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この世の中のことはふたつの要素で成り立っていてると思うのですが、「二律背反」は「紙一重」というのは何ゆえにでしょうか?

泣いたあとすぐに笑うことができるし、幸福も不幸も見方次第ではいずれにも移行できる。この間はなぜ表裏一体なのでしょうか。

上手く説明できなくて済みません。補足させていただきますので、哲学や宗教のみならず様々な分野からの意見をお待ちしております。

A 回答 (41件中31~40件)

再度の3です。

何度もすいません。
どうにも気になる質問だったので、また来てしましました。すいません・・・。


ちょっと単純に考えたんですが、逆に、二律背反が存在しない状況って、例えば、完全に抵抗・妨げとなるものの無い、無限の空間にボールを放ったようなものだと想うんです。これには一切の矛盾が無く、永遠に進むと思いますから二律背反も存在しないと想うんです。


でも、これは在り得ない話です。(少なくとも物質界では)
だって「縁起説的」に言えば、ボールも何らかに縁って生起しているハズだからです。
ボールが存在するということは、同時にボールの縁起となった何かが必ず存在するんです。
ですからそれ自身が抵抗となり、ボールには絶対に上下、左右、加減速が生じると思います。

つまり、この矛盾が、あらゆるものが二律背反を潜在的に有するように想える根本的な理由だと思います。

「縁起(存在の条件)」とは、同時に抵抗であり矛盾を含むのだと思います。
(だからお釈迦さまは「この世は苦界だ」と言ったのだと思います)


例えば「色」です。
もし、この宇宙の全てが矛盾・対立・抵抗の無い「赤一色」だったら・・・
青、黄色、白、黒・・・・が無くなるのは当然ですが、同時に「赤」も無くなってしまうんです。
だって識別する必要が無いんです。 そうして、果ては「色」という概念も無くなるんです。
つまり「色」という認識は、相互依存関係で成立しているんです。
さらに逆説的に、もし縁るものが無く、存在の条件を満たせないと「色」は滅尽するんです。

先に「剣」に防御と攻撃が内在されると書きましたが、
これもこの世から「攻撃」が無くなれば、「防御」も無くなります。
そして「剣」も消滅するんです。(つまりこの世から争いはなくならないということです)

「長いもの」があって「短いもの」も存在出来ています。
もし、この宇宙のものの長さがみんな同じなら「長さ」という概念もなくなるんです。

最大の矛盾は「生と死」ですよね。
これも「生まれる」ということが無くなれば、「死ぬ」ということも無くなるんです。
そして果ては、生命は消滅するんです。

全てが縁って起こることが存在の条件ですから、
同時に、全てのものに二律背反を認識できるのだと思います。
(これは宇宙の起源(ビッグバン等々)も勉強しないといけない問題だと思います)


我々はとても混沌とした矛盾の中にいるんです。
だから、お釈迦さまは「苦界だ」と言ったのだと思います。

 『この一尋ほどの体のなかに、知覚する心があり、
  それによって自分の内側に宇宙が見える。
  宇宙の始まりが、宇宙の死滅が、そして宇宙の死滅に至る道筋が見える』

そして全ての執着を断って、苦と、存在の条件を滅尽して涅槃に至ろうと教えたんだと思います。

 『あらゆる苦は反応より生じる。反応が止滅すれば苦も止滅する』
この具体的な方法論が八正道の正定に該当する「ヴィパッサナー瞑想」という自己洞察の瞑想です。方法論もちゃんと教えてくれているんです。



で、ここに意味を見出そうとすると、どうしても「創造主」とか形而上の存在に頼らざるを得なくなりますから、それを実体化しようとする試みに至ると思います。

私は哲学には詳しくないんですが、
「ラッセル」という人は、とても仏教的とでも言いましょうか興味深いと思うんですが、

『実体という概念は、真面目に考えればさまざまな難点から自由ではあり得ない概念である。
 実体とは諸性質の主語であり、全ての性質から区別される何物かである。と考えられている。

