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理想論を語る人のことをよく「お花畑」と揶揄します。
確かに口だけの人もいまして、これは馬鹿にされても仕方がありませんし、
やたらと語るものではないでしょうが、これはまったく頓珍漢な評価だと思
います。

理想を語ること自体が、現在はほぼ確実に反発を受ける「時代」といってい
いと思います。それを覚悟で語り、その道の困難さも覚悟で語っていると思
うのです。ですから、内心は「お花畑」ではなく、北風が吹き荒れる荒野だ
ろうと思います。

本当のお花畑は、現在の消費文明が何事もなく続くと思っていたり、人類が
他の天体に移住して現在と同じように暮らせると思っていたり、おいしいも
ののこと、不倫のことしか頭になかったり、理論の積み木細工をして悦に入
っているとか、そんなのをいうのではないでしょうか?

まるで、頭のてっぺんにお子様ランチの旗を立て、お花畑を蝶々とともに舞う
ハタ坊のよう。
そのように感じていますが、いかがでしょうか?

A 回答 (28件中1~10件)

>「現実とは悲惨の谷である」ということを民衆に刷り込んだのは、「権


力者たち」(........) 「民主的感覚」は成長したものと (.........) 半面、すべての民衆を管理し、消費文明の歯車にしてしまおう、という「モダンファシズム」というべき力が強烈に働いている (.......) この戦いに、民衆側が勝利するということが、簡単に言えば私の「理想」です。<

ニャンポコリンさん、
かっこいい! うるわしい!
理想を語る人はこうでなくっちゃね!

もし、人口が危機的に少なすぎるくらい少なくなって、枯渇しない資源が宇宙に見つかり、資源利用を管理する機関が秒読みの危機感を持って、人類の絶滅を回避しなければならないとすれば、科学の華が人類に平等に咲くのではないでしょうかね。生存の哲学だけになればね。
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この回答へのお礼

amaguappaさんからこのようなコメントをいただけるとは‥‥
う~む、おもしろい!

人類が人類のことを「深刻に」理解できたときに、「科学の華が人類に平等に咲く」
という言い方もできましょうか?
できれば、間に合わせたい、と思う。

お礼日時:2016/05/02 21:01

「理想」は、日本語に移植された西洋概念だと思われ、話の俎上に乗せにくい。


古い日本では夢とか望みとか思いとか願いとか、桃源郷とか美しとか良しとか、言いませんか。
西洋では要するにIdeaですね。
Ideaが指すところの「理」というのは神に関わる思惑で、一枚岩ではないにしても、ギリシャやエジプト、それからキリスト教スコラ哲学と来て、描き出せる概念です。
永遠、不滅、完全無欠、全一にもとづく数々の造形や御業があるはずだというお花畑と、悲惨の谷と呼ばれる現実世界との分断が前提になっているのです。根っからこの分断とコンプレックスを抱えているのが理想というもので、文明のひしめきあう大陸の辺境で疫病やら戦やらに揉まれに揉まれた西欧だから、筋が通っている二枚舌の感情なのです。
フランクフルト学派がマルクス主義をどう見ていたかと言えば、本質的に理想は変化の過程で現実と一体であるために、一定距離のもとに逃げ続ける星のようなものだということで仮象の輝きの一回性が逆に現実を照らすんだという、まあここにもユダヤ人らしい複雑な感情をみとめても良いわけですが、こんなのを理想というのだという話で、いったい日本人のわたしたちがリソーと言うとき、中身は何なんでしょうか?
そんな言葉を使うから、二重性の漂う苦痛の潜むお花畑の芳香になるのではないでしょうか。
安全で裕福な日本人はお金の心配くらいしかすることがなくて、官僚主導の行政と自由競争の市場さえ続いていけば、経済の屋台骨がそっくり外資に呑み込まれたって国民がお花畑でいられると思っているのかどうかわかりませんが、まあ、これだけ複雑で混沌と入り組んだ世界ですから、多角的な視野で錯覚を排除するというのを、身近なところで実践するのは難しいですよね。現実とは悲惨の谷である、という人たちの世界が海の向こうから押し寄せてきて繋がってしまっている、ということに、ハタ坊やは気付かないでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「理想」というものは、そもそもどういうものだったかということは
私はよく知りませんでした。おそらく、おっしゃる通りなのだと思い
ますし、日本人が、これを考えることは背伸びをしてひっくり返るよ
うなものであることは、残念ですが、経験上認めざるを得ません。そ
ういう文化だったから。

