このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。
あるいは、排斥を目的として、そのような認識が為される。
これって、案外、諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
煎じ詰めると、質問としては、次のようになります。
【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。
こうした2方面からのアプローチをお願いしたいと思います。
No.45
- 回答日時:
#43に重要な誤植がありました。
第1段落後半の文章は、
しかし、物理学で最も基本的な物理量であ「作用変数」と呼ばれる物理量は不連続の値しか取れないことを量子力学が明らかにした。
と読んで下さい。連続=>不連続 です。
No.43
- 回答日時:
#41の回答に寄せられた補足コメント関連で。
>◎人類の種としての系統発生◎から脱しきれないからこそ、世界は混迷から抜け出せないのではないでしょうか。
自然科学は人文科学と比べて桁違いに単純な事象の分析から始まりました。その選択の利点は、複雑に絡んだ糸が人文科学の対象とするものより解し易いところにあります。その結果人間が学習したことは、科学的知見の進歩の本質は、
「この世界では何ができないのか」
を明らかにして来たところにあると言うことです。自然科学の進歩以前は、人間は念力で空中遊泳ができるようになると考えていた。科学の進歩はこれができないことを明らかにした。以前は物質の瞬時の移動が可能であると考えられていた。アインシュタインの相対性理論はそれは不可能で、光速を越えられないことを明らかにした。以前は物理量は連続の値が取れると考えられていた。しかし、物理学で最も基本的な物理量であ「作用変数」と呼ばれる物理量は連続の値しか取れないことを量子力学が明らかにした。他にも例をいくつも挙げられますが、実はこのように自然界のあり方に限界があることを明らかにすることが科学の最も重要な役割であることが解った来たのです。何故ならこの限界を持っていることがすなわちこの宇宙の個性であり、その個性を知ることが、我々の宇宙を理解することだと解るようになって来たからです。
その限界が解るようになれば、それに基づいた行動を我々もとることができる。その結果、無意味で無駄な努力や行為で自分たちを傷つけないで済むようになる。これが科学の効用であり便利さの根拠でもあるのです。科学の進歩が今まで考え付きもしなかったいろいろ便利なことをできるようにしてくれた来たので、科学の進歩に直接関わったことのない人に誤解を与えているようです。実際、今それが不可能でも、科学が進歩したり我々の思索や知見がもっと深まれば、いつかその不可能と思われていることも出来るようになると思い違いしている人を多々見かけます。上にも述べましたように、いつまで進歩してもそれが不可能だということを明らかにしたことが科学の強みであり、その便利さの根拠なのです。
「個体発生は系統発生を繰り返す」も自然科学の進歩で認識されたこの世界の個性のうちの重要な一つです。近代科学の進歩は、人類が系統発生から脱却することによって世界の混迷から抜け出す手は、この宇宙では不可能ですよということを教えてくれているのです。だったら、
>◎人類の種としての系統発生◎から脱しよう
と言う無い物ねだりをするのではなくて、それが不可能であると言う事実を積極的に利用して世界の混迷から抜け出す手を探そうよ、と言っているのです。だから「人間はどうあるべきか」を発想の根幹に置くのではなくて、「人間はどうあるのか」を発想の根幹に置きながら、だから理念を優先させるのではなくて事実を優先させながら解決策を模索しようよと言っているのです。
あと、ハコブルさんの言う論理的整合性ないし合理性と「真理」の関係ですが、私が論理と言うとき、それを時系列的に把握されるものに限ってはおりません。時系列的論理の典型例は数学的論理です。それは、「AはBを導き、BはCを導き、、、」と時系列に順序付けて把握されます。したがって必然的にAとBの局所的な関係の分析、BとCの局所的な関係の分析、、、、という具合に認識を進展させて行きます。後でもまた触れますが、音楽も主にその論理で把握さています。一方、絵画や彫刻では全体を一望に眺め、収まるところに収まっているかと言う空間的な認識基づいてその善し悪しや正否を判断しています。これ立派な論理で、時系列的論理に対して空間的論理と呼ぶことが出来ます。
実は空間的論理の把握法は、個々の事象の間の相関を把握しているのです。物理学では近所の物同士の関係を近距離相関と言い、遠くの物の関係を長距離相関と呼んでいます。収まるところに収まると言う認識法は、相関の中で特に長距離相関を人間が認識できると言う能力に基づいてなされる認識法です。それに対して、数学における時系列的論理は局所的な短距離相関の積み重ねで理解しようと言う認識法です。一般に、芸術活動の正否の判断は、この収まるところに収まると言う長距離相関の把握という空間的論理の基づいてなされていると私は考えております。ですから確かに音楽が時系列として我々の耳に入って来ますが、脳による音の記憶によって、我々は音の間の短期時間相関も長時間相関も共に認識でき、短時間相関の善し悪しのみならず、長時間相関も認識しながら音楽を味わっています。だから、同じ時系列的論理と言っても、音楽には絵画に近い要素があり、それが数学とは違って、音楽を芸術の一種であると見なして良い根拠があるのではないかと私は考えています。
