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この世の中のことはふたつの要素で成り立っていてると思うのですが、「二律背反」は「紙一重」というのは何ゆえにでしょうか?

泣いたあとすぐに笑うことができるし、幸福も不幸も見方次第ではいずれにも移行できる。この間はなぜ表裏一体なのでしょうか。

上手く説明できなくて済みません。補足させていただきますので、哲学や宗教のみならず様々な分野からの意見をお待ちしております。

A 回答 (41件中21~30件)

ちょっと想ったんですが、思想体系は、こんな感じではないかと思います。




<西洋思想>

「私」───>「森」───>「実体」───>「私」───>「森」



<仏教>(東洋思想?)ラッセル

「捨置記」・・・ 「私」<───── 「森」 ・・・「捨置記」

 *苦の消滅には無関係だから「捨置記」

ではないかと思います(^^;)?
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この回答へのお礼

今B.R.アンベードカル「ブッダとそのダンマ」という本を読んでいます。またご質問させていただきたく思いますので、宜しくお願いします。

私のわかりにくい説明に対し、真摯なご回答、ありがとうございました!!

お礼日時:2004/12/22 03:01

たびたびすいません。

m(_ _)m
「間隔」というのが、何を指しているのか判らないんですが、私なりの意見を言わせてください。


哲学と心理学は確かに融合するべきです。
縁起説でも判るように、この世の全ては、みんな輪のように繋がっていますので、トータルで考える必要があると思うからです。 「西洋医学(思想)は樹を観る」、「東洋は森を観る(全体)」と言われています。これも、いつかは統合されるべき二律だと思います。で、生理学というのも、欠かせないと思うんです。


例えば、私のような独身者でしたら、自分よりも若い夫婦が高級車に乗って、子供連れでいるのを見ると、やっぱり凹むんです。
「見る」から「凹む」までの間は、1秒間に100mという神経伝達の速さで瞬間で行われます。
「あ!」という間も無いほどの早さで凹むんです。自覚できないほどの速さです。

でも、その瞬間には、複雑な心のプロセスを処理しているんです。
複雑怪奇な心のプロセスを1秒間に100mという速さで処理して「凹む」という態度になるんです。
さらに姿勢も前かがみになったり、顔をそむけたりしますよね。

無色透明な真水が一瞬で「赤一色」に染まってしまうようなものです。



なんでかというと、自然界で生き残っていくためには、これくらいの神経伝達速度が必要なんです。
瞬間に、過去の経験や、相手の情報、現状・・・を処理して行動に移すように出来ているんです。
私達の脳にも爬虫類時代、下等哺乳類時代の脳がありますので、生存のための早さを持っているんです。

だから、さっきまで元気だったのに、急に悲しくなったりするんです。
「渇望」と「嫌悪」の間を揺れ動くんです。

でも、生理的にみれば、ちゃんと「因果」「縁起」になっているんです。
理由があって悲しくなるんです。根拠があるんです。
ただ、あまりにも、早すぎて、気がつけないだけなんです。


さらに、人間は目の前に無いことにでも反応してしまいますよね。
トラウマ、フラッシュバックが良い例だと思います。
過去の経験が、無関係に顔をだして、「今の私」の判断、行動に影響します。
これも上記の心のプロセスの一部になっているんです。

脳は神経細胞同士のネットワークで構成されていますので、経年と共にパターンが出来上がってしまうので、普遍な「私」が存在するように思えるんです。ですから人間の性格、発想、行動も因果、縁起で成り立っているんです。


先に紹介しました瞑想をやっていると、これが判るようになってきます。
経典にも「心のプロセスを感受しながら、呼吸をしなさい」とあります。
心が、一瞬、グワッグワッ!とするのが判るようになってきます(^^
カメレオンのように無常に変化していくのが面白いように判るようになってきます。

「判る」ということは、平常心の仕事なので、とても楽になれます。
心のプロセスに対する無知も消えてしまいます。
無知と反応が消えてしまうので、苦も消えていくんです。(十二縁起説)




ですから、二律背反といえども、ちゃんと条件があって起こるので縁起、因果の法則のうちに在ると思います。
だって、もしなんの条件もなく起こるものならば、常在してなければなりません。
常在するということは、「実体がある」ということになります。


frauさんは西洋思想派なので、一本の樹から森全体を考察するんだと思うんです。
で、その結果、実体にいたると想うんです。

私は仏教の影響で、森に流れる普遍のメカニズムを通して一本の樹を見ます。
だから私には「実体」という観念はあまり無いんです。
あるとしても非言語的な世界であり、語るに及ばないと思います。
ですから主観的、人智的に「二律背反でこの世が成り立っている」とは、どうしても思えないんです。
「複雑怪奇」「混沌」だと思います。

でも、コンピュータは「0(OFF)」と「1(ON)」だけで出来てますよね。
例えば「あ」という文字は「001100100(適当)」といったような配列で成立してます。
ですから、もしかしたら、我々も、同じような原理に基づいているかも知れないので、
「実体」「創造主」「意思エネルギー」を否定するものではありません。


あと「停滞」ってもしかしたら「慈悲」の対義語かも知れませんね。私の勉強した限りでは、停滞という言葉はまだ出てこないんですが、あるとしたら仏教でいう「慈悲」ではないかと思いました。(「愛」が正解かも知れませんが・・。)

