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明治時代に国語統一がなされるまでは方言がバラバラだったので江戸時代参勤交代で東北の大名団と九州の、大名団が江戸に来ると、基本的にコミュニケーションがむつかしかったりしたそうです。
司馬遼太郎が、エッセイ「街道を行く」でちょこっと書いてましたが、
当然この時のコミュニケーションは当時の武士は学んでいた漢文による筆談と、あとは教養として当時は全国で人形浄瑠璃とか文楽が親しまれていたけれど、この人形浄瑠璃文楽の言葉を共通語にして会話していたとのこと。
ちなみに人形浄瑠璃文楽は上方芸能なので関西弁だそうです。
https://gamp.ameblo.jp/sakiju/entry-12565593518. …
そうしますと、当時は江戸の街中で江戸っ子の町人が話すときは当然江戸の言葉でしたけど、江戸城内などで参勤交代で上京してきた武士団や、大名が、世間話するときは漢文による筆談と関西弁でコミュニケーションしていたのでしょうか?

A 回答 (4件)

当時は方言じゃなくて外国語だもの。

徳川家は三河弁だし。
武家には武家言葉という職業的な業界標準語が存在し、
それが山手言葉となり江戸弁と分離し、山手言葉と薩長方言が混じって明治の国語統一となっていきます。
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其の為に、各藩には江戸屋敷(上、中、下)を持ち、


江戸勤番、常勤を置きました。
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大名は参勤交代で原則2年おきに江戸と領国にいた。


そして、正妻と世継ぎ、人質として江戸にいなければならなかった。
つまり、その後の大名は、子供のころから江戸言葉には慣れ親しんでいたので何の問題もない。

藩士も、江戸詰めの藩士は、原則として江戸に常駐しており、世襲していたものも多かったので江戸言葉はそれほど問題ない。

ちなみに、参勤交代は、可能な限り、参勤交代用の専門職をその時だけ雇うことで、藩士の領国と江戸の行き来を最小限に抑えていた。
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そうだね。


あなたが前文で書いてる。
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