ハコブルさんの言う「真理」もこのような分析に基づけば、論理の枠内で理解できる物ではないでしょうか。
ところで、物理学は徹底的に数学を使い、最終的には時系列的論理の枠で表現されますが、物理学における発見の圧倒的大多数は、まず空間的論理を駆使して長距離相関に着目して収まるところに収まっているかを探ることによってなされて来ました。決して、数学の時系列的論理を駆使して見つけ出されたのではないのです。数学的な時系列的説明は、空間的論理で発見された物の後付けとして出て来るのです。先ず、空間的論理を駆使して事実を把握し、その後、時系列的論理の後付けという理念を提示するのであり、その逆ではありません。事実、その逆の方法で何か新しいことが見つかった例なんて皆無に等しいからです。
ご回答ありがとうございます。
>だから「人間はどうあるべきか」を発想の根幹に置くのではなくて、「人間はどうあるのか」を発想の根幹に置きながら、だから理念を優先させるのではなくて事実を優先させながら解決策を模索しようよと言っているのです。
:
2つの点で反論せざるを得ないようです。
まず、
◎「人間はどうあるのか」◎
を無視して、
◎「人間はどうあるべきか」◎
を考えることはできないように思います。
つまり、
◎「人間はどうあるべきか」◎
を考える場合、
◎「人間はどうあるのか」◎
という事実に関しても必然的に認識せざるを得ない。
ここで留意すべきは、
◎「人間はどうあるのか」◎
という事実に関して正しい認識が為されているいるか否か、ということだろうと思います。
たとえば、共産主義においては、この認識が極めて浅薄であったために多くの誤謬が発生したのはご指摘のとおりです。
戦前戦中、そして現下の日本に顕著なように資本主義においても同様のことが言えるでしょう。
共産主義は超自我性に重点を置きすぎて本能・自我の側面を、資本主義は本能・自我に重点を置きすぎて超自我性の側面を見失っていることが誤謬の原因です。
◎「人間はどうあるのか」◎
に関して正しい認識が為されないまま、
◎「人間はどうあるべきか」◎
に突き進んでしまうと、さらなる誤謬につながるのは当然のことと思われます
ただ、
◎「人間はどうあるのか」◎
に関して正しい認識が為されるのなら、つまり、
◎空間的論理を駆使して長距離相関に着目して収まるところに収まっているかを探る◎
なら、
◎「人間はどうあるべきか」◎
に関しても正しいものが導かれるのではないでしょうか。
その上で得られた、
◎「人間はどうあるべきか」を発想の根幹に置く◎
ことは可能ですし、意味のあることだと思います。
二つ目は、
◎理念を優先させるのではなくて事実を優先させながら解決策を模索◎
するのだとしても、理念なくして模索はできないのではないか、という点です。
事実から目を逸らしつつ理想ばかり語るところからは何も得られない、という点では同じことを言っているのだと思います。
全く同感です。
しかし、視点をどこに据えるかによって、思想の内容は大いに異なってくる、ということなのでしょう。
切り口の新鮮さという意味では大変興味深く、また参考になります。
No.42
- 回答日時:
おかしい人 変わった人 は悪人ではありません。
単なる“性格・性質”の表れにすぎません。
おかしい人はplapoti氏。
変わった人はcyototu氏。
批判すれば、plapoti氏は言い訳が過ぎ、cyototu氏は自信過剰です。
言い訳人間はそれが正論であっても嫌われ、自信過剰人間はそれが正しければ好かれます。
cyototu氏の自信は他者、世間、に認められているところから発します。
plapoti氏の言い訳は他者、世間、に認められない“僻み”から来ています。
hakobuluさんのplapoti氏への“最後っ屁”は当たって言います。同感です。
とても良い質問や回答を寄せてくれたplapoti氏に望みます。
cyototu氏を見習い、堂々とした自信のある態度を身に付けて、ここに戻ってきてください。
待っています。
ご回答ありがとうございます。
>おかしい人 変わった人 は悪人ではありません。
単なる“性格・性質”の表れにすぎません。
:
そういう場合も多いですよね。
悪人と同様に位置づけられる場合についてはいかがでしょうか。
>“最後っ屁”
:
になっていたとしたら謝罪します。
29日中は返信可能と想定しての投稿だったのですが、申し訳ないことでした。
ご両人の良いところは、正直で主張が明確である点。
欠点は・・・まあ、お互いさまなので言わぬが花・・ですかな。
No.41
- 回答日時:
#36関連で。
