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理想論を語る人のことをよく「お花畑」と揶揄します。
確かに口だけの人もいまして、これは馬鹿にされても仕方がありませんし、
やたらと語るものではないでしょうが、これはまったく頓珍漢な評価だと思
います。

理想を語ること自体が、現在はほぼ確実に反発を受ける「時代」といってい
いと思います。それを覚悟で語り、その道の困難さも覚悟で語っていると思
うのです。ですから、内心は「お花畑」ではなく、北風が吹き荒れる荒野だ
ろうと思います。

本当のお花畑は、現在の消費文明が何事もなく続くと思っていたり、人類が
他の天体に移住して現在と同じように暮らせると思っていたり、おいしいも
ののこと、不倫のことしか頭になかったり、理論の積み木細工をして悦に入
っているとか、そんなのをいうのではないでしょうか?

まるで、頭のてっぺんにお子様ランチの旗を立て、お花畑を蝶々とともに舞う
ハタ坊のよう。
そのように感じていますが、いかがでしょうか?

A 回答 (28件中1~10件)

覚悟を持って理想を語る人をお花畑とは言いませんから大丈夫ですよ。

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この回答へのお礼

速攻のご回答ありがとうございます。

そう言っていただけるとありがたいですが、誤解も多いですよ。

お礼日時:2016/04/21 10:18

頭の中がお花畑とは、まるで頭の中にお花畑でも


できたかのように気分が舞い上がり、正常な思考を
保つことが困難となる人の事を言います。こ

ですので、理想論を語る人全てを言うわけではありません。
「理想を語ること自体が、現在はほぼ確実に反発を受ける「時代」といっていいと思います。それを覚悟で語り、その道の困難さも覚悟で語っていると思
うのです。」
頭の中がお花畑の人は、″反発される覚悟″なんてありません。何も考えないでまるで夢の中にいるような発言をします。

質問者様の場合は、″理想論″を述べているだけですので、問題ありませんよ!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「何も考えないで夢の中にいるような発言をする人」
私は見たことがないのですが、タマにいるんでしょうなあ。

お礼日時:2016/04/21 15:39

そのお花畑の実例をひとつ出せば済むことです。



ご自分に持ち合わせがなければ ほかの人の理論でもよいのです。

場外で乱闘する意味はありません。よ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>お花畑の実例をひとつ出せば済むことです

それで済んだら苦労しませんね。
あなたはどこを見ておられるのか、私には結局はっきりしなかったのですが、
私の視線は「庶民」なんです。庶民は「理論」を好まないんです。それは鋭い
ことだと思います。

まあ、あなたにケンカを売ったわけでもないですが、私の批判の中にはあなた
のやり方が含まれることは否定しません。

あなたが、自分の「巣穴」の中から出てきて、「場外乱闘」する意味はないこ
とはないんじゃないですか?

お礼日時:2016/04/21 10:15

このカテにおいてムダ・ムリは要りません。



という投稿もありでしょう。

★(№3お礼欄) 私の視線は「庶民」なんです。庶民は「理論」を好ま
ないんです。それは鋭いことだと思います。
☆ それは 勝手ですが:
★★(趣旨説明) 理想論を語る
☆ というのは 《理論》ではないのですか?
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この回答へのお礼

庶民は、「経験」に基づいた理論しか基本的に受け付けない
という意味ですよ。

しかし、そうでなくなってきているとも思います。なぜか?
日本人に真面目さがなくなってきた、つまり真剣に経験の中
でもがくことをしなくなってきた、という傾向はあると思い
ます。

思弁的、っていうんですか?そのほうが楽だし、なんか哲学
者みたいでカッコいいから、なんでしょうね。

学者は、仕事ですからいいんです。しかし、庶民が学者の真
似をするなんておかしいですよ。

哲学カテっつたって、誰もが言いたいことを自由に言える場
であるべきですよ。

お礼日時:2016/04/21 16:05

結構な部分で同感します。

本当のお花畑な人々についても、私も同じ意見を共有したいですね。

それに、場合によっては、人々の大勢が間違いを犯し、少数派だけが生き残るということもあると思います。理想を語る人々が少数派であると言う訳ではないのですが。

理想とは何かについて暫く考えた結果、一つの喩えを思いつきました。それは、土壌と落ち葉の関係です。理想とは、一枚一枚の落ち葉の様なもので、とても軽く、風にも流されるようなある意味で弱い、根の無い存在ですが、その一枚一枚が年月をかけて積み重なり、成熟して、厚い人類の知見や歴史ある背景、事実として在る人間性の基盤となっているのではないかと。

このカテでもあまり理想は語られなくなりましたが(事実を優先しようという考えに多くの人が賛同しましたが)、理想が語られることが無くなれば、結局、人類を豊かならしめている土壌そのものが痩せて行き、荒廃した人類社会になってしまうのではないかとも思えます。

古きは捨て去るのではなく、生まれ変わらせることで更新すべきだと私は思います。森自身が落ち葉と土壌の関係によって自らを豊かならしめるように。理想論を語るのは古代的な習慣だと考える人には特に、今一度理想を語ることの意義と意味を見出して欲しいと私は思います。

