1つだけ過去を変えられるとしたら?

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タイトルのとおり、なぜ差別をしてはいけないのか僕には明確な理由が見つかりません。
もちろん、憲法によってあらゆる人達に人権が与えられていますし、民主主義社会では皆に平等に機会を与えようとしているのは分かります。また、差別は道徳的に悪いと考えられていることも分かります。差別の対象となる人達はかわいそうだとも思います。
しかし、差別しないことに社会的メリットはあるのでしょうか?(差別をし続けると、被差別対象者たちが反乱を起こし、社会の秩序を乱しかねないという理由以外で)
差別を肯定する明確な理由は私にはありません。しかし、差別を否定する明確な理由も今の私は知りません。今年の春から法学部へ進み、法はもちろん、哲学や倫理などを通してもこの問題に取り組んでいきたいと思います。将来は弱者の立場にたつ弁護士になろうと志す未熟な私ですが、みんさんが、この質問の答え、もしくは考えるヒントを与えてくれると幸いです。よろしくお願いします。

A 回答 (24件中1~10件)

No.5です。



あのー、差別とは、「被対象者には変えること・選ぶことができないことで分ける」という考え方は、間違いです。

例えば地方公務員の昇進に関して国籍差別が問題になっていますが、長年日本に暮らしている在日韓国人や朝鮮人の多くは、本人が望みされすれば比較的容易に日本国籍を取得できるはずです。「変えることはできないことで分ける」のだけがいけないのであれば、外国系日本人だからという「生まれ」で分けるのはいけないけれど、「国籍」という、変えることができるものでするのは、差別ではないということになります。

外国人だから昇進させないことを、地方自治体や裁判所は差別ではないという。でも、別の自治体では、それは差別だからと昇進させるところもある。

また、太っている人を馬鹿にするのは、差別ではないのでしょうか。大半の肥満は、本人の努力で解消できます。入学試験に不合格だったのは、選別でしょう。でも、不合格だった人を「努力が足りないヤツラ」と切り捨てるのは、差別ではないのでしょうか。

変えられないから差別というわけでは、ありません。それに、ある状態が変えられるものかどうかの判断は、非常にあいまいで、むずかしいものです。

差別の問題は、考えれば考えるほど、わからなくなるものです。明確な回答をわかっていると思うことは、危険なことです。差別について、すべてがわかるということは、これからもないと思います。それぞれの人が、考え続けるしかありません

それから、何らかの判断をくだすときに、自分の心の声というか良心に従うのは、とても大切なことだと思います。でも、人間は弱いですから、つい自分に都合のいいように考えがちです。差別について真剣に考えていくと、自分の価値観や世界観を、一度全部崩して、みつめなおす必要が出てきます。それまでの常識で考えていれば、差別に気付きません。

これまでに、かなり問題視されている人種差別や差別はわかりやすいものですが、男女差別はいまだに人によって判断がすごく分かれています。夫婦別姓問題など、法制化されないのは差別だと思っている人はかなり多いのに、考えが違う国会議員が多くて、なかなか法制化されません。また、最近取り上げられることが多くなってきた年齢差別など、気が付いていない人が、まだまだ多いのじゃないでしょうか。

何でも理論的に考えればいいわけではありませんが、感情だけで判断していると、たいていの人は、「自分がやっているのは区別で、自分は差別していない。でも、あの人がやっているのは差別だ」ということになって、意見があわなくなり、平行線をたどります。
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差別の問題、難しいですね。

私も大学時代、国際政治を学びながら「暴力」(精神的な、経済的な、社会的な)について頭を抱え込みながら考えまくっていました。差別というものは、近現代で始まったものではありません。人間が財産を持ち始めた頃から既に「差別」というものは存在しているのです。貴方が大学に入られる前から、このような根源的な問いをもたれているのは大変素敵なことだと思いました。せっかく時間がたくさんある大学時代、色々な問いかけに積極的に取り組まれるのは有意義なことでしょう。大学時代が少し遠のいてしまいましたが、懐かしさのあまりに私もまだまだ若輩者ですが、私なりの考えを書かせていただきます。
 
 さて、何故差別をしてはいけないのか。この質問に正直なところ「明確なひとつの回答」はないでしょう。要するに、私が「差別をしてはいけない」という回答を、貴方に強いることは出来ないわけです。なぜならそれは「暴力」に転じるからです。貴方は意味もなく人に殴られる「暴力」をどう思いますか。自分が自分の意見を持っていただけでそれを押さえつけられる「暴力」をどう思いますか。それは「なくてはならないもの」だと思いますか?

