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室町時代の将軍、足利家の正室は義満以降ほとんど公家である日野家から嫁いできていますが、何故公家としては家格の低い日野家からだったのでしょうか?
当時の将軍家は政治的にも絶大な権力を持っていたし、義満などは公家最高の地位である太政大臣にまで上り詰めているぐらいですから、御台所が日野家出では家格がつりあわなかったように思います。
何故、五摂家や宮家、あるいは幕臣として重要な地位にあった斯波、畠山、細川といった家から御台所をむかえなかったのでしょうか。

A 回答 (1件)

比較的非力な貴族から迎えることで、強大な外戚の出現を排除する狙いがあったとも言われていますが日野家は家格は低いながらも当時、所領集積や関の把握などによって経済的にもかなり大きな権力を持っていました



また北朝が持明院統だった頃より近侍していた日野家では、当時日野宣子が後光厳・後円融に仕えて二位の典侍となっており、宮廷の実力者であった為、朝廷の憶えもめでたく足利義満が公家社会に参入していく際に、宣子は、二条良基と並んで大きく寄与しました

ちなみに義満の後室・日野康子(業子の姪)の従姉妹・資子は時の後小松天皇の后です
康子は後小松帝の准母でもあります

経済力・朝廷での発言力に加え、その後は重子しかり富子しかり日野家出身の女性が、次の将軍を生んでいて、外戚の立場に立ち続けることができたから日野がやはり権勢を保ち続ける事になったと思います
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
はじめて知る事が多かったです。当時の日野家はとても大きな権力を持っていたのですね。

お礼日時:2005/03/20 21:03

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