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何故、私は私であったか。
意識の無二性は何に拠っておるのでしょうか。
ご見解をお願い致します。

質問者からの補足コメント

  • 精神というのは非常に具体的な現象であり、私のような知識の浅い者にとっては、考える対象としてはあまりにも複雑なように思えました。しかしながら、三界という考えを聞いて、これならば精神を考えるのに私にも用いることができるかもしれないと思いました。欲界、色界、無色界の三界です。欲界とはつまりは物の世界で肉体(脳みそも)もこれの範疇です。色界とはいわゆる精神の世界でしょう。概念や感覚質もこれに含まれると思われます。私という意識も、色界にあるのではないかと思っています。無色界とは、情などの精神作用があるわけではないが、何もないわけではない、全一や無、言語作用でとらえられないものなどの、不可分の(分けられない)ものの世界だと私は思っています。

    補足2へ続きます。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/03/01 00:32
  • 私が水に形容するものも、この無色界の範疇に入ると考えられます。しかしながら、ブッダの境地はこの三界ではなく、涅槃と呼ばれる処のようです。これは喩えば、あらゆる味の中で、風味だけが他のどの味の種類(甘い、塩辛い、酸っぱい、苦い、旨い、など)とも違うようなものです。三界とはあらゆる存在の場であるが、その中に涅槃は無いという事だと私は理解しています。また、人生の喜怒哀楽とは異なる心的住所、それが涅槃であると思われるのです。

    つい脱線してしまいました。
    仮に精神が大本で一つであったとしても、更にその一つがまた無を基盤にして存在していたとしても、それ以上は私の思考の及ぶところではないのですが、その及ばざる私の思考の「限り無いという限り」を悠に超えている存在もまた居るのでしょう。

      補足日時:2018/03/01 00:32
  • ここで一旦、皆さまにお礼申し上げます。思いの外多くのご回答をいただき、自分の考えなかった興味深い見解を沢山聞くことができました。充実したQAになって、嬉しく思います。ありがとうございます。

    もうしばらく開けておきますが、回答が途切れるようでしたらその時には閉めますので、その事ご承知よろしくお願いいたします。

      補足日時:2018/03/11 13:48
  • 西欧では個人と唯一神との結びつきが個人主義を生み出していて、日本では個人と大地との結びつきが全体主義を生み出している、と言う見方を何処かで聞いたことがあります。

    No.69の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/03/16 15:14

A 回答 (74件中1~10件)

超難問ですね。



いくら考えても、さっぱり分かりません(笑)。
以前このサイトで、次のようなことを言っていた人がいました。

≪意識というものは実は頻繁に移り変わっているもので、気が付いていないだけだ≫

私はこのことが真実だとは思えないのですが、思索において何らかの糸口になるかも
知れないと思い、引用致しました。

この質問が開いているうちにこの難問を、改めて考えてみたいと思います。
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この回答へのお礼

この問いを実感できる人とそうでない人がおるそうです。何故かわからない人は、実感している人だと思われます。

意識は常に移り変わっている、というのは、私にとっては、そう考える事も出来るなあという印象です。

この問いは楽しいですね。しばらく開けておきますので、またよろしければご回答下さい。

お礼日時:2018/02/19 16:13

大変な難問なので、自由に考え何か出てくるかなと思いましたが、


残念ながら一つも発展がなかったようです、私としましては。

相変わらず、ストーカーのような人はいますし、うんざりしてきま
した。では。
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この回答へのお礼

あら。私としましては、結構な収穫のあるQAにできたと思っていたので、デヴィッドさんが何も得られなかったというのを聞くと、少し残念に思います。最後の方は話の枝葉が広がり過ぎた感はありますが、話は成立していたように感じていたので、デヴィッドさんが感じるストレスを軽視していたのかもしれません。
沢山のご回答をありがとうございました。

