アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

1.「表面に女王の肖像が刻印されたコインがあります(A)」と言いながら、コインの裏表を相手に見せ、相手もそれを確認する。
2.「今、上になって見えているのは裏面です(B)」と言いながら、掌に載ったコインの裏面を相手に見せる。
3.続いて、「このコインの下になっている面には女王が刻印されています(C)」と言う。

【質問1】
「このコインの下になっている面には女王が刻印されています(C)」は、仮説ですか?真ですか?
【質問2】
仮説だとした場合、仮説を前提に以降の論理を展開するのは誤りですか?または意味がありませんか?

質問者からの補足コメント

  • #1お礼欄からの続きです。

    これについては、「人智」という要素が鍵になります。まず、
    ・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いない(イ)⇒裏
    は、
    ・人智の及ぶ何かによって自らが生かされて いる(イイ)⇒裏
    と同義であることをご確認ください。
    この場合、
    「人智の及ぶ何か」が自らを生かしているのだとすれば、「人智の及ぶ」なのですから、それによって「生かされているかどうかわからない」というのは論理的に不整合になります。
    よって、
    ・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いない(イ)
    または、
    ・人智の及ぶ何かによって自らが生かされて いる(イイ)
    のでないとすれば、
    ・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いる(ア)
    のは明白な事実である。
    と言えると思うのですが、いかがでしょうか。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/26 23:29
  • 念のため追加です。
    ・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いるかどうかわからない。(ウ)
    という第3の選択肢は無い、ということです。

      補足日時:2016/01/26 23:48
  • お礼欄からの続きです。
    >コインだ人智の及ばない何かだなどと分析して、一体何が解るようになるのか、私には見当すら付かないのです

    これは、質問とどういう関係があるんですかね。
    全く関係ないことじゃないでしょうか?
    何のための質問なのか、理由がわからないと回答できないんですか?
    そういう感想を表明されるのは全くご自由ですが、せめて、論点をはぐらかさず質問に答えた上でお願いしたいものです。
    何か答えられない事情がおありなら、その旨おっしゃってください。
    今のままでは単なる言い掛かりと大差ないのではありませんか?

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/29 18:35
  • 念のための補足です。
    >まさにゴールポストが・・・。

    論点という意味であれば、最初から動いていませんよ。
    ただ、(あえて言いますが)お互いの表現力不足によって発生し続けた霧のせいで見えずらかっただけでしょう。
    時折は見えていたはずなのに、見えたと思ったら、突然試合放棄してしまったりなどもありましたよね。
    まあ、どちらがとは敢えて申しませんが。

    No.48の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/01 23:28
  • 最初のボタンが掛け違っている、と指摘して論点を提示しているのに、それは無視して、
    >見解の相違にすら達していないんだから

    とぼやいてるんで、次の箇所についてだけ触れておきましょう。

    16.
    ★ 人智の及ばない何かによって 自らが生かされている
    ☆ なる命題は ふつうの神論の問題に帰着します。神論だけが問題なのです。神が
    決まれば――自由に神の具体的な名を主観がえらべば――~~~。

    だから、
    >自由に神の具体的な名を主観が

    選んではいけない、と言っているのが分かりませんかねえ・・。
    そのために
    >人智の及ばない何かによって 自らが生かされている

    を真理として、しっかり認識しておく必要がある、ということ。
    >神論だけが問題

    なんて勝手に決めてくれてますが、今はそれ以前の前提についての話ですよ?
    先走らないで素直に頼みます。
    あとで、いくらでもややこしくなるんだから。

    No.43の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/02 00:33
  • #57お礼欄から

    >★ ~~~~~~~~~~~~~~
    たとえば、
    ・神は非知である
    のような命題は成立し得ない、ということ。
    ~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ ですから 神についての説明はすべて 補助線であると言ってるぢゃ
    ないですか。
    依り代・権現。仮りの説明表現です。

    神の存在自体が非知と言ってるわけではない、ということですか?