今後の考察に役立てば幸いです。

この回答への補足

>哲学と心理学は確かに融合するべきです
同じ「ヒト」に関することですものね。

>frauさんは西洋思想派なので
えーっ、そうみられていますか?いえいえ、実際違います。どちらかといえば思想は東洋派です。ただ、最近勉強しているユング心理学などでは東洋と西洋は深いところで素敵な融合をしているなと思いました。どちらかというと「意識的」なのは西洋の方でしょうか。東洋は長い歴史からのプライド(?)もあるのか、もっとどっしりと構え、何ものにも動じない強さと深さを感じていましたが、その感じ方を裏づけてくれました。

たとえば「因果」「縁起」だって仏様の世界の言葉ですが、刺激に対する過去の出来事の検索は分析心理学では無意識とのコンタクトというように説明しています。例えばコンプレックスはトラウマによって協力になった感情が、そのコンプレックスとなっている言葉(外部刺激)に対して敏感にならざるを得ないわけです。そのトラウマによって想起されるのがフラッシュバックですが、確かに私も経験上浮かんでは消える過去の映像はあっという間に過ぎ去っていきます。(そのついでに心に傷痕を残しながら…。)

「縁起」というのも心理学でいう「行動様式」ではないでしょうか。ある一定の思考パターンが繰り返されると、心は行動様式を作ってしまいます。無意識に抑圧された欲望と自我の葛藤が強すぎると、神経症などの精神疾患として現れます。
瞑想や悟りの意識を変性意識といいます。正確には無意識にまで「意識」を到達させたときその領域でなされる意識なので無意識的意識もしくは意識的無意識でしょう。方法としては催眠や自律訓練、また座禅や瞑想などで到達にいたります。すでにお分かりのように、思想や方法の、東か西の境界線はありません。むしろ西洋思想、医学のほうが1970年代以降、「西洋心理学のフロンティアのひとつ」として、自らヨガ、禅、スーフィズム、チャネリングなどの「至高体験」を中心にすえる思想にアプローチし始めました。それが第四の心理学「トランスパーソナル心理学」です。西洋医学の限界を感じられたのでしょう。

分析心理学はユングの学説ですが、ユング自身も東洋思想に傾倒していまして、ユングを日本に初めて紹介した京都大学名誉教授の河合隼雄先生が「仏教とユング心理学」という本を書いています。

例えば身体の健康について、私はどちらかというと部分的に診る西洋医学の方よりも身体全体を診る漢方療法やハーブ療法、ホメオパシーなどに興味があります。効果は遅く、気長に続けなければなりませんが、緊急時などは西洋医学の合理性が必要になります。また漢方も副作用はないといいますが、中には死に至らせる毒性の強いものもありますし、対症療法的な西洋医学の薬に副作用のないものもあるといいます。
いずれか、と偏るのではなく、その中庸にたって両者のメリットを選択するという姿勢をとるようにしています。これは、対社会に向かう姿勢としても通用することと思います。つまり人や事件を偏見や独断の判断で決めることのないように…。

>心のプロセス
臨床心理学ではこのプロセスをとても重視していますし、その過程を経る変容が癒しにつながることとなります。それなので
>心のプロセスに対する無知も消えてしまいます
というお釈迦様の悟り(=癒し)の過程としては、とても興味深いです。
>無知と反応が消えてしまうので、苦も消えていくんです。
この「十二縁起説」とはあの名言通りの「無知の知」ということなのかしら?と思ってみたり(笑)。

補足日時:2004/12/22 01:25
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「あ、frauさんだ~」と思って覗いただけなのに「きょうの御飯どうやって調達しましょ」って苦しんでる私がすっかり引きずり込まれそうです。

コワイよ~!
何かの本で読んだ記憶があるんですが、我々が生きてる、この自然世界って、フマキラーじゃなくって、え~と、ブラフまーとかいう主体の胎内だということだったんですが、すれば自然現象を心身に置き換えてたとえてもよいかな、と思ったのです。
ぶつかり合う、引っ張り合う、摩擦し合う、せめぎ合うって、最低二つのものが必要で、だから最低単位の「二律背反」なんでしょうけど「間隔」の理由となるとウ~ム。
ゆるやかに進んでて突然転がり落ちるようにスポッとはまっちゃうってことは感情にもある現象だと思いますけど、そうですね~どっかのツボに触れたとしか言いようがないですね。それこそ「電光石火」でしょ?電流なんだもん。うわ、はやっ!
「哲学」カテNo.1064829「人生が苦であるなら」でtype2006さんが「自己が意識できる意識は理性的で無意識の意識は衝動的です」っていうあたりにカギがあるかも?
「愛の反対は停滞」というのは私もムム?でしたが、そう言えば「憎むとは、少し激しく思うことかな」ってなことばもありましたね。
結局何も感じ考えないのが理想的ってことですか・・・。それだと宗教も哲学も必要ないし無意味だし発展していく必要ないですよね・・・。所詮ヒトが考えること自体、値打ちがないんでしょうか・・・。
ところでお釈迦様がハゲてたってホントですか?パンチパーマだと思ってた・・・。(私もお釈迦様のファンですよ!)