そんな中、私は「精神的マッチョ」で、子供のころから「変わり者」
であることは、寂しかったのですが、自分の考えを変えるということ
がおそらくただの一度もなかったのではないかというほどの頑固者で
したね。(嫌われ者ではなかったですよ(^_-)

かなり小さいときに読んだ「水滸伝」「三国志」のマンガ、これが強
烈だったですね。その後、読んだ書物の影響で、実はかなり若いうち
に思想の原型は出来上がったものと思います。

長く続いた戦争のため、当時のベトナムの人々は「安穏」という概念を
理解できなかったという話を聞きました。悲惨な話です。
「現実とは悲惨の谷である」ということを民衆に刷り込んだのは、「権
力者たち」とは言えないでしょうか?特に中国なんか。

インターネットの影響は大きくて、これによって「民主的感覚」は成長
したものと思います。
半面、すべての民衆を管理し、消費文明の歯車にしてしまおう、という
「モダンファシズム」というべき力が強烈に働いていると思います。

この戦いに、民衆側が勝利するということが、簡単に言えば私の「理想」
です。

お礼日時:2016/05/02 11:12

★(№25お礼) ~~~~~~~~


なんか言わないと、気が済まないんだろうな。
~~~~~~~~~~~~~~~

☆ そのように王様になってもらったところで 《では このへんで》でした。
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この回答へのお礼

まだ気が済まなかったのかい!?

お礼日時:2016/04/26 14:54

交通信号をご自分で決めているという感じですね。



やって来た回答に対して 自分に都合のよいものには青信号。
いやなものには 赤信号。


では このへんで。
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この回答へのお礼

なんか言わないと、気が済まないんだろうな。

お礼日時:2016/04/26 09:55

ニャンポコリンさん こんばんは



幸せについて考えてみると、
全てが満たされた社会では、人は幸せには成れません。
人の幸せは、何かが満たされない社会で自分の才能を活かすことにあります。

理想については、
理想が桃源郷であれば、そんなものは要らない。
人の理想は、自らの発言や行動が他人から賞賛される社会です。

それでも貴方は、誰かがもたらす理想な社会を待つのですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/04/26 09:54

ちょっと追加です。


 
やりたいこととかやっていることには階層とか個性といっていいものがあって
それぞれの階層や個性に応じて重視すべき価値観が異なるものだと思います。

そういう違いを画一化しようともがくのではなく
価値観的に‘全か無か‘的にすみ分けて
それぞれが社会の中での役割を果たしていくべきものなんじゃないかな
みたいに思っています。
その総体が社会に‘ひずみのない前傾‘を生み出していくという考えです。

まったく隔絶するのではなく
日常会話的にきっかけの与え合いの要素は持ちながら
やみくもな画一化は避けるくらいの感覚でよさそうな気がします。
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この回答へのお礼

追加のご回答ありがとうございます。

今回の挑発的な質問及びお礼の投稿は、最後っ屁をかまそうと
しているわけでもなく、私としては一歩踏み込もうとしたまで
なのです。

私の考えは、違いの画一化とは正反対で、全ての人が自由に自
律的に生きることが、社会の発展にもなり、個人の幸福にもな
るだろうという、実に簡単なものです。
言い方を変えれば、「世のため人のため」に働けば、十分に「報
酬」があり、幸せを得られるはずであるのに、「自分だけ」の
利益を考えることが実に多く、それこそが様々な歪を生み出して
いると思います。

ですから、人類が共有すべき哲学は、それだけでいいと言ってい
いと思います。あとは、すべて自由で。

性善説が偏った思想であることはここでも述べましたが、自分だけ
自分たちだけの利益で動くことが、「当たり前」という価値観にな