    >そうして 《人智の及ばない何か》について 上の一つ目の論点の結果と
    して 《未知や不可知》は除いて 《非知》であり非知に限るとはっきり
    させたほうがよいでしょう。

    ☆《人智の及ばない何か》について☆
    のように【対象を特定した】以上、分かるか分からないかどちらかしかないですよね?
    つまり、既知あるいは《未知か不可知》しかあり得ないのですから、《非知》すなわち、「分かるか分からないかが分からない」などと暢気なことを言っててはいけません。
    下へ続く

    No.57の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/05 23:30
  • 上からの続き

    >《〔部分的に既知でありしかもなお〕未知であるところの人智の及ばない
    何かによっては 人間は生かされなくなるときがやってくる》ゆえ。

    理由になっていませんよ?
    ☆人間は生かされなくなるときがやってくる☆
    これと論理とどんな因果関係がありますかねえ・・。

      補足日時:2016/02/05 23:31
  • お礼欄の訂正です。

    ×
    「神に関しては思考の対象である」は詭弁であり、言葉遊びにすらなっていないと思いますけどね。


    「神に関しては非知の対象である」は詭弁であり、言葉遊びにすらなっていないと思いますけどね。

    No.55の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/06 00:28
  • >☆ ぎゃくに言うならば 《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても 
    同じではないか?

    あれだけ説明しているのに(まじめに読んでるんかいな???)
    ☆《無限・絶対》は《非知》
    とは言えても
    ★《神は非知である》
    とは言えない。
    という見解が(正しいか否かはさておいても)伝わっていないというのは、極めて不思議な印象を受けますね。
    ま、気の済むようになさるほうがよいでしょう。

    No.65の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/06 23:34

A 回答 (67件中21~30件)

一点だけ尋ねます。


★(№45お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
動物でないという意味での人間であるなら、真理に悖る事柄は受け入れられないような属
性がアプリオリに備わっている。( D )

と思うからです。
そして、その上で「自我としてのこの我」の振る舞いをどうしていくのか、これを考える。
この視点において、
>《成るように成る》という世界観

は、むろん希薄になります。
だからこそ、真理としての「人類としての我」という認識が必要、ということでもある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (あ) (D)は 《〈成るように成る〉という世界観》なのですか? この引用箇所
の前にそのように説明されていると読み取ったのですが。

(い) けれども逆に 《〈成るように成る〉世界観が希薄になる》ことのほうが 摂理
にかなっているのですか? なぜなら いまの(D)を踏まえてさらに:
★ 「自我としてのこの我」の振る舞いをどうしていくのか、これを考える。
☆ というときには ケセラセラ史観は稀薄になるようなのですから。

(う) つまり (あ)と(い)とで 摂理は 二段構えなのですか? しかも第二段ロ
ケットは 第一段目とは違ったものになる。

(え) そうだとしても:
★ 「あるもの が あるものであるように している力」
☆ としての摂理である。こういうことでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

こちらの質問には一切答えず、自分の主張(のための質問)だけを述べる。
相変わらずですなあ・・。
まあ、それも良しとしておきましょう。

>☆ (あ) (D)は 《〈成るように成る〉という世界観》なのですか?

というより、人間って、そういうふうにできてるんじゃないの?といったこと。
まあ、これは仮説と言ってよいかもしれません。
世界観というほどのことではないと思いますが。

>(い) けれども逆に 《〈成るように成る〉世界観が希薄になる》ことのほうが 摂理にかなっているのですか?

《〈成るように成る〉世界観が希薄になる》のでなければ、「自我としてのこの我」は生きていけません。
しかし、〈成るように成る〉世界観の元で、偶然に生を受けたにすぎないのだから、「自我としてのこの我」だけでは(真理に悖る認識ゆえ)種々の不満足状態が必然的に発生するであろう、というような意味に捉えていただければと思います。

>(う) つまり (あ)と(い)とで 摂理は 二段構えなのですか? しかも第二段ロケットは 第一段目とは違ったものになる。

ここでも申し上げることができると思うのですが、「人類としての我」も「自我としてのこの我」もどちらも摂理の掌に載っているということが言えます。

>(え) そうだとしても:
★ 「あるもの が あるものであるように している力」
☆ としての摂理である。こういうことでしょうか?