お礼日時:2018/03/18 23:56

左脳と右脳をつなぐ脳梁を切ると、一つの体の中に二つの脳(左脳と右脳)がある事になります。



すると、二つの人格が存在したかのような現象がみられるそうです。片方の手でもう片方の手の動きを止めようとしたりする現象です。しかし脳が二つになろうが今まで通りその人は笑ったり怒ったり、普通にしゃべったりできるのです。

そこで疑問なのが私(意識)という人格は左脳と右脳どちらに宿るのか?という事です。左脳と右脳どちらに宿るかという選択現象は物理現象を超越した現象になります。

もしくは、私(意識)が消滅するのか?という事になります。すると 感情がある=意識がある これが破綻します。


現代科学ではいまだ未解明だらけの脳科学でした。
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この回答へのお礼

人格という意味では、多重人格に見られるように幾つかの人格が表面に出てくる現象が確認されていますね。
夢を見ることもなく眠った場合には、気が付けば朝になっています。この眠っている間は、自我も眠っているのではないでしょうか。
脳科学が発達すれば自我とは何かとか、自我意識やその無二性について、分かってくるのかもしれませんね。

お礼日時:2018/03/18 23:53

生命としての個体の輪郭と中心ということについて。



人間の体は言うまでもなく、臓器・筋肉・骨などの部位の集まりで、各部位は細胞の
集まりで、それぞれの細胞はそれぞれの役割があって、それを能動的に果たしている
わけです。

更に、細胞は元素・分子・原子・素粒子等に細分化され、その果てはひょっとしたら
無いのではないかと思うこともあります。
逆に、一人の人間は家族に属し、組織集団に属し、国家に属し、人類に属し、太陽系
に属し、銀河系に属し、宇宙の果ても見えていないわけです。

この二つの果ては、阿頼耶識・阿摩羅識に目覚めたときに認識できるのだろうと思い
ますが、それはともかく…

生命というものは、まず、物質的に「重層的構造」になっていると思います。
つまり、細胞レベルでは細胞というものの輪郭があり、個体としての人間レベルでは
その輪郭があり、国家・人類、以下同様です。

それぞれに輪郭があるということは間違いないと思います。ただ、その輪郭の境界は
風船のゴムの膜のようなものではなく、「浸透膜」のような通過性のあるものと言え
るのではないかと。それでこそ有機的な網目状の繋がりができると。

次に、中心ということですが、これは「精神」ということになろうかと思います。

人間には言うまでもなく「精神」が存在します。動物や昆虫にも人間ほどでないにしろ
自由意志はどう考えてもあるとしか私には思えません。

また、人が何人か集まった時に、各個人の意思のほかに、何か集団の意思のようなもの
をよく感じます。
それは国家でも人類でも同じではなかろうかということです。
「時代」というものは存在するわけですから、私はこれが国家的集団や人類の意思・精神
だと考えています。

その延長線上に。宇宙の精神が存在するであろうというのが現在の私の結論です。

ですから、個体としての人間は精神的にも重層的構造になっていて、どこに中心を「置くか」
ということなのではないでしょうか?または「置けるか」ともいえましょうか。
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この回答へのお礼

ふむ。確かに生命体は重層的な構造をしていて、どこからどこに輪郭を引くのかということによってその単位は様々であります。これは骰子さんも仰っていましたね。

宇宙は確かに果てしなく広いですが、ここにある人間という生命体ほど複雑な存在であるかどうかは分かりません。私たち自身が自身の体内の細かさを知り抜いていないのと同じに、宇宙自身も自らのうちにこの、人間のような生命体が活動していることは知らない可能性があります。むしろここは普通に考えると、宇宙に意識があるというのではなく、やはり意識は人に宿っているものであり、その寿命は百年弱であり宇宙の100億年強にくらべれば儚い、瞬きする間もないほどでありますが、それは、凝縮された比類なき複雑な構造であるとも思われます。