私は誤植を日常茶飯事にやっておりますが、今回の誤植は楽しい誤植でした。たった一字、「を」と「に」の打ち間違いで意味が全く反対になってしまったとは一寸した発見で、私の人生でも稀な誤植として楽しい誤植の筆頭クラスに入る誤植でした。その誤植を改めて、
>論理的な整合性の分析を「この世界に何が起こって来たのか」すなわち、「この世界はどうできているのか」の言葉で表される事実の分析「に」優先させてしまうと、自分の言っていることは論理的に整合しているのだから、それが世の中の「真理」であると頓珍漢なことを言い出してしまう危険がある。
と読んで下さい。実は DNAを変えること以外に誤植を避けることができないのが人間ですので、このような誤植があっても、こちらの言いたいことを誤解なく伝える方法ってあるのです。推敲を十分繰り返せば、これから以下で説明するそのような方法を使うことが出来たはずですが、私の今回の一連の回答では、推敲をほとんどせずに撲り書いてしまったので、こんな面白い誤植に遭遇出来たのでしょう。その方法とは、同じことを何度もくどいくらい繰り返すと言う方法です。学校では、文章は繰り返しを避け、簡潔に必要最小限に書けってなことを教わった記憶がありますが、それって間違いです。
>◎人々の多くの不幸の原因◎となるものが一切生じない思想というものが存在し得るというお考えでしょうか。
ハコブルさんはデジタル人間なんでしょうか。世の中を、0と1でしか理解出来ていないようですね。だって、「一切生じない」ってな言葉をいとも簡単に仰っているのですから。複雑系の典型としての人間の関わった事象は常に確率論的であり、決定論的ではありません。確率論的事象の本質は、その事象に必ず「揺らぎ」が伴うことです。揺らぎとは、平均値からのズレのことです。平均値としてああだこうだと言っても、必ず、そこからズレてしまう事象が起こりうる。その時に、人々は思わぬ発見をするんですね。そう、決定論的な世界には発見なんてない。確率論的な世界では、自分が意図した方向とは違った事象もその揺らぎの部分から出て来るんですね。だから、少なくとも人間と言う本質的に確率論的存在を記述するときに、不幸の原因となるものが一切生じない思想なんてあるはずがありません。
要は、不幸の原因があるのかないのかを問うのではなく、不幸の原因を生じさせる可能性が高いのか低いのかと問うべきです。そして、実際に起こった歴史を振り返ってみると、儒教や共産主義で引き起こされた不幸が余りに多大だったと言っているのです。
>ひょっとして、人間は変わろうとしてはいけない、または、無理である、あるいは、意味がない、とおっしゃっていますか?
人類の歴史は、「人間はこうあるべきであるから、そのようにあなた方も変わりなさい」と言うアプローチが多大な不幸をもたらして来たことを、これでもかこれでもかと言う経験から教えてくれました。プラポチさんも仰っているように、「こうあるべき」と主張している人は、正しいことが何であるかを知っていると主張しているのです。でも、上記の繰り返されて来た不幸から、人間てほとんど何も解っていないことに気がついたのですね。そこで、その人間の未熟さを認め、何が正しいのかを主張するのではなく、何が解っていて、何が解っていないのかを、現実の人間の観察から探り出し、実際の人間はどうあるのかを調べてみようと言うやり方に進化して来ました。要するに近代科学の誕生です。
以下に述べることは経験則であり、どうしてそうなってしまったのかの説明はまだついていないのですが、進化をする場合、個で行われる進化は、種として行われて来た進化を必ず繰り返します。生物学ではこれを
「個体発生は系統発生を繰り返そ」
と表現されています。これは、生物ばかりでなく学問も同じで、人類が種として発展させて来た学問を自分のものとして体得するには、いきなり最先端の科学的知見だけを教えてもそれは無理で、その最先端に至るまでに人類が経験してきた、紆余曲折した学問の進化を一通り自分自身の中で追体験しなくてはならない。どうしてそうなのかは知りませんが、それ以外に最先端の状態に到達する手はないらしいのです。しかし、生物の場合でも個が種としての数億年をかけた進化を追体験する時間は桁違いに短い時間で済み、例えば人間の場合では、母親の胎内で下等なミミズみたいな状態やエラや尻尾のある状態から人間の形にまで進化するのに、たった9ヶ月で済みます。学問も同じで、数百年かけた学問の進歩の追体験を各個人が経験するのは、ほんの数年で済むようです。
その見方から、改めて人間が世界や自分たちを理解する過程の進化を振り返ってみましょう。まず、少なくとも10万年ぐらい前の辺りから、「自然や人間はどうあるべきであるのか」という形で世界を認識しようとして来たようです。「人間はどうあるべきであるのか」の代表例は、釈迦や孔子やイエスです。また、「自然はどうあるべきであるのか」の代表例はアリストテレスです。そして、次の段階として「自然や人間は実際にはどうあるのか」という見方が三、四百年前のガリレオやマキュアベリあたりから出てきた。所謂自然科学や人文科学の誕生です。
