アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

週刊誌、サンデー毎日の連載コラムに五木寛之のボケない名言、と云うのがあります。
今週は、羽生結弦(はにゅうゆずる)《フイギュアスケート選手》の名言

『努力はむくわれない』・・・です。

五木寛之氏はこの言葉を取り上げて、そのタイトルに「真の努力家にのみ許される発言」とし、続けて誤解をまねきやすい発言だが、この発言の後には「しかし努力には意味がある」と云っていると付け加えています。

普通には、努力すれば報われるものであると云う考えが一般だと思うので、羽生結弦選手のこの意外な発言に対して五木寛之氏は「ここまで徹底して醒めた目を持っていることに驚かない人はいないだろう」
と述べて、冷徹な人生(報われるとは限らないと云う)を見すえた哲学である、としています。

ここに"哲学"を感じているらしい。

ここで五木寛之氏が指摘する羽生結弦選手の"哲学"に付いて、分かりやすい説明が欲しいので質問としました。
よろしくお願いいたします。

五木氏は、人生は厳しい。この若さで、それを見切る視線の強さに、あらためて驚嘆せずにはいられない。と、結んでいます。

☆ 単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線、のようなものが見えてくる事を期待しています。

A 回答 (7件)

yy8yy8az様、はじめまして。


 あんこころ。と申します。
 当方、「教えて!goo」を利用するのは今回が初めてなものでして、何かしら失礼があるかもしれませんがご容赦願います。

 件のサンデー毎日における五木寛之氏のコラム記事に引っかかりを覚え、それについて調べておりましたところ、偶然こちらの質問ページを目に致しました。
 ご質問の意図に適うものとなるかは判りませんが、ご思索の参考になればと思い書き込ませて頂きます。

 No.3の回答者様も触れておられますが、羽生選手の発言についてもう少し詳しく具体的に書かせて頂きますと……

(1)そもそもこの「五木寛之のボケない名言」というコラムにて用いられている「努力はむくわれない」「しかし努力には意味がある」という言葉は、世間一般に出回っている範囲における「羽生結弦選手の言葉」ではありません。
 私なりに色々と調べてみましたが、少なくとも羽生選手がこれと同様の発言をしたという「原典」を見つけることは出来ませんでした。

(2)ただし、類似の発言はあります。それが、CosmoToy様も書いておられる以下の言葉です。
 「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」
 これは、2016年10月2日(日)にフジテレビ系列で放送された「Mr.サンデー×HERO'S 合体SP」という番組内で取り上げられたもので、インタビュ—映像にて羽生選手自身がフリップに書いた言葉です。
 http://dai.ly/x4vohh6
 (05:44以降のコーナーにて紹介。フリップとそれを説明する一連の言葉は動画終盤にて登場。)
 実際の番組を見ると、上記の言葉以外にも「努力の正解を見つける事が大切」など補足となる言葉が添えられており、羽生選手自身の考え方が色々と述べられています。
 今回の五木氏のコラムを紹介した羽生選手のファンサイトは数多ありますが、その中で「言葉そのものの出典」を示したものは、私が確認した限り全てこの番組での「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」という言葉をもって、五木氏の文章の原典としていました。

 つまり、
(1)五木氏のコラムは「羽生選手の名言」としながら実際には典拠不明の言葉を軸に展開されており、
(2)事情通の読み手は既知の羽生選手の発言に読み替えているものの、それらは似て非なるものである、
 ということです。

