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この世の中のことはふたつの要素で成り立っていてると思うのですが、「二律背反」は「紙一重」というのは何ゆえにでしょうか?

泣いたあとすぐに笑うことができるし、幸福も不幸も見方次第ではいずれにも移行できる。この間はなぜ表裏一体なのでしょうか。

上手く説明できなくて済みません。補足させていただきますので、哲学や宗教のみならず様々な分野からの意見をお待ちしております。

A 回答 (41件中41~41件)

嬉しさがあるから、悲しさが存在するんじゃないですか?


ウラがあるから、オモテがある。

オモテだけのものなんて存在しませんよね。

悲しさだけだったら、それがフツーなんですから泣いてもしょうないです。

両端とまではいかないまでも、ものごとには「幅」というものがあってその中を往ったり来たりしている。
中庸とかいう考えもそこから来ていると思うのですが。

考え方ですが、中庸があるから極端もある。
そう考えれば、「ちょっと嬉しい」のとなりに「ちょっと悲しい」があるとするなら、悲しさのすぐとなりに嬉しさもあると考えたのでは?

この幅が紙切れ1枚分程度しかないと表現したのでは?

紙切れ1枚で両者が二律背反と言い切ってしまうのもどうかと・・・
あくまで両者の間隔を紙切れ1枚分と言っているだけで、反しているとは限らないと思うのですがネ。

いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

両者の間にあるのは「中庸」。これは同意します。
よくいう「天才と狂気は紙一重」というのは、両者には差がない、といっていることだと思うのですが、両者の間の振り幅はあっても、紙切れ一枚分ということもあるわけで…。
この振り幅が二律背反と思っているのでなく、二律背反はなぜ表裏一体なのか?といったほうがわかりやすいでしょうか。難しい質問でごめんなさい。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/19 00:19
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