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天保の大飢饉について。
起こった背景、要因、幕府や国際機関の対応などを教えてください。

A 回答 (1件)

二宮尊徳の伝記「報徳記」よりかいつまんで・・・



 天保4年初夏しとしとと雨がやまず、二宮金次郎はナスを食べて秋ナスの味を感じ自分の領地下野の桜町3つの村に畠1反歩貢税をゆるし稗を作らせた。その年凶作(天保の大飢饉)となり飢民枚挙すべからず。この時3つの村は稗を食べて飢えなかった。
(その49年前、天明4年の飢饉のあと天明6年のひどい飢饉があったのを考えて) それから3年間同じように稗をつくらせた。3年で3村で稗数千石の備えができた。
 天保7年、夏も重ね着してくらすほど寒かった。ひどい凶作で飢え死にした人が道路に横たわった。桜町のみ豊かに食べて翌年の仕事の準備など充分にして繁栄の基礎をきずいた。

 駿河・伊豆・相模の小田原藩も天保7年は飢えた。小田原侯は死の床についていたが、二宮金次郎に飢民救済を頼んだ。即、二宮は(天保8年2月)千両の金を貰いうけて夜を日についで小田原にはいった。数日にわたって差し当たっての金を飢民に配って回った。(この時大阪では大塩平八郎が乱をおこした。)天保8年正月から麦の実る五月までひとりの離散死亡に至れるものなく豊かに食べさせた。領民は感謝し、この時貸した粟をひとりの不納なく5年で返済完了したという。
 
 この時の話、小田原藩のある大夫が二宮に問うた。「この飢饉にどうやって救うことができるのですか。」「礼記に書いてあるとおり国は9年の蓄えがないと不足、6年の蓄えがないと急、3年の蓄えがないと国ではないとする。予算どおりに収入の4分の1は天災・人災に備えるのが大夫の仕事でしょう。平年奢りに長じて米財を費やすから凶年に民を飢えさせることになる。役人が上役から順に食を断って死ねば、領民は互いに融通し山の草の根を掘ってでも国中生き延びようと努力する。1年の凶作で餓死者が出るのはパニックにほかならない。責任を感じてまずあなたが餓死しなさい、きっとパニックにはならずに一人の餓死者も出ないでしょう。」冷や汗をかきながら「そのとおりです。」
・・・・・ご参考まで。
 
 江戸時代は地方分権でした。国際機関はありませんでした。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。
これで立派なレポートが書けそうです。
本当にありがとうございました。

お礼日時:-0001/11/30 00:00

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