アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。
あるいは、排斥を目的として、そのような認識が為される。
これって、案外、諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
煎じ詰めると、質問としては、次のようになります。

【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

こうした2方面からのアプローチをお願いしたいと思います。

質問者からの補足コメント

  • #6さんから「何かわかりやすい事例を」という要請がありましたので、少し補足させていただきます。

    散歩の途中でよく見かけるホームレスのおっちゃんがいるのですが、彼に対してあからさまな侮蔑の言動をとる人も、たまにいまして、これは、その人にとっても、おっちゃん自体にとっても不幸な事態ではないか、と思うわけです。
    しかし、そういう言動を取る人も、言ってみれば、思わず、そうしてしまうのでしょう。
    おそらく、そこには何らかの無知が存在している。
    それに起因するなんらかの誤謬が、そこに発生しているのだろう。なぜなら、ホームレスを侮蔑する(一見、優位に見える)側自体が幸せな気持ちになれるはずはないのだから。
    といったようなことを探ることで、「異質」に対する問題の解決が少しは見えてくるかもしれません。

      補足日時:2016/02/25 20:12
  • >怖いのは信念にもとづいて行動するひとです。社会に貢献しない者だとして攻撃します。信念とまでは言へなくても大なり小なりそんな気持ちがあるのではないでせうか。

    たしかにそうですね。
    ただ、悲しいかな、そういう方は、その信念がどこから出てくるのか、ということに関して無知なのだろうと思うわけです。
    人は、常に乗り越えられそうな壁を探し、それを乗り越えることによって成長しようとするものです。
    小学生などが(社会的に)弱い立場のホームレスを壁として乗り越えたがるのは、そのためです。
    言ってみれば優越感を覚えるわけですが、自我未発達の場合、大人でも同様のことをするのは、きわめて自然な理屈でしょうね。

    >献身的で周囲の人への愛情にあふれた生活をしてゐたのに、運悪く騙されて人生が転落したのかもしれません。

    どんな生活をしていたとしても、彼を貶めるのは真理に反する、というのが私のスタンスです。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/26 17:27
  • >「反省」というのは、他人から排斥的な行為を受けたとき、自分になにか非があるのかなと内省するということです。

    補足質問にお答えいただきありがとうございます。
    わかりましたが、しかし、順序が逆のようにも思いますねえ。
    たしかに、
    ◎怒るタイミングを逸してしまう◎
    可能性はありますが、
    ◎見極めは難しい◎
    でしょうし。

    「おかしい人 変わった人」という質問タイトルではありますが、誰しも、このような評価を受けてしまう局面はあると思います。
    その場合にどう対応するのか・・。
    難しい問題ではあります。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/27 18:06
  • >職場ではなるべくさうなるやうに仕組んでゐます。人間の歴史を動かしてゐるのも、偉人以外では案外、馬鹿だと蔑まれてゐる者なのかもしれません。

    はっきり申し上げて、あなたは、自分ほど賢い人間はいないと思っておられますね。
    馬鹿だと必要以上に強調なさることから、それが良くわかります。
    つまり、「いいえ、あなたこそが本当の賢者です」と誰かに言ってほしいのだが、そう言われないことが怖いので、あらかじめ、自分自身で水準を下げているわけです。
    反動形成と呼ばれる、自我防衛機制のひとつです。
    他人であれ、自分であれ、偽りに対しては拒絶反応を示すように人間はできていると思います。
    素のままでいいんじゃないですかね・・。
    あれこれ小細工せずに。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/28 21:32
  • >実社会に出て現実の世界を知るようになると屁理屈に興味がなくなり、現実の世界で自分がどう対処すれば良いかを考えるようになる。

    それで良いのだ、とおっしゃるわけですが、ここは、完全に見解の相違のようです。
    こうした、
    ◎人類の種としての系統発生◎
    から脱しきれないからこそ、世界は混迷から抜け出せないのではないでしょうか。
    おそらく、
    ◎人類の進化◎
    についての考え方に食い違いがあるのでしょう。
    もうひとつ、cyototuさんが勘違いされていると思う点ですが、
    論理的整合性と「真理」とが必ずしも合致するわけではない、ということです。
    人間は理性的に論理を駆使する一方で、本能という制御が難しいものも同時に抱えています。
    これらを制御する役割が自我なわけですが、制御が万全というわけではありません。
    つまり、論理的不整合が人間にとっての「真理」となる場合も極めて多いということです。

