プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

子供の頃はこの世界は自分のものだと思っていた。自分は主人公で周りはモブで何でも好きなように出来る特別な人間だと思っていた。

少し成長すると周りから天才と言われるようになった。その気になって自分は天才なんだと思っていた。

成人してから自分では絶対に勝てないと思わされるほど能力が高い人に出会った。その人の上には更に上がいて、そのまた上にも更に上がいることを知った。自分は平凡なのだと思い知らされた。

平凡であることを拒絶したい気持ちから周りに溶け込むことを拒んだ。他の人とは違う変わり者という立ち位置を取ろうとするようになった。

特別にはなれず、平凡を拒絶し、誰もいない狭間で生きるようになった。

特別では無いし、普通でも無い。この世界で一人に思えた。

それでも社会と繋がるときは普通を装った。一人の世界から達観して普通の世界を覗いていた。

普通の世界では自分は優秀な人間だった。特別では無く、平凡では無く、変わり者で、一人の世界に住み、優秀な人間だった。

普通の世界で生きながら一人の世界に住んでいた。やがて普通の世界への忌避感が強くなっていった。一人の世界から覗く普通の世界は、あまりに汚れていて、あまりに乱れていて、あまりに不合理で、あまりに理不尽で、あまりに不快だった。

自分だけがまともな人間に思える。
自分だけが清らかな人間に思える。
自分だけが人間に思える。

歳を取って思うことは、この世界は自分のものではなかったということ。主人公に成り得る特別な天才は主人公になることは無く、平凡な人間が平凡な人間を従えて主人公を気取っている。自分はその様子を覗いているモブの一人だ。自分が好きなように出来る範疇はあまりにも小さく、自由に見えて自由ではない。

人生とはトンネルのようなものだ。手足は伸ばせるが、進路は変えられない。時の壁に押されながら、トンネルをただ歩かされるだけ。時折日光が差し込んだり、照明が照らすことはあるが、暗くて細いトンネルを歩くことには変わりない。

どこまで続くのかな、トンネルを抜けたらどんな景色があるのかな、他の人のトンネルはもっと明るいのかな、こんなに足場が悪いのは自分だけなのかな、走ったら危ないかな、休もうかな。

人間とは、世界とは、人生とは。
そんなことを考えているとすべてを破壊したくなってくる。
頭がイカレているのだろうか。

私は特別では無く、平凡では無く、変わり者で、一人の世界に住み、優秀な人間だった。そしてイカレているかもしれない。

なぜ苦悩するのだろうか。
何に苦悩しているのだろうか。
ただただ苦しく、苦しい。

そんな時は風俗嬢の乳を揉みしだき、尻を引っ叩く。
それで発散できているかは分からないが、少なくとも紛らわせることが出来る。
私の人生の苦悩は、風俗嬢の尻に救われているのだ。

人間とは何なのか。
世界とは何なのか。
人生とは何なのか。
風俗嬢の尻とは何なのか。

分からない。
何もかもが分からない。
何を書いているのかも分からない。
分からない。

私は何者で、どうすればいいのか。
何を考え、どこへ向かえばいいのか。
金ならある。金しかない。
何がどうなっているのか何もかもが分からない。

何でもいいから教えてくれないか?

A 回答 (4件)

人生は一生勉強。


平凡なりに命を全うするしかない。
私は馬鹿だしブスだし、不器用で、ノロマ。
覚えも悪い。
良い人に巡り会えれば、良いが、
そうでないと、ボロカス言われるか、何も言われずに、仕事を減らされる。
本当惨めだよ。
今の環境は、まさに、地獄。
旦那も姑も、ボロカス言うし、小姑は、ただ居るだけ。文句は達者。
仕事してても、若い社員に人格否定されてね。
この間、あまりにも言われ、限界を超えましたよ。
で、一気に爆発しましたよ。
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何でも良いのか??



では、究極を授けます。

これこそが、究極の真理である。



【十界】

・地獄界・・・苦しみの境涯
・餓鬼界・・・欲深い境涯、どのような状況でも常に満たされない状態。
・畜生界・・・本能のおもむくままに生きる境涯。
⇒以上、三悪道
・修羅界・・・憎しみが強く、争いを好む境涯。
⇒以上、四悪種
・人 界・・・一般的な『人間』の境涯。
・天 界・・・喜びの境涯。
⇒以上、六道。六道輪廻の六道です。
・声聞界・・・悟りを求める、求道の境涯。
・縁覚界・・・自然現象などから、物事の真理を悟る境涯。
⇒声聞、縁覚二つの境涯を併せて『二乗』といいます。
・菩薩界・・・悟りの道を開いて、人々を救おうとする境涯。
・仏 界・・・究極の真理を悟った覚者の境涯。

