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ヘーゲルの弁証法について、
長谷川宏さんの「新しいヘーゲル」解説をみると、
「まとまり」がキーワードであり、
例えば、種から出発した生命過程が、何回かの否定を経て、ふたたび種に戻る。

種>>>>種の循環ような「まとまり」がヘーゲルの弁証法のキーワードだと書いてあります。

そこで質問なのですが、弁証法的に考えると、仮に、共同体が人倫(真の自由の実現)に到達しても、
絶えず運動する運動体としての弁証的性格を考えると、人倫もまたつかの間の過程にすぎず、また、奴隷制や専制に戻るのでしょうか?

でないと、循環的運動体としての弁証法的性格が成り立たないように思うのです。
もし人倫もしくは絶対精神に到達したら、弁証法はもうストップしてしまうのでしょうか?

A 回答 (2件)

例えば、種から出発した生命過程が、何回かの否定を経て、ふたたび種に戻る。


これを実際にやってみれば良いと思います。



実はまったく同じにはならず
種(タネ)は増え、種(シュ)として発展していくのです。




アウフヘーベンを「止揚」と翻訳するのを嫌う層が
「循環」と翻訳したとして、ひとつ重要な意味が
失われてしまうかもしれません。



その「循環」が描く軌跡は「円」ではなく、実は「螺旋」なのです。




方法論としては同じ形態を繰り返しますが、その結果(歴史)が
反映される限り、次の行程での結果は異なりうるのです。
というわけで、「循環運動」じゃなく「循環発展」とか
「螺旋上昇」とか「改善循環」のほうがイメージしやすいかも?
(ゴロがあまり良くないので、訳語はご自由にお任せします・・・
とりあえず面倒なので以下は仮にアウフヘーベンと書いておきます。)


そして、「絶対的精神」に到達してもそれは止まりません。
「主観的精神」(個人や形而上学的な物自体)から
「客観的精神」(「法」を介在した相互承認)へ、そして
「絶対的精神」(合意形成に前段階までのような前提が不要な状態)
というのは、点ではなく、その「方法論」の「状態」
をあらわしたものと考えると良いかも知れません。




というわけで、奴隷制や専制に戻ることはあり得るか、というと
現時点を基準にするなら、どちらもあり得るかなぁと私は思うのです。

少なくとも第二段階である客観的精神、
法による相互承認の考え方は世界中に定着してきていますよね。
これが順調に進めば階級を是とする社会へ戻ることは無いのですが、

一方で、何らかの変化や混乱によって法が停止すれば、
階級を許容する制度専制や奴隷制が復活したとしても不思議ではありません。


とはいえ、ここからが重要なのですが、
古代の民主主義・奴隷制から専制・奴隷制に移行した
失敗を踏まえ、現代の我々が成す民主主義の理論的支柱が
全く異なるのと同様に、中世キリスト教支配下の専制・奴隷制の
失敗を知る者たちが作る制度は、


専制(改)・奴隷制(改)

とでもいうべきものであって、全く異なるのです。
さらにはその先、やはり専制(改)や奴隷制(改)ですら
失敗が明らかになればその失敗と、さらに現在の民主主義を改めた
次の段階に移行していく、というのもアウフヘーベンでもあるわけです。






おまけで「絶対的精神」に到達したら破たんするんじゃないのん?
というツッコミに関連する有名どころは、ニーチェの「最後の人間」と
いうのがあります。

そもそもたどり着けるかどうかの前に、高尚な思想に到達した
我々こそは「絶対的精神」の持ち主である!と名乗りだす人々の出現が、
アウフヘーベンを完全に停止させ、社会を疲弊させていくわけです。



現代でも、宗教団体の信奉者が我こそが完成された世界の人間と
言いだして周りに不和と破たんをまき散らしている様などは
わかりやすいでしょうか。

これを否定できるかというと、直接的な対策は難しく時間がかかりますが、
彼らはほおっておけば自らの足を切り落として同じ世界にとどまるので、
その間に彼ら以外の世界が客観的精神の世界を発展させることにより
淘汰され、超越できることでしょう。
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まづ 《絶対精神 / 世界精神》というのは 次の説明における《無限》の


ことです。

▲(ヘーゲル:法の哲学の講義録より) ~~~~~~~~

無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 
どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 
この矛盾を持ちこたえることができるのが 
人格(*――もしくは《人間存在ないし実存》――)の高さである。

 (『法の哲学』 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ すなわち 言いたいことは:
★ 絶対精神に到達したら
☆ という捉え方は 不自然だということです。


《無限》はそれに《到達する》とか《すでに到達している》とかといった
ように捉えるのではなく まづ第一に それは《想定されている》のです。

《物自体》も《世界精神》も《無限》もそして《神》もすべて 人間にと
っては想定されているものです。

どうして想定しうるかと言えば それらは互いにひとしく 《知り得るか
知り得ないかが人間には知り得ないナゾ》であり これを《非知》として
規定することが出来るからです。

このナゾは 分かりやすい言い方では 《霊》です。ワケが分からないの
で《霊》と言います。つまりは 《アートマン(霊我)》や《ブッダター
(仏性)》と言っても おなじです。


▲ 無限なものと 有限なものとの一体性
☆ これをさらに 《梵我一如》と捉えると分かりやすくなりませんか?
かえって あいまいになりますか?


いづれにしましても 《絶対精神》は人間がそれに《到達する》ものでは
なく すでに生まれつきの身と心とから成るわれらの自然本性に宿ってい
ると やはり想定しているものなのです。



さて 《人倫の共同体》についてですが すでにその姿というのは 次の
ように帰結されて来るのではないですか?

○ ~~~~~~~~~~~~~~~~
絶対精神としての無限が われら移ろいゆかざるを得ない人間なる有限の
存在に――神の霊として――やどる。

というとき この《梵我一如――無限と有限との一体性――》が すなお
に実現しているかどうかは 人それぞれである。

こばむ向きもあれば 受け容れようとしても いやいや こんな想定は我
慢できないという向きも出て来ます。

そういった実際の人びとのさまざまな姿を容れて 社会は成り立っていま
す。つまりけっきょくは 《高い人格――あるいは おのれの固有時の高
さ・深さ――》が社会の中で 水かさを増すように増えて行くなら 人倫
の共同体は少しづつ成就して行く。

ということではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~


★ 奴隷制や専制に戻るのでしょうか?
☆ まだ いまでも専制は おとなりの国々でも見られるようですし 奴
隷制はそれに似た情況もなきにしもあらずかも分かりません。

人格の陶冶としての――それこそ 弁証法的な発展過程なる――人倫が互
いに充実して来るなら その共同体も実現して行くのではないでしょうか。

単純に身分制に戻るとかあるいは 自由を得たときにはかえって権力の意
向にしたがう人びとが増えるとかといった可逆的な歴史過程が つづくと
は見られないのではないでしょうか。

★ 循環的運動体
☆ というのは 社会としての共同自治のあり方が一般に自由へと民主制
へと進展するその傍らで人びとは 個人としてそれぞれにその同じ歴史的
な進展を追体験することになる。そうせざるを得ない。つまり新しい世代
が次か次へと生まれて来るわけですから。

そういった意味での《循環》は 実際のことでしょうが われわれ人間は
学習効果などによって昔のいやな時代へは あまり戻ろうとはしないと思
われます。

★ 弁証法はもうストップしてしまうのでしょうか?
☆ どうでしょう? どうなのでしょう?

みながみな ふつうに自然にかつ人間的によく陶冶された人格に成ったと
したら? どうなりましょうか?
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