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 先日、図書館から借りてきた小悦の中に、

『さすがはロシア貴族だけあって、貴族の中で公用語となっているフランス語の発音は完璧だった』

 という記述を見つけました。

 ロシア貴族がフランス語を半ば公用語としていたのは前から知っていましたから、普通に読み飛ばしかけたのですが、ふと何故フランス語名のだろう、という疑問が湧いてきました。
 自分の稚拙な知識の中では、ロシアとフランスの関係など、ナポレオンが攻め入ったぐらいしかなく、その理由がまったくわかりません。
 きちんと自国の言葉もあり、負けてその国の属国となったわけでもないのに、攻め入ってきた国の言葉など使いたがるものなのでしょうか(もっとも、その前からなのかもしれませんが)。

 一応調べてみましたが、そのことについて書いてある本でも、ただフランス語を使用していたという事実のみの記述で、どういった経緯で、いつ頃から、ということについて書いた資料はありませんでした。

 そこで質問です。なぜ、ロシア貴族はいつ頃から、いかなる理由でフランス語を使うようになったのか?
 素朴な疑問なので急いではいませんが、詳しい人がいたら教えてください。
 

A 回答 (2件)

帝政ロシアでフランス語が宮廷語とされたのは、ピュートル大帝(1689即位)の西欧化政策以来のことです。


当時のロシアは「文明から外れた野蛮な国」であり、たかだか「新興国」に過ぎません。それに対しフランスは「ヨーロッパ文明の中心」であり、「ヨーロッパ最強国」だったのです。
いわば、日本の文明開化に相当する行為として、「ヨーロッパ」の文物を取り入れていたのです。

ところで、18世紀はちょうどターニングポイントです。
18世紀までのフランスは先述のようにヨーロッパ最強国であり、ヨーロッパ外交の公用語はフランス語でしたし、ロシアに限らずヨーロッパ各国の貴族にとってフランス語はひとつの教養でした。それがこの世紀の、第二次英仏百年戦争の敗北、フランス革命による疲弊と、19世紀にはイギリスにその地位を奪われていくのです。
一方のロシアは、18世紀初頭の北方戦争で当時の大国スウェーデンに勝利し、ようやく北方の覇者として名乗りをあげたばかりです。そして18世紀のヨーロッパの勢力均衡をめぐる戦争に介入することにより、この世紀にようやく列強としての地位を固めるのです。

なお、19世紀初頭のナポレオン戦争もこの関連で重要です。
というのも「国民国家」「国語」といったナショナリズムを定着させたのがナポレオン戦争だからです。それまでの伝統的なヨーロッパ貴族にとっては「フランス」とか「ロシア」という国家より「ハプスブルク」とか「ホーエンツォレルン」とかの一族のほうが重要だったのです。したがって、他国の言語を受け入れることにはそれほど抵抗はなかったのです。
トルストイの「戦争と平和」でも、ナポレオン戦争の中、実際よくフランス語で話しているロシア貴族たちが、国家というものを意識するようになるさまが描かれています。
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この回答へのお礼

 分かりやすい回答で大変ありがたいです。
 ロシアに限らず、当時のヨーロッパではフランス語が現在の英語のような地位を得ていたわけだったんですか。
 いまでは、国際舞台ではフランス語はそれほど重要な言語じゃありませんから、ピンとは来ませんが、それも歴史の流れでしょうね。
 それから、当時はそれほど国家意識が無かったんですか。そういえば、似たようなことを聞いたことはありますが、すっかり忘れていてまったく結びつきませんでした。
 まだまだ自分も勉強が足りませんね。ありがとうございました。

お礼日時:2001/12/04 18:41

 


  詳細な経緯は知りませんが、間接的に、どうしてなのかという理由と、何時頃からというのは出てきます。一応、以下のURLのわたしのナポレオンとフランス文化についての文書を、参考として挙げますので、この回答を読んだ後、見に行ってください。
 
  まず、ロシアは、西欧の国ではないということが一つのポイントです。現在でもロシアと西欧のあいだには距離があり、欧米ロシアという風に並びます。西欧とは異なる文化あるいは異なる文明に属したのがロシアで、その結果、西欧と同じキリスト教文化国家であるとはいえ、ロシアのキリスト教は、15世紀、コンスタンティノープル(現イスタンブール)がイスラム勢力によって陥落し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が滅びた時、ロシアの大帝イワン三世(この時は、事実上モスクワ大公)が東ローマ帝国の後継者を任じ、ビザンティン・ギリシア正教を受け継いで、ロシア正教の首都総大司教座をギリシア正教の総本山と名乗ったことより、ヴァティカン教皇庁を最高権威と認める西方キリスト教とは異なる東方キリスト教なのです。首都総大司教というのは、ローマ教皇の格が実はそうで、ロシアに、首都総大司教座があるということは、西欧の国々とは異なり、ヴァティカンの宗教的支配を受けないということなのです。
 