この十種の境涯が、一つも欠けることなく人(衆生)の生命に具わっている事を『十界具足』と言います。
そして、何かの縁に触れる事によって、瞬間瞬間にその境涯が変化していくのです。
その生命の奥底にある十種の境涯が、意識や言葉、表情や態度や動作にそのまま表れてくるのです。
そしてそうした事が関係して、自身の生活環境や地域社会を形成しているのです。



【題 目】
『南無妙法蓮華経』とお題目を唱えましょう。
自分自身の命に向かい、深く深く浸みこむように唱えましょう。
御仏の大慈悲に包まれて、必ずや幸せに成ることができます。
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あなたは社会性が(平均よりも)乏しい人なんですよ。

自覚がおありでしょうけれども。

だから他人を許容することができないんだと思う。自分と違う感覚や考えの人間を自動的に否定するから。
社会性が乏しいと他人がどう捉えているかを把握するのが苦手になるので、他人の考えを「そういう考え方もありだよね」と受け入れられない。認知の歪みも大きくなるから、共感してくれる他人が余計に少数派になり、友人を作りにくくなります。
その結果孤独感を抱えるようになっているのに、客観視が苦手だからそういう自分を自覚するのではなく他人を「あいつら量産型の愚か者のくせに」と嘲笑するばかりなんですよね。

今のままだと中途半端なのが悩みを生んでいるように見受けられますので、
・他人を許容し、横並びの感覚を涵養するよう自分の考えを変える(自分はある意味では愚か者であると考えるよう努めるとか?斬新で面白いと思いますよ、それだけの勇気が持てるのならば)、
あるいは、
・グリゴリー・ペレルマン的に自分の能力頼みに、できるだけ他人と接触せずに済む生き方と生活を構築する、
どちらかではないでしょうか。


この世には発達障害と呼ばれる障害があります。名前はご存知でしょう。
社会性の欠如が生活や人生での障害の域になるとこの診断名がおります。グレーゾーンといいまして、発達障害と診断されるほどではないが性質は濃いとされる人々もいます。
念のため書きますが、私はあなたが発達障害であると言いたいわけではありません。私の興味はそこにはありません。

ただ、私は発達障碍者が書いたもの、他人が彼らについて書いたものを読むと、ご質問とかなり重なる記述がとても多いということを知っています。
だからもしかしたら、そういう本などを探してみると面白いかもしれないと思いました。

それにしても面白いですね。
社会性が欠けている人の多くは、他人を見下しがちです。「あいつらバカばっか」とほとんど全員が言うんですよね。自分の考えたことは正しい、であれば他人は間違っている、と自動的に考える。その視野の狭さを自覚せず、自分と考えが違うからあいつらは愚かだと決めつけているようなんですよ。
そして「大多数の人間は深く考えることもできない愚か者だから流行にながされて量産型になるしかない」と、少数派である自分を誇らしげに思っている。
他人と情報の共有はできるので会話ができると思っているようだけれども、本当は会話というものはできない。会話とは価値観が違うことを受容することが前提だから。
だから陰では「あいつ、まず否定から入るよなー」と言われがち。

でもそうやって他人を見下している間に、その大勢の人々が懊悩しながらも友人関係を広げ、人生のステージを着実に歩み、恋愛し、失恋し、結婚し、子どもをもうけ、ノーベル賞を取らないまでも次の世代にきちんと残せるものを残し繋がることで、人生の満足感を得て幕間を閉じていく。
その間に、社会性の低い人々は他人と交わらず、交われず、「あいつらバカばっか」と不平不満をこぼしながら他人を見下し、他人に攻撃的にあたりながら「私だけが清廉潔白で美しい」とうぬぼれ、結婚する者があっても高確率で結婚生活に破れるか子どもから縁を切られるあるいは家族の心をすり潰しているだけと破綻しており、仕事では一定率は有能で高い業績を残す者もいるが私生活で近しい者は極めて少なく、人生の終盤に至っても不平不満、不平不満そればかり。

「愚か」とはどういうことかを考えさせられて、興味深いとは思いませんか?