 しかし諸性質を取り去って、実体そのものを想像しようとすると試みると、
 われわれは、そこに何も残っていないことを見出す。

 実際には「実体」とは、さまざまな出来事を束にして集める便宜的な方法に過ぎない。
 例えば「フランス」とは言語的便宜であり、フランスにフランスという実体は存在しない。

 それは多数の出来事に対する一つの集合的な名称なのである。

 でも、我々がそれ以上のものだと解釈すれば、それは全く知り得ない何物かを指示することになり
 従って、我々の知っていることの表現には、その何物かは必要でなくなるのである。

 一言で言えば、「実体」という概念は、形而上的な誤謬である。
 主語があって述語があるという構造を、世界の構造にまで移行したことにその原因がある』
・・・・と、言っています。

まあ、私的には、諸性質を取り除いて、何も残っていない空間こそが
矛盾の無い永遠の安らぎの世界では・・・と思うんですが。

今後の考察のお役に立てれば幸いです。

この回答への補足

Syo-yaさんお待ちしておりました!光栄です。

「例えば、完全に抵抗・妨げとなるものの無い、無限の間にボールを放ったようなもの」
とは宇宙のこと…??

「矛盾が、あらゆるものが二律背反を潜在的に有する」
わかります、説明するには難しいけれど感覚的に。
森羅万象は「秩序」から生じたのではなく「矛盾」から生まれた、「反射」のようなものでしょうか。
たとえば鏡に鏡をみせるとその対になった世界がどんどんその向こうで広がってきますよね。この世界も、宇宙もそのようなイメージです。


剣のお話の戦争については、もちろん「必要」のないものですが、形而上的にはそのように「必然」であるというわけですね。

確かに人、ひとりひとり宇宙を内包しているとこの人生の上にて、いつも感じています。
神様(どこそこの神様ではなく存在としての)に切り離された世界が、二律背反の世界なのでしょうか?この世界が二項対立で成立するその理由と苦しみの理由は形而上的にしか求められないのだとしたら、イデアの世界から落ちた私たちは本当に「悩める葦」なのですね。

ところで愚問ですが、お釈迦様は二律背反の要因が「苦」であると解かれましたが、実在していた方なのになぜその世界の中で「悟り」を開くことができたのでしょう。物質上の存在でも悟れることができるのならば、ふたつのもので常に拮抗状態にある「苦」なるものから自らをいかにして切り離すことができたのでしょうか?

またお釈迦様はあらゆる存在、森羅万象の起源についてはどのようにおっしゃっていたのでしょうか?たとえば西洋ではゼウスという神話的な神が父なる存在です。唯一絶対神の西洋的な宗教と仏教とは違うと思いますが、仏教はより人間に近い教え(哲学?)なのでしょうか?

補足日時:2004/11/30 23:22
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参考程度に


どちら向きにも向上のよすががあるからでしょうね。
つまり、幸福の先にも、不幸の先にも同じダイヤモンドがあるという意味でしょう。多くが幸福論を説く、一方、シエクスピアは不幸論を説きますが、行き着く先が一緒であれば、二律背反と見えても、表玄関と裏玄関, あるいは、右回りか左回りの差ということですね。幸福、不幸にもレベルがあるので、時々の感情レベルは、天から地、上から下という紙一重ですが紙一重でどちらの門をくぐるかは本人の知恵しだいということですね。つまり、どちらでもいいということでしょうね。不幸のどん底を割れば妙なる幸福があり、幸福の先にも妙なる幸福があるということですね。大略、仏教は幸福論、キリスト教は不幸論という話でしょうか。二律背反がわかりやすいからでしょうね。
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この回答へのお礼

「どちら向きにも向上のよすががあるから」
二律背反のことを考えるとき、必ず思い浮かぶ映像があります。「ほらふき男爵」を映画化した「バロン」という映画なのですが、海で遭難した男爵一行が海の底に落ちていってなぜか水面にあがったらそこは別の海の海上だったというシーンがありまして、いつもこの言葉とこの映像がリンクします。
昔見た映画なので詳細は実は確かであるかどうか自身ないのですが…。また確認してみます。