私はいかに楽しく生きるかということを考えるタイプの人間ですから、宇宙の真相よりも、この在り方を肯定的にとらえることを良しとします。そのような人間からすると、人生は健康である限りはとても楽しいものなのですが、いろいろなタイプの人間がいることで世の中は回るものであり、他のタイプの人たちが見出したものを興味深く拝見し、吸収することは世界をとても広げてくれ、自分のようなタイプの人間たちだけでなくてよかったなぁと思えます。

話は時代の精神という事にまで及んでまいりましたが、宇宙時期という言葉もあります。如来はあらゆる宇宙時期を知っていて、云々という話も聞いていますが、膨大な時間の尺度が散見される経典もありますね。私はほかの星や銀河にも遥かなる文明があるだろうと思っていて、地球人類は特別ではないと考えていますから、例えば一個人が時代の潮流にあらがえないように、宇宙時期に翻弄される地球人類、という見方もできるかなと思います。

このような潮流が精神の本体であるなら精神とは実にアクティブで、重層的でありつつも常に動いており、その中心は定まっているようで定まっていないのではないかと思います。どの層に基準を置くかという話にしても、その層の境目が浸透膜のようなものであるとしたならば、その基準自体が流動的なものにならざるを得ません。そのような中で自我を保つのは記憶と言ったようなある種静的で固定されたものである気もしますが、意識下(無意識)に沈んだ記憶は変容もし、これまた定まらない。定まっているようでそうではないのが我であるのではないか。

お礼日時:2018/03/18 16:19

§ 3  《意識の自立(独立)――その対立と対話と統合――》なる人間像では


しばしばほかの人間の意識に対してちょっかいを出したがる。・・・しかるに 
《意識のおぼろなる情感〔の共有〕にとどまる社会》にある人間像は 慈母観
音像童子の繭を心地よいとして好んで思い描きたがる。



29. 意識の意識たる意識人間は 横合いからも・けっきょくは真正面から
も 相手にちょっかいを出す。

30. ただでもそうなのだから 権限を持つと厄介である。暴力装置をふく
む権力を握ったら どうなるか?




31. しかるに 《おとなしい》われらは どうか?

32. 富士の日本晴れのもとに 異界を問い求め 神々の庭にあそび 常世
の国を夢見 壺中の天にも親しみ お花畑を好む。慈母観音像のもとにある童
子となって その小宇宙にあるのが 好きだ。

33. だが その小さな世界は シャボン玉の如くでもあり 繭となっては
中にいるあいだに いつまでもその蛹のままでいてよいという性分を身に着け
がちである。――だって 《おのれ》の意識を確立する必要もなければ要請も 
ない。(掛け声だけである)。

 

34. ところが この慈母観音像童子症候群は ほかに厄介な病いを併発す
る。


35. 意気の良い(息の荒い)者は やっぱり相手にちょっかいを出す。大
勢をさそって 右へ倣えをさせたがる。佐渡へ佐渡へと草木は靡く。


36. この《童子の繭》シンドロームと それを利用するもうひとつ大きな
《ドーム》症候群のために恰好の手段を提供したのは 日蓮だ。

37. シャボン玉でもなければ繭でもなく われらが存在のみなもとたるチ
カラは これだと指し示した。


38. さすが 主流にはならなかったが 支流を形成しその川幅を広げた結
果となっている。主流に入り込んでいる。

39. しかるに おとなしいわれらは どうするか?