ダイナミックな人類社会の動きは、理想論には従わ無いでしょう。かと言って事実認識を深めるだけでもついて行くことはできません。自分たち自身がそのダイナミックな動きの本体であり、どの様に生きたいのかという意志による選択が、その動きの行方を決定していくのではないでしょうか。
幾つもの流れが交錯し、動き続ける世の中において、大局を見極める事は簡単ではないですが、一人一人の持つエネルギーが、実はその大局を決していると見るならば、理想を語る事もまた一つのエネルギーの粒であり、大局を征する事に関与しているのです。欲望などの大きなエネルギーばかりが、世の中の行方を左右する訳ではありません。むしろそれらは混迷をもたらすものであり、征されるべきものでしょう。
どの様に生きたいか、どの様に在りたいか、そう言った意志に、世の中の行方を決する力があるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

あほなさん、久しぶりです。

cyototuさんから回答をいただいていますが、スケールが大きくて今現在
消化不良です。自分の考えをまとめてから再度行きたいと思います。

私とあほなさんの考えは概ね同じだと思います。

事実を優先させてしまうということは、人々に現状をいいように肯定させ
てしまうことになるだろうということです。結局、現状の悪いところは
認めないから、「これでよい」のだと思い、頑張らなくなる、次第に堕落
する。
このように私は考えるので、事実を「優先させる」という部分に納得がゆ
かないということです。

しかし、こういう見方は確かに「外から見ている」見方ですよね?
cyototuさんは違うことを言っているような気がしますが、どう思いますか?

お礼日時:2016/04/21 22:26

#5関連で。



>このカテでもあまり理想は語られなくなりましたが(事実を優先しようという考えに多くの人が賛同しましたが)

事実と理念との関係で、事実を優先させようと言う主張を私もしていたので、話に入らせてもらいます。とは言っても、これが解答だと言うつもりはなく、考えるヒントになればと思いつつ書いております。

西洋で決定論的な世界観を前面に押し立てた代表的巨頭が二人おりました。一人はデカルトで、もう一人はアインシュタインです。デカルトはプロテスタントとカソリックの間の血を血で洗う戦の中で生を受けました。アインシュタインは第一次と第二次世界大戦の中をユダヤ人として生きました。そして、共にアルプスの荘厳な頂きから眺めるように、自分を世界の外側に置き、穢れのない「ある」世界、すなわち「存在」の世界を希求しました。

興味あることに、同じ血で血を洗う戦乱を経験した源平の戦は、諸行無常、「ある」ではなく「なる」、すなわち、「存在」ではなく「変化」がこの世の本質であるとの世界観を日本人にもたらしました。

私は、人類の長い間の繰り返しの悲劇の経験から、徐々に、世界の認識法が変わって来たのではないかと考えております。それは、我々の世界を認識するには、自分の身をこの世界の外側に置いて眺めるのではなく、自分をこの世界の内側に置いて、皆と一緒に擦った揉んだしながら収まるところに収まるように変化しながら生きて行く以外に無いんだと言う認識法に変わって来たと言うことです。

外部に身を置いた場合、世界の変化は自分に影響を与えない。だから「変化」よりも、そこのあるもの、すなわち「存在」そのものに興味が集中する。さらにこの見方は、自分自身の変化を伴わないので、思考の整理が比較的簡単です。

他方、自分をその内部に置いて眺めてみると、周りの変化が自分に跳ね返って来て自分を変化させてしまう。そして自分の変化がその周りに変化をもたらし、、、とグルグル回りながら高度に非線形に変化します。その見方では「存在」よりも「変化」の方に興味が集中する。変化は存在よりも遥かに複雑な物の見方です。

日本では古くからあり西洋人にはとっては新しいこの物の見方でも理想は語られているのです。しかし、理想そのものが変化の対象となっているので、決して理想が語られなくなったのではなく、その理想なるものの時系列的な変化を事実に基づいて認識しながら、漸近解として時々刻々として変化する理想との距離を縮めて行くことになる。ですから、時々刻々と変わる理想なるものを正しく認識するためにも、事実を理念に優先させて世界を見なければならない、とこの物の見方では言っているのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

さすが本職、スケールが大きく、ダイナミックで「おもしろい」ですね。
「存在よりも変化」ーー衝撃をもって吸収させていただきました。

直接目にするのは日本の社会だけである私などには感じることができなか
っただけで、世界はそのように変化していても全くおかしくないですね。
仏教思想が世界に拡散されてから久しいわけですから。

固定的、決定論的理想観が人間を圧迫するというのは理解できます。
理想というものは「北極星」のようなものだと考えていました。
あらゆる変化に対応できるもの、あらゆる「創造」に永遠に耐えうるもの
を「理想」とすべきではないかと思っています。

お礼日時:2016/04/22 17:22

★★(趣旨説明) 理想論を語る


☆ というのは 《理論》ではないのですか?
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この回答へのお礼