 そして「何故差別をしてはいけないのか」と思う人は、下で何人か既に書かれていらっしゃいますが「強者」の立場にいる人に多いのです。自分は「差別」をされたことがないので、そう思うだけなのです。たとえば、私は幸運にも、日本国籍です。そのことでいじめを受けたことはありません。小学生の頃、クラスに在日のクラスメイトがいまして、彼女が「チョーセンジン」といっていじめられているのを見てすごく不思議な気分になったのを覚えています。彼女は自分が在日というだけで、クラスで居心地が悪いという「差別」を受けているのです。そしてその条件は、彼女には生まれながらにして得ていたもので、それこそ変更できないのです。彼女が選択したものではないからです。彼女はその意味で「弱者」に、無意識な社会的構造の中で、されてしまっているのです。(子供の社会というのは、大人の社会の反映だと私は思っています)貴方はもし、自分が彼女の立場であったら「なぜ差別をしてはいけないのですか」と誰かに問いかけますか?どちらかというと「何故差別をするのですか?」と言いたいはずです。社会では常に「強者」の声ばかりが響き、「弱者」の声は「弱者」であるが故にかきけされがちです。

 私たちには「想像力」があります。私は「想像力」から派生した「他者の立場を考えるまなざし」こそがゆるやかに社会を変えていくと信じています。

長くなってしまいました。私は自分の考えを述べただけであり、貴方に同じように思えとはまったく思いません。ただこのような考え方をする人もいるのだと思っていただければと思います。貴方の前途が開けますよう、お祈りしております。
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区別、選別、差別を1つの範疇の中にしているので混乱をおこされているのでしょう。

そして区別と選別はある程度必要としていますが、この辺がおかしですね。
「脱衣場は男女区別しなければならない」
「賃金は男女によって差別してはいけない」と言うように言葉として使います。つまり「区別」はしなければならないもの、「差別」はしてはならないものですね。もう少し楽に考えてはいかが。
選別にしても学校の運動会で順位をつけるカケッコはしないということを聞いたたことがありますが、このような競争を否定するとすれば点を取り合うスポーツはダメだし、オリンピックもだめ、入学試験もダメということになります。しかし、あなたがおっしゃるように差別に通じてしまうものもありますね。「貧富の違いで人を採用する」と言う場合です。差別とは何か、差別の本質とは何かと考えていけば答えが見えてくるのではないでしょうか。
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法律やってらっしゃるなら、合理的根拠のある差別、についてもご存知かと思います。


例えば少年法とか、小学生の子供に大人と同じ刑法を適用できないようになってますが、あれも法学的には「合理的な差別」ですし、地方自治体が独自に制定する条例で地域間で不平等が生じるのも「合理的な差別」です。
こうした意味での差別は別に問題はありません。
人種、信条、性別、社会的身分または門地による差別はNG。憲法14条でこうした合理的根拠のない差別はダメだ、とあるので、この意味での差別なら、憲法の規定により不可とされてますので解釈の余地がありません。
つまりはその差別事象に合理的な根拠があるのかないのかで、差別してもいい事象なのかダメな事象なのかという区分けがおのずとなされると思います。
それではグレーゾーンの「定年」は合理的な差別なのか、そうでないのか。年齢で雇用するしないの線引きをしてるので、「定年」は差別ですが、これは合理的かそうでないのか。法の解釈では合法です。ただ「定年」については解釈の余地があります。
差別、といってもいろいろな形態(私達が普段思い浮かべないようなものまで)ありますので、もうちょっと具体例を挙げるといいかと思います。
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難しい問題ですね。