    No.41の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/29 18:36
  • 少し補足しておきますと、
    >「人間はどうあるのか」の事実の分析が先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    に同意するのは、あくまで、
    ▼「人間はどうあるのか」の事実の分析が先行、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。▼
    という順序の問題としてです。

    「人間はどうあるのか」の事実の分析が優先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    といった、重要性の違いを意味する内容であるなら不同意ですので念のため。

    No.62の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/07 20:06
  • いずれにせよ、ホームレスのおっちゃんが他者から侮蔑の目を向けられて不快に感じているとしたら、あるいは、ホームレスのおっちゃんに侮蔑の目を向けて満足しているような人々の卑小な精神に対して、哲学が、人間の可能性という観点から何らかの答えを出せないものか、というのが質問の趣旨です。
    散逸構造自体は、極めて興味深いもので教えていただいたことには感謝しておりますが、それはあくまで「どうあるべきか」を探るための、ひとつの手段にすぎないし、そうであるべきではないだろうか、という感想を持つ次第です。

    No.81の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/18 14:52
  • つまり、「どうあるべきか」を排除した「どうあるか」はあり得ない。
    とはいえ、
    >その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくこと

    も、安易な「どうあるべきか」が氾濫している現状に着目すれば、極めて重要。
    どちらも重要でしょうが、どちらに力点を置くのか、あるいは折衷案は無いのか、といったことになっていきそうな気もしますね。

    No.95の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/21 20:05

A 回答 (105件中21~30件)

和光同塵。



排斥も受容もその他その他も 自然でかつ人間的なマジハリ(交通)のため
のツールとするのがよいでしょう。
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まずはその排斥感情が妥当かどうか・・・。


それはつまり人間性否定になっていないかどうか。
人間性否定・・・それは人を安心して暮らせなくする価値観。
平和と逆行する悪循環を避けるための必要条件を外すことになっていないか。
外していればそのわがままな排斥感情を改善することにこそ意味があるのだろうと思います。

わがままではない排斥感情というのは何だろうか、ということで
 人間存在に付随する共通の感覚の範疇に入るもの:生存を脅かすものに対して
 社会的動物としての感覚によるもの:協調の妨げになるものに対して
 個性を持った個人としてのもの:多様でいい範囲内のセンスへの干渉に対して

とりあえずそれ以外の排斥感情はない方がいいんじゃないか、という意見です。
そして、その判断にあたって‘盲目的・一方的・短絡的‘にならないようにする必要があるとも思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>とりあえずそれ以外の排斥感情はない方がいいんじゃないか、という意見です。

なるほど、おっしゃることは良くわかります。
ただ、
>人間存在に付随する共通の感覚の範疇に入るもの:生存を脅かすものに対して

に関して言えば、かつてのヒトラーによるホロコーストもユダヤ人によって生活基盤が奪われるのではないか、という、
◎生存を脅かすものに対して◎
の排斥だったと思います。
また、
> 社会的動物としての感覚によるもの:協調の妨げになるものに対して

については、
◎協調◎
の範囲が広すぎませんかね。
ほんの70年ほど前の日本でも、
◎協調の妨げになるもの◎
として、(今から見れば)不合理な排斥が存在したでしょう。
>個性を持った個人としてのもの:多様でいい範囲内のセンスへの干渉に対して

というのも、かなり恣意的な判断になるのではないでしょうか。
これらに関して、
>そして、その判断にあたって‘盲目的・一方的・短絡的‘にならないようにする必要があるとも思います。

とおっしゃるのも、全くそのとおりだとは思うのですが、もう少し絞っていただければ、つまり、
◎‘盲目的・一方的・短絡的‘にならないようにする◎
ための方策について、もう少し踏み込んでいただければ有りがたいと思います。

お礼日時:2016/02/26 18:31

#6関連で。



私を変わった人と言ってくれたのは嬉しいですね。ここテキサスの州都オースチンに「ヘンナ・シボレー(Henna Chevrolet)」と言う名前の自動車販売店があります。最近はヘンナ・イスズというトラック販売部門も始めています。