40. 《情感の共同性》社会では その共同性が破綻を見ないことには な
かなか新たには動かない。世間をさわがすようなこともなければ おおやけに
みとめられてゆく。

41. しかるに どうするか? 教義を批判したくらいでは うごかない。

42. 日本型意識に西欧型意識が 最悪のかたちで入り混じったのが 創価
学会である。

43. ゴルディアスの結び目。
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この回答へのお礼

自立した人間像というのは東西問わず一定の姿を持っているのに対し、自立していない人間像というのは洋の東西でタイプがあったりするということですかね。

日本人がおとなしいかどうかは分かりませんが、むしろ情感の共同性というものを基盤にしているなら時流に駆られて爆発するときもあるのではないかと思いました。

ゴルディアスの結び目とは、難問を力づくで解決するという事なのでしょうか。それとも、意外な方法で問題を解決することを言うならコロンブスの卵でしょうか。

自立した人間たちがどのような生を送り、どのような眼差しで自立できていない人々を見ているのか。
それとも自立というのは程度の問題であるのか。
意識の無二性とはまた違った話ではありますが、興味深い話ではあります。

お礼日時:2018/03/18 15:55

>つまり、一人に一つ、世界が存在しているという事です。

この内的世界と生存者(私)を合わせて
自己と言うのかもしれません

ふむ…
一人の人間というものを観照しようとした場合、他の生物と比べた高い知性、非常に複雑な精神性、
そして、比較にならない自由さを持っていることから、一つの小宇宙と言っていいと思えます。
つまり、一生物として、あるいは一生命体として極めて完成度の高い存在であると言えましょう。
勿論、地球上での比較論・相対論ではありますが。

この究極の問いに対する答えは、唯識論では得られないだろうという私の考えはすでに述べましたが、
要は、宇宙と小宇宙である「自己」との「関係性」がわかればよいのだろうという思いに至りました。

主体と環境ということについて、A・トインビー博士はその著書の中で興味深いことを言っています。
引用しますと…

『一個の生物を中心として、そのまわりに全宇宙を体系づけようという企てが常になされている。そし
てこの一個の生物が生き続けることによってごくわずかですが宇宙全体が実際に影響を受けています。
こうしてみますと、ある生物の環境というものは、宇宙全体を包含しているだけでなく、その生物自体
にとって不可欠の一部をなしている。
結局、生物とその環境とが人間の知性によって区分されるにしても、「実在」それ自体にはそうした知
的区分はありえないだろうと私は考えます。』

これは、仏教哲学の中の「依正不二」という概念と同じであると思います。「依正不二」は私が、おそ
らく正しいであろうと見当をつけている考え方の一つです。

これは我見ですが、一人の人間の精神の中には、主観たる自我が中心としてあるのだが、客観たる宇宙
精神も存在している…

こんなところから、何か出てこないかなあと思います。どうお考えになりますか?
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この回答へのお礼

個体の輪郭はどこにあるのか、と問うと、大概の人は肉体にあると答えるでしょう。
しかしこの肉体は食物に依存しており、常に更新されている事を鑑みると、どうやら物としての肉体が個体の輪郭を規定しているのではなく、一個生命のシステムが個体の輪郭の維持をしているのではないか?という考えに至ります。ここから、ではその一個生命のシステムと、そのシステムの外にある世界、自然や宇宙と言ったものとはどう関わりがあるのか?というところの問題に着地すると、どうやら一個生命のシステムは独立している様に見えて外界と大きくつながっているどころかその一部であるとも見れるようになる。ここら辺で骰子さんのおっしゃってくれた事なども片隅に起きつつ敢えて考えを進めると、宇宙に精神は存在するのか?という漠とした疑問もよぎる事もある。個体と言うのは全体に内包されていると考えるのがオーソドックスであります。そこで、モデルを単純化すると、海に浮かべた水風船のような感じを私は思い浮かべるわけですが、果たして!宇宙に輪郭は存在するのか!?という疑問に当たりました。輪郭が無ければ個体と言えず、個体でないならば自我意識は生まれない。全体たる宇宙の意識、精神とは何かと考えると、中心の無い、個体(結節面)が無数に連なった網目状の立体構造が浮かびました。どなたかもおっしゃってましたが、この、中心が無い網目構造(ネットワーク)だからこそ精神(形而上)が生まれる可能性があり、私たちが自我意識と呼ぶものも、この形而上の産物である可能性があります。自我意識と言うのはその様な場に起こる流れのようなもので、恒常的なものではなく、同じような事は個体でも起こっているのかもしれません。つまり、一個の風船という見立てでは自我意識の様態を上手く説明できてはいなかった事になります。
輪郭や中心と言った見方を改める必要がありそうです。

