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▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~
 かの全能者は 
 最初の人(アダムとエワ)からであれ 
 その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
 わたしたちに起こっている悪を
 その満ちあふれる恩恵によって
 滅ぼしている。
    (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ のではないか? 

信仰の有る無しにかかわらず。

それでこそ普遍神である。

A 回答 (18件中11~18件)

No.6です。



「つまり逆に言って あなたの見解だと 傷は自分でつけたのだが その傷を癒すことのできるのも 自分〔の心がけ〕次第である。となりませんか?」
⇒もちろん、その通りです。
ですから、”自己責任”なのです。

わが国の精神風土は、その自己責任を曖昧にしてきています。
そのために、他人を誹謗中傷したり、失恋で同情を得ようとしたり、甘ったれた考えの人間がとても多いです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 「つまり逆に言って あなたの見解だと 傷は自分でつけたのだ
が その傷を癒すことのできるのも 自分〔の心がけ〕次第である。と
なりませんか?」
★ ⇒もちろん、その通りです。 / ですから、”自己責任”なのです。
☆ いやあ。それでは 肌理の粗い哲学となりはしませんか?

★ ~~~~~
わが国の精神風土は、その自己責任を曖昧にしてきています。
そのために、他人を誹謗中傷したり、失恋で同情を得ようとしたり、甘
ったれた考えの人間がとても多いです。
~~~~~~
☆ つまり それだと 腕白坊主やチャランポランな人間が一定数どこ
でもいるので これらにお灸を据える必要があるといった特別措置の問
題にちぢこまってしまいませんか?




と言いますか もしそういった《自己責任》のくせをつけることが大事
だとして そのことをひとつの哲学とするとしましょう。それでも問題
は あるのではないか?



ひとつには やはり問題を必ずしも一人やその場の当事者たちだけの責
任に限定し特定することができるか? 共業の問題もからんで来ましょ
う。

極端なことをやはり言えば 被害者のほうには 何も責任はないのか? 


さらに問題は いづれにせよ――つまり 責任をどう決めどう取るかに
ついていづれの考えを採用するにせよ―― では かかわった人たちそ
れぞれの心の傷は どう癒やされると見ておけばよいのか? です。

わたしがわるうございましたとあやまれば あとは 何の問題もないの
か?

むろん 責任を必要以上に問うことはないはずですが 問題は 心のわ
だかまりにあるはずです。

公共の場で謝罪させれば済む。でしょうか?

心のケアは 専門家にまかせればよい。で済みますか? それが哲学の
答えだとしてよろしいですか?




存在論の問題ではないですか?

つまり 心にわだかまりが無く 世間と和解しており 自分自身とも和
解が成っており そうして心の傷が癒えているなら 《他人を誹謗中傷
すること》もないでしょう。

という順序での考え方をすることは 必要ないですか?

そういった能天気の人どうしなら 互いに《甘えて》もどうってことな
い。となりますから。

お礼日時:2017/08/01 16:16

若い人はすぐ治癒。


年寄りはなかなか時間が掛かるんじゃないかな。
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この回答へのお礼

まぁ そういった事実は あるのかも知れませんね。

ご回答をありがとうございます。


ただですね。年寄りは 必ずしもそういうことではなく むしろ
心の傷やその原因となったおのがしわざについて 意識すること
が鈍くなっているだけかも知れない。

若い人のほうが むしろしっかりと自分の非について気にするこ
とが――正当にも―― 多いかも分かりません。しっかりと け
じめをつけておこうという心がけです。

(おそらくそれは 少数派かも分かりませんが そういった正統
派がいるとしたら そういう事態についても 哲学は考察をおこ
ないましょう)。



そして この質問の問いは 特殊でして かんたんに言えば 傷
を癒すには:

 普遍神(つまり自分のチカラ以上の何らかのナゾ) > 時間

というような極論を提示して みなさんの見解を問うています。

千年の恨みといったふうに 時間が癒やさない場合もあるかも知
れません。ので。

お礼日時:2017/08/01 13:18

No.5です。



「そのような自業自得の自覚がなくても 言わば能天気のままでも 或る日或る時癒やされる。といった極論を問うています。どうでしょう?」
⇒そういうことは十分にあるでしょうね。

ご存知のように細胞の新陳代謝。
これは脳細胞でも同じです。
日々脳細胞も新陳代謝を繰り返しており、傷ついた記憶をもった脳細胞も時間とともに消失していくからです。
よくいわれている”時間が解決してくれる”は、そういう理由ですね。


「ぎゃくに言えば 自分の所為だという自覚がじゅうぶんにあっても直らない場合があるかも知れない。・・・・・・つまりは 癒やされるというコトは 人間の能力や努力を超えている。のではないか? これが問いです」
⇒人間の能力や努力を超えているとは思いませんね。
つまり、自分を守ろうとして自己責任を認めようとしない人がいます。

70代、80代になっても自分の非を認めようとしない人、このような人は結局孤独の最後を迎えます。
これは救えませんね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 「そのような自業自得の自覚がなくても 言わば能天気のまま
でも 或る日或る時癒やされる。といった極論を問うています。どう
でしょう?」
★ ⇒そういうことは十分にあるでしょうね。
☆ まづは 極論でも起こり得る・・・ですね。そのわけは 次です
ね。

★ ~~~~~
ご存知のように細胞の新陳代謝。
これは脳細胞でも同じです。
日々脳細胞も新陳代謝を繰り返しており、傷ついた記憶をもった脳細
胞も時間とともに消失していくからです。
よくいわれている”時間が解決してくれる”は、そういう理由ですね。
~~~~~~~~
☆ ここで 半分 道を分け合います。半分 同意しつつ あとの半
分では ずばり言って 《時間が解決しなくても 傷は癒えるし 時
間がその問題じたいを解決したとしても 傷はなお残る》という場合
はないか? です。