そして、我々個人でもその成長過程でこの人類の系統発生を繰り返しています。事実、4歳ぐらいの子供が「言葉が人を動かすことができる」ことに目覚めた証拠に、電車等でやたらに「うんち」等の汚い言葉を繰り返して、同伴の大人たちの慌てぶりを楽しんでいる光景を良く見かけますね。そして、思春期になると、言葉が論理であることに目覚め、やたらに屁理屈を言うようになる。そんな連中が言い出す代表例が「人間はどうあるべきか」です。ところが、大抵の場合、実社会に出て現実の世界を知るようになると屁理屈に興味がなくなり、現実の世界で自分がどう対処すれば良いかを考えるようになる。
これって、見事に人類の種としての系統発生を個人が個体発生の中で繰り返している事例ですね。もちろん、生物の世界を見ても、数億年前で進化が止ってしまい、その後もずっとミミズのままでいる者もおります。思索の世界も同じで、思春期にその進化が止ってしまい、一生屁理屈に恍惚としている存在がいても不思議ではありません。ただし、その態度は、人類の進化に逆らった態度であるということは言うことが出来ます。人類の進化に逆らって何が悪いと言っている人にとやかく言っても始まりませんが、人類って思索の世界でも進化して来たと言う事実は知っていて損をすることはないと思いますが、如何なものでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
>と読んで下さい。
:
了解しました。
私も良く確認すべきだったと思います。
「論理的な整合性」を物理学の要素のひとつと捉えていたため、解釈を誤ってしまったようです。
>だから、少なくとも人間と言う本質的に確率論的存在を記述するときに、不幸の原因となるものが一切生じない思想なんてあるはずがありません。
:
そうですよね。つまり、
◎論理的に整合した理念を事実に優先させて人々を不幸にした実例として、共産主義や儒教◎
を挙げておられますが、
▼事実を論理的に整合した理念に優先させて人々を不幸にした実例▼
も同時に考慮されるべきではないですか、ということを申し上げたかったわけです。
>平均値としてああだこうだと言っても、必ず、そこからズレてしまう事象が起こりうる。
:
とおっしゃる(この点は大いに同意いたしますが)のであれば、
>儒教や共産主義で引き起こされた不幸が余りに多大だった
:
と決めつけるのは、個人の見解としては理解できますが、
◎自分の言っていることは論理的に整合しているのだから、それが世の中の「真理」であると頓珍漢なことを言い出してしまう危険がある◎
ことの例としてあげるのは、どうも整合性が取れていないように感じた、ということです。
まあ、しかし、そういう個人的なご見解をお示しいただいたと受け止めておくべきなのかもしれません。
>「こうあるべき」と主張している人は、正しいことが何であるかを知っていると主張しているのです。
:
そのように主張していない人って存在します?
◎何が正しいのか◎
を模索する過程で、
◎何が解っていて、何が解っていないのか◎
という近代科学に焦点が当てられるのではないですか。
わざわざこれを対立的関係と見なす必要性は全く無いと思いますけどねえ。
>「個体発生は系統発生を繰り返す」
:
以下の文は、 cyototuさんの面目躍如といったところ、かなり楽しく読ませていただきました。
全体的な印象として、 cyototuさんは保守派なのでしょうね。
共和党やトランプ氏支持派のようにお見受けいたします。
安全圏に味を占めてしまうと、それ以上の変化を求めないようになるのは、本能的な感覚として極めて自然な流れと言えます。人間も所詮動物ですしね。
補足欄に少し続きを記します。
No.39
- 回答日時:
コメントを拝見いたしました。
先回の投稿で終了の予定でしたが、経営者についてのコメントをいただいてゐますので、最後にもう少しだけ。かなづかひのこともあつて、知合ひには私であることがわかる人も結構ゐます。さういふ人の迷惑になるかもしれませんので、事実に反するところは訂正しておきます。>お前の提案は素晴らしいから、ぜひ採用させてもらう。でも、お前は嫌いだからやめてもらう。
子会社に勤めてゐました。最終的には現場を知らない親会社の意向で解雇になりました。子会社の社長には判つてもらへました。
>経営者の気持ちを忖度すればこそ、◎自発的におこなつてゐる◎
さういふ発想や態度が情けない、と言つてゐます。
*** *** *** *** ***
回答番号33の方が「あなたは 哲学が無理でしょう。」と指摘なさつてゐるとほりなのですが、ハッコブールさんは哲学の基本は何だとお考へですか。人それぞれなのかもしれません。私は、ソクラテスの言ふ「知らない」であり、cyototuさんがお好きなモンテーニュの「私は何を知つてゐるのか」だと思つてゐます。多くの人がしばしば「無知の知」について語り、それを賞賛しますが、しばしばおろそかにされる言葉です。