お礼日時:2018/03/16 15:11

§ 2 《意識》には 思考についての・ないしわれなる存在をめぐる意識と 


われについても思考も何らかのかたちでその感覚にとどまる意識とがある。


15. 《感覚にとどまる》意識は むしろ《情感》である。日本人の社会
に――ひょっとして失われつつあるのだろうか―― 特徴的なナラハシであ
る。


16. 《われ》の意識が 他のわれとのカカハリにおいて特には どうい
う見解の相違があるかを見究めようとして あれこれ詮索をもしたりすると
きの・煮詰めたかたちでは 思考の問題に収れんする場合――これは 西欧
型だと見られる。

17. 特に文学作品で 《意識の流れ》が構成要素のひとつとして捉えら
れているのは この《われなる意識どうしの対立と共存》を細やかに描こう
とするいとなみを表わしている。

18. 一般の社会においても 西欧人は 互いにわれとわれとを突き合わ
せてそこから――対立をしっかりと捉えた上で―― 共生を図る。

19. 《個々の意識のほぼ独立――その対立と統合――》のようなかたち
で 社会が成り立っているのではないか。





20. 日本社会では 意識の対立を好まないし その意識は必ずしも わ
れどうしの分立から出発するわけでなく そこここにわれと同じようなひと
たちがいるといったような素朴な感覚とその確認としての意識が 土台であ
ると思われる。

21. 互いにみんながいてわれがいるといったあいまいなわれ意識だと見
られる。しかも われらは このわれらを取り囲む大自然の中にいるといっ
た感覚をも ふつうに養って来ているようだ。

22. われわれは 《情感の共同性》の中にある。われ意識もその中にお
さまる。

23. ただし むろん 情感の共同性が互いに破綻する場合も いくらも
ある。

24. 社会は 《情感の共同性――その破綻と総合――》といった見えざ
る方程式のもとにある・・・かに見られる。



25. この――人間と社会の基礎を成すと思われる――方程式を 上から
上手にあたかも完全犯罪のごとく利用し操縦するのは クウキ〔の支配〕と
言われる情況のことである。アマテラスお二階さんは 役者が一枚上なよう
である。




26. 意識〔するわれ〕の無二性は しかし どちらの社会においても
自由意志ないし意志による選択の自由にあると考えられます。



27. 《常識と違う指示が上から来た》からと言って 一つひとつの思索
と行動は おのれの意志にかかっているのだから 何もその自由度が 自死
の選択にあるというまでに行き着くとは 何とも言葉をなくします。

28. クウキという壁は そのクウキの指し示す内容と反対のことを 口
に出して言葉で言ってしまえば――《水をさせば》―― ただちに・一たん
は 消えます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ふむ。西欧型と日本型の違いなど、なかなか興味深く読みました。文化的な違いの考察をもとに、意識の無二性を考えることもおもしろいかもしれませんね。

お礼日時:2018/03/16 14:30

§ 1 精神分析等の《無意識》は 脳におけるそのような部位の存在が確認され


ていませんよ。

1. ▲(1)(ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F …

無意識(独: Unterbewusstsein, das Unbewusste、英: subconscious )には、
大きく以下の二つの意味または使用法がある。

(あ) 「意識がない」状態。(通常の心理学や精神医学での用法)

(い) 心のなかの「意識でない」領域。(ジークムント・フロイトが提唱した
精神分析学や、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学での用法)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. 独英語のごとく 《意識下 あるいは 潜在意識》とよぶのが 一般です。