法学部へ進学予定であれば、日本国憲法の前文辺りにヒントがあるような気がします。私は、法科出身ではなく、経済学部出身なので、経済学的観点から考えますと、大部分の経済的貧困国の貧困原因に共通する事は、差別(ディスクリミネーション)です。所謂、特権階級が、政治、経済、財政(税制)の支配階級に位置し、全く競争原理が機能せず、無能な人間が、政治や国家経済を統制します。つまり、問題は、差別により健全な競争原理があらゆる分野で機能せず、人的資本を含めた資源の非効率な利用や配分が恒常化することです。抽象的な事だけでは、なかなか納得できないと思いますので、服部正也著 ルワンダ中央銀行総裁日記(中公新書)に著者の鋭い指摘が載っています。お読みいただければ、なぜ差別が否定されるべきか経済学的には、ご納得頂けると思います。
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 質問者さんの言う差別とはいったいなんなんでしょうか?肯定も否定もしないというのは、真剣に考えてないのですか?



 >差別の対象となる人達はかわいそうだと思います。
果たしてそうですか?差別されているとされる人達が、差別される存在である自分を嘆く必要が何処にあるんですか?必ず差別される人は悲観しないといけないのですか?

 一番怖いのは、差別してないつもり、差別から遠い存在のつもりという人が、実は一番差別しています。

 真剣に考えれば考える程、私自身、色々な所で、ある時は善意のつもりで、ある時は何の気なしに、数限りなく差別をしています。

 それに気づいた時、さすがに私は苦悩しました。差別しないようにしていた私は、実は、一番差別をしていたのではないかと。それからは、”弱者”と言われる人々にどうしたら対等に付き合えるのか、手をかす事が本当にその人達の為になるのか・傍観者でいる事は罪であるかもしれないが、観察者でいる事は必要ではないかと思う様になりました。

 最初質問者さんの投稿を見て寒気が走りました。こんな人がこれから法学部に行って勉強して、弁護士になるの?と。でも、もしかしたら、中立に、冷静に考える事を第一義に考えているからなのか、とも思いました。

 思考の世界だけで問題は解決しないかもしれません。冷静を保つより、自身の感情が動くことを(善意にですよ。)止めない事が、そして、離れてみてないで、飛び込んで行く事が、答えを得られる近道になると思います。
 
>差別しないことに社会的メリットはあるのでしょうか?
 メリットがあるから、人は差別という事に敏感になるのでしょうか?全ての人間はメリットが無ければ行動しないのでしょうか?逆に、メリットに左右されない独自の考えで行動する事が”哲学”であり、”倫理”だと思います。 人が生きる事、生活する事に、体温を感じて下さい。総てはそこからです。
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単なる、弱者を見方につけようと企む政治勢力のプロパガンダです。

そうやって国家を分裂させようと企んでいるのです。

彼方は、ただその宣伝に洗脳されているだけではないでしょうか。

政治とは、権力奪取の闘争です。当然、差別は存在します。
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この春から大学で法学を学ばれるのですね。

おめでとうございます。

「差別」が人権の一内容であることはご存じですね。
そして、人権について、また、憲法について、多くの書物がでていることもご存じでしょう。
「なぜ?」という漠然とした問いかけも重要ですが、すでに、それを具体化し、自分で回答を探し求めるべき(そして探し求めることができる)段階に、あなたはいるのです。

さほど難しいことではないはずです。身近な図書館で、まず憲法の基本書を開いてみてください。できれば、歴史的経緯までさかのぼって解説しているものがよいでしょう。もし、人権の成立過程について述べている本があれば、そういうものにも手を伸ばしてみましょう。

「差別はいけない」というのは、実は「人を殺してはいけない」というほど古い概念ではありません。あとは自分で調べてみてください。
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No.5です。

もう少し詳しく書きますね。

まったく同じかどうかはわかりませんが、質問者さんの考えておられることは、私が十代の頃に考えていたことと、よく似ていると思います。

道徳的にも感情的にも、差別をしてはいけないとは思う。しかし、社会科学の問題として、論理的に差別がよくない理由を見つけたい。でなければ安心して、「差別はいけない」と主張できない。自分の感情論でものごとを判断しくない。親や教師から「これが正しいと」教わったからといって、それを鵜呑みにしたくない。一面的なものの見方はしたくない。そういうことじゃないでしょうか。

差別について、社会のメリットという観点から、徹底的に論理的に検証したいというのは、とても立派なことだと思います。ぜひ、徹底的に考えてください。

「自分が差別されたらいやだろう」という主張は、その個人の感情論にすぎません。それだけでは、社会は成り立ちません。ほとんどの人は「税金を納めるのはいやだ」と思っていますが、じゃあといって税金を集めなければ、社会は成り立ちません。