っている現代社会そのものを、「善」とする「善社会説」に社会全
体が画一化されてきていると思うのです。
国でも企業でも個人でも、そうなっていませんか?
人と接するたび、テレビを見るたびにそう思えて仕方がないですね。

だから、そのあたり考えてみませんか?ということにすぎないんで
す、私の主張は。

「物申すこと」自体が、偏屈ジジイのやることだ、みたいな空気は
あると思います。

このカテでも、私と同様の考えの方はいると思いますが、時代の力は
強く、伝わっているとは思えないんです。
だから、もう少し強い主張が必要なのかなと思いつつ、いろいろ考え
ているわけです。

一番の雄弁は、実績だと思います。その思想で、いったいどういうも
のを作りだしたのか?
こういうとなんか立派そうですが、小規模なものの発想しか今はあり
ませんが‥
そして、言論の部分では、衝突は結局避けられないということが、経
験上言えると思います。

お礼日時:2016/04/26 09:46

日本人の性質の特徴である“本音を安易に出さない行動・言動”がニャンポコリンさんに誤解を生じさせているんだと思います。


かっこ良さをアピールしたマスメディアのキャッチフレーズ「今が良ければ」という言葉で操作された“風潮”は泡沫のようなものではないでしょうか。

そう思うと、これまでの傾向としてはそんな感じは有りましたが、今は修正の段階に入ったと言いたくなります。

☆ 批判力から提案力を引き出すと価値が倍増します。
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この回答へのお礼

決して諦めているわけではないんです。

じぶんの商売(微々たるものですが)とその関連を基盤として、
地域の中で新しい流れを作りたいのです。

そのために何か得たいと思ってここへ来たのですが、ある人が
言ってました「ここにはあなたの求めるものはないよ」と。

確かに直に得るものはなかったのですが、なかなかできない勉
強ができましたね。
cyototuさんの言うことはおもしろかったですね、多くの人に
慕われるだけのものはありますね。

また、「理論」というものは私には不要だと思いました。行動
力とアイデアと言論力は磨いてゆきたいけど、精緻な理論はか
えって邪魔になると思いましたね。役にたたんでしょう。

では、いずれまた。

お礼日時:2016/04/25 22:32

理想に向かって・・・


もう、動いているのではないでしょうか。

こう感じるのは日本の国や社会の、たび重なる災害への反応と対応を見るからです。
もっとも、情報はマスコミからだけですが。

大げさに言えば日本中が震撼したと思われる今回の自然災害を経験した事で、国民の団結意識は高まったのではないかと思います。
この団結心は意識せずとも、理想の社会、または理想の国家というものを目指す原動力になっているように思えるのです。

それ以前には“クールジャパン”に浮かれ過ぎているような感じがあって、いつか破たんが来そうだなんて危惧してましたが、自然から冷水を浴びせられて目が覚めたようです。

そして、無意識的に“理想”へと向っているのではないかと思われるこの方向性を決めるのは、日本人の意識が性善説に依っているからだと考えます。
こんなところから、性善説パワーという言葉を思いつきました。

いつものように尻切れトンボのような“回答”です。
お花畑、ではないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

東日本大震災の経験では、もちろん団結意識は高くなるのですが
それに反する要素が多すぎるので、すぐに元に戻り、現在は震災
以前よりも、人々の心は離れていると思います。

どなたかが言ってましたが、「王様は裸だ!」と言えば、空気を
読まぬとして憎まれる社会が、残念ながら今の日本社会です。

私は十か月前にここにきて、「空気を読まない」質問をしてきま
した。このカテでも、私の住む地域でも、テレビ等で見る人々の
様子も、昭和とは異質の、異常に、画一的に、大勢に従うという
傾向は強まっていると感じています。

そして、危機なんて実はどうでもよくて、今がよければそれでよ
いという、まさに「お花が咲き乱れる楽園」が完成しつつあると
思います。