そう言っても良いですが、(う)で端的に述べた内容が(私の意図を伝える分には)紛れが少ないと思います。
つまり、
>そうだとしても

と言うほどには逆接の論理が存在しているわけではなく、そもそも、(あ)と(い)は、同時系列で常に矛盾しつつも並存している、と考えます。
人間は矛盾を(その不安定性ゆえに)嫌がりますが、しかし、実際、そういうものとしてしか存在していないわけですから、これは認めていくしかない。
(たぶん、)ほんのわずかだけ年下だと思いますが、その分際で生意気な口を利いてすみませんね。
いや、後半は冗談です。

お礼日時:2016/02/01 22:45

回答№45のおぎないです。



☆☆ ケセラセラ史観
☆ が ダメだとか どうしてもマチガイだとかと言っているわけではありません。

不可抗力をふくむような見方としての《自然史過程》説であり得るとは考えています。

でも それを言うだけの命題になってしまうなら それは 困ります。わざわざ言う
必要がなくなります。
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★ 人智の及ばない何かによって 自らが生かされている


☆ もしこの《人智の及ばない何か》をそのままにして――ということは 未知であったり
(自己組織化) 非知であったり(絶対なる真理)するという両義的な《摂理》であるとい
う見方をそのままにして―― 話をすすめるなら たとえば 太陽が燃え尽きたときには 
その《人智の及ばない何か》は バランスさせるチカラとしての摂理であることをやめるの
か? やめるのではないか? といった疑問が生じます。

あるいは 大きな彗星が地球にぶつかってもう住めなくなった場合は どうなのか?

そういう場合には 個別の具体的な摂理としては 自己組織化がなくなる。バランスさせ得
なくなる。

それでも 絶対としての摂理は 変わらざる真理でありつづける。と言えるのか? 人間に
とっての意味が・人間の側からはなくなることにも 何の問題も 神の側には ないのか?



もし それでも――つまりいかなる場合にも―― 神は神であるというのなら そうだとし
ても ただしバランスさせるチカラとしての摂理は そのハタラキの中身が変わっている。
あるいは いまあるハタラキがなくなる。それでよいのか?


つまりこれを言いかえるなら 《真理なる神は 絶対であり 不可変性である》と同時にそ
の《万物をバランスさせるチカラとしての摂理》は その内容を変えることがあるし バラ
ンスをあたえられている人間の側からみれば もう消えてなくなるおそれがある。

これでよいのか?

人間はいなくなったが 別のモノにバランスをあたえているから やはり摂理である。と言
えるのか?


もし言えるというのなら その神論ないし摂理説は けっきょくケセラセラ史観なのです。
《成るように成る》という世界観です。

それだけのことです。それだけのことを言っているのみなのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>たとえば 太陽が燃え尽きたときには 
その《人智の及ばない何か》は バランスさせるチカラとしての摂理であることをやめるのか? やめるのではないか? といった疑問が生じます。

生じません。
私が言うところの「バランスさせる力」とは、「あるもの が あるものであるように している力」のことです。
太陽が燃え尽きたとしても、バランスさせる対象となる「あるもの」があるのであれば、バランスさせる力はやはり摂理として機能し続けていることになります。
「あるもの」がなんであるかは問いません。

>人間にとっての意味が・人間の側からはなくなることにも 何の問題も 神の側には ないのか?

不可知ですが、そのようなものとして摂理を規定した、ということです。

>人間はいなくなったが 別のモノにバランスをあたえているから やはり摂理である。と言えるのか?

論理的には言わざるを得ない、という立場です。

>もし言えるというのなら その神論ないし摂理説は けっきょくケセラセラ史観なのです。
《成るように成る》という世界観です。

細かいことを抜きにすれば、そう言っても構いません。
「人類としての我」にとっては、それが真理でしょう。
そのようなものとして生を受けた、という真理を、しっかりと認識することが重要ではないか、ということです。理由は、新質問でも記述していることですが、

動物でないという意味での人間であるなら、真理に悖る事柄は受け入れられないような属性がアプリオリに備わっている。( D )

と思うからです。
そして、その上で「自我としてのこの我」の振る舞いをどうしていくのか、これを考える。
この視点において、
>《成るように成る》という世界観

は、むろん希薄になります。
だからこそ、真理としての「人類としての我」という認識が必要、ということでもある。
こうした思考に対して、
>それだけのことです。それだけのことを言っているのみなのです。