回答番号36の御意見もまさしくこの「無知」を説明したものです。知らないからこそできるかぎり「人間はどうあるのか」といふ「現実」を探さうとします。ハッコブールさんのお好きな「人間はどうあるべきか」といふ「真理」を「知つてゐるのだ」、その「真理」によつて解決してゆくのだ、といふ態度ではありません。もちろん両方必要なのですけれど、前者こそが基本姿勢だとするのが、cyototuさんです、もちろん私も、また他の幾人かの方たちも。誤りだらけの道、知らない状態が続く道ではありますけれど。しかし、「知らない」すなはち「馬鹿・アホ」であることが、事を運ぶうへでうまく機能してゆくことは私は経験で感じます。人間の歴史においても、馬鹿にされ、蔑まれてきた人たちが、見えないところで大きな役割を果してきたのではないかとも思つてゐます。「真理」によつて、ハードルを上げ、それに達しないひとびとを排斥しようとしてきた例はすでにcyototuさんが示してくださつてゐます。
それ以前に、トラック運転手といふのは、結構あちこちで見下げられます。さきほど社会の底辺と書きましたが、馬鹿にされるのはごく普通の状態にすぎず、気になるやうなことではありません。哲学向きの商売だと思つてをります。
ご回答ありがとうございます。
>さういふ発想や態度が情けない、と言つてゐます。
:
解雇や不遇を避ける態度が情けない、とおっしゃっていることになりますが、それはどうでしょう。
>多くの人がしばしば「無知の知」について語り、それを賞賛しますが、しばしばおろそかにされる言葉です。
:
客観的に見回してみればすぐにお分かりになりますが、それを気取って、つまり、「無知の知」について語ることによって、自分だけは無知ではないのだ、と主張している方がほとんどでしょう。
そもそも、そういう方は、こうした場所には顔を出さないはず。
出しても、自ら「無知の知」とか「あなたは 哲学が無理」なんてことは言わないですよね。自己矛盾ですから。
宗教に限らず、盲信というのは怖いものですね。
やはり自己責任で、是々非々を模索していくのが王道でしょう。
>知らないからこそできるかぎり「人間はどうあるのか」といふ「現実」を探さうとします。
:
そうした現実を探したあと、
◎「クヅ」「犬」「ミヂンコ」などと思つて人に接することもありますし、実際口にすることだつてあります。
理由は明快です。そのほうが自分も相手もうまく事が運ぶからです。(#28)◎
というわけですね。
まあ、それで納得しているのだ、と言われれば、見解の相違ということになりますかね。
>もちろん両方必要なのですけれど、前者こそが基本姿勢だ
:
とおっしゃるには、それなりの根拠がおありだと思うのですが、しかし、なぜ後者が基本姿勢ではいけないのか、よくわかりませんね。
真理を模索しようとすることが、それほどいけないことなんですかねえ・・。
まあ、そうしないほうが、
◎自分も相手もうまく事が運ぶから◎
と言われてしまえば、それまでなのかもしれませんが。
>しかし、「知らない」すなはち「馬鹿・アホ」であることが、事を運ぶうへでうまく機能してゆくことは私は経験で感じます。
:
前回お話した『反動形成』です。
処世術としては面白いですが、容易に見透かされます。見透かされると信用を失うことにつながるでしょう。
>それ以前に、トラック運転手といふのは、結構あちこちで見下げられます。
:
おそらくですが、ご自身が、一番、そう思っておられるはずです。
商売が
◎哲学向き◎
であるかどうかということと、人の生き様とは何の関係もないでしょう。
No.38
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
No.24です。hakobuluさんは、分かっていることを聞くから困ったものですね。
>◎非我=私はいないとすること◎
の根拠のようなものについて、お釈迦様はどのように言っているのでしょうか。
仏教では、自我とは、私が煩悩に執着しているという意味です。
非我とは、諸行無常のことで、私は無常であるということです。
>◎面白い◎
と思えるための考え方みたいなものがあれば、もう少し教えてください。
私は、誰にも真似ができないことを黙々と持続的に行っているのです。
だから、その組織でも個人でもいいのですが、自分がいなくなれば、同じことを出来る者はいなくなります。
さらに、自分が未来に行おうとしていることは、永遠になくなります。あ~あですね。
まっ、他人も同じでしょうから気にしなくてもいいのですよ。
ご回答ありがとうございます。
>非我とは、諸行無常のことで、私は無常であるということです。
:
永遠普遍ではない、ということだと思いますが、なぜそう言えるのか、という根拠をお釈迦様は示しておられたかどうか、を知りたかった次第です。
>私は、誰にも真似ができないことを黙々と持続的に行っているのです。
だから、その組織でも個人でもいいのですが、自分がいなくなれば、同じことを出来る者はいなくなります。
:
そうでしたか、そうした方は尊敬します。
がんばっていただきたいと思います。
>まっ、他人も同じでしょうから気にしなくてもいいのですよ。
:
どうも、勿体をつけるという良くない習性から抜け切れないようで。