「紙一重でどちらの門をくぐるかは本人の知恵しだい」
それこそ神が私たちに問われる「知」や「善」でしょうね。「中庸」という概念もこの二律背反のふたつの要素から成り立つと思いますが、結局人生は二者択一の旅なのでしょうか。白黒つけたがり、中立という立場になかなかなれない未熟な私ですが、拮抗状態の中にあえて立つというのは、やはり秀でた人だと思います。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/01 00:25

度々すいません。


やっとfrauさんのご質問の真意が
少し分かってきたように感じたので
私なりの考えを一度まとめさせて下さい。

まず、私はfrauさんとは違う見方で
世界を見ています。
私は、この世は表裏一体から成り立っているのではなく
実態はもっと恣意的な混沌としたものだと見ています。
もし仮に神がいたとしても
神(の行為)には根拠がないと思っています。
神に根拠はない。しかし、人は根拠なしには
生きていけない、といったところでしょうか?
真偽の程は分かりません。
私も、もし神様とか仏様とかが居て天国に行けたら
まず最初に聞いてみたいものです。

ともあれ、私たちにとって
世界を混沌のまま受け止めることは
非常に困難であると思う。
どうしても、善悪といった対立項を軸にした
差異の体系として理解したがる。
なぜか?

生まれた瞬間の意識は、混沌の極みだと聞く。
まあ、確かに、何が何だか分からないだろう。
しかし、すぐに「自己」と「それ以外」を区別する。
まだ「自己」なんて明快な意識ではないのでしょうが・・・
そして、「それ以外」の様々を体験しながら
「受け入れたいモノ/受け入れ難いモノ」に分けていく。
#6さんの仰る
>感覚に縁って渇望と嫌悪が起こる。
と同じことですな。

例えば、生まれてすぐに、授乳がある。
最初は母乳だったとする。
母乳しか経験していない場合は、それが全てだ。
やがて人工乳を与えられたとする。
そこで初めて多様性を経験し、差異を知る。
それまで母乳しかなかった(食の)世界が
母乳と人工乳に広がり
好き/嫌いに(恐らく)二分される。
好き/嫌いの幅は経験と共に広がり
言語の習得によって体系化されていく。

早い話が「不味い」を経験して初めて「美味い」が
分かるようになります。
不幸を味わって初めて幸が相対的に理解されます。
悪を感じて初めて善を思います。
悪を知らなければ、この世は単一ののっぺらぼうな
フラットな舞台としてしか認識できない。
そういうことではないでしょうか?

あらかじめ二律背反が存在しているのではなく
人が世界を二律背反として理解・認識していくのだと
思います。

以下、蛇足。
>人の魂はもともと一つだったが二つに割れた。
古代ユダヤの密教は世界を4つの階層に分けました。
最上階は「神性界」と呼ばれ、ここでは私達の魂は
神人とひとつになって全ては調和を保っています。
その下は「創造界」と呼ばれ、ここでは魂が個々に分離し
「他者」を意識し「自我(ego)」が芽生えます。
その下は「形成界」と呼ばれ個々の魂は「男」と「女」に
分かれます(旧約聖書では形成界=「エデンの園」とされます)。
そして最後に私達の住む「物質界」があります。
ここでは男女の魂が肉体を獲得し、故に様々な「自意識(欲望)」で
悩まされるようになります。

昔の人はこうやって世界を理解していった。
しかし、二律背反・表裏一体だけでは理解しきれなくなるときも来る。
だから仏教のように、一旦「空」と見なすような
思想が生まれたのでしょう。
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この回答へのお礼

>生まれた瞬間の意識は、混沌の極みだと聞く。
生まれたての赤ちゃんは「真理」を知っていると読んだことがあります。ということは生きる過程で真理(イデア)の世界から遠ざかり、記憶も失われていくのではないかと思います。ということは「死」というのは帰ることであり、「恐れ」の対象ではなく故郷であり救いであるかと思います。

また、赤ん坊が生れ落ちた瞬間に「泣く」のはこんな汚れた世の中に放り出されたからだという解釈もありますが、これはシェイクスピアも自身の小説の中でセリフにたくしています。