とおっしゃるのであれば、それは、ご自由にと申し上げる以外申し上げようはないでしょう。
ただ、真理というのも案外シンプル(それだけ)だったりしませんかね。
まあ、いずれにせよ、見解の相違、という大団円をめでたく迎えたということなのかもしれません。

お礼日時:2016/02/01 19:16

42です。



> 従属変数にすると、自分が両親を選んで生まれてきたのであり、また、
> それを遡った原始生命からの系譜もすべて自らが操っているのだ、と
> 言える可能性も含むことになりますよね。

ここはよく把握できませんでした。補っていただけると助かります。

> どこで齟齬が生じているものやら皆目見当すら付きません。

(おもにブラジュロンヌさんやサイコロさんとの噛み合わなさのことだと理解していますが) そうですね、それを調べているところです。

現に直前のブラジュロンヌさんをごらんになると明らかなように、
「☆《人智の及ばない何か》を哲学として定義しなければ話は始まりません。」
とおっしゃるのです。つまり彼はこれを始まりだと考えていますね。
でも、わたしは、これはハコブルさんにとって、始まりじゃないと思うんですよ。逆回転をかけたようなもので、当然の帰結、前にある文脈の終点ではないでしょうか。そして我彼の別の論理へ繋がれようとしているのではないでしょうか。論理は俯瞰を為さしめますが、俯瞰的表現の字面によって、ブラジュロンヌさんのように始まりと見做すと、齟齬が生じるのではないかと思っています。42はそういう話ですけれど、見当違いと思われますか? もう少し詰まるまで併走しましょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
早速応じていただき感謝いたします。

1.
>ここはよく把握できませんでした。

仮に
【自らが生かされている感率.....従属変数=0】
だとすれば、
>私が生の中にありながら、人智の及ばない何物もありはしない

ということになってしまいますし、それは、あり得ないことだと思うので、関数としては意識しなかった、ということです。しかし、今、改めて、
>「私が生かされているのなら 人智の及ばない何かがある」

を読み直してみて、おっしゃりたい意図が理解できたと思います。
一連の論理展開に当たって、
> 人智の及ばない何かがある度.....独立変数

からアプローチするのか、
> 自らが生かされている感率.....従属変数

からアプローチするのか、ということですね。
大変、参考になりました。

2.
>つまり彼はこれを始まりだと考えていますね。


なるほど。
ここでしたか。
いや、さすがというか、私の頭が悪すぎるのか・・。
ツボを突いていただきありがとうございます。

3.
>42はそういう話ですけれど、見当違いと思われますか?

実は、
>発話行為が真理を語るということはどのようなことなのかを、考える機会

という箇所に不満をいだいていた次第です。
そうではなく、
>真理を語っているのだから、理解していただきたい、

という気持ちでしたので。
今は、おっしゃった意味が理解できたと思います。

4.
しかし、
>《人智の及ばない何か》を哲学として定義

する必要があるんですかね?
[ 人智 ]=人間の知恵。人間の知能。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/115063/meaning/m1 …
なわけですが、
《人間の知能の及ばない何か》とは何か?
てなことを考えなければ話が進まない、という論理が理解できません。
そもそも、「人間の知能の及ばない」ことを定義できるわけがないでしょう。
《神》を哲学として定義
なら分かりますが、それと同列には扱われないと思いますがねえ・・。

>もう少し詰まるまで併走しましょう。

心強いお言葉。
因みに、
>始まりと見做す

のは、合羽さん的にはアリなんですか?
これから直接対話しますが、私はあり得ないという立場。

お礼日時:2016/02/01 16:27

★ 人智の及ばない何かによって 自らが生かされている


☆ 《人智の及ばない何か》を哲学として定義しなければ話は始まりません。

1. まだ人智の及ばない何かとして《未知》なのか。つまり 経験的なチカラか。

2. あるいは 《絶対》として人智の及ばない何かか。これは 経験世界を超えた
チカラであり しかも《超えている》ということは その《絶対なる何か》が この
経験世界に介入しているかも知れない。
これを 《非知》と言います。

3. 《不可知》は 候補に挙がりません。知り得ないと証明できているゆえ その
何か《によって われは生かされている》とは 判断できないからです。つねに永遠
に判断出来ないと証明されているいからには 候補にし得ません。
そして 証明し得たもの・認識し得たことは 経験事象です。その証明がまちがって
いたなら 《未知》に分類されるだけですから。

