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「罪を憎んで人を憎まず」の対義語を教えてください。

よろしくお願い致します。

A 回答 (10件)

まずはNo.2さんに一票。



多くを憎まない考え方が、「罪を憎んで人を憎まず」です。
逆に、少しでも多くを憎むのが、「坊主憎けりゃ袈裟まで」なので、これが最も反対の関係を構成するかと思います。

また、ことわざや故事成語ではないですが、「性悪説」なんてのは該当するかも?
「罪を憎んで人を憎まず」の根幹には、「罪が悪いのであって、人が悪いのではない」と言う、「性善説」的な概念が含まれていますので。
そう言う観点では、「本来、人間は悪である」と言う、性悪説などが思い浮かびました。

更に、「人を余り憎むものではない」「『許す』と言う寛容さを持て」などと捉えた場合には、「悪即斬」なども該当するとは思います。

しかしこれらは、それなりの意訳的な解釈を要し、「坊主憎けりゃ・・」ほど、直接的な対義関係ではなさそうだし、ことわざ等だと、「坊主憎けりゃ・・」が最適でしょう。
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この回答へのお礼

なるほど、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ですか。
ありがとうございます。

お礼日時:2017/01/27 01:36

「人を憎んで罪を憎まず 」では無いでしょうか?


桃太郎侍は、「罪を憎んで人を憎まず」ですよね。偉いですよね。
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この回答へのお礼

なるほど、反語という訳ですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/20 15:19

もう一度考えてみました。


まず、

「罪を憎んで人を憎まず」は、
>これは、もともと、孔子の言葉で、やはり、裁判について言及したものだそうです。
>『孔叢子(くぞうし)』という本に出ているそうです。
http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0319/
>テレビ番組でいったら、『大岡越前』の「大岡裁き」です。

と私は書きました。つまり、刑罰の考え方ではないでしょうか、という提案です。

「大岡裁き」の『大岡政談』の内容のいくつかは、聖書から取り入れたものだということです。不思議と『大岡政談』には、「罪」と「人」を分離するようなテーマが多いような気がします。ちなみに、それと逆になるのは『相棒』だと思っています。

ネットで調べると、聖書のヨハネ伝に『罪を憎んで人を憎まず』に近い表現があるというのです。ヨハネ7:53 から探してみましたが、「まったく罪を犯したことのない純潔な人だけが、罪人に対する罰を執行してもよい」というわけで、民衆は私刑を実際には実行できなかったという内容です。

実際、『罪を憎んで人を憎まず』ということは可能なのでしょうか。私は、本当に大変なことだと思います。まして、当時の人たちにとっては、私刑をすることは義務だったわけですから、それを改むることは容易なことではないはずです。

日本の歴史には、浄土宗の法然上人のエピソードの中に同様の話が出てきます。しかし、あくまでも宗教的な対応ゆえではないかと思うのです。昔から、日本では死刑制度はなくなりません。日本は古来から、「仇討ち」の感情が残っているからではないでしょうか。

この聖書とは言っても、新約聖書の中では比較的新しい概念ではないでしょうか。
新約聖書では、それまであった、考え方を否定しているわけですから。

モーセの築いた何千年と君臨してきた「応報刑主義」が聖書には謳われているわけです。
マタイ 5:38 では、『目には目を、歯には歯を』であったものを、やめなさい、と言っていますが、『目には目』は、非常に合理的な刑罰システムだと思うのです。つまり、相手に与えた損害と同等の刑罰を与えるということです。

出エジプト記の21:24に、
「目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」とある刑罰の命令に対して、後の社会(新約)では、それを反論を立てているわけです。

これが、『罪を憎んで人を憎まず』の反対に相当する考え方だと考えます。

それとは別に、『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』というのは、江戸時代に出来た言葉だそうです。人はどう考えようが、私には、ずいぶん艶っぽい表現、どちらかというと色恋沙汰さえも感じさせるような川柳のように感じさえします。『坊主可愛けりゃ袈裟まで可愛い』という言葉さえ残っているというのは、なんとも奇妙です。
浄土宗神奈川教区青年会 http://www.jodo-kks.com/archives/284

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/2655152.html
憎まれる理由が、ここでは、金銭的な問題だと言います。それは今も昔も変わってはいないようです。戒名も、お寺一つ寄進するぐらいでないとちゃんとしたものがもらえないとも言います。(ひろさちやさん曰く)僧侶でも金儲けがうまい人は、あまり良く言われません。ただ、「袈裟まで憎まれ」ても、民衆の暴動が起きてはいません。今も昔も、日本では、いつもどこかでお坊さんたちが喧嘩しています。仲裁でも入ろうものなら、関係ない人間は入ってくるな、と言われる始末です。お坊さんが、日本を独裁しようとしても、日本国憲法の信教の自由で守られていたりします。「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」というのにも関わらず、今日まで大人げない喧嘩が続いています。

『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』は、比喩的なものですが、袈裟に八つ当たりしても、最後は、その本人を殺害し、その殺害した亡骸を、その民族や宗教が一番嫌う方法で処理し、その名を永遠に呪われたものとして残すというのが、報復なのではないでしょうか。世界では多くあるようですが、ことに中国には、多いようです。

『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』は、その点で、袈裟に八つ当たりなのですから、それが、『罪を憎んで人を憎まず』の反対に相当するというなら、いかにも日本人らしいと思うのです。先進国から、日本の警察は、江戸時代からの伝統の拷問制度も残っていると言われているのに、九州の鹿児島県の警察が行った志布志事件の「踏み絵」のように、それでなんとかできると思うのは平和な証拠かもしれません。被害にあった方にはお気の毒ですが、地方には同じようなことがたくさんあるはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/20 15:19

人を憎んで罪を憎まず、です。



うちの毒母がまさにそれですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/02/14 16:43

「罪を憎んで人を憎まず」は、


これは、もともと、孔子の言葉で、やはり、裁判について言及したものだそうです。
『孔叢子(くぞうし)』という本に出ているそうです。
http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0319/
テレビ番組でいったら、『大岡越前』の「大岡裁き」です。現実の大岡越前は違うとは思いますが、これを見ていると人はほっとするわけです。

少し、表現的にはずれていますが、このように考えました。

これに対するものは、「応報刑主義」といって、刑罰は、犯罪により生じた害悪に対する応報であると考える事だと思いました。その人が悪意があるかどうか別として、罪に応じて人をさばくわけです。テレビ番組では、『相棒』の杉下右京という人が典型的です。その人が善人なのか悪人なのか関係がなく、時には人を追い込んで、犯罪に走ったとしても、それは、あくまでもその人の罪だというわけです。
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悪即斬

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/20 15:20

ことわざだと思いつかないな。



よく言う「ごめんで済んだら警察はいらない」とか
昔見た漫画で「ウラミハラサデオクベキカ」
「坊主殺せば7代祟る」などかな。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/20 15:20

完全な対義語ではありませんが、「勧善懲悪」。


つまり、「善を勧めて悪を懲らす(懲らしめる)」が一番近いです。
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この回答へのお礼

懲らしめる…なるほど、盲点でした。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/20 15:21

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではないでしょうか。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
まさに、意味に通ずる対義語だと思います。

お礼日時:2017/02/14 16:44

無いです

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この回答へのお礼

そんなことはありません。上記の答えがそうです。

お礼日時:2017/02/14 16:44

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