その点では 見解を異にするようです。すなわち:
☆☆ 「ぎゃくに言えば 自分の所為だという自覚がじゅうぶんにあ
っても直らない場合があるかも知れない。・・・・・・つまりは 癒
やされるというコトは 人間の能力や努力を超えている。のではない
か? これが問いです」
★ ~~~~~~~~~
⇒人間の能力や努力を超えているとは思いませんね。
つまり、自分を守ろうとして自己責任を認めようとしない人がいます。

70代、80代になっても自分の非を認めようとしない人、このような人
は結局孤独の最後を迎えます。
これは救えませんね。
~~~~~~~~
☆ きわめて単純に問い返します。

初めの極論:《能天気のままでも 或る日或る時癒やされる》につい
て:
★ ⇒そういうことは十分にあるでしょうね。
☆ だとしたら たとえおのが非をみとめなくても 傷は癒える。と
言えませんか? 能天気でも細胞の新陳代謝は生じています。

つまり逆に言って あなたの見解だと 傷は自分でつけたのだが そ
の傷を癒すことのできるのも 自分〔の心がけ〕次第である。となり
ませんか?

なってもよいということですか?

人びとがふつう一般の場合として――単純にですが――承知している
事態と 違いませんか?

お礼日時:2017/08/01 13:10

No.4です。



「そうだとすれば・つまりそうして《悪》を冒したとすれば そうだとしても そのときこうむる心の傷 この:☆☆ こころのきずがなほらないことがあるか☆ という問いです。よ」
⇒bragelloneさん、それは理解しています。

最初に回答した内容は、”治るか治らないかを考えるために”でした。
何故ならば、”こころのきず”は実は他人の責任ではなく、自分に原因があるなことがほとんどだからです。

失恋のきず、職場での人間関係のきず、家族関係のきず、も実はほとんどが自分の責任だからです。
それが分らないと”こころのきずはなほらない”のです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~
最初に回答した内容は、”治るか治らないかを考えるために”でした。
何故ならば、”こころのきず”は実は他人の責任ではなく、自分に原
因があるなことがほとんどだからです。
~~~~~~~
☆ なるほど。そのことは分かりました。そして そのご見解にそ
のまま同意します。

