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太平洋戦争中の南方の資源活用について質問です。

太平洋戦争は日本が南方の資源を求めて、当時の内情から止むに止まれず起こった戦争だと思いますが、初期は予想以上の戦果で南方方面を占領し、喉から手がでるほど欲しかった原油、亜鉛やニッケル、鉄やスズなどの資源を確保できたかと思うのですが、果たして旧日本軍はそれらを活用できたのでしょうか?

質問の意図は、原油でもその他の資源でも幾つかの工程を経て、初めて石油や鉄やニッケルなどの活用できる資源になるわけで、果たして旧日本軍は占領中はそのような活用はできていたかという質問です。
私が手にしたどの本にも記載されておらず、長年疑問だったので質問させて頂きました。
ご教示頂ければ幸いです。
また、このような事を詳しく書かれてある書物や資料がありましたら、併せてお教え願います。

A 回答 (7件)

>果たして旧日本軍はそれらを活用できたのでしょうか?



アメリカの潜水艦による攻撃で、内地には十分に輸送できていません。
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戦史叢書やアジ歴等を丹念に調べると具体的な数字が出てくると思います。



No.1さんの回答にある様に対潜水艦作戦で後手後手に回ってしまい、
資源を活用しようとしましたが、一部しか入手できませんでしたね。
護衛艦艇の不足、敵潜水艦の探知能力の不足、有効な攻撃方法の手段が不足、対潜戦術の研究不足
など海軍の艦隊決戦思想への偏重からくるもの。
輸送艦の能力不足、戦時標準船として量産した船舶が直線平面で構成されて著しく船として能力が低かった為、
速力が上がらず敵潜に狙われ安かった、後に質的な性能向上を目指したのですが上手くいきませんでした。
その他にあると思います。

病院船の氷川丸を油槽を大きめに改造して油槽船として使ったという話もありますね。
また、北号作戦で航空戦艦伊勢・日向が運んだ重油は、大和の沖縄特攻に使われたといいますね。
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活用できました。

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結論:活用できませんでした。


 原因:輸送能力の決定的な欠如。

 戦前の日本の保有船腹量(輸送船の総量)は約600万トンで、半分を作戦用、半分を民需用に振り分ける予定でした。すなわち、300万トンあれば外地からの資源輸入もなんとかなるという試算です。ところがこの振り分けが守られることは結局一度もなく、作戦用にどんどん徴発されてしまいました。
 もちろん手持ちの船だけではなく、戦時標準船など優先して建造して400万トンほどの輸送船をあらたに確保したのですが、主に敵の潜水艦による被害がきわめて大きく、実に大戦中に900万トン近くが失われています。最終的に残ったのは100万トン程度だったとか。
 結果、最初から最後まで日本は必要な船腹量を満たすことはできなかったといいます。

 これに加えて日本ではロジスティクスを軽視していたためか、往路や復路を空荷で航行することも多いなど、効率も非常に悪かったという話を聞いたこともあります。

 資料としては「太平洋戦争のロジスティクス」「太平洋戦争 失われた日本船舶の記録」なんかが参考になるかもしれません。
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参考書としては、戦前戦中の書物を読んだほうが良いと思います。

国会図書館に所蔵され、ネット公開されているものもあります。

南方資源、結局は有効活用できなかったようです。

「戦時、わずか3年半」の占領でしたので(これって重要)、有効な施策は、占領現地での軍事ぐらいでした。日本軍が進攻・占領したあと、現地に備蓄されていた、例えば、石油は、進攻した日本軍が、そのまま使用し、それで終わり。

有効活用はどうかといえば。。。

1、敵が逃げる際に現地の石油生産施設を破壊、これの修復の必要があるが、日本の軍人兵士に、そんな専門的なことができるわけもない。。。石油の掘削・生産・精製などを、日本の軍人兵士ができるわけもない。

2、「収奪一辺倒の欧米諸国」と違い、現地経済をも隆盛させる(富を現地に投資)の理念が、日本にあったこと。そのため、現地への進出企業などの検討が行われたが、間に合わなかった。

3、占領地の資源を運送する船舶の不足。

これらが原因で、「戦時、わずか3年半」の期間では、占領地資源の有効活用はできませんでした。

3は、ともかくも、1・2は、開戦以降、構想・準備段階でしかなく、(タンカーを含む)輸送船舶の不足以前の問題でした。

何しろ、日本向けに継続運搬できる分量の石油が、現地に、なければならないが、でも、それが無かったわけです。1(敵による生産施設破壊)・2(現地との共栄、の理想)、これらの原因で。。。
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>原油でもその他の資源でも幾つかの工程を経て、初めて石油や鉄やニッケルなどの活用できる資源になるわけで、果たして旧日本軍は占領中はそのような活用はできていたか