この回答への補足

(ここからお読みください)
こんにちは!
ブラフマンでは?
>主体の胎内だということだったんですが
ブラフマンという名称だけ思い出しました。高校の倫理の本で学んだことを思い出し、遠き昔(笑)より埃をかぶっている教科書をひっぱりだしました。それによると「ウパニシャッド哲学」のひとつだそうですね。

「『ウパニシャッド』とは『近くに座る』ということから『秘密の教え』の意味であると解釈されてきたが、『同置』という意味もある、我々の固体をいわば小宇宙とみなし、それと大宇宙と本質的に同じもので、両者は互いにきわめて密接な関係を保っているとする考えである」

「主体の胎内」。「主体」とは神、大宇宙であり、「胎内」とは、私たち小宇宙的な存在はその母なる大宇宙に包括されている、という状態のこと?と考えました。

また「ブラフマン」とは「梵」と呼ばれ、「もともとはヴェーダ聖典の神聖で呪力に満ちた祈祷の言葉であり、その言葉どおりに物事が実現するという神秘力をも意味したが、宇宙を宇宙として成立させる原理とされるようになった」とあります。

「電光石火」。確かに!それが「間隔」かもませんね。人体の表面には磁場が作られていますし、脳内でもシナプスを介して電流が伝達されて思考が作られますよね。その伝達の速さはどのくらいなのであろう?と興味ありますが、確かにあっというまです。間隔は?というのは愚問でした。それは日々体験しています、確かに。

補足日時:2004/12/11 00:00
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この回答へのお礼

>結局何も感じ考えないのが理想的
二律背反の間にあるのが中庸(これもその「間隔」のひとつかもしれません)ですが、この状態に身を置くということも理想とされています。でもそれは凡庸であると考えます。つまりそれも停滞の状態。二律背反の極端から極端への振り幅が大きいほど、感情も連動するわけですが、そこから文化や芸術が生まれるとも考えます。穏やかで静寂な「中庸」は健康的だとすると、文化や芸術って病的なものなのでしょう。

>所詮ヒトが考えること自体、値打ちがないんでしょうか
「人は考える葦」であるからエライ!とも思いますし、考えることって進む足を止めさせてしまう。本当はそばに咲く花に見とれてフワフワと生きていくだけでもいいのに、考えざるを得ない出来事は向こうから向かってくるし、またそれが先行く足を立ち止まらせることになる。考えることは私も同じ、「今日の献立何にしよう」ということです(笑)。つまるところ、ご飯食べなければ何も考えられないんですよね。結局、毎日ご飯作って食べることが優先なんですよね。とくに女はその役目を使わされる…アレ?これ、つい最近削除されたスレッドに寄せられてた回答のようだ(爆)。

お礼日時:2004/12/11 00:01

再度、お邪魔します。


ちょっと長居しすぎてますねm(_ _)m、これで最後にします。

二律背反の無い世界にいけるんです(らしいです)
なにも死ななくても良いんです^^

例えば、自分の好きなモノを非難されると腹が立ちますよね?
私の場合で言えば、お釈迦さまのことを「ハゲ」とか言われるとやっぱり腹が立つんです。

そうすると、これが激しい憎悪を生むんです。
なんとか相手を論破してやろうとか、傷つけてやろうとか、
精神的、肉体的にやっつけてやりたくなるんです。悔しくって夜も眠れなくなるんです。
「白黒つけてやろうじゃないか」という攻撃的な気持ちになる人もいるし、
ショックで傷ついて落ち込む人もいると思います。

つまり「尊敬」の二律背反は「憎悪」なんです。尊敬と憎悪は双子の兄弟なんです。
何かを好きになるということは、同時に憎悪を生むことになるんです。


また、仮に、尊敬している人から裏切られたとしても、これは激しい憎悪になります。
普通の裏切り行為の何千倍もの憎悪が涌いてくるんです。

また、尊敬している人が誰かに傷つけられても一緒です。
代わりに敵をやっつけてやりたいという気持ちに襲われます。

逆に尊敬する人が誰かを傷つけている場合、その手助けをしてしまう可能性も強いですよね。
手助けをしないと見捨てられるという不安を伴うからです(某宗教団体のように)

他にも、いろいろなバリエーションが考えられると思います。
これは、とても苦しいことなんです。
つまり好意、尊敬、愛、大切にする心、・・・というのは、
憎悪を併せ持った「患い(わずらい)」の心なんです。

世間一般では素晴らしいといわれていますし、誰でも美しいと信じている気持ちばかりなんですが、
仏教的に考えますと、全て「患いの心」なんです。(タバコのようなものだと思います)


で、この苦から脱出する方法を悟ったのがお釈迦さまなんです。
二律背反は「善」を選択するための神の試練ではないと、考えたんでしょう。


簡単です!
気づけば良いだけなんです。

喜んでいる時は、「今、私は喜んでいる」と気がつくんです。
悔しがっているときは「今、私は悔しがっている」と気がつくんです。

だって、気がつくために必要なのは<<平常心>>です。
<<平常心>>なくては気がつくことさえ出来ません。
平常心ほど、適切な判断、合理的な思考を出来る心はないんです。
この世でもっとも平和で、平穏で、尊い心が平常心なんです。
気がつき続けることで<<平常心>>が育ってきます。(禁煙できるんです)
この実践がお釈迦さま直伝の「ヴィパッサナー瞑想」です(もっと深いものですが)

さらに、先にも書きましたように、「長いもの」は「短いもの」の存在で相互依存的に成立していますので、気がつくことにより、どちらかをなくしてしまえば、両方消滅してしまうんです。この意味通じますか? 尊敬をなくしてしまえば、憎悪もなくなるんです。憎悪をなくせば尊敬もなくなります。そうして一切の患いの心(妄執)を滅尽してしまえば、「苦」が消滅してしまうんです。苦がない世界は平常心だけの穏やかな世界「涅槃」なんです。これが今、ここで実現可能なんです。


これが、本当の仏教です。(たぶん)
簡単、合理的、まさに自然の法則だと思いませんか? 仏教は本当は宗教ではないんです。
仏教を手垢で汚して、宗教にしてしまった人が憎いです(←、これが修行不足の証拠なんです)

私の仏教は全部、図書館(無料)で、独学ですので勧誘はしませんので安心してください。
ヴィパッサナー瞑想は「四念処」とも言います。
坐禅の原型といって良いと思います。違うのは心の使い方なんです。

