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日本語文法についての質問です。
「当時理系の学生だった私 が/は 思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」

この文はどうして「が」が使えないのですか?

A 回答 (9件)

すみません。

しつこいようですが、もう一度。

質問者の元の文で「が」が不自然に感じられるのは「私が」だからだ、とNo.7で書きましたが、
どうも私の早とちりだったようです。

No.7で言いたかったのは、「現象文」(「存現文」とも言われます)では「私が」とは言いにくい、
ということでしたが、元の質問者の文は過去のことなので、また話が少し違います。そのことを私は
考慮していませんでした。

もう一度仕切直しです。最初の文とその「私」を他の名詞に変えた文を比較します。

  a「当時理系の学生だった私が、思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」

  b「当時理系の学生だった私は、思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」

  c「当時理系の学生だった田中が、思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」

  d「当時理系の学生だった田中は、思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」

aはあまり良くないと思います。その後に、「その理由は~」などとつけると、少し良くなりますと
いう意見もありますが、私はそれでもだめです。
bは問題ありません。

「私」を「田中」にしたcは、そのままでもいいようです。(私の内省は、この辺で揺れ出します)
その後に「そのニュースは皆をびっくりさせた」などとつければさらに自然になります。
dは問題ありません。

aとcを比べると、やはり「私」はこのような文では使いにくいと言えるでしょう。

次に、より社会的な報道にありそうな文に変えてみます。

  e「当時新憲法に否定的だったキシ首相が思い切って憲法を改正することを決めた。」

社会的な報道らしい内容にすると、「が」でもより自然に感じられる、と私は思うのですが、どうでしょうか。  
「思い切って~決めた」という、心理描写の文を、もっと単純な事実の報告の文にしてみます。

  f「三か月後、調査委員会委員長の山田氏が記者会見で結果を発表した。」

  g「三か月後、調査委員会委員長の私が記者会見で結果を発表した。」

  h「三か月後、調査委員会委員長の私は記者会見で結果を発表した。」

単純な事実の報告であれば、「私が」でも不自然ではなくなります。
逆に、hの「私は」のほうが、何か文脈を考える必要があるような気もします。

まだ、いろいろと考えるべきところがあるように思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか。

saburoo

(No.8で小さな間違いがありました。「私は1867年に生まれた」は「1967年」でした。)
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/06 21:11

No.7のsaburooです。


アホな書き間違いがありました。No.7の十数行目、

  例えば、「教室に私がいる/教室に私がいる」

は、「教室に私がいる/私が教室にいる」と書くつもりでした。文全体を書き直すと、

  上の最初の例文、「教室に学生がいる」の自然さと、「教室に私がいる」を比べてみてください。
  「私」のほうは何か変に感じませんか。

となります。

もし、何も変だとは感じない、と言われたら、はあ、そうですか、と言わざるをえません。そういう人は、
私とは(「は」と「が」に関する)文法/言語感覚が違う、のでしょう。

ついでに、別の例をあげます。

例えば、歴史年表などで、

  1867年、夏目漱石が生まれた。

というのは自然ですが、「自分史」を書こうとして、

  1967年、私が生まれた。

というのは変でしょう。「私は1867年に生まれた」でしょう。

「家族史」を書こうとして、

  1963年、一郎が生まれた。 1965年、二郎が生まれた。 1967年、三郎が生まれた。

とするのはOKです。「私」ではなく、「三郎」として客観的に外からとらえて述べているからです。

「は」がつけられる名詞、つまり「主題」としてとりあげやすい名詞はどのような名詞か、ということがかつて
議論されました。
話し手と聞き手が何の前提もなしに、お互いによく知っているものとして主題にできる名詞です。
総称名詞(「犬」とか「人間」とか)、文脈で既に導入された名詞(桃太郎のおばあさんとか)、「私・あなた」「これ・この~」などの「場にあるもの」、などです。

それらは、逆に言えば、描写・報告の「中立叙述」の「が」はつけにくいものです。

  犬はよく吠える。人間は必ず死ぬ。

という総称的な文を、

  犬がよく吠える。人間が必ず死ぬ。

というと、「が」に特別な意味合いが含まれてしまうでしょう。あるいは特別な文脈が必要です。

公園で、

  山田さんが犬を連れて散歩しています(ね)。

と言うのはごく自然ですが、目の前を通る人のことを、

  この人が犬を連れて散歩しています(ね)。

とは言えないでしょう。「あなた」でも同じです。


ここまで書いてきて、やっぱりわかりにくい話かなあ、と思います。この辺の話は、「文法的かどうか」
というよりも、ことばの使い方として「適切かどうか」という話なのかと思います。文法より意味、語用の
話なのか。