 複数のファンブログが特に推測という断りもなく断定形で書いていましたが、実際には出典が示されていない以上、五木氏が本当にこの番組を下地として文章を書いたのかは判りません。
 もしかすると又聞きや孫引きによる執筆なのかもしれませんし、TV番組だけに後から記憶を頼りに書いた結果の変化かもしれません。
 或いは、私もコアなファンも検索エンジンも知らない羽生選手の言葉を、元々フィギュアスケートがお好きだという五木氏がご存知だったという可能性もあります。
 ただ、もしも本当に「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」という言葉こそが五木氏の文章の本来の原典なのだとしたら、コラムの文章は羽生選手の本来の発言の意図を曲げていることになります。
 たとえば、CosmoToy様も言及されていますが、野球のダルビッシュ有投手のtwitterにある「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。」(2010年6月10日)という言葉などと同じく、アスリートがしばしば述べる「練習(努力)の仕方」についての指摘を、羽生選手の「努力はウソをつく。」に始まる一連の発言は含んでいると思います。
 しかし、五木氏の書いた「努力はむくわれない」「しかし努力には意味がある」という言葉では、その要素は消えてしまいます。
 動画をご覧頂ければわかりますが、本来この言葉は後輩スケーターたち(或いはもっと広範な未来のアスリートたち)に向けたメッセージであり、助言の意図を持ったものです。
 ですから、アスリートとして極めて重要な指摘であるこの点を抜いてしまったのでは、「彼の真意」や「哲学」を酌み切れていないことになるかと思われます。
 ただし、五木氏の書かれた文章が、まるっきり的外れなものだとも私は思いません。
「努力がむくわれるとは限らない現実を受け入れ、それでも努力し続ける信念と精神力を持つ。」
 五木氏の指摘されたことも、羽生選手の一連の言葉が持つ意味の一側面には違いないと感じるからです。
 あくまでも五木氏が羽生選手の言葉や在り方から汲み取ったものを綴った文章だと思って読めば、充分に含蓄に富んだ読み応えのあるコラムだと思います。
 もしも五木氏の文章というフィルターを通さない、生の羽生選手自身の考えや哲学といったものに興味をお持ちでしたら、お時間のある時に出典(であろうと思われる)動画を直接ご覧になることをお勧め致します。
 ただし、この番組もまた、羽生選手の言葉や彼に関する事実関係を、少しずつ変えたり伏せたりするという編集を行っているものではあります。
 自分自身がある程度詳しい分野についての報道を見ていると、しばしば情報が伏せられたり片寄せられたりしていることに気付かされます。
 世の中に情報は溢れていますが、それらは常に誰かの視点というフィルターを通った後のものであるということを意識しておかないと、気付かぬ内に見えなくなってしまっている部分もあるのだと実感させられます。

 最後になりますが、質問主様の仰る「単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線」についての私見を述べさせて頂きます。
 私は「考え」と「哲学」の差は「矛盾するものを同時に持ち得るか」ということではないかと思います。
 単なる「考え」であれば「Aである」「Aではない」「Bである」「AでもBでもある」といった相反していたり食い違っていたりするものを同時に己の内に持つことが出来ます。
 一つの事象や命題に対し、一人の人間が幾つもの意見や視点(=考え)を持ち得る、と言い換えても良いかもしれません。
 究極、自分自身の本来の意見とは正反対のものであっても、そういう「考え」を持つことは出来ます。
 そして、その「考え」は必ずしもその持ち主の言動にまでは反映されません。
 対して、ここで言う「哲学」とは自らの経験に則って培われた人生観であり、否応なく常に自身の言動へとフィードバックされていく、より本質的・根源的なものだと思います。
 謂わば「生き方・生き様」そのものであり、これに矛盾を抱えることは大きな葛藤を伴い、ときに不可能ですらあります。
 五木寛之氏は元々フィギュアスケートを好んでいらっしゃる方らしいですので、羽生選手の言葉から汲み取ったものに普段から見ているその生き様に通じるものを見出され、「考え」ではなく「哲学」と書かれたのではないでしょうか。
 何だか小難しい言い回しでまとまりが悪くなってしまいましたが、個人的には他の回答者様や質問主様ご自身のご意見とも近いところのある答えかと思います。

 以上、ご質問の件に対し、思うところを述べさせて頂きました。
 長文乱文となってしまい、大変失礼致しました。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

詳しい解説をいただきました。ありがとうございます。

五木氏のコラムのタイトルを

『五木寛之のボケない名言』
から
『五木寛之のボケてる名言』

読み替えて見たら、ま、いいか!
と云う気持ちになりました。

哲学、に付いては私の頭ではまだまだで、これだと云う自分の言葉が出てきません。
でも、境界線らしきものはぼんやりと見えてきたかな、と思います。
たぶん、私にはまだ哲学、が無いんでしょう。

有り難うございました。

お礼日時:2016/10/21 09:01

常識的ではない、独自の価値観・世界観に基づいた判断。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

常識を身につけても、それだけでは哲学には成らない。
でも、常識は哲学の"材料"にはなる。

これでいいでしょうか?