朝から晩まで、一日中できます。
平常心以外は、患いだと思って、飲み込まれないように心掛けてください。
一日中、自覚を切らさないようにしてみてください。
自覚を切らさない方法は、一日中、身体感覚(特に呼吸)に意識を向けることです。
(ご質問等があれば遠慮なくどうぞ)

この回答への補足

(ここからお読みください)
>お釈迦さまのことを「ハゲ」
そ、そんな大それたこと言う人いるんですか…。

憎悪というと、愛憎を連想しますが、確か仏教では「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく「停滞」だとこのサイトのどなたかの回答にありました。もちろん非常に深く考えさせられたことはいうまでもありません。仏教とはそれまでの思い込みをポジティブに覆してくれます。もちろんその停滞とは愛をしていることなのか?それとも憎しみの停滞なのか?それともまったく別のものの停滞なのか?いや、停滞している対象物はまったく何もないものか?…わかりません。

ですが、生身の感情として、やはり裏切りや傷つけられた経験があると、そこに愛情がからんでいる限り、その情が深ければ深いほど、問題も深くなります。ゴムを引っ張った力が強いほど、とき放されたときのエネルギーというか、半動力はその分ありますよね。私も直感で人をみる癖があるのですが、結構だまされるんですよね、これでも(笑)。一見人のよさそうな人を気に入る速度はそれこそ早く、何の障害もないのですが、少しでも気になるところがあると裏切られたような気がするし、また実際裏切られる。…
結局頭でなんだかんだと考えていても、心からの影響って思考回路を用意に惑わせる。感情の生き物だなあと思います。

あとコントロールしたいのは「怒り」ですね。他人への怒りは自分への怒りですが、怒っているとき一呼吸して「鏡を見る」と、まず変えなきゃならないのは怒らせる原因であると鏡の向こうの自分が説教します。

>憎悪を併せ持った「患い(わずらい)」の心
陽性の気持ちであっても、感情=患いなのですね。「ワズライ」は「煩い」とも読めますよね。「煩悩」。心のサイクルも二項対立で成立しているのですよね。その間を往復(葛藤)しながら行き続けるんですよね。ハー。

私は精神分析を勉強していますが、この葛藤があまりにも強いと無意識にしまわれて(抑圧)、その圧力があまりにも強いと神経症などの様々な疾患が生じます。仏教の感情=患い、心理学の葛藤=精神疾患も病的ということでは同じだと思います。
ですから心理学も哲学ともっと融合させるべきだと思ってます。たとえば先ほどの「愛」の反対語は「憎しみ」という通念だけではなく、「愛」に対して「停滞」もひとつの対である、と考えれば、愛憎に悩む人の何らかのヒントになるかもしれません。
瞑想やヨガや東洋思想にもアプローチし、心理学に融合させようとするのが第四の心理学「トランスパーソナル心理学」ですが、「平常心」、それこそ葛藤の病への癒しとなるかもしれませんから。

(ところでSyo-yaさんがこれだけの知識を独学で得たということは、いち学生として大いに励まされます)

補足日時:2004/12/07 01:44
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この回答へのお礼

昨日散歩しながらまたこの人生のメインテーマのことをつらつらと考えていました。右の角を曲がり、左の道を行きました。天気がよく空が青く澄み渡っていましたが、こうして足に地を感じていなければ、空の高さも感じないと改めて思いました。私を包む環境はどこもかしこも「ふたつのもの」で成り立っていますが、人によっては生産性のないこんなエンドレスな考えを繰り返す私も感情をもつひとりの「病人」ですが、空の高さや大地の確かさを感じるのは「健康な病人」の証(笑)。

質問についても考え直しましたが、「間隔」のことをききたかったのではないかと。二律背反を感じる葛藤の揺れの間で時間的な感覚はないですよね。それはなぜなのか?と問いたかったのだろうと思いました。
すべての二律背反のすべて、に「葛藤」するのが人生ですだと思います。それはあまりにも圧倒的な存在です。おっしゃるように惑わされないように心がけます。

ありがとうございました。そしてこれからも宜しくお願いします。

お礼日時:2004/12/07 02:25

お早うございます!考えたこともないような話題で、皆さんのお話読むのがおもしろ~い!で、また覗いてます。


「二律背反」がなければこの世界の「新陳代謝」がなくなっちゃう。泣いて笑って変化して、どこかに辿り着くのでしょう。
何故、新陳代謝しなくては変化し続けなければならないの?
それを問うこと自体が、この世界の本質、この世界の目的をを知ろうとすることなのでしょう。
道のりは果てしないですね・・・。気が遠くなってきました・・・。
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この回答へのお礼

>「二律背反」がなければこの世界の「新陳代謝」がなくなっちゃう

私も悩んでいたことがリセットされたり、また新しく何かを学んだり、古い考えを捨てられたとき「こころの新陳代謝」と称しています。

>新陳代謝しなくては変化し続けなければならない
身体も新陳代謝しなければ生きられないように、こころの代謝も、「世界」から栄養を吸収し、古い自分を捨て去らなければ人として成長できないからでしょうね。自然が現象を表現するときの比喩に使えるように、現象が言葉に比喩として適用できるのならば、新陳代謝も同様に比喩できますよね。二律背反(現象)、新陳代謝(心身との比喩)も同様に。
生物や魂も皆停滞しているものはなくて、サイクルしていかなければならない。人生って同じことの繰り返し(たとえば飲食や寝る前のメンドクサイ歯磨きや、仕事の内容までも)ですが、その時間の積み重ねの中で微妙に、そして劇的に変化していきます。その中で
「問うこと自体」は生きる姿勢そのものですよね。問うこと、答えを生む苦しみがよき新陳代謝の促進となるのでしょうね。