以前、ヘンナ・シボレーがトヨタも売り出して、テレビCMで如何にも韓国系アメリカ人らしい方を出して来て、片言の日本語で

「ヘンナさん、またやりましたね」

と言わせておりました。ヘンナさん並みに変な人と言われるのは、オースチンじゃステイタスシンポルを手に入れたようなものです。

やはり、トラック野郎のプラポチさんだけある。トラック業者はいろいろな面で見る目があるんですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>私を変わった人と言ってくれたのは嬉しいですね。

自信に裏打ちされた言葉なのでしょう。
ただ、変わっているといって尊敬される人もいれば、馬鹿にされる人もいると思うのです。
これは一緒にはできませんよね。
後者の場合でも、
◎嬉しい◎
と思えるための方策が必要じゃないでしょうか。
今の世の中には。

お礼日時:2016/02/26 19:14

hakobuluさん こんばんは



私は世の中の人は、おかしい人でもあり変わった人でもあると思っています。
これを、誰かに言葉として言ったなら、誰もが良い気持ちはしないでしょう。
だから、私は他人に「よく頑張っているね、ありがとう」と感謝の気持ちを持っています。

自分一人で全ての社会活動はできません。
分業して事を行わなければ何も進みません。
お釈迦様は、自我を捨てました。非我=私はいないとすることで、物事を考えて哲学しました。
そうすると、他人が出来ることは他人に任せればいいのです。
自分は、出来ることだけをすれば世の中は上手く事が運びます。

自我を捨て非我なる者が、自分しか出来ないことを行う私なのです。

もう、結論は出ていると思います。
天上天下唯我独尊=ブッダならば、他人を尊重して苦しみを無くす方法を説きなさい。
ホームレスは役人に保護監督してもらいましょう。

>異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。

面白いので、彼の役割に感謝する。

>他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

独自の役割を果たしているので、満足感が湧く。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>私は世の中の人は、おかしい人でもあり変わった人でもあると思っています。

たしかに、誰でも『(他人とは)変わった人』ですよね。
個性と言うわりには、こんな当たり前が通用しづらい世の中なのかもしれません。
規格化されることによる便宜性、効率性に慣らされすぎましたかね。

>だから、私は他人に「よく頑張っているね、ありがとう」と感謝の気持ちを持っています。

ここまでなるには、相当の修行が必要そうですね。

>お釈迦様は、自我を捨てました。非我=私はいないとすることで、物事を考えて哲学しました。
そうすると、他人が出来ることは他人に任せればいいのです。
自分は、出来ることだけをすれば世の中は上手く事が運びます。

なるほど。
ある意味での「無欲」ということでもあるのでしょう。
◎自我を捨てました◎
と言えるようになるのは、凡人にはなかなか難しいことのようにも見えますね。
◎非我=私はいないとすること◎
の根拠のようなものについて、お釈迦様はどのように言っているのでしょうか。

>自我を捨て非我なる者が、自分しか出来ないことを行う私なのです。

◎自我を捨て非我なる者◎
となった場合、
◎自分しか出来ないこと◎
ではなく、むしろ、
▼誰でも出来ること▼
を行なうことにはなりませんか。
凡人の素人解釈で恐縮ですが。

1.
>面白いので、彼の役割に感謝する。

面白いと思えるかどうかが分かれ道ですね。
異質も排斥も、ある意味での怖れの感情から出てくるものだと思っています。
これを
◎面白い◎
と思えるための考え方みたいなものがあれば、もう少し教えてください。

2.
>(排斥感情を向けられた場合は)独自の役割を果たしているので、満足感が湧く。

のように解釈するのですね。

お礼日時:2016/02/26 18:49

回答番号23を拝見しました。

やはり変な人は「悪人」といふよりも、「ステイタスシンボル」のやうです。

>トラック業者はいろいろな面で見る目があるんですね。

はい、おつしやるとほりです。その能力ゆゑに、疎まれ嫌悪されてしまひます。ほとんどは誤解によるものです。トラックを運転してゐると、さまざまな場面に遭遇し、多くのものが目に入ります。女子学生が自転車でスカートをひらひらさせながら通行してゐるのを見ます。そして停車したときにかう告げられるのです。「見たわね。」

回答番号6でいただいたコメントについての追記です。

>「根拠を挙げない批判や批難」これをやる人は相手にされなくても止むを得ない

私は逆に、かういふ人の相手をしたくなります。私の投稿内容は仕事の経験からくるものが大部分なのですが、職場では「ゆとり教育」の好きな学校とは違ひ、オチコボレをつくるわけにはいきません。5人分の作業には通常5人しか投入されません。一人でも無視できません。質問文に、

