プロが教えるわが家の防犯対策術!

『愛』
この言葉には勝てない。最強の言葉ではないかと思う。
この言葉を出されたら、もうスゴスゴと引き下がるしかない。

そう思うからでしょうか、安易な使われ方がされているのではないかと、ふと気になりました。
もし、こうした同様の思いを持つ方で、よい事例など知っていたら教えてほしいのですが。

また『愛』以外で、これはと思う単語があったらその言葉を、感想など付けて教えて頂けると有り難いです。

今後、使用する際に役立てたいと思います。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (3件)

★(№2お礼欄) ~~~~~~~~~~~


言葉は人間の意志の表現が声となって、それが言葉に成ったの
でしょう。
だから始めは指を差しながらアーとかウーと声に出して意志表
示していたはず。
この時点ですでに人間の声、言葉には「色」が付いていると見
るのが自然な受け止め方だと思います。

・・・

言葉には始めから「色」は付いているはずです。
ただそれが一色なのか多彩なのか、また使われ方によって変化
するのか、こう考えていくと興味が起きます。
~~~~~~~~~~~~
☆ ええっとですね。
陸の土の高く盛り上がったところ これを或る人は 《やま》
という音声で呼んだ。或る人は 《たか》と呼ぶ。さらにほか
には《をか》と言う。

それらは 人の気持ちや好みや思いによってそれぞれ彩られて
いると言えます。

ところが 《音声》は まだ実際の・現実の《ことば》には成
っていない段階のものです。

コトバに成ったなら 人の発声は 《音韻》と呼ばれます。
つまり それと同じように 初めの音声コトバは まだ言語に
おける語としては成り立っていません。

音韻としてコトバに成るのは その音声コトバが 互いのあい
だに共通の意味を持つとして認められた段階でのことです。

すなわち 陸の隆起一般を 《やま》と呼ぶと取り決め合うこ
とになります。個別の山に名をつけるとき 《たか・たけ(岳
・嶽)》という語を用いるといった約束が出来上がる。《をか
(丘・岡)》は やや低い山を言うというふうにです。


このときのコトバは できるだけ人間の主観としての色を取り
除いたかたちでその意味内容を取り決めたものです。

だから おれは 低いものを《やま》と言い より高いものを
《をか》と言うのだといった色眼鏡を掛けて用いることは つ
つしまれるのです。

これが ことばの基本です。そこに色は ついていません。
〔という約束です〕。

《土人》というコトバに 初めに色はついていません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ブラジュロンヌさんの言う「言葉は」を、「辞書に表示されている言葉は」色が付く前である、と言っているのかな?と今は受け止めておきます。

有り難うございました。

お礼日時:2016/10/23 13:04

問題が生じたら 言葉の所為にするのは あまり芳しくありません。



いま《土人》という言葉が やり玉に挙がっています。

けれども そんな言葉は知らないという世代の者も いまはいると
いうことです。

ことほどかように 言葉には罪はありません。言葉に色をつけた人
間の所為です。

というように 言葉は凶器だという見方も 一面的で褒めたことで
はないのと同様に これこれこの言葉は――つまり いまの《愛》
という言葉は―― オールマイティーであると見てしまうのも い
かかでしょうか。

まるで愛という言葉は ご老公の印籠みたいなものだ・・・という
ふうに茶化して言うぶんには おもしろいのですし 問題ないはず
です。

しかし 言葉に――いい意味でもわるい意味でも――初めから色が
ついているという議論は いただけません。

人間が色をつけているのだ。それが ナラハシにまで成ってしまう
と あたかも元からついているかのように錯覚してしまいます。

ただ それだけのことだと哲学は 言いつづけると思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

言葉は人間の意志の表現が声となって、それが言葉に成ったのでしょう。
だから始めは指を差しながらアーとかウーと声に出して意志表示していたはず。
この時点ですでに人間の声、言葉には「色」が付いていると見るのが自然な受け止め方だと思います。

ブラジュロンヌさんの「言葉そのものに色は無い。使う人によって色付けられる」という主張を、例えを以て解釈して見ます。

雪とその結晶
例えなので科学ではどうなのか知りません。
結晶は雪から生まれると見て、これに「言葉」を当てれば「言葉に色は無い」と言うのは雪の結晶に当たると思います。

言い換えれば、混じり気を取り除いた「言葉」。
「言葉」に、こうした意味を持たせる事が出来るとするならば、ブラジュロンヌさんはこの事を言っているはずです。

一般にはこうした視点でモノを言っている訳ではないので、だから理解されません。

言葉には始めから「色」は付いているはずです。
ただそれが一色なのか多彩なのか、また使われ方によって変化するのか、こう考えていくと興味が起きます。

有り難うございました。

お礼日時:2016/10/23 11:39

愛とは、1つの現象を指すのではありません。


自己チューな意識を補正する、社会や遺伝や経験に起因する多様な要素の、便宜的な定義です。
正確に記述するなら、たとえば以下のようです;

愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。

主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。

しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、ある種の愛は、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。

そこに於て究極的に、真の愛とは完全なる科学(原理認識=社会生命としての他我化)である。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

寄せられた回答文に注文です。

一つの文が長過ぎます。
せめて一行から二行弱で句点を付けて、回答を書き直して下さい。

もしどうにもならないと言うのなら、この回答は意味も分からずにただ丸暗記しただけのものであると、受け止めます。

よろしくお願いいたします。

お礼日時:2016/10/23 10:57

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す