またお越しくださって嬉しいです。

お礼日時:2004/12/07 01:13

再度の登場です。



仏教の宇宙観ですが、私の勉強した限りでは「沈黙を守る」というスタンスだったそうです。

「捨置記(捨て置く)」とか「無記」と呼ばれています。
のちの分類で「十四捨置記」、十四種類の捨置記があるんだそうです。
これは仏教以外でも当時のジャイナ教でもやっていた対応法だそうです。

なんでかというと、修行者の精浄な修行の妨げになると考えられたからだそうです。

もし、宇宙の起源や霊魂の存在について「在るよ」と答えても「無いよ」と答えても、
絶対に確認のしようのない根拠の示せない問題なので、
質問者を余計に悩まし「迷妄」の世界に追いやってしまい、思想への執着を生んでしまうからです。
仏教、本来の目的である「苦と苦の消滅」から遠ざかってしまうからでしょう。

形而上の問題をいくら解決しても、人生の問題は何も解決できず、生命の終わりが来てしまうんです。
ですから、形而上的な話題というのは、精浄な修行の妨げになると考えて、沈黙をするんだそうです。

先に書いた経典の抜粋は「感覚(ヴェーダナ)」の教えものです(誤解を招き後悔してます)
まあ、あとは瞑想等をして、自分で体験しなさいということだと思います。
お釈迦様は涅槃への道を説く道先案内人であって、あとは各人で進んでくださいということだと思います。



あと二律背反が成立しない空間って、熱力学の第一法則からヒントを得ました。
他に熱が奪われない閉鎖された空間では、お風呂をかき回すと沸騰するんだそうです(理屈では)
何の抵抗も矛盾も生じない空間ならば「行ったきり」になるんです。

長々と失礼しました。

この回答への補足

(ここからお読みください)
この「「行ったきり」というのはエクスタシーのことでしょうか??でも人間の快楽というのはその後必ず冷めるときがきますよね。
変に思われるかもしれませんが、私はタバコを吸う人ですが、もちろん「おいしい」(悪しき習慣!)を味わうために吸う訳ですが、意図しない味わいの中にふっと味も何もかも忘れて「おいしい」から派生したエクスタシーを感じます。あと前に美容院でパーマをかけていたのですが、女のパーマネントは時間がかかります。でも非常識に3.4時間くらいの長い時間をかけられて(単に忘れてられてかも…(泣))最後に残った客は私でした(お昼から始まったのにぃ)。でもその特典はといえば、悪いと思ったのか、美容師さんが方をもんでくださったのですが、足先からビリビリと元気が走ることを体験してしまったのです。これは~走るような、という比ゆではありません。ああ、人体は電流が流れているというのは本当だなと感じた瞬間です。もちろん気持ちよかったのは20年後の今も思い出に残っているというのはいうまでもありません。

変な話をすみません(笑)。というのは
>何の抵抗も矛盾も生じない空間ならば
というお答えにこのことを思い出したからです。であれば快楽の頂点は「何の抵抗もない瞬間だったのか?」と思いました。抵抗というのはもちろんそれだけ待たされていることに対してですが、あれは悟りだったのかなあと。ぎゅうっと握っているコブシを解いた時間が長いほど、止められていた血流はどっと流れ出すものですが、そのように開放がエクスタシーのきっかけだとしたら、なぜ私たち普通の人は、日常生活でそれを求めるのはしばし罪になるのでしょうか?でもそれを知りたくて出家したくても(私も考えたことも本気で出家しようと考えたこともあります)、滝に打たれたところで、内面に暖かなものが流れていたら悟りは得られないと思いました。

>「捨置記(捨て置く)」
悟りとは特別な人のものではなく、人が外部刺激で狂気に陥る可能性は誰でも潜在的にもっているように、雑音(=人生)の中でも孤独という宇宙を抱く人は誰でも、真空状態で悟りへの道を見つけるのかもしれません。カオスの中にそれを見つけるのは、砂漠で一粒の砂を見つけるように難しいことかもしれませんが。「苦楽」はその道しるべだと思うのです。

補足日時:2004/12/07 00:21
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この回答へのお礼

>形而上の問題をいくら解決しても、人生の問題は何も解決できず

本当にそうだと思います…。人間は考える葦である、唯一意思を持つ動物だといっても、考えるからこそ先に進めなくなったり、何も難しいこと考えず、ただそのときをフワフワとやり過ごせたら(実際このような生き方をしている人もいますが)、自分の精神にこうした宿題を課すということの業というか、厄介さが重たいです。

お釈迦様の説法の仕方は、自由に考えさせるというのですよね。でもそのほうがいかに難しいか。キリスト教のように「○○しなさい」と言われたほうが楽です。お釈迦様は個々の中の潜在性というか可能性を温かい視線で見守ってらっしゃるのでしょうね。

お礼日時:2004/12/07 00:22

こんにちわ!大好きなfrauさんの御名前を見かけて、ちょこっとお邪魔します。


ここまでの回答の数々を見てて「すご~い、博識だな~」と感心しながら、ふっと仏像の姿をイメージしていました。ほら、恐い顔と優しい顔、裏表になってるの。相反するものが一体化してる象徴みたいですよね。
私全然知識ないんでイメージばっかりなんですけど「禍福はあざなえる縄の如し」ってことばも「二律背反」を思わせますね。
男性と女性で考えても、それぞれに異性性を内包してて、胎児なんか、ほんのちょっとのことで、どっちに転ぶかわからないそうですね。
結局、パーセンテージの差で表面が変わってくるだけで、元から相反するものを抱え持ってるということなんでしょうかね??
ところで、あの世だか、もといた世界だか分かりませんが、神様に出会ったら聞いてみたいことがおありだそうですね。ひょっとしたらダメかも・・・。「バガバットギーター」とかいう大昔の書物?には「この世界がなぜ存在するのか、聞いてはいかん」とかって書いてるそうですよ。そのこころは、「神様にも分かんない」からだそうです。「ちえーっ、な~んだ」ですよね。人間に分からないの当たり前か・・・。
御存知のお話かもと思います。お邪魔しました~!
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この回答へのお礼

>大好きなfrauさんの
まああ!嬉しいです(≧∀≦)/
これからもお見知りおきを!