私は「はじめに形ありき」という観点でした。なるほど、見方によっては人間が「恣意的」に経験したことがあとになって「二項」として意味づけられるということは、前者は演繹的、後者は帰納的な考え方でしょうか。

創造界での「自我(ego)」はフロイトのいう「自我(ego)」と同じことなのでしょうか。フロイトがそのような宗教観から精神分析の世界にも適用したのでしょうか?興味深いですね。

再度の投稿、嬉しいです。ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/28 00:15

相互に矛盾しながらもお互いに同じ権利を以って主張しあえば,それが自己の内部においてはおこれば葛藤になり,外部においておこれば口論になり,喧嘩になり,高じて殺し合いになる.


それが人生における苦となる.
その対処として
1.理論武装を含む力により相手を封殺する.
2.法律を作り,根本的な解決には至らず不満を残すかもしれないが相互不干渉とする.
3.両者が納得する形での揚棄
4.苦からの解脱と真の生.
と,とりあえず思いつく上記四つを挙げてみます.
心的な苦からの開放につながるのは,3と4であると思います.
4について言えば
二律背反.それを第三者なるものが観て,相互の主張が真であると認められる場合,
その第三者はそのどちらにも荷担しない沈黙なる状態にて
それぞれを生かしながら成り行きを見守っていくという状態にならざるを得ない.
自己の内部において
そのどちらの立場にも立って観られるという状態が観自在.
実生活の中において,
その観自在なる状態でどちらか一方にこだわり続けること無く,凝り固まる事無く自己の内部において保って生きれば
現象界の存在の五種類である五蘊(色:物質及び肉体,受:感覚・知覚,想:概念構成,行:意思・記憶,識:純粋意識)の一切は,空だと説かれたことが解る.
それを知ることができるのは,生きた肉体が有ればこそであり,それを離れてそれを知ることはない.

悲しくて泣く時もあればまた笑う時もある.
老いや死は誰にでも必ずやってくる.
しかしまたその朽ちた肉体は土にかえり,己が生きる為に食してきた植物が育つ養分となっていく.

こうして真理に目覚めた仏陀の中の或る者は菜食主義者となり,己と植物との生の循環系を志向し,己の生を全うしようとした.

生きているから苦があり,また生きているから,それら苦から開放され心の平安に住する境地があることを知る.
それは決して心が無感覚や無感動になるということではない.むしろそうした内観により感性は今までの自分より研ぎ澄まされていくものだ.


どちらも法に目覚めた者,仏陀と呼ばれるが,
小乗仏教の阿羅漢は,二律背反による他者との対立や論争を極力避け,自らの心の平安に安住する.
大乗仏教にいう菩薩は,二律背反における他者との論争をも辞さず,苦からの解脱と真の生を説き,両者の平安な生の創造を志向する.それ故に目覚めた菩薩は世の為政者と対峙する.

以上.問いの二律背反と紙一重の回答にはなっていませんが.

ありがとう.
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この回答へのお礼

葛藤はそれこそ二項対立の生々しい感情ですよね。
悟りを開くというのは、拮抗の極限に至ったためでしょうか?そのきっかけになるのはやはり「苦」なのでしょうか?

西洋の宗教は唯一絶対神であり、規律的、形而上的、神話的です。対して仏教は生きている現実の中に問いを求められるというか、その先駆者(といってはお釈迦様に失礼な言い方ですが)が、到達した先からこちらに優しく問われているというイメージです。

私はどちらかというと哲学としても仏教になじみやすいですね。心のツボにストンとはまりやすいというか。

私もなろうとしているのですが、なかなか菜食主義者にはなれません。もちろん肉を食べてきた習慣は容易に変えることは難しいですが、これも執着、「苦」ですね(笑)。でも野菜も生き物なわけです。これはこのカテで別の方が少し前に質問してましたよね。同じように悩む私も、菜食主義者に徹することを躊躇させられる…いや、これは開き直り、言い訳でした(笑)。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/01 00:39

>「一元論二分法」についてもう少しお聞かせください。


一元論は、一神教のような
一つの価値観だけで一切を説明しようとする考え方です。
例えばキリスト教は、神を唯一絶対とし
神の意志に沿うものを「善」、そうでないものを「悪」と
二分してしまいます。
それを、私は「一元論二分法」と呼びました。

この世を善/悪、幸/不幸、白/黒、などに二分してしまうのは
価値判断の基準を「神の意志に沿うか?」のように
一元化しているからですよね?
神がまず存在し、信じるか/信じないか、の
二者択一を迫っているわけですよね?