なお、最初の質問者があげた文では、「私」に「当時理系の学生だった」という修飾語がついていること、
「思い切って」という動作主(=話し手)の意思を表す表現があること、「自分」という動作主の立場に
立った再帰代名詞があること、なども「が」を使いにくくしている要因かとも思いますが、この辺になると
私にはよくわかりません。

以上、また長くなりましたが。

saburoo
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/06 21:07

「は」と「が」の問題ですね。


詳しく議論しようとすると大変なので、とりあえず、かんたんに書きます。

結論から書くと、「「が」が使えない」のは「私」だからです。

動詞文では、「が」の文と「は」の文の対立は、「無題文:有題文」の対立となります。
無題文の中でも、単純な描写・報告を表す文では、「私」は使いにくいのです。

以前書いたものから引用します。

  「が」の用法の基本:
  1 あるとき、何かを見たり感じたりして、それをそのまま述べるようなとき。 
    教室に学生たちがいる。
     電車がホームに入ってきた。
     木が揺れている。

例えば、「教室に私がいる/教室に私がいる」と、上の最初の例文を比べてみてください。なんか変に感じませんか。

いっぽう、「は」の用法では、

  「は」の用法の基本:
  1 何かを頭の中に思い浮かべて、それについて情報を述べたり、質問したりするとき。
     えーと、財布、財布、、、あ、ここにある。 → 財布はここにある。
     (人を探して)陳さーん、陳さーん。陳さんはどこへ行ったんだ?
  2 話の場にあるもの、話に出てきたものなどについて情報を述べたり、質問したりするとき。
    あ、おいしそうなお菓子! (食べてみて) このお菓子はおいしいね。
    もしもし!(あなたは)どちらへいらっしゃいますか?
    「これはどこにおく?」「それはあっちに持って行って。」
   
この2の用法で、「話の場にあるもの」というのがありますが、「私」は常に話の場にあるわけで、つまり、まずは「は」が使われるべき語なのです。

ふむ。こう書いてみて、わかりにくい話だとは思うのですが、「無題:有題」ということを考えると、「その場にある」ということが重要なことなのです。だから、「わたし」「あなた」「これ」「この~」というような語は、「が」の使い方に影響を与えるのです。
(名詞文・形容詞文の場合は違います。「単純な描写」ではありませんから。また、疑問文の焦点の「が」は別の話です。また、「俺がやろう」みたいな意志の文なども話が違います。などなど、説明が必要なことはいろいろありますが、省略。)

以上、ちょっと話をはしょっていますが。

saburoo
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/06 21:07

>この文はどうして「が」が使えないのですか?



 に対する適切な答えはおそらくなうと思います。
 フツーなら、「ハ」が素直でしょう。「ガ」もOKにするにはやや特殊な文脈が必要です。
 特殊な文脈でなければ、「ガ」は使いにくい、とは言えるかもしれません。
 詳しくは下記をご参照ください。
【は」と「が」〈11〉相当……当時理系の学生だった私{が/は}思い切って自分の専攻を社会学に変え】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12425515514.html

 以下は一部の抜粋(重言)。

「ハ」と「ガ」に関しては下記くらいの解釈が一般的。
【排他の「が」】
https://yousei.arc-academy.net/manbow/index.php/ …
 しかし今回のような質問には、「ハ」は主題提示とか「ガ」は排他と考えても解決しないだろう。
 複文構造の中の「ハ」と「ガ」の役割について考える必要がある。

 おそらく下記のやり取りがヒントになる。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9479241.html
 このときの例文は、
我々が取材に出かけている間、彼ら{は/が}勝手に創造を膨らませていて、伝言ゲームの末に総局長の耳まで届いたニュースはすっかり変わり果てていた。

 このときは比較的簡単に説明できた。
 今回の例文の場合、もう少しひねる必要がありそう。
「当時理系の学生だった私{ガ/ハ}思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」
 フツーに考えるなら、ハだろう。ガにするためには、それなりの文脈が必要になる。

 たとえば、
A 当時理系の学生だった私{ガ/ハ}思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。その翌年、社会学の分野では大きな変革が起きた。
 これならガでもおかしくないだろう。この文は下記のように書きかえることができる。
B 当時理系の学生だった私ガ思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた翌年、社会学の分野でハ大きな変革が起きた。