確かに赤ちゃんの顔って男の子か女の子かわからないですよね。
>元から相反するもの
可能性を秘めていますよね。性別だけではなく、本当にいろいろな意味でも…。

「バガバットギーター」で思い出したのですが、「アカシック・レコード」というどこかの宗教典(確か神秘主義のだったと思いますが思い違いであれば失礼)森羅万象のことがすべて書かれてあるそうで、もちろん個人のことも含まれている未来書のようでもあり、過去の履歴のようでもあるような宇宙の法則が書かれているそうです。
でも神様にも分からないことがあるなんて!初めて知りました!想像主の神様にも分からないことであれば、その神様を生んで、その上「聞いてはいかん」と言った存在は一体どなたなのか!ああ…(クラッ)

もしドラえもんの「どこでもドア」があれば、扉をコンコンとノックして即効で神様のところへ行って、こういうこと全部聞いて、恨みつらみ全部訴えていろいろお話したいです。だから早く死にたい(笑)。

お礼日時:2004/12/05 00:56

またお邪魔します。

。。

急に頭が回転してきたんですが、(悟りでしょうか・・・・)
どうにも解せなかった「紙一重」という【感覚についての考察】です(つまり余談です)

frauさんに質問です。
今、何の音がしていかわかりますか?
今、耳に届いている音を、全て数えてみてください。

・・と、この質問がされるまで、おそらく音には無頓着であったと思います。
大切なのはそのことで、人間は、一つのことにしか意識を向けられないんです。
同時に二つ、三つを意識しているように感じるのは、意識を向ける「速さ」の問題なんです。
同時に処理しているわけではないんです。

先にご紹介しました瞑想をやっていると、面白いように解るんですが、
心というのは呼吸に集中しようと思っても、勝手にご飯のことを考え出したり、
先のことを心配しだしたり、目に写ったものから何かを連想して、妄想の世界に入ったり、
急に人の悪口を言い出したり、騒音にイライラしたり・・・・・
「意馬心猿」と言って、心は馬や猿のように動き回るものなんです。


ちょうど「原子」の構造で、原子核の周囲を電子がまわっているようなものです。

「原子」は走査顕微鏡でみると、丸く見えるんです。
なんでかというと「電子」が「原子核」の周りを超高速回転しているからです。
それで丸く見えるんです。

人間の「自我」とか「心」の構造も一緒だと思うんです。
あっちに意識を飛ばしたかと思うと、今度はこっちと、高速で意識という点を照射し続けてて、
「私」という実体のようなものを形成していると思うんです。
(瞑想をしているとよくわかります)

ですから、人間は音への集中と、書き込みを同時に処理出来ないと思うんです。
今、音に無頓着になっていませんか?


これが、紙一重感覚の原因だと思います。
同根で、個別には理解は出来るけど、同時に処理することができない相反する価値観。
その歯がゆさが紙一重という感覚に表現されていると思うんので、つまりこれは脳力の問題だと思います。

もし、馬のように両側に目があったら、処理できるのかも知れません。

この回答への補足

(ここからお読みください)この項目へのお返事を見逃してしまったのですが、先日手に取った本にまさに「無意識」=「無心」が同義語だということです。つまり東洋思想と西洋思想にも対応しているという事について書かれいます。この項目と20番の内容ともリンクしていますので、何かの「えにし」を感じました。

>今、何の音がしていかわかりますか?
今テレビをつけながらキーボードを打っていますが、テレビの雑音は聞こえても、会話は聞き取れません。勿論これは意識がパソコン(主体的思考)に向かっているからです。会話を雑音として処理するのは無意識の働きです。無意識の働きの一つに日々の学習済みの活動を自動的に行わせることがあります。自動車の運転をする時、いちいちアクセルやギアなど手順を確認しながら運転していたら、スムーズに行えることもできません。学習済みのことは無意識にしまわれて、そこから自動的に(つまり無意識に)行動できるのです。この状態を仏教では「無心」、心理学では「無意識」といいます。その本はユング派の無意識について書かれた本なので、「東洋における無意識」と題名です。この本では「この状態」をこのように言葉で分けていますが、実際は同じものとして扱っています。しかし相違点として「東洋文化は主体的真理を重んじ、西洋文化は客観的真理を重んずる」という一般論から、この無心、無意識への取り組み方を「創造的無意識の体験を、さらに工夫して主体的に深め、その体験に基づいて、心的現象論にたって、いよいよその客観的真理分析を冴えたものとし…」という理想論で結んでいます。

ここではまた「『無心』はとくに『禅』において、その生活態度を表す言葉とされている…『いのち』は一説によればその語源は『いきのうち』で省略して「いのち」というようになったという…」「『荘子』の表現でいえば『天地同根・万物一体』という生命現象の実感が、またその「ことわり」によって生きることを願う生活態度が「無心」という言葉の意味である」。つまり「天地万物、すべてが同じ「いのち」を生きている、ということわりを踏まえておればこそ、無心、無我…というように色々な言葉で悟りが表現されている」というのです。