質問者さんの解決策も、どっちかだと思いますよ。
中途半端に他人に対する執着を持ちながら他人を受容せず否定ばかりしている(ただしおそらくその自覚がない)、そのために他人と交わり切れないのがあなたの苦悩の根源のように見えますね。

他人に対する執着を完全に捨て自分の世界、つまりあなただけしかいない世界を安住の地とするか、
今までの自分を捨て、自分が社会性という観点からは無能だという自覚をもって他人がいる世界に入っていくかです。他人と物理的に接触していてもそれは他人と交わったことにはならないんですよ。

(ここであなたが私への反論を山ほど思いついているようなら、それがあなたの弱点だということですよ。)
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この回答へのお礼

私は昔から相手の言動の矛盾や不合理性や非論理性などが気になってしまいます。それを一々指摘しない方が良い事も知っているので、その矛盾、不合理、非論理が積み重なっていくんですね。結果として周りにいる人間が「こいつ頭悪いんだろうな」「馬鹿だから仕方ない」「まともに相手しない方が良いな」と思う人間ばかりになります。

また、書類や言動に矛盾は無いか、何かを隠そうとしていたり強調しようとしている事は無いか、視線や表情や立ち振る舞いに不自然さは無いか、などの観察が業務内容の一部になる仕事をしていました。そのため、私生活においても他人の弱点、コンプレックス、隠したいこと、気にしていること等がなんとなく把握できてしまい、それが他人が下に見えてしまう一因になっているように思います。

しかし、今思えば、昔から他人を分析したり性質分けして分類したりしていたと思います。無意識的に。自然に。

要するに、「この人間に何かおかしなところは無いか」という視点で人を見ているのです。おそらく物心付いた頃からずっと。青色を見て青色だと認識するように、熱湯を熱いと認識するように、人を見ればその人の変なところや劣っているところや嫌なところが認識されてしまう。

そのため、自然に他人を下に見てしまうのです。下に見たくなくても下に見えていくのです。それが社会性に影響を与えていること、普通の世界に馴染み切れない原因になっていることは理解しています。

でも、自分だけがまともな人間に思え、自分だけが清らかな人間に思え、自分だけが人間に思えるのだからどうしようもない。

あなたがある日目覚めると動物園の猿山の檻の中にいて、見た目も猿になっていた。あなたは猿としてその環境に溶け込む自信がありますか?人間としての思考、習慣、視点で周りの猿を見て、自然に周りの猿を見下すはずです。

お礼日時:2024/05/10 16:48

>あなたがある日目覚めると動物園の猿山の檻の中にいて、見た目も猿になっていた。

あなたは猿としてその環境に溶け込む自信がありますか?人間としての思考、習慣、視点で周りの猿を見て、自然に周りの猿を見下すはずです。

こちらから。

何らかの比喩にしても、かなりお粗末です。荒唐無稽な暴論でたとえ話になっていません。
私がある日いきなり、今の人間であるという自己認識と知識や経験を持ったままサルになれば、かなり混乱するでしょう。そして「サルとして環境に溶け込めるかどうか」は私が優秀かどうかとは関係がありません。

たとえ種の違いがあるために周りのサルたちが、私は理解できる高等数学やらを理解できなくとも、わたしはサルたちを見下しません。なぜならサルたちは私よりもはるかにまともにサルとして生きていけるのですから、私はある意味で私より賢いと感じるからです。(私はサルとして上手く振る舞えないため、早晩群れの最下位に落とされるでしょうね。野性下ならから追放され、満足に飲食物を得られず飢え死にするでしょう。)
なぜ「私が周囲のサル(比喩)を見下すはず」と誤解されましたか?

私が指摘したいのは、あなたは極めて感情的な人間であり、そのあなたの感情が生む「あなた自身の不合理性や非論理性に対して無自覚である」という点です。
他人の不合理性や非論理性やらに敏感だと言いながら、あなたは自分のそれらには鈍感です。
そしてあなたが他人のそうした点に気づくかどうかではなく、それらをあなたが「他人を許容しない」材料に使ってしまう性質、それが問題だと言っています。
他人の言動の矛盾や不合理性や非論理性がなんだというのですか?
突き詰めれば、それは矛盾でも不合理性でも非論理性でもなんでもなく、あなたが「他人の機微を理解しないために言動の矛盾や不合理性や非論理性に感じているだけ」ではないか?と思います。
私が知る限り、社会性が低い人間の特徴だからです。
そういう人は、極端な話、朝に「夕ご飯にアジフライが食べたい気分だ」と言っていた人間が夕方には「夕ご飯にアジフライなんか食べたくない」と言い出すだけで、矛盾している!だとか言い出すんですよね。

人間は様々です。
「その人の中ではつじつまが合っている」のであれば、それは言動の矛盾や不合理性や非論理性だとか言って非難するほどではないと理解できる場合も多々あります。
問題は、社会性が不足している人々は「その人の中では」そうだということを理解しづらい、理解できない、という点です。
だから周囲の人間を非論理的だとか言い出す場合も多いのです。