4. 非知と未知との区別は 理論上ははっきりしていますが 手続き上はいくらか
面倒です。

5. たとえば 《生命なるチカラによって生かされている》と表現した場合。つま
り《生命》は モノとしての(その自己運動のようなハタラキとしての)――既知の
ほかの――《未知》があり そしてそうではなく モノのみなもととしての生命があ
ります。
後者は 経験事象なるモノとしての根源ではなく モノという相対世界を超えたとこ
ろの絶対なる何か・つまり《非知》としての生命です。

6. ですから 摂理には たとえば自己組織化といった経験事象としての《既知お
よび未知》の個別的なハタラキがあるとともにそれだけではなく 経験世界を超えた
《非知》としての摂理も想定され得ます。

7. 非知として説明される《絶対》としての摂理は 絶対なる生命と同じものです。
個別の摂理は 生命のハタラキとして具体的に認識される経験知の内容です。

8. 《未知》としての摂理であるなら その《人智の及ばない何か》は まだ及ば
ないにしてもいづれ及ぶと推察されているその認識にしたがって いまの命題を提示
すればよいわけです。《既知》の部分から説明するわけです。

9. 《非知》としての摂理であるなら それはもう主観の世界に入ります。しかも
いちいち主観の名づけや定義に従っていたなら 話になりませんから 人びとはその
シルシとしての言葉を持ちました。《かみ》です。摂理よりは 神のほうが一般的で
しょう。

10. この非知なる《かみ》については 《有る神か無い神かを自由にえらべる》
という主観の自由がゆるされます。人間の側から見て《有るか無いかが分からないこ
とがつねなる状態である》からです。

11. 《無い神》をえらんだ場合には 《われが生かされているのは 人智の及ば
ない何かとしての摂理によってである》としつつ その摂理とは 《無い神》のこと
だとその主観において受け取っています。そして もうそこまでです。摂理なる神に
よるわれわれの経験世界への介入は 想定しません。それで神論はおしまいとしてい
ます。

12. 《有る神》をえらんだ場合には やはり主観においてですが 摂理が神のハ
タラキとして有りこれが 経験世界に対しても介入すると思っている。

13. 有神論の人にとって 神が摂理として人間世界にハタラキを及ぼすという主
観をさらに具体的に表現すること これも自由です。と同時に その主観内容は――
摂理の具体的なあり方の説明は―― その主観の内にとどまります。非知なる何かに
ついて《有るか無いか》についても・そして 《知り得たか知り得ないか》について
も その一方だけを取ってほかの一方を棄てるわけには行かない。のだから。

14. 《知り得るか知り得ないかが知り得ない何か》について それは経験世界に
おける《有る無しや因果関係》を超えているのだから 仮りに 有る・または無いの
一方だけをえらんでも それは他の一方を捨てず排除しなければ自由です。普遍神の
シルシとして 有る神か無い神かいづれかをえらんで使えばよい。

15. 《知り得たか知り得ないか》の一方をえらぶだけなら これも普遍神の許容
範囲です。他を排除しなければ・そして主観の範囲内にとどまれば 自由にそのこと
を 表現し得ます。

16. ですから
★ 人智の及ばない何かによって 自らが生かされている
☆ なる命題は ふつうの神論の問題に帰着します。神論だけが問題なのです。神が
決まれば――自由に神の具体的な名を主観がえらべば――あとは 神による介入が有
る・および無いのいづれかによる摂理が想定されている。
《無い神》論者にあっても この普遍神のめぐみは享けているということに 想定上
成っています。このような《摂理》のことを言おうとしている命題なのですが それ
は神の定義の作業の中にふくまれている。と見られるのです。

17. 神論は 哲学として 仮説法による現実世界についての説明です。そこに生
きるわれわれそれぞれの自己了解(われがこの世界のどこに・どのように位置するか)
および自己到来(われがわれに還る)のいとなみです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

A.
☆もうバスは 目的地に着いていますよ。
☆その意味でわたしは すでに降りました。

ということで、#31、#32お礼欄への返答を放ったらかしにしたままですが、他の乗客が残っているのを見て、慌てて駆け込み乗車という体ですね。まあ、それもご愛嬌としておきましょう。