あなたのような方は、もっと具体的に道を示すべきじゃないんですかね。
次からは、もう少し突っ込んだご回答を期待します。
細かな事情を教えてくれ、と言ってるわけじゃないんです。
週刊誌の記者じゃないので。
そこで得られたところのものを、骨太の方針として示してみてくれませんか、と申し上げています。
分かっていること、当たり前のこと、であっても、切り口や表現の仕方、つまり視点が異なると目からウロコで納得に致ることって結構あると思うのですよ。
私が質問するときは、概ねこうしたスタンスですので、まあ、よろしく頼みます。
ある程度の方がご覧になっているはずで、視点は多様であって良いと思います。
そうした方々の納得につながっていけば、さらに嬉しいことですよね。
No.37
- 回答日時:
こんばんは。
国語カテゴリのOKATさんやtobiさんには挨拶してゐませんが、すんなり忘れてもらへるでせう。>経営者のキャパシティの範囲内でやらないと疎まれて損をしますよ。
さういふ事情で、今はアルバイト運転手をしてゐます。でも経営者といふのは、それなりに話がわかるものです。今までクビになつたのは一度だけですが(食品偽装の解決案の提示)、やめるときには頭を下げてくれ、私の提案をすべて採用してくれました。
よくマスコミがサービス残業について糾弾してゐますが、現実は経営者が命じてゐるのではなく、従業員が自発的におこなつてゐる場合が多いと思ひます。私自身さう感じてゐますし、このサイトの投稿を読んでもそれが大多数の意見のやうに思ひます。結局トラブルを起して退職した者が、会社を恨んで問題にするのをマスコミが取上げるのではないでせうか。かういふのは卑怯だと思ひます。改善したいなら、在職中にやるものです。
補足6の「ホームレスのおっちゃん」といつてもいろいろですので、むづかしいものです。なけなしの財産で援助したら、単なるドケチの大金持ちだつた、なんてのも世の中の一部です。私としては、騙された人が「彼を貶めるのは真理に反する」とは思へません。むしろそれが真理だとして、ののしつてゐる場面に止めに入つたら、「そんな奴に味方するのか」と激高して、民事ですんでゐたものが刑事事件になりかねません。
>これを備えたら鬼に金棒じゃないですか。
鬼に金棒と機関銃の、アルケーさんとぶらげろさんに習つて、ここ数箇月やつてきたのですが、さほど上達しませんでした。退会するときは一番の嫌はれ者になるつもりでしたが、超一流にはかなひません。これが、凡人が思想を伝へるための効果的な方法だと思つてゐます。「馬鹿の正論」として何度が投稿したのですが、だれそれのありがたい言葉などと思つてゐるうちは、それが身についてゐない証拠です。実践して何か失敗したら、教へてくれたあの人が悪いのだ、と言ひ訳を考へます。人間とはさういふ生き物です。そして思想に懐疑的になります。でも馬鹿な嫌はれ者がさりげなく正論をつぶやいておくと、だんだんと周囲の人は感化されてゆきますが、馬鹿に教はつたのだとは認めたくありません。それで次第に、これは自分のオリジナルの思想なのだと勘違ひを始めます。さうなれば失敗しても他人のせいにはできません。馬鹿の思想が完全に身についた瞬間です。私は「おまへの発想は俺のパクリだ。」と非難されることが大きな喜びです。職場ではなるべくさうなるやうに仕組んでゐます。人間の歴史を動かしてゐるのも、偉人以外では案外、馬鹿だと蔑まれてゐる者なのかもしれません。
ご回答ありがとうございます。
>今までクビになつたのは一度だけですが(食品偽装の解決案の提示)、やめるときには頭を下げてくれ、私の提案をすべて採用してくれました。
:
「お前の提案は素晴らしいから、ぜひ採用させてもらう。でも、お前は嫌いだからやめてもらう。」
こういうのが、
◎それなりに話がわかる◎
経営者なのですね。
>よくマスコミがサービス残業について糾弾してゐますが、現実は経営者が命じてゐるのではなく、従業員が自発的におこなつてゐる場合が多いと思ひます。
:
全く間違っていますよ。
経営者の気持ちを忖度すればこそ、
◎自発的におこなつてゐる◎
に決まってるじゃないですか。
サービス残業が当たり前でなければ働けない時代があった(ある)のですよ。
残業代だけは払うが、他の待遇は最低限の質に(合法的に)落とす、なんてことは平気でできるでしょうよ。
それを怖れればこそのサービス残業なのです。
喜んで「自発的」にやっている人なんて、まあ、一万人に一人ぐらいがいるかもしれませんがね。
よほど特別なプロジェクトの場合、あるいは、よほど能天気な仕事でしょう。
>だれそれのありがたい言葉などと思つてゐるうちは、それが身についてゐない証拠です。
:
これは正論。
すべて是々非々で判断するのが正しい。
ただ、これは自らの論理的判断ですので、自己責任です。
>実践して何か失敗したら、教へてくれたあの人が悪いのだ、と言ひ訳を考へます。
:
は筋違いでしょうね。
>でも馬鹿な嫌はれ者がさりげなく正論をつぶやいておくと、だんだんと周囲の人は感化されてゆきますが、
:
こうした逃げ道を用意しての発現は、誰からも信用されないと思います。