>心というのは呼吸に集中しようと思っても、勝手にご飯のことを考え出したり
これについても澤庵和尚の「不動智神妙録」を引用しています。「物に心が止まり候へば、いろいろの分別が胸に候間、胸の内にいろいろ動き候、止まれば止まる心は、動きても動かぬにて候」。

東洋、西洋いずれも無意識は創造の母胎であるといっています。ユング心理学では「集合的無意識」を理論から説明し(例えばパニックに陥った際の悟りについては「恐怖の情動のために自我意識が一時的に低下し、自我の心的エネルギーは無意識へと対抗し、無意識からの影響を受ける」というように)、東洋ではそれが主体的であるというのならば、「経験」から悟りを得るのでしょう。

創造や悟りに至るには、「極限状態にいたること」とあります。「人間の極限は神の機会である」という「禅の心理的解釈」、また「易経」では「易は窮まれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば九し」という表現は違いますが「無意識の働き」=「宇宙的無意識(宇宙の原動力)」としていることは共通しており、「あらゆる芸術品、宗教人の生活と向上心、哲学者を動かす研究心-是等一切が全ての想像力を抱く「宇宙的無意識」の源泉からくるものである」としています。

補足日時:2004/12/09 18:37
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この回答へのお礼

ユング心理学の本では、西洋的なものの見方しかしていないと思っていまた。また同本の「からだと無意識」の項では「現在盛んに用いられている心理=身体療法の多くは、もとをたどると東洋の秘教やシャーマニズム、民間療法の世界に限りなく接近している」とあります。

この本は複数のユング派の先生方が寄稿しているのですが、編集は河合隼雄先生ですが上の原稿はそのお友達のものです。「古い」と言われているユング心理学ですがこうした客観的な論考は、しばし、定着した学派は他の領域を容易に受け付けないものですが実はそうではないのだと思いました。

>「原子」の構造で、原子核の周囲を電子がまわっているようなものです。

無意識を原子にたとられたことは興味深いです。なるほど、そのような対象表象の捉え方もあるのかと。

>あっちに意識を飛ばしたかと思うと、今度はこっち
瞑想は私も「タントラ」を唱える方法の、ある瞑想方法を受講し、個人のタントラももらいましたが、長続きしない自分が情けないです(笑)。もちろんまた再開するつもりですが、雑念ばかりの私は、どうも座っていることで不安を感じてしまいます。まあこれもある意味現代病(?)なのでしょうが。

>「私」という実体のようなもの
私も瞑想経験のあるので、それがどのようなことかわかります。瞑想や、ある種の心理療法(催眠療法など)は、「無意識」「無心」「悟り」も、「自我」の領域からどんどん下層へとダイブしていく方法なのでしょう。確かにその経験から「真っ白」になる瞬間があるときがありました。そこが実は「どこ」だかわかりません。それも明らかに主体的な経験ですよね。しかし眠りから覚めるとあの「うっとり」、「さっぱり」した経験という実感は忘れがたく、容易に日常生活に戻れるのですが、…あっ、これは「紙一重感覚」の経験なのでしょうか??意識と無意識の領域も二律背反ですよね。「行く」「戻る」=「意識」と「無意識」=「日常」「非日常」…また気づかされてしまいました!!

お礼日時:2004/12/09 19:47

何度もすいません。

お返事ありがとうございます。
このテーマは大変興味深いので、何回かに分けて投稿させていただきたいと思います。
まず、お釈迦さまの悟りに関する、私の見解です・・・^^;

ちょっとリアルな話になりますが、お釈迦様さえも、当然「縁って起こっている」のであって、
ちゃんと縁起で説明できるんです。ですからお釈迦さまの悟りは科学者も仮説を立てているんです。


まず「インド」という環境があると思います。
身分階級制度があって、乞食(食物を乞う)というのは、身分の高い人の特権であって、日本のように生活苦で乞食をするのではなく、「物を乞う資格のある人間」という感覚なんだそうです。ですから差し出すほうが頭を下げるのが常識なんだそうです。

さらに、インドには雨季もあって肥沃な大地に温暖な気候ということで二期作、二毛作も可能なくらいの恵まれた環境ですので、労働力というのもそれほど要しないんだそうですから、エコノミックアニマルのようにあくせく働く必要もなく、身分の高い家に生まれた思想家には良い環境であったと思うんです。

だからインドには歴史5000年と言われているヨーガが発展したんだと思うんです。
山に入って修行するとか、苦行林があったり、ヨギーが育つ環境にあったと思うんです。
自然環境、民族的な価値観に恵まれていたんだと思います。
これが修行者の精浄さを保てた、支えになったと思います。



で、お釈迦さまも、大変裕福な家に育ってます。(有名な話なので割愛します)
なんの不自由もない、至れり尽せり、豪華絢爛、夢のような純粋培養生活をしていたんです。
ですから老人、病人、貧人、苦しむ人・・を見たこともなかったんだそうで、
初めて、そういう人達をみて大変ショックを受けたんです(激しい衝撃だったと思います)
(純粋少年が「ロック」や「ヘビメタ」に一発で感化されてしまうようなものだと思います)

で、修行に出かけるんです。

修行中も5人のお供を従えてましたから、生活雑事、一切していないと思います。
ここでも純粋に修行だけに打ち込めたんだと思います。
(箸より重いものを持ったことは無いと思うくらいの無菌培養人生だと思います)

私が、純粋培養にこだわるのは、つまり、お釈迦さまは世俗的なことは一切、経験していないので、ギスギスした心の育つことが無かったのでないかと思うからです。(もちろん生産活動をしたことは無いでしょう)