>「様々な局面が想定できると思います。そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。

と記載されてゐますが、職場、国家、家族、宗教組織、国際関係などなど、それぞれで見方はがらりと変つてくるのではありませんか。これまでの回答者のかたがたの御意見から判断してもそのやうに感じられます。ハッコブールさんがなぜこのやうな考へをお持ちなのかがわかりません。何か特別な意図があるのですか。これまで何度も投稿してきたことですが、部分と全体とは別物だと私は思つてゐます。小さなことがたくさん理解できたからといつて、それをふくむ全体が判つたことにはなりません。しばしばなされる主張に、ひとりひとりの意識を変革すれば世界はこのやうに明るくなるのだ、といふものがあります。私は、ひとりがふたりに、三人に、百人になつてゆけば、また別の新たな問題点が生じて、うまくゆかなくなると思つてゐます。仕事をしてゐてそれをつくづく感じます。一人の仕事を二人でやれば、三人分の成果があがつたり、半人分しかできなかつたりします。いいかげんな人間の集団でも、全体として立派な結果を出すこともできます。それが人間社会のおもしろいところではないのでせうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>やはり変な人は「悪人」といふよりも、「ステイタスシンボル」のやうです。

自信を持っている方なればこそでしょうね。
こうなると怖いものはありません。
そこまでの自信を持つことができない場合について考えていきたいと思っています。

>何か特別な意図があるのですか。

▼異質と感じるものに対する自らの排斥感情▼
▼他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合▼
こういったものが、人生を生きづらくする場合があるのではないか。
であれば、何らかの道筋を見つけることはできないか。

質問文にも書いているとおりですが、こういった意図があります。
個人的には、それが殆どの場合に当てはまると思いますが、見解の相違ということがありますので、それはどちらでも構いません。
しかし、実際にそういうことがあるのは事実でしょう。
「私は、そんな感情は持たない」
という方は当然いるでしょうし、別に、それを否定しているわけではありません。
ただ、「今、幸せだし、何の問題もないよ」と言う人について、何かを考察しようというつもりはありませんし、また、その必要もないでしょう。
そんなに不思議なことですかね。

>一人の仕事を二人でやれば、三人分の成果があがつたり、半人分しかできなかつたりします。いいかげんな人間の集団でも、全体として立派な結果を出すこともできます。それが人間社会のおもしろいところではないのでせうか。

◎半人分しかできなかつたり◎
する場合でも、
◎それが人間社会のおもしろいところ◎
と言えるのは、人間ができていますね。
私にはとても真似できません。
なぜなのか、と考えて解決策をさぐります。

お礼日時:2016/02/26 19:09

こんにちは、はこぶるくん。

(*´▽`*)









5番さまへのお礼より。
>排斥に向かう感情というものは、やはりある
>相手を憎んだり反撃したくなったり

:うん、そうだね。
ただこれの分泌量が多い人はたいてい
己自身の気に入らないところ、に対しても
同じくらいかそれ以上に分泌しているのでは?
その、排斥感情とやら。


それで、どうするか、ですって?
そりゃ、あまりに分泌量が多いと
自分も隣人も愉快ではありませんから、
分泌量を適度に調整したらよいのでは?


どのやうに調整するのか?

とりあへず他人のことは放っておいて、

自分の部屋をキレイに掃除して
自分の衣類をキレイに洗濯して
自分が美味いと思うものを喰らひ
自分が愉しいことや感動することして、
自分のしゃべりたいことをしゃべり
自分がムカつくときはサンドバッグでも殴り、
とにかく他人のことは放っておいて、
自己中になるのがよろしいのでは?