むしろ 他人の所為で自分が心に傷を負うということは いっさい
まったくないという立ち場です。

自分のついたウソやおこなったイツハリの結果――そのウソ・イツ
ハリのときに心に逆らった分だけ 心がそこなわれて―― 傷がつ
く。というふうに。




★ ~~~~~~~
失恋のきず、職場での人間関係のきず、家族関係のきず、も実はほ
とんどが自分の責任だからです。
それが分らないと”こころのきずはなほらない”のです。
~~~~~~~~~
☆ 前段での・簡単に言えば自業自得としての心の傷ですが じつ
は――この質問は極端な見方を提示して 広く一般的な思想へと到
りたいという意図がありまして―― そのような自業自得の自覚が
なくても 言わば能天気のままでも 或る日或る時癒やされる。と
いった極論を問うています。どうでしょう?

ぎゃくに言えば 自分の所為だという自覚がじゅうぶんにあっても
直らない場合があるかも知れない。

(この場合は きわめて複雑な事情があると思っていて それは
社会の中で・身のまわりの人びとの中で その人はそういう《癒や
されないままで活躍する》といった役回りではないかというもので
す。いまは保留します)。

つまりは 癒やされるというコトは 人間の能力や努力を超えてい
る。のではないか? これが問いです。

お礼日時:2017/08/01 11:23

No.3です。



「☆ 《孤独であること》と《責任を持って生きること》とは 両立します。よ。」
⇒それでいいと思います。

「孤独は たとえ善でないとしても 一義的に悪だとも言えないでしょう」
⇒もちろん、悪くはありませんね。

その孤独を他人のせいにしたり、救ってもらおうとする時の方法を間違うと悪でしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

賛同してくれているのに言うのは何ですが 質問の趣旨から外れて
しまいました。

★ その孤独を他人のせいにしたり、救ってもらおうとする時の方
法を間違うと悪でしょうね。
☆ 孤独は 自分のそのときある姿について 他人との関係からひ
とまづ離れて おのれに固有の時間を持ち この時間の中にあるこ
とです。

さびしいとか わびしいといった気持ちと無縁ではないでしょうが
それよりも むしろ独り満ち足りている時であるかも分かりません。

ただ もしその結果として――まづ 次のようなことは起こらない
と思うのですが もしその孤独の結果として――
★ 自分の〔孤独というよりは〕孤立を他人の所為にしたり 救っ
てもらおうと考え そのするときの方法を間違
☆ ったとすれば:

そうだとすれば・つまりそうして《悪》を冒したとすれば そうだ
としても そのときこうむる心の傷 この:
☆☆ こころのきずがなほらないことがあるか
☆ という問いです。よ。

お礼日時:2017/08/01 10:41

No.2です。



「自業自得説でしょうか。でも それと同時に 共業(ぐごう)といった思想もありますね。つまり 社会としての状態や情況によって何がしかの結果を一人ひとりの個人がこうむる。共同の責任でもあるといったふうに」
⇒そういうことはあるでしょうね。
その場合でも、その具体的な内容を冷静に分析すると、自分の責任は必ず見つかります。

「孤独であることは むしろ《われがわれであること》の基軸を成すとも考えられます。どうでしょう」
⇒そのように考えても、それは自由でしょうね。
それで生きていくことも自由ですが、多くの人の理解を得ることは難しいでしょう。

何故ならば、自己責任で強く生きている人から見ると、救いようがないからです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 「自業自得説でしょうか。でも それと同時に 共業(ぐごう)といった
思想もありますね。つまり 社会としての状態や情況によって何がしかの結果を
一人ひとりの個人がこうむる。共同の責任でもあるといったふうに」
★ ⇒そういうことはあるでしょうね。
その場合でも、その具体的な内容を冷静に分析すると、自分の責任は必ず見つか
ります。
☆ まづ 共業の読みは 《ぐうごう》でした。間違えました。

▲(ヰキぺ:業) ~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD#.E5.85.B …
§ 5 北伝部派仏教における業思想
§ 5.5 共業

集団に共通するような、ある結果を生み出す力を共業(ぐうごう)といい、自己
のみ特別にして他に共通しない状態の果報をひきおこす力を不共業とよぶ。

これは物質世界(器世間)に影響を与えるものであって、個人(衆生世間)に影
響を与えるものは「個別的(不共)」であるので、共業とは呼ばない。
~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり もちろん 個別的な因果関係としての自業自得〔という主観的評価〕
という場合もありましょう。

そしてこのヰキぺ氏の見解に反して(つまり それを補うと思うのですが) 
▲ 物質世界(器世間)に影響を与える共業
☆ も そのあと この《器世間における共業》が 個人の《衆生世間》に影響
を与えるのではないかとは考えます。

地震と津波による共業が 人びとの心にいろんな影響を与えることがあります。
天災の中に人災の要素があるとした場合などは それにかかわった人びとの心が
傷つくところにまで到るかも知れません。




☆☆ 「孤独であることは むしろ《われがわれであること》の基軸を成すとも
考えられます。どうでしょう」
★ ~~~~~~~~~~
⇒そのように考えても、それは自由でしょうね。
それで生きていくことも自由ですが、多くの人の理解を得ることは難しいでしょ
う。

何故ならば、自己責任で強く生きている人から見ると、救いようがないからです。
~~~~~~~~~~~
☆ 《孤独であること》と《責任を持って生きること》とは 両立します。よ。