論理的により厳密な解釈をすれば
この世を善と悪などの二項対立で捉えるようなモノの見方は
象徴二元論というべきかも知れません。
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/a/97/m25.htm
ここで論理学的な解釈論をするのは
ご質問の趣旨からずれてしまうと思いますが
幸と不幸は「二律背反」ではなく
単なる「二項対立」、というか
それ以前に単なる「反対語」であるだけなのでは?と思います。

>でもその連続性は実は存在していないもの、と
>いうことなのでしょうか。
幸福が続いていると感じるか/否か、は
その人の気持ち次第ではないでしょうか?と私は考えます。
一方、人の不安定な気持ちや感覚とは別に「真の幸福」
「幸福の本質」のようなモノを想定する考え方もあります。
幸福の連続性の存在とは、そのようなモノを想定していませんか?
本質とか真理といった「絶対存在」を想定するのは
早い話が「イデア論」です。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/idea.html

ともあれ、frauさんの質問の整理に向けて
少しでも参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

「二項対立」のURLは難しいながらもとても興味深いです。とくにインドの一元論、二元論と項目を立てて説明してあるのがよい!私はこういうのが大好きです。

ところで…。
うーーーん、質問しておきながら本人がわけわからなくなってきました(笑)。

つまるところ私は「何故?」という問いは「イデア論」に集約できるような気がします。というのは「存在」「生きる意味死ぬ意味」「哲学」などは神のみぞ知ることだからです。
瞬間に永遠を感じる人もいれば、刹那だ、と感じる人もいます。水のような連続性も、大地のような確固たるものも、「真実」と感じられます(と感じなければ生きる意義を見出せません)。その真実は「ふたつのもの」に左右されているのだとして、その幸福とは不幸の反射であるとしたらふたつのものはいつも背中合わせでなくてはならないのだろうか?と。つまり神が人に与えた課題はやはり対極させる要素がなくてはならないのだと思います。でなければ憎しみを感じたときにその対極である愛(これには異説もありますが)を学び、不幸な状態であるのならば幸福にむけて努力することをするという人が人としての営みをするときに必要というか、すでに背景として成立しているのが「ふたつのもの」であると思うのです。

あれ、なんだか話が別方向にいっているような気がします(笑)。この後にもお返事くださっていますので、続きはそちらにします。

お礼日時:2004/11/25 11:39

お礼をありがとうございます、再度の3です。


再度挑戦させてください。私もこういう問題は好きなんです^^。


私は以前も投稿させていただいてますが、
仏教(お釈迦さま)大好き人間なので、仏教的な解釈を心がけています。

苦のメカニズムを系統的に説いた、十二縁起説というのがあります。


 1 無知に縁って反応が起こる。
 2 反応に縁って意識が起こる。
 3 意識に縁って心とモノが起こる。
 4 心とモノに縁って六つの感覚器官が起こる。
 5 六つの感覚器官に縁って接触が起こる。
 6 接触に縁って感覚が起こる。
 7 感覚に縁って渇望と嫌悪が起こる。
 8 渇望と嫌悪に縁って執着が起こる。
 9 執着に縁って生成のプロセスが起こる。
10 生成のプロセスに縁って誕生が起こる。
11 誕生に縁って老いと死が起こる。
12 そして嘆き、悲しみ、心を体の苦しみ、諸々の苦難が起こる。
   こうしてありとあらゆる苦が生じる。   ・・・です。