 
 主な鉱産資源のうち、鉄、石炭、セメントなどは、国内での供給が可能でした。
 アルミの原料ボーキサイト、ガソリンの原料石油(原油)は、殆ど輸入に依存する資源で、また戦争遂行上最も重要な資源でした。

 そして、その原産地は東南アジアに分布していたため、日本軍は太平洋戦争開始劈頭から軍を進撃させました。

 油田地帯は、破壊されるとその修復が困難であるため、最精鋭部隊を急派し、なかでもスマトラ島のパレンバン油田地帯に対しては、落下傘部隊による奇襲作戦によりほぼ無傷で確保することができました。ボルネオ、インドネシアの油田地帯は破壊されたものの、日本軍は短期間でこれらを修復するため、早くも1942年(昭17)3月陸軍は、南方燃料廠を編成、ボルネオ島、ジャワ島、スマトラ島、ビルマ(現ミャンマー)などの要地に燃料工廠をおき、油田の修復、維持管理、開発。石油の精製、補給を担当させました。油田開発には、とくに野戦作井隊(ボーリングが専門)をもって任務にあたらせました。海軍もボルネオ島サマリンダ、バリクパパン、ジャワ島スラバヤに燃料廠をおきました。

 これらの部隊の特徴は、軍人のほか、各省の技官、石油会社の技術者・工員、地質学などの学者などを軍属や嘱託としてとして多数配属していることでした。日本陸軍には、たとえば鉄道部隊が国鉄職員の軍属を、建築勤務中隊が大工を、兵器勤務隊には刀鍛工を、など特殊技能者からなる部隊がありました。

 ボーキサイトは、鉱石を日本に運び内地において精製しアルミを作りましたが、アメリカの潜水艦攻撃により南方からの物資輸送が思うに任せず、さらに1943年末頃になると戦況の悪化により飛行機増産が死活課題となり、陸軍と海軍によるアルミ争奪戦が激化していきます。この配分問題は、ついに陸海軍の大臣、総長による四者会談を終日行った末決着するに至りました。

 1944年8月小磯内閣による最高戦争指導者会議において、汽船輸送量は開戦当時の約三分の一で、さらに低下の傾向にあるとの報告が出されました。この当時は汽船船腹の損害が増える一方で、機帆船を増産してなんとか補給の維持を図るのが実態で、その後はさらにじり貧になっていきました。
 

 太平洋戦争期間中の軍需動員の詳細については、防衛庁戦史室による『戦史叢書・陸軍軍需動員2』『同・海軍軍戦備2』などが基本資料となります。各年度の動員計画と実施状況、特に戦争末期における液体燃料(ガソリン)問題、アルミの配分問題などの詳細を知ることができます。

 支那事変~太平洋戦争当時、多くの国内一般企業が、国家総動員法により様々な分野で、積極・消極的のちがいはあれ、戦争遂行に関係していました。
 たとえば、石油精製企業である東亜燃料工業の『東燃十五年史』(1956)のなかに、同社の燃料課長が外油の輸入が突然停止されたら、我社のみならず日本全体にとって致命的になるから、そうなる前に大量の原油を輸入して貯蔵する必要があると上司に意見した、という記述があります。
 南方燃料廠に関しては、『帝国石油五十年史・海外編』(1992)が参考となります。どれほど知られているかわかりませんが、私は社史によって当時の軍需産業の実態を知ることができました。

 『森永五十五年史』(1954)には軍用の栄養食品開発・製造について書かれています。『ヤンマー燃料報国 ヤンマー70年のあゆみ』(1983)、『ダイハツ五十年史』(1954)では軍事小型船舶用のエンジン製造、『いすゞ自動車史』(1957)では、軍用トラックの製造、『日本鋼管株式会社五十年史』(1962)では特殊鋼生産。そのほか『旭化成八十年史』(2002)、『日本セメント七十年史 本編』(1955)、『味の素沿革史』(1951)、『三菱石油五十年史』(1981)などなど公立図書館の社史のコーナーで見つけることができます。

 そのほか、南方地域の資源や遺棄物資を陸軍兵器廠、陸軍野戦自動車廠、燃料工廠が如何にかかわったかをコンパクトにまとめたものに敷浪迪「日本陸軍部隊の特種部隊4」 月刊『グランドパワー』2001年11月号所収があります。 

 ともあれ、1945年8月まで日本が殆ど孤立無援の中で、世界を相手に戦い続けたということは、なんとか軍需資源を活用し続けていた、ということになると思います。
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シーレーンの確保をなおざりにした無能な為政者に帰結します。


日露戦争当時の感覚で戦争を始め、アメリカ軍の潜水艦にズタズタにされました。
無能ってゆうよりも、バカ?
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