3. (い)の説明は 分かりづらいですが この無意識なるハタラキをつかさ
どる脳細胞の部位が 独立して存在するというもの(仮説)でした。特にフロイト
では 性衝動にかかわるイド(= 英 it; 独 es )もしくはリビドーの問題でし
た。



4. ▲(1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
§§ 3.4 無意識の存在

とはいえ、「無意識」という用語は、定義が曖昧で、通俗性が高く、恣意的な意
味で使用される危険性が大きい。[要出典]

現在では、精神分析学に対する批判も含めて、「無意識」という言葉・概念を使
用することに対する消極的な傾向が存在する。[要出典]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


5. 《要出典》として消極的な発言になっていますが ひとつに立証責任は
《無意識》論者のほうにあり ひとつに 《独立した脳の部位としては あいま
いである》。つまり そうではなく記憶という能力行為における潜在意識として
なら 何の問題もないということだと思います。




6. ▲(1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
§§ 4 深層心理学理論と無意識
・ フロイトの抑圧する無意識

フロイトの提唱した精神分析学では、無意識に抑圧の構造〔☆ この構造からリ
ビドーが生まれ湧出すると言う。つまり このあとで言う《神経症》を起こすと
言う〕を仮定し、このような構造において、神経症が発症するとして、その治療
法の理論を展開した。
(批判:「抑圧する無意識」は実証できない)。


7. ・ ユングの自己実現の無意識

(う) 分析心理学を提唱したカール・グスタフ・ユングは、「自我である私」
が「なにゆえ私である」のかを問うた。

(え) 「私である意味」は、魂の完全性、円球的完全性の実現にあると考えた。

(お) 無意識は、自我を自己(ゼルプスト)すなわち 「神」へと高めて行く
構造を持つと仮定した。

(か) (批判:「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。

(き) しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばな
らない。ユングの理論も反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、
成り立たない[要出典])。

(く) 分析心理学は、「神話の意味」、「死と生の意味」などを思想的に解明
するに有効であった。[要出典]

(け) ユング自身は、科学理論として慎重に理論を構成したが、それは表層構
造において、容易に、宗教やオカルトに転用可能な理論であった。[要出典]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. 注釈は要らないと思われます。



9. (う)から(か)までのユング問題は 唯識の八識ないし九識の仮説に似
ています。

10. 稿を改めますが 問題は 記憶とそこにおける潜在意識という前提にあ
るならば 不都合はないことです。


11. 記憶は覚えるというよりも われをも含めた世界からの刺激や情報を受
け留めて それらを整序しファイルしておくという秩序作用に そのハタラキの
真髄があるのではないか。

11. 記憶の倉庫から情報を取り出してそのあと――《知解》能力が――整理
するというのではなく すでに整理してあったものをさらに思考し加工し 知解
は 編集(創作?)するのだ。



12. 知解なる能力行為は 末那識に対応しているかも知れない。ただし知解
して 選択肢を添えて出した結論から どれをえらぶかは 意志なる行為能力で
ある。

13. わざわざ意志を知解と分けるのは 結論における最善の策を 意志はえ
らぶとは限らないからです。高度に政治的な判断がくだされることがある。

14. 末那識は おそらくこの意志能力をもふくむかに考えられる。ただしあ
いまいだ。
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この回答へのお礼

末那識は個人的無意識(個人的無意識にある記憶)に相当し、阿頼耶識は人類の集合無意識(人類を通して存在する普遍的な、無意識にある記憶)という感じで話をしています。

無意識とは何かについては曖昧さをあえて残して、デヴィッドさんとのやり取りの中では話したいことが話せる様にしています。

お礼日時:2018/03/16 14:15

>そこには恐ろしい怪魚や化け物もいるでしょう



宇宙生命(大海)を漂う個別的生命(氷山)の中に悪い心があるのですから、「梵我一如」で
同一ならば、宇宙生命の中にも悪い心があるはずです。

遭遇した時に波長が合ってしまい引きずられる、ということを仰っているのだと思います
が、自身の中の阿頼耶識を自覚し、宇宙生命の阿頼耶識にアクセス(私の理解はこんな感じ)
できるためには、一つは氷山(風船の中の水)の透明度が重要な要素だと考えます。この先天
的素質と後天的努力によって可能になるということで、これは人間が何かを得るための方程
式ですね。