今日は菜の花と梅の花がキレイだし
多くの人が誕生祝のメッセージをくださり、
己に対する 排斥感情やら攻撃欲やらは
すっかり萎えてゐます。



>◎無視する◎
:【無視】というのもなかなか立派な
コミュニケーション方法のひとつですね。







どうも、はこぶるくん。(-。-)y-゜゜゜
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/02/26 19:10

お礼ありがとうございます。



排斥すべきものは何か?「最高の哲学に反するものすべて」と私は
定義します。
一般的には、受け入れがたい言葉だと思いますが、では「最高の哲学」
とは何かといえば、「ヒューマニズム」という言葉を使います。

一人の人間を尊重するということは、人類を尊重しなければならない
といっていいと思います。
非常にシンプルな原理で、人体に例えれば、60兆の細胞がすべて生き
生きと活動できれば、はつらつと健康に生きていけるということです。
そのためには、その個体の生命が第一という、最高の哲学に細胞たち
が立つべきだということです。
細胞同志が殺しあったり、特定の部位がえらいなんてことになったら
よろしくないということになります。
このシンプルな物の捉え方が現代社会に住む人々は分からなくなって
いるといっていいでしょう。

「人類益」う~ん、もっといい言葉はないですかね。「地球民族主義」
つまり、自他ともに利益を得るべきだという哲学です。
ハコブルさんの言葉もいいですけど、ちょっと長い(笑)。

これに反するものは、自分だけ、自分の属する団体だけ、特定の民族、
国家のみの利益があればよいという、「偏頗な哲学」ですから、これこ
そを排斥すべきだということになります。

文明の成熟の促進とは、偏頗な思想、哲学、宗教を排斥し、「ヒューマ
ニズム」を皆が認めるようになるということだと思います。
この壮大な理想を実現するために、具体的にどうしたらよいかということ
を考えたいのです。
積み木遊びをしていても仕方がないし、それこそ将来の天才たちに笑われ
ないようなものをできれば残したいですよね。

「反省」というのは、他人から排斥的な行為を受けたとき、自分になにか
非があるのかなと内省するということです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「最高の哲学」とは何かといえば、「ヒューマニズム」

人間尊重の世界観ですね。
>つまり、自他ともに利益を得るべきだという哲学

という意味での、
◎「地球民族主義」◎
は、なかなか面白い表現かもしれませんね。
たとえば、太陽爆発による地球滅亡に対処するための他惑星移住計画などが現実のものとなったりすれば、国境とか宗教とか言っていられなくなるでしょうから、
>自分だけ、自分の属する団体だけ、特定の民族、国家のみの利益があればよいという、「偏頗な哲学」

が台頭する余地はほとんどなくなりそうです。
[ 人類としての我 ] という認識で一致団結せざるを得なくなるため、 [ 自我としてのこの我 ] の主張を抑制する必要が出てくることになるのでしょう。
こうした危機に直面していない場合でも、こうした、
◎偏頗な哲学◎
を否定する根拠があるなら、
◎「地球民族主義」◎
も現実化に近づくのではないですか。
何しろ、「ヒューマニズム=人間尊重」と言っても、それ以上に「自分尊重」という心理が本能的に働いてしまいがちな生き物ですので、人間は。
ご存知のように、梵我一如という言葉があります。
宇宙を支配する原理と個人を支配する原理が同一であることを言うようですが、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」のは確かですから、梵我一如もまた真理と言えるでしょう。(順序が逆?かもですが)
ただ、これだけでは [ 自我としてのこの我 ] や「自分尊重」という認識を脱するのは難しい。
やはり、この定理( A )から導かれるところの、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
よって、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
というところまで踏み込みたいところ。

>具体的にどうしたらよいかということを考えたいのです。

そうですね。
可能な限り具体的なのが効果的であると同時に、しかし、真理であることが論理的に納得できる範囲でないと普遍性が薄れてしまうので、その辺りの兼ね合いと関連づけが悩ましい。
以下補足欄で

お礼日時:2016/02/27 17:58

丁重なコメントを拝見いたしました。

ありがたうございます。そのなかの1件につきまして回答いたします。

>どんな生活をしていたとしても、彼を貶めるのは真理に反する

私にはそのやうな「真理」がありません。むしろ「どんな生活をしていた」かとか、現在の生きる糧はどうしてゐるのかとか、別に蓄財があるのではないかとか、さういふ現実に関心があります。cyototuさんがしばしば指摘なさいますし私自身も以前から書いてきましたが、「真理」のやうな「人間はどうあるべきか」にとらはれてゐたら、現実の対応を誤る可能性が高いのではないでせうか。誤情報もふくめ、多くの情報を得たうへで初めてその場かぎりの「真理らしきもの」がつかめます。もちろん、それすら誤対応なのかもしれません。

以前あほなさんの「奇跡のレッスン」の質問に記載したのですが、私は「クヅ」「犬」「ミヂンコ」などと思つて人に接することもありますし、実際口にすることだつてあります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/9143964.html
理由は明快です。そのほうが自分も相手もうまく事が運ぶからです。だからこそ、

