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この2つの違いについて教えてください。

A 回答 (3件)

 非常に簡単に違いを説明すると、


純粋理性は形而上学的テーマが主題であり、観念的考察である。それに対して実践理性は実際的な問題が主題となっており、行為の問題である。

 双方の共通点はアプリオリな総合判断はいかにして可能かという問題である。『純粋理性批判』ではそれが観念上可能であることを述べることにとどまるが、『実践理性批判』ではそれが実際的に、つまり、人間の行為として出現するときにはどのようなものかを論じた。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

お礼日時:2005/02/28 21:06

 たとえば「うさぎ」は「英語」では「rabbit」である。


 これは私たちが英語を学べば当然知っていることですね。
 しかし、ある人々は「うさぎ」を「fox」と言っているかもしれません。
 したがってこの「うさぎが rabbit である」という知識は
 絶対に正しいとは言えないわけです。
 こういう経験的知識で成り立っているものをここでは「理性」
 と分類します。もう一度言いますが、この「知性=理性」の方は
 絶対に正しいとは言えない部分が残ります。
 それなのに人はこうして「目に見えて」「経験できる」もの
 だけが正しいという態度に傾きがちです。
 カントの純粋理性批判とは、「経験主義」「目に見えたもの主義」の
 誤りを指摘したものです。
  
 ところがわれわれには経験によらない知性があります。
 たとえば 1+1=2 である。
 これは私たちが経験によって知ることも出来るが、その普遍的
 正しさは、すべての場合を検証しなくとも「正しい」と断言する
 ことが可能です。カントは経験的理性を批判すると同時に
 この「普遍的知性=神」の存在を示唆したものです。
 
 さて、「絶対に正しい」という内的直観に至ったならば
 人は揺るぎなく、「行為」をなすことが出来ます。
 特に社会変革などのこれまでの「常識」で固められた世界の
 変革には、社会的孤立や経済的不遇、政治的弾圧などのリスクが
 伴いますから、この「普遍的知性」に裏付けられた確信が
 なければとても出来るものではありません。
 それが「知識」が単に「物知り」に終わるのと、断固とした
 「行為」に高められるのとの違いです。
 
 この「行為」に高められるような絶対的な知性、これが
 カントの言う「定言命法」であり、「実践理性」です。
 
 
 
 
 
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

お礼日時:2005/02/28 21:07

同一理性の理論的使用と実践的使用とが区別され・・・


・・・同一理性がまったく異なる使用をもつということの理由は
これ以上説明することは出来ない。

本の解説に書いてありました、ご参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/27 20:48

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