で、「二律背反」は、ちょうど#7に該当すると思うんです。

「剣」の例でいえば、渇望と嫌悪が、防御と攻撃です。
だって、幸せになる為には、嫌いな人を排除しなければならないんです。

で、「私にとって何が幸せか?」「私は誰が嫌いか?」というのは、
個人に縁って違います。 個人の感覚に縁っているんです。

ですから、「剣」とか、事象に二律背反が存在するのではなく、
感覚にこそ二律背反が存在しているんだと思います。

感覚は、煎じ詰めれば、この身体に縁って起こっているとしか良いようがないです。

・・・・う~ん、精一杯の回答です。楽しませていただきました。
読んでいただいてありがとうございました。
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この回答へのお礼

Syo-yaさんのご回答は他の投稿でもよくお見かけしますが、いつも楽しく読ませていただいてます。
またひとつの投稿に同時に私の回答と一緒になることがありますよね。

私も宗教としてではなく、哲学として仏教がもっとも好きです。心のツボにストンとはまるというか…。

「二律背反」は私のメインテーマです。もし神様とか仏様とか、天国に行けたらまず最初に聞いてみたいことです。

丁寧なご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/22 16:47

#4です。


何か、小難しい回答になってしまったので、追加。

二律背反がなぜ表裏一体であるか?は
それが「等しい合理的根拠をもって主張された
二つの相矛盾する命題」だからです。
二つの相矛盾する命題だから「表と裏」に見えるのであり
等しい合理的根拠をもつから「一体」に見えるのです。

例えば「泣く」と「笑う」は
感情に起因する生理的反応を「二分」した用語だから
表裏一体に見えるのだと思います。

「幸福」と「不幸」、「攻撃」と「防御」も然りです。

ちなみに、この回答は「記号論」の視点によるものかな?
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この回答へのお礼

自分でも難しいことを自分に課してしまったな、という質問でした。

イメージとして、あるひとつの反応があれば、それとのコントラストをもたらせるために、その両端も存在する、存在せざるを得ないのではないか、単にそれだけだったと思います。
その起源は神対悪魔(善対悪)かもしれません。

例えば神様はご自分の住まわれるような美しい世界だけをこの世に模倣したと意図したことかもしれないけれど、ご自身の対極に位置する悪魔とよばれるような悪の存在が反射的に自分の世界をこの世界にも映しだした結果かもしれません。

初めにいずれかがあった、でもそれでは世界は面白くならないし、誰も学ばなくなるとも思います。だから二つの相反することは必然であると。必然であるし、この法則があるからこそ救いもあるような気がします。

>等しい合理的根拠をもつから「一体」に見えるのです。
そうかもしれません。でも「見える」のではなく私としては「ひとつ」だと思います。
例えばこんな話があって、「人の魂はもともと一つだったが二つに割れた。人生は、生まれるとき別れたもう一つの片割れを探す旅である」という話というか、哲学というか、そんなことをきいたことがあります。
これも二律背反の根源ともいえると思います。

補足ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/22 17:19

二律背反(Antinomie)は「大辞林 第二版」によれば


◆二つの相矛盾する命題である定立とその反定立が
 等しい合理的根拠をもって主張されること
だとあります。

#3さんが
>「紙一重」というのは結果論だと思います。
と仰っていますが
>「二律背反」はなぜ存在するのだろうか?
も、二律背反という事象がまず存在するのではなく
ある状態を「二律背反」と名づけただけだと思います。

思うに、
>「二律背反」は「紙一重」
という前提に誤謬があり
加えて「紙一重」と「表裏一体」と「二律背反」を
同意とするのもどうか?と思います。
さらには
>この世の中のことはふたつの要素で成り立っていてる
というのも疑問です。
それはキリスト教的に代表される
一元論二分法の論理観です。
そもそも、この質問が一元論二分法の論理観に
基づいた質問だと思います。
>幸福も不幸も見方次第ではいずれにも移行できる。
仏教的論理観に基づけば
幸福も不幸も、単なる「関係性」に起因する
瞬間瞬間の価値判断でしかなく
固定された「幸福」とか「不幸」といったものはない、と考える筈です。
現代哲学においても、「幸福」とか「不幸」は単なる「差異の体系」に過ぎず
幸福や不幸といった概念に「根拠はない」と考えます。
http://d.hatena.ne.jp/suousan/20040726

この回答への補足

「一元論二分法」についてもう少しお聞かせください。
初めて聞く文言ですが、「一元」とは二次元、三次元などの次元のことで、「二分法」とは二律背反と思っていますがそうでよいのでしょうか?