>◎半人分しかできなかつたり◎する場合でも、◎それが人間社会のおもしろいところ◎

になるわけです。(自分も含めてですが)「クヅ」の対応を別に考へればすむことです。「貶めるのは真理に反する」といふ前提があると、さういふわけにいきません。

「真理」などといふ「甘っちょろい言葉に惑わされる」と実際の選択肢が限定されてしまひます。最終的な歯止めとしては役立ちますが、現代の一般的な姿勢を見てゐると、甘すぎるやうに感じます。戸塚ヨットスクールの件は詳細を知りませんので私は賛成も反対もできませんが、体罰と死者といふ、そのことだけを見て反対する人がほとんどではないでせうか。問題を起す子供をかかへた家族の苦痛の現実などかへりみることもなく、体罰はいけないといふ「真理」によつて判断します。

ハッコブールさんは投稿前にどのくらゐ準備をなさつてゐるのですか。内容にもよりますが、Q&Aの大多数の投稿は「書きなぐり」の人が多いのではないかと推測します。回答するときは、質問者のプロフィール、履歴が公開されてゐたら、最近の投稿を読んでおく、また、利用者のだれかについて批判するときは、やはり同様の手筈をふんで、どの程度の鋭さにするかを決める、そのやうな「現実」を知ることは、ほとんどなされてゐないやうに思へます。閲覧するときも同じです。ほとんど目の前の文章のみで判断して、自分の好みの「真理」なるものに基づいて価値を決定してゐるのではないでせうか。

私は大切なのは「真理」ではなく「人間はどうあるのか」といふ現実だと思つてゐます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「真理」のやうな「人間はどうあるべきか」にとらはれてゐたら、現実の対応を誤る可能性が高いのではないでせうか。

たしかにおっしゃるとおりですが、この文を拝見する限りはですが、根本的な勘違いをなさっておられると思います。
つまり、現時点で、
◎現実の対応◎
を誤っていない(と思い込んでいる)人には関知しておりません。
幸せな人に対して、あれこれ言っても意味は無いでしょう。
「 Q 」自体が発生しないはずですから、当然、「 A 」も必要ないはずです。
つまり、「 Q & A 」サイトで、そのようにおっしゃられても・・ということなのですが。
◎現実の対応◎
を誤って悩んでいる人にとって、「真理らしきもの」が必要になるのだと思っています。

>私は「クヅ」「犬」「ミヂンコ」などと思つて人に接することもありますし、実際口にすることだつてあります。
理由は明快です。そのほうが自分も相手もうまく事が運ぶからです。

そうでしたか。
苛酷なお仕事をなさっておられるのかもしれません。
そうした対応でなければうまく事が運ばないのは、基本的に、経営側に、その責があるのだと思います。
致し方ないことではあるのでしょうが、ただ、
◎うまく事が運ぶ◎
ように思えるのは、その場だけのような気はしますね。

>「真理」などといふ「甘っちょろい言葉に惑わされる」と実際の選択肢が限定されてしまひます。

現実的には、それは言えますね。
矛盾したことは世の中山積していますし、私達は常に、そのどちらかを選択しなければ前に進めないのですから。
ただですね、
◎甘っちょろい◎
というのは、単純に「真理」に対する認識不足だったりする場合もありそうです。
たとえば、
◎体罰はいけないといふ「真理」◎
は無いと思います。
戸塚の場合そのように言っても、それは、ただの結果論にすぎません。

>回答するときは、質問者のプロフィール、履歴が公開されてゐたら、最近の投稿を読んでおく、また、利用者のだれかについて批判するときは、やはり同様の手筈をふんで、どの程度の鋭さにするかを決める、

そこまでマメな方とは存じませんでした。
ある意味ですごいと思います。
続きは#29で。

お礼日時:2016/02/27 18:59

続きをもうちよつと書かせてください。

回答番号6に哲学カテゴリ常連者の名前を挙げましたが、[5]の方を気遣ふ人がかなりゐるのは当然のことに思へます。

でも[1][2][3]のかたがたへは執拗な攻撃が大量になされてゐるにもかかはらず、だれ一人として同情しません。(ご本人も同情されたくないでせうけれど。[3]の方はいくぶんか気になさるやうです。)ところが未来の人へのメッセージを投稿なさる方への批判については数多くの同情が集まります。Q&Aサイトに参加し始めたころから、この現象が不思議でした。[2][3]の方と[未来さん]との議論を読んだ人の多くは[2][3]の方を非難します。ここ数箇月、かはりに私がやつてみました。そして結局はさきほど回答番号28に書いたことが原因ではないかと思ふやうになりました。極端に表現すれば、