あ、またやってるな・・という印象しか持たれない。
「我こそは神であるぞ、このわしの言うことが聞けぬとは、なんという愚か者よのお」
と四六時中のたまっている方もおられる反面、 plapotiさんのように謙虚(すぎる)方もおられる。
世の中、うまくいきませんなあ・・。
以下、補足欄で。
No.36
- 回答日時:
#29のお礼に関して横入りさせて頂きます。
>いやあ、ここで「真理」を持ち出すのは、お門違いでしょう。単に、短絡的なだけじゃないですかね。
このようなhakoburuさんの発想に真理モドキの危うさをお感じになっておられるのが、プラポチさんではないかとお察し致します。まっ、私はその危うさを感じていますが。
hakoburuさんの思考法は相変わらず「真理」なる理念を事実に優先させている。だから短絡的でない理念を突き止めれば世の中も自然も共に予測可能で、その予測に基づいて世の中を良くしたり、人々が幸せになったり、ご自分が幸せになったりできるとhakoburuさんが思い込んでいるような印象を私は持ちました。
人間の脳味噌は論理的な整合性を探ることが出来ます。その驚きを意識し始めた人間は、その脳味噌の機能を使って、論理的に整合したあらゆる可能性を探ってみる気になったようです。哲学然り、数学然りで、特に数学ではその可能性を究極まで押し進めて見たいと言うのがその学問をする動機なっているようです。そして数学の発展は自己矛盾なく整合した論理体系が無限にあるらしいこと明らかにして来た。
ところが、我々の埋め込まれているこの宇宙や世界はたった一つだけです。そう、この宇宙は、この無限の論理的に整合し得る論理体系の中のたった一つだけを具現化しているのです。例えば、私のやっている物理学は数学を言語として世界を記述していますが、数学と根本的に違うのは、この数学的に無矛盾の無限の論理的可能性の中で、我々の世界が、その中のどのたった一つの論理に整合した世界を具現化していることを探ることを目的としているところです。論理的な整合性の分析を「この世界に何が起こって来たのか」すなわち、「この世界はどうできているのか」の言葉で表される事実の分析を優先させてしまうと、自分の言っていることは論理的に整合しているのだから、それが世の中の「真理」であると頓珍漢なことを言い出してしまう危険がある。私は、論理的に整合した理念を事実に優先させて人々を不幸にした実例として、共産主義や儒教をその具体的な例として挙げています。
共産主義の理念がソ連や中国で数千万人の死亡者をもたらしたことは言う間でもありませんが、儒学とて、近隣の国で自己中心的で自己保身を最優先させる徹底的な個人主義を蔓延させ、近年の人々の多くの不幸の原因となっている事実を否定出来る人はいないでしょう。
様々な状況で現実に人間はどう行動して来たかを分析して、そう言う行動をしてしまう有りのままの人間を認めて、その行動様式を変えることなく人間社会から不幸を除く方法を探るのではなく、その反対に、DNAを変えることなく、すなわち、人間であることを放棄することなく人間を「有り得べき姿」に変えることができ、それによって不幸が取り除けると思い込み、短絡的でない「真理」や「人間はどうあるべきか」を洗練された形で論じられると思いこんでいる「真理」の信奉者たち、これが人々を欺き、不幸を作り出している一因になっていると私は思っております。
ご回答ありがとうございます。
>論理的な整合性の分析を「この世界に何が起こって来たのか」すなわち、「この世界はどうできているのか」の言葉で表される事実の分析を優先させてしまうと、自分の言っていることは論理的に整合しているのだから、それが世の中の「真理」であると頓珍漢なことを言い出してしまう危険がある。
:
物理学者は誰でも、
◎「この世界はどうできているのか」◎
を探求しているものと思っていたのですが、そういうわけでもないのですね。
>私は、論理的に整合した理念を事実に優先させて人々を不幸にした実例として、共産主義や儒教をその具体的な例として挙げています。
:
仮にそうだとした場合、それは単に、それぞれの理念・思想に見落としがあった、というだけの話でもないのですか。たとえば、
>儒学とて、近隣の国で自己中心的で自己保身を最優先させる徹底的な個人主義を蔓延させ、近年の人々の多くの不幸の原因となっている
:
とおっしゃるわけですが、
◎人々の多くの不幸の原因◎
となるものが一切生じない思想というものが存在し得るというお考えでしょうか。
>人間であることを放棄することなく人間を「有り得べき姿」に変えることができ、それによって不幸が取り除けると思い込み、短絡的でない「真理」や「人間はどうあるべきか」を洗練された形で論じられると思いこんでいる「真理」の信奉者たち、これが人々を欺き、不幸を作り出している一因になっている
:
わけですね。
なるほど。
色々な意味で新鮮なご見解と受け止めさせていただきました。
私の取り違えかもしれませんが、ひょっとして、人間は変わろうとしてはいけない、または、無理である、あるいは、意味がない、とおっしゃっていますか?