快楽、幸福などの普遍的なものは瞬間的な積み重ねだと思います。でもその連続性は実は存在していないもの、ということなのでしょうか。

ありがとうございました。

補足日時:2004/11/20 10:21
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的外れな回答かも知れませんが、挑戦させてください。




まず「紙一重」というのは結果論だと思います。
(結果論:事が起きたあとで、そのわかっている結果を前提としてあれこれ論ずる無意味な議論)

ですから何とでも言えるんです。

二律背反が紙一重の性質を持っているのではなく、
結果を論ずる人達から紙一重が生じるんだと思います。


例えば「剣」は、攻撃と防御を混在してもっています。
攻撃だけでもないし、防御だけでもないんです。

それを「あれは攻撃だった!」「いや!防御だった!」と結果を論ずるから紙一重が生じてくるんだと思います。

論じなければ「ただの一太刀」なんです。


う~ん、難しい・・・・^^;
いずれにしても、別の次元の話だという気がします。
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この回答へのお礼

難しい話題でごめんなさい。

「剣」について、とても参考になりました。その中でも「攻撃」と「防御」というふたつの要素がありますよね。「紙一重」というのは確かに結果論かもしれませんが、「紙一重」を省き、「二律背反」はなぜ存在するのだろうか、という疑問です。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/19 00:12

私もよく、この世の、表裏一体について考えることが多かった気がします。


うまく言えないです。
でも、人間が生きる、、、ということと、大切な関係があることに、、、気がついた! と。(笑)

人間は、本来なら、原始時代のように、未知な世界に産み落とされて、自然界のまっただ中、
何も規則やルールもない、何の仕切りもない空間に存在するところから始まり、その、何しても良い
自由、なのに、何していいか不安で仕方ないところから、好き放題して、そのたびに問題が起こり、
喧嘩、争いを重ね、知を養い、ルールや規則を作って現世に至っている。

ということは、人間にとって、生きるテーマの基本的なものは、中庸を知る、、、
バランスをうまく掴んでゆく、、、ということなのではないか? と思ったんです。

それによって、幸せ、平和が感じられる。
知を備えていない状況において、人間はとかく、両極端、に行動しがちな不器用な生き物です。
悟り得ていない人間は、すぐ両極端に生きがちで、欲深く、上り詰めることを良いことと考え、
自分と種類の違う人を見下したり、服従させようとしたり、犠牲やリスクも考えずに、争いばかりをする。

さまざまな人がいます。
いろいろな職業や趣味を みんな持っています。
それは何でも、構わない。
この中庸を学ぶために、何か手段が用意されているだけ、、、。
それがお医者さんの技術であったり、先生であったり、俳優であったり、公務員や政治家であったり、、、

最初は頂点目指して、Topに這い上がろうとするけれど、それゆえについて来る、犠牲、人間の心のさまざまな闇、争い、、、
そんな体験を通し、きっと、何が一番大切なのか、を人は悟る。
さまざま、、、ですが、みんな、学びとっているところで行き着くものは、そのバランス、、、真中のところ、、、
を極めているのではないか、とある時、感じました。

そういうこと、特別なことをせずして、平凡なところでわかる人もいれば、特殊な環境の中で、死ぬまで気がつけない人もいる。。。

神様が人間に与えた試練とテーマなのかな?

わけわかんなくなってすみません。。。
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この回答へのお礼

人は「中庸」を悟るために生きているということですよね。結局それが最も難しく、古代の哲学者がうたっても、諍いの本能による歴史が、人類をもっとも進歩させたものかもしれません。「中庸」は安定していても、停滞でもあると思います。

いつか、文明や文化が淘汰されるときがきたら、そのときこそ「中庸」が生きるのではないかと思います。

難しい質問ですみません。ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/19 00:24

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