マナーが悪いのは駄目な奴だ
科学は万能だ
難解な文章を書く人は頭がいいのだ

といつた「真理」もどきを優先してゐるのではないかと思はれます。現実がなほざりにされてゐるやうに感じます。東京と静岡の戦争がないのはすばらしい、といふ文章を読んで、そのやうな世の中にしたいなら、どういふ過程でそんな状態ができあがつたか、歴史を知ればよいだけなのに、戦争によつて統一政府になつたといふことを見ようとしません。ただ目の前の文章と、上記の「真理」によつて判断してゐるだけです。少し前にotamaさんの質問に回答しました。[未来さん]を心配しての質問なのですが、当の[未来さん]は、教えて!gooでは神妙な態度なのですが、OKWaveではのびのびと、超光速の仮説や派手なシモネタの連発で遊んでゐます。私はさういふ状況を確認してからどの程度のことを書くか決めるのですが、たぶん大多数の人たちは、さういふ現実を見ようとしないのではないでせうか。みすからの頭の中にある、人間はかうあるべき、といふ「真理」にもとづいて決定します。

宗教による洗脳や、マスコミによる輿論操作なども、それに近いのだと推測します。大切なのは、私は「人間はどうあるのか」と探ることだと思ひます。それとて、きはめて不完全なものですけれど。これはcyototuさんの表現ですので、私流に言へば、人間の弱さや愚かさは、克服するのではなく、それを認めて活用することです。この2年間できはめて多くのことを学びました。ありがたうございました。あともう2日ゐます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>私は大切なのは「真理」ではなく「人間はどうあるのか」といふ現実だと思つてゐます。

「真理」と無関係に「人間はどうあるのか」に着目なさるわけですね。
そういう視点があるとは思いもよりませんでしたが、この場合の
◎どうあるのか◎
の基準は、要するに、ご本人の感覚のみ、ということになりますか。
それであれば、楽しいのは間違いなさそうですね。


マナーが悪いのは駄目な奴だ
科学は万能だ
難解な文章を書く人は頭がいいのだ
といつた「真理」もどきを優先してゐるのではないかと思はれます。

いやあ、ここで「真理」を持ち出すのは、お門違いでしょう。
単に、短絡的なだけじゃないですかね。

>私流に言へば、人間の弱さや愚かさは、克服するのではなく、それを認めて活用することです。

貴重なご見解を開陳していただき、ありがとうございます。

>カテゴリ常連者

については、特段意識しておりません。
あくまで、記された内容がすべてだと思います。
ただし、書かれたことと本人の人となりとの関係性は極めて曖昧と捉えるのが妥当ですよ。
そういうものです。
泥棒が防犯を説いていても、それはわかりません。

お礼日時:2016/02/27 19:19

#18関連です。

hakobulu さんのご質問に対して補足説明をします。

>◎異質の存在を認識するのが苦手◎だったんですか、日本人は。逆だと思っていました。

これは多分日本の地理的状況と歴史によるのだと考えます。大陸近くにある同じ島国と言っても、イギリスと違って、日本海はドーバー海峡を越えるのと比べて桁違いに難しかった。その結果、皆無とは言えないけれど、つい最近までの途轍も長い時間、日本は異国民からの侵略も異国民への侵略も、日本以外の国々と比べてほとんど無かった。多分その歴史的経験から、日本人は世界で唯一、人間は本来善であると考える性善説を当たり前のことだと考える異様な文化を作り上げて来たのだと思います。その点、日本以外の人々は、侵略や奴隷化したりされたりの苦い経験から、異質の存在を痛いほど認識できるようになったのだと思います。