B.
>☆ 《人智の及ばない何か》を哲学として定義しなければ話は始まりません。

これを定義しないと話が【始まらない】わけですか。
そりゃあ噛み合わないはずですね。
最初からボタンが掛け違っていることになるので。
何度も申し上げていますが、
《人智の及ばない何か》が、経験的なチカラか、経験世界を超えたチカラかはどうでも良いのです。つまり、
《人智の及ばない何か》が【あるかないか】が問題なわけで、その【正体】は何でも良いのです。
そもそも、《人智の及ばない》と規定して論題を提出しているわけですから、それの正体を定義しなければ話が始まらない、と言ってしまうと、話をする気がない、という意味になってしまいます。
《人智の及ばない》なんですから、人間が定義なんかできるわけないですよね?
定義はできないが、

・人智の及ぶ何かによって 自らが生かされている

わけではないのだから、(生かされているのなら、「人智の及ぶ」なのだから、「何か」ではなく「人智の及ぶ○○」のように示すことができなければならない)

・人智の及ばない何かによって 自らが生かされている

のは、至極当然のことじゃないですかねえ?

C.
《人智の及ばない何か》について、次のように定義しようとしているわけですね。
1.まだ人智の及ばない何か。《未知》
2.経験世界を超えた《絶対》として人智の及ばない何かか、この経験世界に介入しているかも知れない何か。《非知》

しかし、2は《不可知》または《未知》で良いのではないですか?
つまり、「(この経験世界に介入している)かも知れない」なのですから、現時点では、永遠に知り得ない(不可知)か、まだ知り得ない(未知)か、どちらかでしょう。
《不可知》について、
>つねに永遠に判断出来ないと証明されているからには 候補にし得ません。

とのことですが、どうやって
>永遠に判断出来ないと証明

されたんですか?
まず、この B・ C について解決しませんか。

お礼日時:2016/02/01 18:39

36です。



次の文は、関数が入っているんでしょうね。
「人智の及ばない何かによって 自らが生かされている」

   人智の及ばない何かがある度.....独立変数
   自らが生かされている感率.....従属変数

つまり、因果関係を書き表しているので、割合をデータ化して何かの推論の根拠にならんとする作りになるのです。見えない原因が、見える関数をくぐって、見える結果になります。

でも、ハコブルさんのおっしゃるそのままの意味で、はじめに小さな生命と向き合って、ストンと腑に落ちるところから言葉を編んではどうでしょう。

「私が生かされているのなら 人智の及ばない何かがある」

わたしは、このほうが誠実な美しい言葉だと思います。生の前後にあるものとわずかに隔てて、生の中にある現前という事実が、暗い道に浮かび上がる気がします。
これは、次のように、私が生の中にありながら、人智の及ばない何物もありはしない、という場合にだけ偽となる命題です。

〈私が生かされている〉〈人智の及ばない何かがある〉  
     1    -     1       ・・・真
     1    -     0       ・・・偽
     0    -     1       ・・・真
     0    -     0       ・・・真

ハコブルさんのご質問がコインを使っていたことに、違和感を覚えた方も多い様子でしたが、ハコブルさんが真理だとおっしゃり、仮説ではないと言おうとしていたので、発話行為が真理を語るということはどのようなことなのかを、考える機会になったらいいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>次の文は、関数が入っているんでしょうね。
「人智の及ばない何かによって 自らが生かされている」

なるほど、そうなっちゃいますか。
私としては関数のつもりは全く無いのですけどね。
「自らが生かされている」の箇所は言ってみれば定数と捉えています。
>自らが生かされている感率.....従属変数

という捉え方は全くしていなかったし、その必要も感じていませんでした。
従属変数にすると、自分が両親を選んで生まれてきたのであり、また、それを遡った原始生命からの系譜もすべて自らが操っているのだ、と言える可能性も含むことになりますよね。
しかし、それはあり得ないだろう、というのが理由です。
つまり、論点は、その「何か」が人智の及ばないものであるのか、及ぶものであるのか、という点だけなのです。
こうした筋立ての、どこがおかしいですかねえ・・。
いや、ほんとわかりません。
「私が生かされているのだから(人智の及ぶ○○によって生かされていると自ら証明できない以上) 人智の及ばない何かがある」
と、極めて当然のことを言っているつもりなんですが。
「人智が及ぶ」何かを仮定するのであれば、(人智の及ぶ○○によって生かされていると自ら証明)できなければなりませんよね?
どこで齟齬が生じているものやら皆目見当すら付きません。