経験に基づいた理論と、そうでない理論と
二つありえます。

お礼日時:2016/04/21 23:34

理想論を語る人のことをよく「お花畑」と揶揄します。


   ↑
理想論には種類があります。
現実を踏まえた理想論と、現実を無視、観ない
理想論です。
現実を無視、観ない理想論が「お花畑」と
揶揄されるのです。


本当のお花畑は、現在の消費文明が何事もなく続くと思って
いたり、人類が他の天体に移住して現在と同じように
暮らせると思っていたり、おいしいも
ののこと、不倫のことしか頭になかったり、
理論の積み木細工をして悦に入
っているとか、そんなのをいうのではないでしょうか?
   ↑
こういう人たちも、現実を観ない、無視している
訳です。


ハタ坊のよう
   ↑
懐かしいですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

現実を見ることが、情報がありすぎると、難しく
なっているように思います。

お礼日時:2016/04/23 07:54

理想を掲げて生きる事自体もまた、変化し続ける世の中に参加する事であると私は思います。

猪突さんの言を、私は、可能な限りの主体性をもって、変化の中で希望や道筋を見出しつつ生きると言うこと、そんな風に捉えました。

ニャンポコさんも私も、頭ごなしな、人とはかくあるべきである、という決定論的な理想を思い描いている訳ではありませんから、猪突さんのご意見とは相反する事ではないでしょう。猪突さんも、理想が語られないと言うのではないとおっしゃっていますし。在る世界観ではなく成る世界観へ、というフレーズが、事の本質を言い表しているのではないかと。成る世界観とは、自身で選ぶことが出来ると言うことです。在る世界観は、(自分も含めて)発見すると言うことです。
成る世界観では、人は未来に向かって開かれています。
在る世界観では、人は止まっています。

理想にもまた、未来を拓いて行くものと、止まっているものとがあるでしょう。



このような事が、猪突さんが繰り返し述べられている事ではないかと。
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この回答へのお礼

解説していただきありがとうございます。

概ね、腑に落ちました。

「ある世界観」と「成る世界観」は二極ですね。
確かに「成る世界観」を語る人は増えているように思いますが、
「ある世界観」に固執する人も増えている気がします。

かのシュワルツェネッガー氏は、「どうなりたいのかを探し出せ」
と言っています。同様の意見は多く、私もこれです。
一方、学歴偏重、世襲的世界観なども相変わらず根強い、というか
私はこれが優勢ではないかと見ています。

つまり、「保身」と「建設」あるいは「老人」と「青年」(もちろん
精神的意味です)の対立軸、対立です、妥協はできないし、してはな
らないと思います。
そして、それは人にレッテルを貼ってはならなくて、そういう「思想」
と対立すべきだという風に思います。

お礼日時:2016/04/23 08:28

こんにちは。



わたしも「哲学」には門外漢です。(形だけは「哲学科卒」ですが、笑っちゃいます)

基本的な考え方には共感しつつ、

>理想を語ること自体が、現在はほぼ確実に反発を受ける「時代」といっていいと思います。それを覚悟で語り、その道の困難さも覚悟で語っていると思うのです。ですから、内心は「お花畑」ではなく、北風が吹き荒れる荒野だろうと思います。

理想を語ることが困難な時代という認識はありません。
例えば政治家たちは選挙前には口々にそれぞれの「理想」を口にします。

アメリカ大統領選でも、トランプはトランプの理想を、ヒラリーはヒラリーの描く理想の米国像を、サンダースはまた彼の目指す理想を・・・何処の国でも同じではないでしょうか?
理想を語ることは敵を作ることではないと思います。

寧ろ「現実」」を暴くことの方がずっと危険を伴います。「現実はこうだ」「王様は裸だ!」ということは勇気のいることです。
現実・・・わたしも、あなたも、彼も、その上で行き、生活している場所の歪みを指摘されることは誰にとっても心地よいことではありません。できれば「全て世は事もなし」と思っていたいでしょう。
楽観と鈍感と無思慮によって維持・継続される日常の安寧。

>北風が吹き荒れる荒野

に立つのは、熱く理想を語るものではなく、「今、ここにある危機」を指さす者ではないかと思うのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

選挙前の政治家のスピーチを聞いている時というものは、特殊な
心理状態であって、庶民が政治というものを「信ずる」数少ない
ケースだと思います。
オバマ大統領のことを語っている方がいらっしゃいますが、実務
に入った時に、「反撃」をくらうというのが常なのでしょう。

言い方を少し変えれば、「理想を語り、既得権を得た人間のマイナ
スになると認識されたときに反発を受ける」となりましょうか。
それは、経済的利益だけでなく、社会的立場、その人のプライドな
ども含まれると考えます。

理想というものは、仰る通り「今ここにある危機」を回避すること
から始まると考えます。
つまり、「今が悪い」ということです。「革命」(これ以上の適切な
言葉はまだみつかりません)です。
もちろん武力とは無縁ですし、テロリズムであるわけでもなく、アナ
ーキズムでもなく、あくまで民主主義です。
民主的な「言論戦」に徹するべきで、しかも対立は極力避けねばなら
ない。そのためには、民主主義の上位に「人間主義」を置くべきであ
る。

大まかに言ってしまいましたが、こんなことを考えている次第です。
そして、思想を体系だてる能力はあまりありません。

お礼日時:2016/04/23 09:09

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