 Bのような文の場合、「従属節の中ではガになりやすい」などと言ったりする。
 あるいは従属節とはちょっと違うだろうが、下記のような例文も作れそう。
C 当時理系の学生だった私{ガ/ハ}思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。それは、ある先生の影響が大きい。
D 当時理系の学生だった私ガ思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めたのハ、ある先生の影響が大きい。
 Dのような文の場合、「複文の従属節的な文の中ではガになりやすい」などと言ったりする。

 フツーの文脈ならハが素直だが、AやCのような文脈ならガにできなくはない。それは、BやDようなガになりやすい構造に近いから、ということなのでは。もっと簡単に言うと、後ろに全体をまとめるハがあるから、ってことになる。
 これをもっと正確に分析するには……とってもむずかしいことになる(泣)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/06 21:07

質問者が日本語ネイティブの人であれば、「が」を使うのは少しおかしいと感じたら、その感覚は正しいでしょう。

そうではなく、外国人だったら、「なぜ使えない」と思ったのかきいてみたいですね。
 日本には、例えば社会の中に言葉の伝統が流れとして存在します。小学生になって初めて作文を書かされたとき、「ぼくは…」の形で書き始める子が圧倒的に多いですね。なにはともあれ、「ぼくは」と書いてみる。日本語では古代から、「が」を主格(一般的に言えば主語)として使った例はほとんどありません。(私は学者ではないので断定的に言うことはできません)「が」が主格として使われ始めたのは、大野晋氏によれば、中世(具体的には「室町期」の「天草本平家物語」だそうです。)それを初めとして「が」が主格を、「を」が対格を表すようになり、日本語が論理的な内容を表現できるようになった。それまでは、「春はあけぼの」であり、「行く川の流れは絶えずして」であり、江戸時代になっても「月日は百代の過客にして」であり、明治になっても「木曽路はすべて山の中である」です。「は」を使う文(現代ふうに言えば主題文)が日本語の中心にあります。だから、「が」で話をはじめるには、よほどの決心がいるように思います。
 話は飛びます。金田一春彦の「日本語」(新版日本語ー岩波新書)にこんな話が出ています。
 みんなで、ある人物を出迎えるため駅に出向きました。すると、「電車が遅れているらしいが、もうまもなく着くでしょう」という人がありました。この言葉についてですが、外国人の人は、この言葉を聞くと、大抵「電車が着く」と思ってしまう。ところがそう言った人は「出迎えるお客が着く」のつもりでいったというのです。(これには省略があるため私にもよく分かりませんが)金田一氏の説明によれば、「電車が」は「遅れている」までしかかっていない、ということです。「まもなく着く」にはもうかからないというのです。
 それに対して、「は」はどこまでもかかっていく、「我が輩は」は「猫である」だけでなく、それに続く言葉に全部かかっていく、スーパー助詞だといった人があります。(日本語に主語はいらない」)これらを念頭に置いて私の前回の発言があったわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/06 21:07

格助詞「が」は個別性の認識を表し、例文で「が」を使用した場合は親とか、友人とかの比較、関係ではなく、単に自分がという意味になります。



「私は」の場合は、理系の他の人との比較による私という私の特殊性の認識を表します。■
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/06 21:07

この場合の「が」は仮定法過去にしか使えません。

つまりそうしなかった場合です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/06 21:07

シチュエーション次第では使えますよ。



「が」は動作の主体を表わす格助詞。
「当時理系の学生だった私 が、思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」
という文は、

『「思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた」という動作の主体が「私」だったこと』

を表現したい場合に使います。

「変えることを決めたのは、親でも教授でもなく、わたし自身だった」

と言いたいシチュエーションで使うなら自然な構文になる。

「は」は、主題提示の係助詞。
「当時理系の学生だった私は、思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」という文は、

今から「私」について話しますが・・・。

というシチュエーションで使われる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!勉強になりました

お礼日時:2018/12/10 23:25

「が」の後に長い文は続きません。

「<私が学生だった>時」のようにすぐ切れます。逆に、「は」は長々と説明を続ける事ができます。長い演説などは必ず「私は」で始まり、長々と続ける事ができます。
 <私が専攻を変えた>のは、というふうに話を始めると、説明がいくら続いても平気です。
「が」と「は」を対等に考えない方がいいでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/12/10 23:25

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