社会は常に利害関係や価値観のぶつかりあいです。「自分がされていやなことは相手にしない」というのは、自分と相手が、同じ価値観があって始めて成り立つことです。自分が平気なことでも、されるとイヤだという人は、いるでしょう。社会生活をしていくには、「自分がイヤなことはしない」で終わらずに、相手がイヤなことは何だろうと考え、相手がイヤなことはできるだけしない必要があります。特に、いまのように価値観が違う人が暮らしている国際化社会では、そうですね。

民主主義が絶対的な善であるように考えるのも、おかしなことです。民主主義は、基本的に利害が違う人同士の争いになり、強い立場の人たちが勝ちやすいのです。つまり、金や権力を持つ人が勝ちやすいのが民主主義です。

みんなが幸福になるために一番すぐれた社会形態は、絶対的に判断を間違わず、自分よりも常にみんなのことを考えてくれる独裁者が治める社会です。独裁者でないと、自分の利害しか主張しない人たちを押さえ切れませんから。

でも、実際にはそんな理想的な独裁者はいません。たまたま1人いたとしても、あとが続きません。独裁者が死んだ後に、不出来な息子があとをついだりしたら、大変です。だから、便宜的に民主義のほうがいいだろうということになっているだけです。理想的な指導者は望めないので、民主主義でがまんするしかありません。

では、民主主義では、多数派や金がある人たちが、好きに政治を動かしていいのでしょうか。それでは、弱い人が困ります。

多くの人は、自分が損することには敏感ですが、他人の損には鈍感です。でも、一部の想像力のある人たちは、他人のことを自分のように考えることができるので、「それではかわいそう」と思います。そして、もっと想像力を働かせれば、自分がいまは弱者でなくても、いつ弱者になるかわからないと気付きます。それに気付くと、弱者はどうでもいいという考え方は、自分にとっても損かもしれないとわかります。

そこで、「弱者の立場が弱いのは仕方ないにしても、ある程度のところまでは保護しておかないと、いざというときにヤバイ」ということになります。それをルール化したのが、基本的人権の尊重という考えです。

かなり自分勝手な人でも、よく考えれば、基本的人権を尊重する社会の方が、安全だと思えるでしょう。それで、多くの人が基本的人権の尊重という考え方に同意しているわけです。

私は社会科学を専門に勉強したわけじゃないので、これは私がさまざまな本を読んだりして独自に作り上げた考えです。でも、この結論に達して、私は安心して「差別はいけない」「人権は尊重するべき」と主張することができるようになりました。確固たる論理の裏付けがあるので、少々の反論には、びくともしません。

人間は本能的に差別をする生き物です。いくらでも自分に都合がいい理屈を並べ立てて、正当化しようとします。将来、弱者の立場に立って弁護活動をしたいのであれば、自分勝手な人の反論には、山ほどであうでしょう。そういうときに簡単に言い負かされないように、自分なりの考えをしっかりと持てるように、がんばってください。
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言葉が簡単すぎて色々な問題が含まれているのも問題ですね。


他の方の回答を見ても差別というと、問題、人種問題などの切り口から入る方が多いですね。
質問者の意図を考えると、それだけではないような気もします。
子供が3人いて、今年一人高校を卒業します。高校入試のときは学校の成績で受験する(半ば)学校を決められてしまう子もいたようです。
教師の立場とすれば、受験に失敗して悲しい思いをさせるよりも、と言うお題目はありますが、実は自分の実績を気にしているのがミエミエ。
これだってある意味、差別でしょう。
また、1人目と2人目では個性も違い、進路の差も出ました。平等に扱うべきなのでしょうが、結果的に大きな差が付いてしまいました。
しかしながら、こういった事は差別と考えない人が多いようです。私も悪い意味での差別とは思いませんが、一部の学校では結構あからさまな差別もあるようです。

差別と言っても、自分の意思、行動の結果に対するものは必要なものと考えます。努力、競争などの原動力になります。

本人がどうしようもない事を差別しするのは、他の人が言うとおり最低の行為です。
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