポロンの名を出してくださいました。Tastenkastenさんと話が合ひさうですね。ローマの建国はトロイアのアイネイアースによるといふ話もあり、トロイアに味方した戦好きのアポロンなら、この場面にぴつたりです。クイントゥス『トロイア戦記』第3巻でアポロンがアキレウスの腱を矢で射る場面は圧巻です。でもやはり牧神パンなのですね。パニックのもとの意味は初めて知りました。

>神々のためとすることで正当化したか、あるいは、古代の兵士たちは、自らを特別な神々を守る存在と見なしていた

いづれにせよ、神の存在は必要だつたのでせう。

>この言葉もメナンドロスの一節の後半と言われています。

この諺の最古の文献がたぶんメナンドロスだと思ひます。アリストパネスのやうに作品が残つてゐなくて残念です。ギリシャ語はἀνερρίφθω κύβος(アネッリプトー キュボス さいころは投げられてしまひなさい。)ですが、ラテン語でiacta alea estoにするのは私としては少し違和感があります。受動相未来形命令法にするならふつうにiactor aleaでいいやうに思へます。尊敬するエラスムスには失礼ですけれど。スエトニウスが現在では消失した何か別の資料を参照した可能性もないとはいへません。

そのうち文学カテゴリや外国語カテゴリでも質問する予定です。またよろしくお願ひいたします。いつも詳細な回答をありがたうございます。さういへばアイリッシュダンスの回答をマーブルシットさんがずいぶん喜んでいらつしやいました。

お礼日時:2016/01/11 22:19

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