何かとお忙しいところ、すみません。
全く急ぎませんし、またの機会にでも結構ですので、もう一押しコメントいただければ幸いです。

お礼日時:2016/02/01 01:45

#40関連で。



私が、雨合羽お姉に書いた、

> 自分の納得する論理を話し手の立場で簡潔に、あるいは、直接に打つけちまうと、初心者には解り難くかったり誤解されちまう
> まっ、この場を自分の考え方を整理する場か、それとも、相手に解ってもらおうかって立場の違いで、打つけ方も当然違ってくる

に関して、気付いたことがあるんで書いて置きましょう。

私が、

「理系で博士課程を終了した人には、高校あたりで少なくとも文章の書き方を教える国語の先生の資格を与えるべきだ」

と常々言っているとんでもない主張に関連しているからです。

文系は知りませんが、理系で学者として生き残るには、査読者がいる専門雑誌に論文を出し続けなくてはなりません。論文は質だと言うのは理想的ですが、論文の数も、その科学者の生産性の判定には手っ取り早い基準になるからです。この査読者とのやり取りが、文章の書き方に関して、大変な訓練になっています。

査読者はその雑誌の編集者によって依頼されます。投稿された論文に対して、同じような分野の問題に興味を持っている研究者を大抵の場合二人選び、無給です。査読者の名前は論文投稿者には知らされません。この査読者との辛辣なやり取りが、論文を投稿した人の文章の訓練に大変役に立っているのです。

先ず、同じような分野の問題に興味を持っていると言っても、研究対象も、その切り口も、また世界観も皆違っています。この違いが本質的で、その結果、科学の進歩が多様で多面的で、さらに互いに補完的に為され、また、思わぬ発展の展開を保証しているからです。

だから、ほとんどの場合査読者は自分の研究に忙しく、したがって、査読を頼まれた論文の内容は、そんな話があるとは知っているが普段ほとんど考えていない問題か、あるいは、その投稿論文で初めて知ったと言うような問題が多いのです。

そこへ持って来て無給です。評判になった訳でもない他人の論文を読んでいるより、余程自分の研究の方が忙しい。まっ、自分の書いた論文も誰かが無給で読んでいてくれているので、お互い様ということで査読を引き受けているのが正直なところです。

だから、査読は片手間にやられても文句を言う訳には行かない。普段本気でその問題を考えている訳でもない査読者に、ざっと斜め読みされて、査読者の誤解から辛辣なケチがつくなんてことが、諸っちゅうあります。査読者とのやり取りは気が重いし、また、誤解によって論文掲載がなかなか認められずに時間の無駄になってしまいます。だから、そんな経験で何度か痛い目に遇うと、その問題を普段考えていない査読者に対して、自分がトコトン考えて漸く手に入れた

>自分の納得する論理を書き手の立場で簡潔に、あるいは、直接に打つけちまう

と言う書き方が危険であることが身に沁みてわかって来ます。

また、正確に、あるいは厳密に書けばわかってもらえる訳でもないこともわかって来ます。大抵の場合、正確に表現しようとすると、話は込み入って来ます。でも、査読者は注意力散漫で斜め読みするので、込み入った部分は読み飛ばされてしまうのが普通です。だから、何でも正確に表現すれば良いと言う訳ではなく、論文の本質的でない部分は常識に任せせ、出来るだけ感情的な形容詞は控えてサラッと書き、本質的な部分だけ、

「ここは本質的な部分だから諄く書くけど我慢せい」

との前置き付きで、くどく正確に書く必要がある。さらに、誤解されずに上手に書ければと言う条件付きですが、この部分にだけ、大袈裟な感情を籠った形容詞を書き込むことも、上級編の技巧として有り得ます。