あなたの周囲には、仕事の業績などあなたが価値を見出す分野であなたより劣っていたとしても、別の視点では「ある意味であなたより賢い」人間がいて、そして確実にあなたのことを「こいつは愚か」と思っているはずです。幼少期のあなたがそうであるように、「いちいち指摘しないほうが〈その人の立ち位置として〉良いことも知っている」ために口に出さないだけです。
人間はそういうものです。完璧にすべての分野で聡明な人間はめったにいるものではありません。アインシュタインですら対人スキルではトップクラスのキャバ嬢に劣ります。
そして、多くの人間はそういう「他人は他人の物差しがある」「自分がこいつバカだと思う相手が、全ての面で自分より下とは限らない」「いろんな価値観がある」ということを飲みこみ、受け入れて生きているのです。それができるからこそ、あなたが感じている苦悩とやらを感じずに生きていられるのです。
であれば、何らかの着実がない苦悩に長年振り回されているあなたは本当に賢く、周囲の人間を見下せる存在なのでしょうか。

社会性が低いと書きましたが、そういう人間は自分軸でしか物を見られないのです。
周囲の人間がサルがごとき低能だから自然と見下してしまうのではなく、あなたは周囲の人間を見下すべく自分が勝てる物差しでのみ他人を見ているのです。
逆です。

私が知る限り、これは社会性が乏しい人間に共通しやすい考え方です。
たとえば学校で自分が成績が良い、そうなると得意になって成績が自分以下の人間を見下すのです。その相手がたとえば社会性が乏しい人よりも心優しいといったような数字になりづらい要素は目に入りません。
自分より成績が上の人間は他の荒探しをします。「あいつは陰キャチー牛だから勉強ができようが自分より下」だとかです。
完璧な人間はいないのに、自分の欠点は目を向けず、他人を見下す感情にばかり振り回される。

だからNo.3のような回答を書いたのに、お礼を拝見する限り、まったく私の意図するところが伝わっていないようですね。
回答に「今までの自分を捨て、自分が社会性という観点からは無能だという自覚をもって他人がいる世界に入っていくか」と書いたのも同じ理由からです。
あなたは、ある意味では愚かなんですよ。
そして、そんなふうに自分を再定義して生きてみるのも、目新しく、楽しい心境に繋がるかもしれませんよ。
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この回答へのお礼

>「サルとして環境に溶け込めるかどうか」は私が優秀かどうかとは関係がありません。

優秀かどうかの話などしていません。

>私は理解できる高等数学やらを理解できなくとも、わたしはサルたちを見下しません。

あなたが自分は猿であるという強い自覚を持っていない限り、完全に対等な存在と見ることは不可能です。そして、人間だった記憶、知識、経験がある限り猿だと思い込むことも不可能です。対等でも無く上でも無いなら下に見ているということです。そういった無自覚の見下しの中で私は生きています。別に蔑んでいるわけではありません。ある瞬間に周りが下に見えている自分に気付くのです。

別の例えをしましょうか。
ある日あなたはタイムスリップして小学1年生になっていました。クラスメイトはすぐ泣き出したり感情的に怒ったり幼稚な話をしています。あなたは「小学1年生なら仕方ない。そういうものだろう」という視線でクラスメイトを見るでしょう。それは下に見ているということです。対等に見ることなど出来ないのです。下に見ようとしているのではなく、下なのだからその状態を受け入れることしかできません。「見下す」というのは状態の受容であり、「蔑む」こととは違います。あなたはそこを勘違いしているようです。

>私が知る限り、社会性が低い人間の特徴だからです。そういう人は、極端な話、朝に「夕ご飯にアジフライが食べたい気分だ」と言っていた人間が夕方には「夕ご飯にアジフライなんか食べたくない」と言い出すだけで、矛盾している!だとか言い出すんですよね。

あなたの勝手なイメージ、または思い込み、若しくは一例でしかなく、それを押し付けられても困ります。

>周囲の人間がサルがごとき低能だから自然と見下してしまうのではなく、あなたは周囲の人間を見下すべく自分が勝てる物差しでのみ他人を見ているのです。

それもあなたの勝手な思い込みであり、断言まで出来る要素が文章にあるとも思えないので、症状の深刻さが窺えます。

誰もが無自覚に自分の物差しを通して世界を見ています。価値観、経験、知識、そういったものがそうさせるのです。思考する生き物であれば避けようがない現象です。また、私はその時々で勝てる物差しを選ぶこともありません。勝てない場合には勝てない事実を受け入れ、自分よりも上の存在を認めていることを質問文を読めば理解できるはずです。

お礼日時:2024/05/10 19:28

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