有り難うございました。

お礼日時:2016/10/21 07:58

五木寛之氏がコラムにしなければならないので、無理やり"哲学"に祭り上げてしまったということ。


>努力はむくわれない。しかし努力には意味がある。
別にそれ以上でもそれ以下でもないんじゃないの。

>真の努力家にのみ許される発言
>人生は厳しい。この若さで、それを見切る視線の強さに、あらためて驚嘆せずにはいられない。

小説家の表現ってのには、あらためて驚嘆せずにはいられない。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

だだじゃさんそのままの世界ですね。

本音を云うと、同意では有ります。

ただ、驚嘆せずにはいられない回答であれば、さらによかったです。

有り難うございます。

お礼日時:2016/10/21 02:00

「☆ 単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線、のようなものが見えてくる事を期待しています」


→ 単なる考えとは一時的なことでしょう。
一方、哲学は人生、生き方に類することでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

一時的な考えは、その時々で変わるので哲学とは言えない。

一方、人生・生き方に関する思いは一貫性があるはずで、そうなれば哲学と云えると云うことですね。

なるほど。
有り難うございました。

お礼日時:2016/10/20 21:54

「努力は嘘をつく。

でも、無駄にはならない。努力の正解を見つける事が大切。  by 羽生結弦」
最後の言葉が重要です。
つまり、正しい方法で充分な量をした努力は報われる。間違った努力は報われない。
イチローやダルビッシュもほぼ同じことを言っています。

恐らく羽生選手の真意はこれで、科学的な方法論に基づく正しい努力のことです。勝手に"冷徹な人生…"とか語られても誤解甚だしいかと。

哲学とは
①人生・物事の原理を、理性によって求めようとする学問。②経験からつくりあげた人生観。

②から言えば一般的には哲学ですね。①は受け手によって答えは変わります。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

「努力はむくわれない」
「しかし努力には意味がある」
「努力は嘘をつく」
「でも、無駄にはならない」
「努力の正解を見つける事が大切」

今は「 」内の言葉をつなげて、或いは関連を考えながら答えを探っています。

CosmoToyさん、回答有り難うございます。

お礼日時:2016/10/20 18:44

★(№1お礼欄) ここには「哲学」は存在しないんですね。


☆ いやいや。《哲学 + α 》としての《神っている》境地です。

努力はします。
努力をするということは 何を・どのように・どれだけ等々の条件を
思索しておこないます。

その思索は 哲学です。

専門分野における努力にともなう哲学だけではなく けっきょく生活
日常としての生活態度の形成 これも――あるいはつまりこれが――
哲学・思想です。

自己形成は すべて哲学です。




この《努力》レベルを いつしか超えたと思える段階がある・・・の
かも知れない。と話を聞いて 感じますし思われます。

五木寛之の言うとおり 努力を否定・排斥するのではないはずだと思
います。また 哲学に成っていると思うことも すでに述べました。



▲ 『努力はむくわれない』
☆ と言ってもいいし あるいはお望みなら 単純にふつうに『努力
はむくわれる』と言ってもよい。・・・と言おうとしているのではな
いでしょうか。

どちらも同じような意味内容になるのだという思いを持つに いまは 
到っているというのが 羽生弓弦の言いたいことではないかと。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ブラジュロンヌさんの哲学に付いての定義、を私が提案してみます。
いや、発見したと云う表現のほうが適切かも知れません。

それは・・・自己形成。
これにつながる思索が哲学であると。

また、質問で取り上げた羽生結弦の言葉「努力はむくわれない」の"むくわれない"をどう解釈するか、という問題もあるかと思いました。
"報われる"を、社会的な評価と云う意味に取るか、自身の心の問題としての言葉として受け止めるか、で、答えが違ってくるような。

そんなことを思っています。
有り難うございました。

お礼日時:2016/10/20 18:31

《神ってる》という状態にまで到ると 



努力の甲斐がある無しには関係しなくなるのだと。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ここには「哲学」は存在しないんですね。

有り難うございました。

お礼日時:2016/10/20 10:32

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!