阿頼耶識とは、「人間生命の法理を観照する精神の働き」(引用)と言う風に理解しています。
この存在を直観的に見当をつけ、自覚するためには、それを否定する心、諦める心など、自
身の中の弱い心を克服することなのでしょう。それが、恐ろしい怪魚や化け物を退けるという
ことだと思います。

阿摩羅識とは、「阿頼耶識の奥に、これらのあらゆる精神の働きを生ぜしめている本源とし
ての心の実体」(引用)、と理解しているというか、直感的にザッと見当をつけています。

これこそが、おそらく「究極の実在」のことで、つまり仏の覚りのことであろうと思います。

勿論これは、根拠なく(あるいは不十分)信ずるという、非科学的なことをやっているという
ことではあります。
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この回答へのお礼

なるほど。デヴィッドさんの解釈では、人間に内在する阿頼耶識と、宇宙生命の阿頼耶識とがあり、それら二つはつながっている、と言う事でしょうか。
氷山の透明度や、法理を観照する働きなど、なかなか読み応えがありました。

阿頼耶識とは、自然の様なものだと私は考えておりました。例えば天災や猛獣は人間に害をなしますが悪ではありません。悪や善というのは人間の領域にあり、それらは意識の範疇であって、阿頼耶識などの無意識の中はそれよりも遥かに広大な自然世界のようなものなのだと。であるから、阿頼耶識を渡り歩くには知恵というものが必要になってくる。その様な生命活動のエネルギー体が阿頼耶識なのかなと。

そして阿摩羅織は、その様な人間と自然を合わせた活動の総体を照らす太陽の様なものなのかなと思います。
無意識の働きあってこそ意識は生きていけるのであり、そう言った自己全体を知ってゆく過程を、ユングは個性化と称したのかもしれません。

意識の無二性とは、意識世界を照らす一人一つの太陽を持って生まれているから、かもしれません。つまり、一人に一つ、世界が存在しているという事です。この内的世界と生存者(私)を合わせて自己と言うのかもしれません。

お礼日時:2018/03/16 02:27

№63で 書き忘れました。

おゆるしを願いつつ。


○ (回答№58)  *men- (1) ~~~~~~~~~~~~~

https://www.etymonline.com/word/*men-?ref=etymon

Sanskrit: manas-= "mind, spirit,"  
      matih = "thought,"  
      munih = "sage, seer;"

Greek:   memona = "I yearn, " 
      mania=  "madness," ・・・

Latin:   mens=   "mind, understanding, reason,"  
      memini = "I remember,"
      mentio=  "remembrance;"

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

末那識のマナスは 英語のマインドでありメンタルのことだと見ま
した。

消費マインドだとかインフレ・マインドとも言われていて 大きく
社会の仕組みにも広がって かかわりを持つようでもあります。

マナスないしマインド / メンタルは 幅広い意味を持つと見られま
す。



つまり 書き忘れたのは 言わば《意識しすぎ》た場合には 次の
ような一組の言葉も持たれるようになっていることです。

ギリシャ語:   mania = "madness,"
サンスクリット: munih = "sage, seer;"

つまり サンスクリットのほうは ほかでもなく 釈迦牟尼という
ときの《牟尼・ムニ》のことなわけです。



へぼ将棋の名人は マニア。
偉大なる哲学者の場合は ムニ。――と分かれるようですね。
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この回答へのお礼

ふむ。音というのはその様に繋がるものなのですか。なかなか不思議な感じですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/13 13:40
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