しかも貨幣制度が発達するか、しないかという時代だったらしいです(25世紀も前の人ですから)
「お金」というものをどの程度知っていたのか? という時代なんです。
まあ、いろいろな意味で「無菌・純粋培養された」ということに注目したいんです。
【苦界に生きながら、苦に毒されていなかったのでは?】と思うんです。


で、6年間、苦行をしても何の成果も得られないし、スジャータからもらった乳粥を食べてしまい、御付の5人からも「お釈迦さまは堕落した・・」と見捨てられ、肉体的にも、精神的にも完全に追い込まれてしまうんです。 かなり追い込まれていたと思います(普通に考えて) そして菩提樹の下で不退転の決意で呼吸法・瞑想を始めるんです(これがヴィパッサナー瞑想らしいです)


・・と長くなりましたが、まず乳粥は乳製品ですので、脳内の癒しホルモンの「セロトニン」の材料になるんです。
それまでの苦行で食生活が極端に悪かった場合、乳製品に含まれる「トリプトファン」というのが少なくなっていたハズですから、乳粥を食べたおかげでセロトニンの合成が活発になったのかも知れないんだそうです。
(セロトニン神経は平常心を司るとも言われています)


あと苦行の疲れ、精神的な追い込みと心身的疲労もあったと思いますから、長い間、緊張神経の交感神経が優位だったと思うんですが。呼吸法のリラックス効果、さらに苦行を放棄した開放感、乳粥を食べたことも精神的な緩和に繋がってリラックスの副交感神経の働きが活発になったと思います。


さらに副交感神経が働くと「右脳」が活性化するんです。
右脳は、イメージ処理を専門としていて、サバン症候群の人たちのように、
とてつも無い能力を発揮したり、音楽的、絵画的な才能も司っていると一般にいわれています。
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/ma …
http://www.ktv.co.jp/ARUARU/search/arurest/rest2 …


で、なによりも、瞑想法が素晴らしいんです。
これほど理に叶ったものを私は知りません。
現代のどんな心理療法も超えていると思います。
まさに実践心理学+実践大脳生理学です。

呼吸法・瞑想をしていると変性意識状態というのもおきます。
脳波もリラックスを示す波形になったりするんです。
http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1052650(こちらの1&2をご覧ください)

経典によると、お釈迦さまは自分の隣に雷が落ちて、人が死んで大騒ぎになってても気づかなかったそうです。
「お釈迦さまは、寝ていたんですか?」と聞かれて「いいえ、起きてました」と答えてるんですね。。。
悟りの時も、そのくらい深い禅定に入れたと思うんです。


・・・と、こんな感じで、いろいろな要素に縁って「ブッダ」に成りえたのではないかと思います。

心も清浄で、脳も覚醒して、世界一平等で、合理的・客観的な悟りを得たのだと思います。
お釈迦さまのことを覚王と言います。「覚醒王」ですね。
日本にも覚王山という仏舎利を祭ったところがあります(本物らしいです)

また投稿させてもらいます。長文失礼しました。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。何しろ自分がした質問に、これまで毎日ずーっと悩んでいましたので(笑)。お答えがきていることは承知していましたがそんなことで、どうお返事しようかと思い巡らしていたしだいです。

>乞食(食物を乞う)
についての記述については驚愕しています。今までの概念、つまり乞食=ホームレスという連想は、まったくの思い込みであると思いました。(これだから仏教やインドに興味が尽きないのです)
インドはたしかにそのように包容性のあり、温かい思想が生まれるようなイメージの土地柄ですよね。

>粥は乳製品ですので、脳内の癒しホルモンの「セロトニン」の材料

現代科学をもって、宗教を解説し、宗教の中に現代科学が存在していたということでしょうか!「二項対立」の素敵な融合の例と思います!

乳粥を食べたことで悟りを開いた理由がわからなかったのですが、こういうことだったのですね~(納得)。つまり「弛緩」と「緊張」との間に悟りへのチャンスはあるのでしょうね。
緊張状態から弛緩に至るときってホッとしますよね。たとえば寒い冬の日、外から帰ってお風呂に入ったとき「ああ気持ちいい」という以上に、言葉では表現する間もないあのエクスタシー。すべてのエクスタシーも悟りであると思っている私としては、変性意識は日常的にいつも感じている?のかなあと(笑)。もちろん変性意識「的」かもしれない底辺のあたりのものかもしれませんが(笑)。

心理学でも、東洋思想や、ヨガ、瞑想などからアプローチしようとする第四の心理学「トランス・パーソナル心理学」はまだ認知度は低いですが、西洋と東洋の融合、これも「二項対立」の嬉しい融合ですね。

お釈迦様のこと、もっと知りたかったのですが、少し知れて幸福なため息の出る思いです。「仏教」については「宗教」という堅苦しいイメージをもって学ぶよりも、お釈迦様を一人の人(仏)としてもっと間近に感じられるようなエピソードとともにこうして語られると、わかりやすく覚えやすく、親しみやすいですね。

お礼日時:2004/12/05 00:20

>ところで愚問ですが、お釈迦様は・・・


他人様への補足質問に、またまたしゃしゃり出できました。
(これで最後にします・・・)

最近宗教に関する本をよく読んでいます。
それらで得た知識を以下の質問において
回答としてまとめています。
よかったらご覧下さい。
(むしろ他の方の回答が参考になると思います)
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1079186
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=687666
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1013501
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=771624
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=743779
frauさんが回答を寄せられている質問は
(最近結構お見かけします)気づいた範囲で外しました。
参考になれば幸いです。
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