また、斜め読みで読み飛ばされた結果、誤解されたことが明らかでも、

「あんた、ちゃんと読め。そのことはここに書いてあるじゃないか」

なんて反応を決して査読者に向って言っては駄目です。査読者が臍を曲げてしまい、ああだこうだと、別の部分にまでケチを付けてきて、エネルギーを消耗させられ、論文の掲載がどんどん遅れてしまうことも良くあるからです。なんせ、査読者はコンピュータと違って、人間の感情を持っているからです。

そこで、その感情を逆手に取り、

「その部分を誤解させてしまうように書いていることを、査読者様がご指摘して下さったことに、心から感謝致します。それは私の落ち度でしたので、ご指摘のような誤解を招かないように、こうこうこうと書改めました」

とのお礼文付きで、その部分を代名詞を使わずに、あえて名詞を繰り返すとか、くどい言い回しを挿入したりして、一寸だけ書き変えるのです。これは魔法の杖で、それで文句を言って来た査読者に、私は未だにお目にかかったことがありません。

そんな、査読者とのいやな経験を繰り返して行くうちに、どの部分を簡潔に書き、どの部分を冗長ギリギリで諄いくらいに書くかのコツが段々と掴めて来るようになります。

多分文学部出の国語の先生は、文章を書くことに対して、このような胃が痛くなるような経験などせずに国語の先生の免許を取っているのではないかと思いますが、如何でしょうか。

確かに、理系で博士課程を終了したばかりの人ではまだ経験も浅いでしょうが、少なくとも指導教官から博士論文の書き方でドヤされ、また、査読者とのやり取りで反省させられた経験が一二度はあるでしょう。だから、彼らは、文学部出の国語の先生より、余程適切な文章が書けると考えているのですが、これも、如何なものでしょうか。

ねっ、

> この場を自分の考え方を整理する場か、それとも、相手に解ってもらおうかって立場の違いで、打つけ方も当然違ってくる

でしょ。
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自分の投稿の前に他の方の回答が増えていたことにやっと気付いた次第です。



> 自分の納得する論理を話し手の立場で簡潔に、あるいは、直接に打つけちまうと、初心者には解り難くかったり誤解されちまう
> まっ、この場を自分の考え方を整理する場か、それとも、相手に解ってもらおうかって立場の違いで、打つけ方も当然違ってくる

嬉しいお言葉ですねえ、、、、出来の悪い子に優しいんですからね、猪突さんは。
相手次第の手管を繰り出せる風~雅な婆に、わたしは、なれますかどうか。でも、ならないと。せっかく子育てしていますから。

36にお礼をいただいています。一旦切ります。
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hakobuluさん こんばんは



私は皆さんのご回答を読んで思ったのですが。

質問1は、偽です。

人智を超えた作用がなされた場合、コインの下になっている刻印は女王とは限りません。
例えば、両面が裏の場合や他の物が刻印されている場合がある。(人間には認識できない速さで鋳造して刻印し直された。)

質問2は、いいえ、実証すれば意味があります。

4、それでは、「このコインの下になっている面を確認します。」としてコインを裏返す。
「コインの下の面は女王でした。」と言う。

これで、この仮説が真だという事が実証できました。

☆この遊び、子供の頃、よくしましたね。
相手が目をそらしたすきに、手を前にずらしてコインをひっくり返したり、等。
まぁ、現実問題としては、コインはずるしやすいアイテムですから、予測不可能です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>(人間には認識できない速さで鋳造して刻印し直された。)

なるほど。
あるかもしれませんね。

お礼日時:2016/02/01 19:42

もうバスは 目的地に着いていますよ。



その意味でわたしは すでに降りました。

わたしのお示しした地図をさらに何度もながめていただくか。

それとも もう問い求めを途中であきらめたあわれなやつとして
見下げていただくか。お好きに。とお伝えします。

このスレッドについては そのように考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>わたしのお示しした地図をさらに何度もながめていただくか。

ながめた上で相違点など挙げたんですけどねえ。
まさに佳境に入ったところ、と思っていましたので、残念です。
まあ、それだからこそ 非知 を論理的に否定されるのが怖くて引いた、と受け止めるのが妥当なのでしょう。

>もう問い求めを途中であきらめた

と判断せざるを得ないようです。

お礼日時:2016/01/30 21:50

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