孤独は たとえ善でないとしても 一義的に悪だとも言えないでしょう。

お礼日時:2017/08/01 09:35

どんなに孤独で寂しくても、他人が評価してくれなくても、それは全て自分の責任ですからね。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

自業自得説でしょうか。

でも それと同時に 共業(ぐごう)といった思想もありますね。

つまり 社会としての状態や情況によって何がしかの結果を一人ひとり
の個人がこうむる。

共同の責任でもあるといったふうに。




あと 心の傷は なるほど基本的には(部分的にでも基本として)自分
の意志行為の結果ですから それは かなしいことです。

ですが だからと言って:
★ 孤独で寂しい また 他人からの評価が得られない
☆ といった状態にあることとは 基本的に 別だとは思います。

前もって覚悟の上で ウソをつきイツハリを冒さなければならなかった
と知っている場合もあります。

孤独であることは むしろ《われがわれであること》の基軸を成すとも
考えられます。

どうでしょう。

お礼日時:2017/07/31 16:59

善悪にかかわらず、時間が物事を解決しているとも考えられますね。



つまり、普遍神とは時間なのかもしれません
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。

まづ 《心の傷がなほる》ことと:
★ 物事を解決すること
☆ とが 必ずしも同じではないですね。

おそらく 重なっている部分があると考えられます。

ですが――それでも細かくなりすぎかも分かりませんが―― そう
ですね・・・こういうことが起きると思われます。

つまり たとえ懸案であった問題が解決されなくても すでにわが
心は その問題によってこうむった傷を癒してしまっている

あるいは 問題は問題としては解決しているが 心はその傷から癒
やされないままである。

・・・こういうことは 起こり得ますね?

つまり この話の限りでは 問題は:

 ○ 時間が 心の傷を癒すのか?

という問いになります。
どうなんでしょう?

おそらく 答えは:

 ○ 時が心の傷を癒やすこともあれば 癒しきれないこともある。

ではないでしょうか?

★ つまり、普遍神とは時間なのかもしれません
☆ と見られるとき 推測ですが 癒やす医師として:

 ○ 普遍神 > 時間

であるかも知れません。

《千年の恨み》などは どうなっていましょうか?

お礼日時:2017/07/31 15:08

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