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 生命の最古のものとしては、オーストラリアで発見された「シアノ・バクテリア」というのだそうです。さて、そ
もそも、生物学でどう定義しているかは度外視して、生命
というものを哲理として定義しするとすれば、どのように
定義すべきでしょうか。 生物学等の既存の学問を離れて
は、生命の定義は不能でしょうか。

A 回答 (15件中1~10件)

ネットワークトポロジーにも注目してみましょう。

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ちょっと私見というか、議論の感想を述べさせてください


どうも、生命と意識が混同しているように思います
将来、人工知能が開発されても、それは生命というのでしょうか?
意識体と生命体は違うと思います

生命の科学的定義は、以下のようだそうです
1外界および細胞内を明確に区別する単位膜系を有する。
2自己を複製する能力を有する。
3外界から物質を取り込み、それを代謝する系を有する。

私は生命の定義として、ホメオスタシス機能がなければならないと考えています
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私見ですが認識機能のあるもの全て。

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生命の定義は、仏教の考え方を参考として次のように定義できます。

その定義は「生命とは、苦しみから逃れようとして行動を行う存在」というものです。仏教の開祖ブッダは、人間には生、老、病、死の苦しみがあることに気づき、その苦しみから逃れようとして出家して、ついにその苦しみを克服して、「さとり」を得ることができました。
そして、「さとり」得たあと衆生を見渡したとき、すべての存在が仏になれる性質を有していることに驚いたとされています。その言葉は「一切衆生、悉有仏性」という仏教用語で表されています。この意味を考えてみると、一切の存在は「苦しみ」から逃れようと行動していることに気づかされるのです。私は、腹が減って苦しいから、飯を食うという行動をとります。あなたも同じではないでしょうか。そして、あなたがおなじであれば、サルであれ、魚であれ、アメーバーであれ生物全体は、腹が減って苦しいから餌を取るという行動を取るに違いないのです。
この関係は、ただ単に生物界に限らず、物質界にも適用出来るのです。それは、物質界においてはエネルギー準位が高い場合、それは「苦しみ」が高いのです。136億年前に宇宙はビックバンで創造されましたが、それ以来宇宙はエネルギーの高い状態から、低い状態に移行し続けてきました。これはエントロピー増大の法則であり、この法則を否定する現象は観測されていません。
このように、宇宙の創造から、各生物種、そしてわれわれ人間まで共通する法則が見られるのです。ブッダは生老病死の「苦しみ」を克服して、「さとり」を得ることが出来ました。しかし、我々凡人は腹が減った苦しみを、飯を食うということで「プチさとり」を日々行っているのです。ただその「プチさとり」はブッダに近づく第一歩なのです。
以上から、生命とは「存在自身」とも定義されるかもしれません。これは大胆な仮定ではありますが、宇宙は「苦しみ」の克服をめざして、すべての存在がブッダのように「さとり」を得ることを目的として創造されたとも言えるのです。
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私は専門家ではないので定義というほどのものではありませんが。

素朴に考えてみればこのようになると思います。
生命=必要=存在=必要とする存在の内部に生まれ出て、必要とする存在に向かう未来を有するもの。
生物の肉体は進化の過程で生き延び、そして子孫を残すために必要とする機能という形を積み重ねてきたものだと考えます。私の体のあらゆる機能という形。手の指、腕、足、心臓など髪の毛一本にいたるまで、必要とされる答えを有して存在する。そして、その小さな生命たちは相互関連を有する集積体です。そのすべてを同時に認識するものが魂なのだと考えています。すべては積み重ねの連続です。私の手の指も根源的な生命という考えで言えば同じものであり、私という生命の総体の内部に生まれ出た同じ生命と考えます。肉体とは物量であり魂とは相反する認識という存在で一対なのでしょう。それは生物のみならず必要とされ生まれ出てきた存在は自動車であれ、机であれ、すべては生命という形態を有するものなのだと考えます。
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私もNo.2さんのおっしゃるとおりだと思いますが、それに加えて、エントロピーの移動も関係している、と大学で学びました。


つまり、自分よりエントロピーの小さいものを取り入れ(食べる)、自らの体を成長(負のエントロピーを蓄え)また、負のエントロピーを増大させる(つまり、エネルギー消費)させることができるもの、ということでした。
このエントロピーについては、熱力学、統計力学、物理化学の教科書に説明されています。
これらの教科書は、理系大学図書館に置かれてあります。
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皆様の高級で思慮深いご回答に比べたら、つまらない回答になるので、本当は回答しない方がよかったとも思ってます



