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土佐日記に、「それの年の十二月の二十日あまり一日の戌の時に、門出す。」という文がありますよね?
そこで質問なのですが、なぜ紀貫之はこんな遅い時間に出発したのか教えていただきたいのです。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

なぜでしょうね。

なんだかんだ別れを惜しんでいたら、夜が更けてしまったようですが。って続いてませんでした?

まあ、年末の戌の刻であれば、まだ午後7時くらいではないでしょうか。(日没が酉の刻として)

この回答への補足

「この時間は旅に出るにしては遅い。」と先生が言ってましたw
参考書を読み漁り、ネットで検索しましたが、答えにあたるものが見つかりませんでした。ホントに、何なんでしょうね。気になって眠れませんよ。
回答ありがとうございました。

補足日時:2005/10/18 20:56
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 国司の任期は当時四年で、例年正月に除目があり任命されます。

紀貫之は930年1月に土佐守になっていますから、本来任期は934年(土佐日記冒頭の年)12月末まで。つまりまじめにつとめればこの時期にしか帰れないわけです。
 もっとも当時の国司なんかはいい加減ですから、任命後しばらくしてやってきて後任がきまったらはやめに帰るというのはよくあることでした。貫之も本来ならもうすこし早く帰れたみたいなのですが、前段で次の国司が来るのが遅くて(このせいで任期が切れたのになかなか帰れない国司がわりとたくさんいた)解由状がなかなかもらえず出発が遅れた、と書いています。
 後、日付や時刻は出立に縁起のいい日、時を選んでこうなった、ということも、当時の貴族の風習として十分考えられます。
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この回答へのお礼

・次の国司が来るのが遅れた
・演技のいい時刻を選んだ
のどちらかということですね。

ありがとうございました、とても助かりました!

お礼日時:2005/10/19 17:36

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