そこには「性善説パワー」も「庶民パワー」が感じられません。

yy8さん、どう思いますか?

お礼日時:2016/04/25 20:58

今日は一気に、回答とその御例文を読みました。


参加者が多くていろんな意見があるから、私の粗末な頭でも結構“成る程”と思ったりして勉強になりました。

理想とは、なんて言うと結局抽象的に表現するしか無いようで、解釈に苦労します。

それでもふと思い付いたのが「性善説パワー」と言う言葉です。

電池が無くなってしまったので、夜に続きを書いてみたいです。
内容は浅いですがまだ誰も触れてないから。
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この回答へのお礼

「性善説パワー」ですか。
楽しみにしています。

お礼日時:2016/04/24 22:47

理想に対する現実というものがあり


確かに現実こそが本質であるというスタンスがまずは大事だと思います。

そしてその現実が内包する現実として
土台と軸と方向のない現実の混沌が生み出す諸問題が
その改善を求めてあえいでいるというのがまた現実なんだと思います。

本質たる現実を暮らしやすさへと発展させるために
とかく「お花畑」と揶揄されがちな理想も必要であって
ただそのバランスが本末転倒にならないように気を付ける必要がある
ということなんでしょうね。

追い詰められて切羽詰まるほど理想を強調して振りかざさざるを得ないことになる。
そしてそこに主流である現実からの手厳しい批判が注がれる。
その平行線に分かり合おうとするゆとりを加味できればとも思いますが
互いに自分のことで手一杯だというのがまた一つの現実。

主流の現実の側のスタンスの取り方はまた強者の理屈ととらえられがちな傾向もありますが
理想の先走りによる本質の置いてけぼり状態を避けるための健全なバイアスととらえるのが
妥当だという気もします。
その正当性ゆえに弱者からの理想の主張に対する批判に弾みがかかるんだとも思います。
そして溝が深まって対立の様相が強くなると弱者が窮鼠になって平和に風穴を開ける。
もしくはその不満が高まってリーダーシップはその不満を外に向ける。
いろんな悪循環の一つとして理想と現実の対立も位置付けられそうです。

とにかく自分本位一辺倒ではなく
社会的動物としてエネルギーを使うことは当然という感覚で
まずはわかろうとした上で改善をめざした主張を突き合わすことからしか
始まらないんでしょうね。

なんとなく性善説のお花畑感を持ちながらとりとめもなく参加してみました。
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この回答へのお礼

スズメさん、こちらにも回答いただきありがとうございます。

スズメさんの文章は大変に整理されていて、スマートに思えますが、
実は、内面の葛藤とか懊悩とか出ていると思います。
しかし、それらがそのように見えないというところがおもしろいと思
います。
そんな文章を書く方に今回は私の本心の一つを吐露したい。

理想に向かおうということになぜ反対なのか?ということです。
「いいんじゃない?でも、無理だと思うな」という意見は納得できる
のです。
あるいは、考え方の違いや方法論の違いについての前向きな異論、こ
れももちろん納得できます。

しかし、納得しがたい理由で、とにかく反対する人が少なくないと感
じている訳で、これが困るのです。

「エントロピーは増大するものなのだ」とか「人間は欲望には勝てない
生き物だ」とか、だから無理なのだ、と言うのです。

そういう理由でとにかく反対する人は、次のような理由が隠されている
だろうとおもうのです。

「嫉妬」「差別心」

自分が思いもしない立派なことを言いやがっておもしろくねえ。
自分より先に言いやがっておもしろくねえ。
そんなことを言う奴はガリ勉のトロイ奴に決まっている。etc

男同士の嫉妬です。(最近は女性にもこういうのがあるような気が
していますが)

で、こういうケースの場合、敵になることが多いと思うのですが
避けることはできないのでしょうか?

お礼日時:2016/04/24 22:43

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