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#6さんから「何かわかりやすい事例を」という要請がありましたので、少し補足させていただきます。
散歩の途中でよく見かけるホームレスのおっちゃんがいるのですが、彼に対してあからさまな侮蔑の言動をとる人も、たまにいまして、これは、その人にとっても、おっちゃん自体にとっても不幸な事態ではないか、と思うわけです。
しかし、そういう言動を取る人も、言ってみれば、思わず、そうしてしまうのでしょう。
おそらく、そこには何らかの無知が存在している。
それに起因するなんらかの誤謬が、そこに発生しているのだろう。なぜなら、ホームレスを侮蔑する(一見、優位に見える)側自体が幸せな気持ちになれるはずはないのだから。
といったようなことを探ることで、「異質」に対する問題の解決が少しは見えてくるかもしれません。
>怖いのは信念にもとづいて行動するひとです。社会に貢献しない者だとして攻撃します。信念とまでは言へなくても大なり小なりそんな気持ちがあるのではないでせうか。
:
たしかにそうですね。
ただ、悲しいかな、そういう方は、その信念がどこから出てくるのか、ということに関して無知なのだろうと思うわけです。
人は、常に乗り越えられそうな壁を探し、それを乗り越えることによって成長しようとするものです。
小学生などが(社会的に)弱い立場のホームレスを壁として乗り越えたがるのは、そのためです。
言ってみれば優越感を覚えるわけですが、自我未発達の場合、大人でも同様のことをするのは、きわめて自然な理屈でしょうね。
>献身的で周囲の人への愛情にあふれた生活をしてゐたのに、運悪く騙されて人生が転落したのかもしれません。
:
どんな生活をしていたとしても、彼を貶めるのは真理に反する、というのが私のスタンスです。
>「反省」というのは、他人から排斥的な行為を受けたとき、自分になにか非があるのかなと内省するということです。
:
補足質問にお答えいただきありがとうございます。
わかりましたが、しかし、順序が逆のようにも思いますねえ。
たしかに、
◎怒るタイミングを逸してしまう◎
可能性はありますが、
◎見極めは難しい◎
でしょうし。
「おかしい人 変わった人」という質問タイトルではありますが、誰しも、このような評価を受けてしまう局面はあると思います。
その場合にどう対応するのか・・。
難しい問題ではあります。
>職場ではなるべくさうなるやうに仕組んでゐます。人間の歴史を動かしてゐるのも、偉人以外では案外、馬鹿だと蔑まれてゐる者なのかもしれません。
:
はっきり申し上げて、あなたは、自分ほど賢い人間はいないと思っておられますね。
馬鹿だと必要以上に強調なさることから、それが良くわかります。
つまり、「いいえ、あなたこそが本当の賢者です」と誰かに言ってほしいのだが、そう言われないことが怖いので、あらかじめ、自分自身で水準を下げているわけです。
反動形成と呼ばれる、自我防衛機制のひとつです。
他人であれ、自分であれ、偽りに対しては拒絶反応を示すように人間はできていると思います。
素のままでいいんじゃないですかね・・。
あれこれ小細工せずに。
>実社会に出て現実の世界を知るようになると屁理屈に興味がなくなり、現実の世界で自分がどう対処すれば良いかを考えるようになる。
:
それで良いのだ、とおっしゃるわけですが、ここは、完全に見解の相違のようです。
こうした、
◎人類の種としての系統発生◎
から脱しきれないからこそ、世界は混迷から抜け出せないのではないでしょうか。
おそらく、
◎人類の進化◎
についての考え方に食い違いがあるのでしょう。
もうひとつ、cyototuさんが勘違いされていると思う点ですが、
論理的整合性と「真理」とが必ずしも合致するわけではない、ということです。
人間は理性的に論理を駆使する一方で、本能という制御が難しいものも同時に抱えています。
これらを制御する役割が自我なわけですが、制御が万全というわけではありません。
つまり、論理的不整合が人間にとっての「真理」となる場合も極めて多いということです。
少し補足しておきますと、
>「人間はどうあるのか」の事実の分析が先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。
:
に同意するのは、あくまで、
▼「人間はどうあるのか」の事実の分析が先行、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。▼
という順序の問題としてです。
「人間はどうあるのか」の事実の分析が優先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。
といった、重要性の違いを意味する内容であるなら不同意ですので念のため。
いずれにせよ、ホームレスのおっちゃんが他者から侮蔑の目を向けられて不快に感じているとしたら、あるいは、ホームレスのおっちゃんに侮蔑の目を向けて満足しているような人々の卑小な精神に対して、哲学が、人間の可能性という観点から何らかの答えを出せないものか、というのが質問の趣旨です。
散逸構造自体は、極めて興味深いもので教えていただいたことには感謝しておりますが、それはあくまで「どうあるべきか」を探るための、ひとつの手段にすぎないし、そうであるべきではないだろうか、という感想を持つ次第です。
つまり、「どうあるべきか」を排除した「どうあるか」はあり得ない。
とはいえ、
>その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくこと
:
も、安易な「どうあるべきか」が氾濫している現状に着目すれば、極めて重要。
どちらも重要でしょうが、どちらに力点を置くのか、あるいは折衷案は無いのか、といったことになっていきそうな気もしますね。