系(≒世界)に存在する部分系で意識(=精神)と定義されるもの
及び、意識が直接に制御対象とするもの(=肉体)をあわせたもの

この定義不完全ですね
どんどん補足してやってください

生物学における生物の定義と哲学における生命の定義はかなり異質に思えます
観点が根本から違うように思います
どなた様かが生物学も哲学から派生したから同じと仰ってましたが、
扱いが根底から違うと思います

生物学では生命として扱われないけど哲学で生命になるもの・・・霊、神
その逆・・・コアセルベイト、ウィルス、精子、ミトコンドリア(virusなどが意識がなかったら)など
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この回答へのお礼

「精子」というところで”はっ”としました。 目が覚めたような・・・・まだまだ、何もわかってなかった。
そんな気がしました。 有難うございます。

お礼日時:2005/03/22 23:25

>ところで「一なる大叡智者」とされる「一なる」という箇所が「森羅万象そのもの」と考えても間違いでは無いと思うのですが、どうなのでしょうか? やはり、私と類似の考え方も在り、大変嬉しく思いました。



こちらの方こそ、嬉しく思います。
ありがとうございます。

「一」といいますのは、
この大宇宙の生きとし生けるものの根源を意味し、
また生命全て同じところから生まれていることも意味し、
また生命の根源は他にはないことを意味し、
また絶大なる尊厳の中にある絶対者を意味しています。

そして、
森羅万象悉く、宇宙創造の大叡智者より発したる
「大愛」の波動の変化である、ということで、

喩えていえば、
森羅万象は、
僕達のレベルに合わせて、
スクリーンに上映されている「大愛」をテーマとした映画で、
(僕達地球人はこのスクリーン上に映写されるものしか感知できない。)
大叡智者はその映画プロデューサーである、
といえるのではないでしょうか?

僕達は、あまりにも映画に没入しているため、
自分が映画を見ていることさえ忘れている。
まして、映画のテーマも解らず、
映画プロデューサーが存在することなど想ってもみない。

と、いうようなことではないでしょうか!?

この回答への補足

 「大叡智者はその映画プロデューサーである」というこ
とであり、またその「映画プロデューサーを評価する観客
もまた大衆とうう「森羅万象」なのですね。 釈迦の説法
からは、このような解がでました。 これが、私の見解で
す。

補足日時:2005/03/06 19:43
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この回答へのお礼

大変面白く参考になりました。 有難うございました。

お礼日時:2005/03/06 19:43

こういうのがありました



参考URL:http://www.est.hi-ho.ne.jp/siawasesan/kokoro/rek …
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この回答へのお礼

参考サイトを紹介頂き有難うございました。

お礼日時:2005/03/05 20:35

僕達、地球人は、


(chikyuujinnさんもですね!同じ仲間ですね。)
三次元に展開される時間・空間の中で、その制約を受けて、
物質を認識の対象として生かされている意識的存在です。
三次元とは、
時間・空間と物質と想念波動とで構成される世界です。
僕達が経験する時空と共に存在するものの全ては、
三次元的認識の形式に過ぎず、
本質的な実在の姿とは異なるということです。
本質的な実在とは本当に存在し、不滅であるものをいいます。
この実在も波動であり、「宇宙意識」と定義します。
この宇宙意識に二つの力が在ります。
一つは積極的な作用をする力で「生命超意識」。
もう一つは消極的な作用をする力で「共同超意識」。
「超」というのは時間・空間の制約がないことを意味します。
心と物体はその根源において、
この共同超意識という共通の母体を有しています。
ですから、心の澄んだ人は、物の気持ちが判るそうです。
根源的に観ると、この大宇宙は「意識の海」といえそうです。
生命超意識は自ら振動し、想念を発します。
僕達は各々が人間という形態に宿れるまでに進化してきた、
生命超意識です。

生命超意識とは一なる大叡智者より発せられつつある、
時空を超越した永遠不滅の高次元波動です。
これが生命の根源です。
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この回答へのお礼

 エネルギーと波動による生命の実相把促の考え方は、大変面白く、実は私も類似の事柄を洞察しています。 釈迦の「悟り」と「方便品第二」中の「相=性=体=力=作=因=縁=果=報」を連想しました。 ところで「一なる大叡智者」とされる「一なる」という箇所が「森羅万象そのもの」と考えても間違いでは無いと思うのですが、どうなのでしょうか? やはり、私と類似の考え方も在り、大変嬉しく思いました。 有難うございます。

お礼日時:2005/03/05 20:48

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