近年になって、日本も漸く他国との戦争と言う日本に取って例外的な経験をし、さらに敗戦を経験して、単なる理屈や理念の上だけでははなく、人間は本来性悪であると見なして行動した方が自分の身を守ることになると本気で考えている人間がいるどころか、それが世界の国々の標準であることを学習し、「人間はこうあるべき」と考えて理念を事実に優させて行動する前近代的、非科学的な行動様式ではなく、「人間は現実にはどうあるのか」と考えて、事実を理念に優先させて行動する近代的、科学的な行動様式が取れるようになって来たようです。この日本人の成長の進化は、敗戦と言う痛い経験から学んだことであり、私がいつも言う「人間は失敗したときにのみ、何かを学ぶ」という経験則の好例になっていると思えます。

私の経験では、優れた人は2回同じ失敗をしてその経験から学び、凡人は3度失敗してからやっとその経験から学んでいるようです。そして、人々は2度目の失敗までは何とかそれを許してくれますが、3度目の失敗は許してくれません。だから凡人はその失敗から折角学んだのに、遅過ぎだと非難され、折角学んだにもかかわらず凡人はいつまでも凡人扱いされてしまう。まっ、凡人で何が悪いと言って居直っている人には関係ありませんが、人々から優れていると賞賛されて悦に要りたい人は、2度目の同じ失敗でその失敗の原因に気付くような自己鍛錬の努力が必要のようですね。

ですから、この痛い経験から学び、そのような性悪を信条としている相手には、

>◎突っぱね続ける◎というのは、相手の状況は斟酌することなく、あくまで自らの立場を主張すべきだ、ということ

です。だから、

>(排斥感情を向けられた場合は)助けない、教えない、関わらない
そして、
>「駄目なものは駄目」「世の中には受け入れられないものがある」という、断固たる態度を示す

ということであり、相手が排斥感情を向けてくるのも、◎「駄目なものは駄目」「世の中には受け入れられないものがある」という、断固たる態度◎ですので、ガチンコ勝負しろ、ということになります。

性悪説を信じている連中に取り囲まれているゆえに必然的に起こってしまうガチンコの勝負を恐がり、そこから逃げている限り、多大な不幸を招くのは避けられないでしょう。

>>できるだけその国での異質分子となることを避け、郷にいれば郷に従うことに邁進して、その国の人々の平安と安寧を保証するように努力するべき・・おっしゃるとおりと思います。『相手を安心させること』は極めて重要な要素ですよね。ただ、そうしますと前掲された、◎断固たる態度◎との兼ね合いが必要、ということになりますかね。

いいえ、もとから郷にいる人間は断固たる態度を取れと言っているのであり、その反対に、新たに郷に入って来たものは郷に従えと言っているのです。それが出来ないようだったら、その国の人も不幸にし自分も不幸になってしまうから、自分の国に帰りなさいと言っているのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>単なる理屈や理念の上だけでははなく、人間は本来性悪であると見なして行動した方が自分の身を守ることになる

ひとつの側面として、そうしたことは言えるかもしれません。
ただ、
◎人間は本来性悪であると見なして行動◎
したからこそ、あの戦争に突き進んでしまった面もあるのではないですか。

>人々は2度目の失敗までは何とかそれを許してくれますが、3度目の失敗は許してくれません。

なるほど。
仏様より狭量であるのは致し方ないのでしょうね。

>性悪説を信じている連中に取り囲まれているゆえに必然的に起こってしまうガチンコの勝負を恐がり、そこから逃げている限り、多大な不幸を招くのは避けられないでしょう。

おっしゃりたいことは良くわかるつもりですが、この逆のパターンもあると思います。
◎ガチンコの勝負◎
を挑んだばかりに
◎多大な不幸を招く◎
というパターンのことですが。
1931年に始まる、いわゆる15年戦争で、日本人は、そのことを学んだのではないか、と考えていたのですが、違いますかねえ・・。
とはいえ、どちらか一方だけに絞ることは無理であり、状況に応じて対処していくしかないのでしょう。
そこでお尋ねしたいのですが、
◎ガチンコの勝負◎
を挑まないという姿勢について考察する意味は皆無だと思われますか。

>もとから郷にいる人間は断固たる態度を取れと言っているのであり、その反対に、新たに郷に入って来たものは郷に従え

たとえば移民などの場合はいかがですか。
アメリカは世界一の移民国だと思うのですが、コリア・タウン、チャイナ・タウン、リトル・トウキョウ、その他ヒスパニック系の街などもあるように思うのですが、そうした存在については、どのようなスタンスで見ておられるのか、興味が湧きますね。

お礼日時:2016/02/28 16:23
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