  また西欧は、イスラム勢力とのあいだに緊張関係を持ち、イスラムの脅威のもと存在していたのですが、ロシアは、イスラムよりもタタール人(モンゴルの末裔)勢力に長いあいだ蹂躙され続け、15世紀にようやく、モスクワ大公国が自立するのですが、なお、タタールの侵攻をしばしば受けて、強大な支配者の権力を必要とし、16世紀半ばから後半にかけての雷帝イワン四世がタタールを粉砕し、国内を恐怖政治で統制し、スラヴ諸国・諸領域を統合し、ハンザ同盟に対抗して北海へと開く領土を求め、こうしてロシア帝国を築いたのです。
 
  イワン四世の治世においては、ロシアの貴族は、皇帝権力に反抗する力を持った、スラヴの大領主たちでありイワンは、これら反抗する大領主貴族を粛正して、帝国の基盤を築きます。イワン四世は、何人虐殺したのか、数が知れないといえるほどの貴族や人民を殺しました。独裁権力の大虐殺による強権支配で、ロシア帝国の基盤が固まったのです。これが16世紀後半です。
  
  西欧では、16世紀は、イスラム勢力を遂に打破した世紀で、中世は終わり、近世国家が築かれ、ドイツはなお領邦国家乱立状態であっても、スペイン、ポルトガルが、大航海時代をイタリア人の地中海貿易に続いて切り開き、新大陸貿易から、インド、中国を初めとする、東アジア貿易を開始した世紀です(前世紀からの継続で、ますます活発になったと言うことです)。また、フランス、イングランド、オランダが、新しい世界貿易に加わる西欧の強国として擡頭した時代です。これらのなかで、フランスが、優雅で格調高い宮廷文化と貴族サロン文化を築くことになるのは、参照文書でも述べています。
  
  15世紀までの中世西欧では、西欧世界の教養語・共通語は、ラテン語でした。西欧中世の知識人の条件はラテン語が理解できることであり、ルターが聖書のドイツ語全訳版を翻訳作成するまでは、西欧の聖書は、ラテン語の「ヴルガタ聖書」であり、聖書が読めるということは、ラテン語ができたということに他ありません。また、ラテン語ができる者にしか、聖書を読むことはできなかったのです。
  
  しかし、西欧世界の共通語・教養語であったラテン語は、16世紀の宗教改革の躍動もあいまって、共通語としての地位を次第に失って行きます。17世紀半ばのオランダ生まれの哲学者スピノーザは、主著『エティカ』をラテン語で書きましたが、同じ頃のスピノーザのライヴァルとも言える、フランスの哲学者ルネ・デカルトは、その『方法序説』をフランス語とラテン語の二つの言語で書きました。一般に、この書物は、フランス語版で知られますが、有名な Cogito ergo sum. というのは、ラテン語で、ラテン語版に記されているもののはずです。デカルトは最初フランス語で書き、その後、共通語論文として、ラテン語版を書いたのだと記憶していますが、いずれにせよ、学術論文はラテン語で、という知識人の一般常識は崩れて来ており、自国語で学術論文を書く知識人もかなり増えて来たのです。
  
  ロシアでは、雷帝イワンの死後、後継者をめぐり内乱が起こりますが、結果的に、ロマノフ王朝という家系が皇帝家として成立します。ロマノフ朝のロシア帝国では、貴族は皇帝に臣従するもので、皇帝権力に反抗するだけの力を持った大領主貴族は、もはや存在しなくなりました。こうして、ロシアにおいても「宮廷貴族」というものが成立し始めます。それはまた、「宮廷文化・宮廷社交界」がようやく成立する出発点でもあるのです。
  
  ロシアはしかし、大量の農奴を支配する領主貴族と独裁皇帝の支配する帝国で、封建制の古い段階にあり、農業国としても遅れていたということは事実です。ロシアの寒冷の地では、豊饒な土壌があっても、豊かな収穫はなかなかに困難であり、色々な意味で、先進技術の導入が必要とされたのです。それは、国家統治の技術から始まり、軍備や軍制度、軍事技術、そして農業技術、通商技術、海運・造船技術、一般的な冶金や建築、道具製造の技術なども必要とされたのです。
  
  ロシアのこの後進性を痛感していたのが、17世紀から18世紀にかけての大帝ピョートル一世で、彼は、皇帝となってからも、西欧に実学の修得にでかけ、みずから製造工場や造船所に行き、西欧の進んだ技術を習得し、ロシアに導入すると共に、ロシアの文化を後進や野蛮から西欧風に高めようと、西欧の宮廷の慣習を、ロシア宮廷に導入します。おそらく、というか、記憶では、この時、西欧式の宮廷マナーや儀礼がロシアに入って来たのであり、フランス語が、宮廷人の話す言葉として、導入されたのでしょう。
  
  フランスで革命が勃発した時、ロシアの支配者は、すでに年老いた啓蒙君主イェカテリーナ二世女帝でしたが、彼女は、ドイツの小国の公女から、ロシア皇太子に嫁ぎ、母国語はドイツ語で、ロシア語は、後に習得した言語です。イェカテリーナが、ロシア皇太子妃としてロシア宮廷に入った時、彼女は、フランス語で会話したのだとも思えます。ドイツの領邦国家の公女として、フランス語とラテン語が、おそらく子供の頃からの基本教養として学んでいたと言えるからです。彼女は、18世紀半ば、皇帝となった夫と戦い、夫を追放して、ロシア女帝の地位に就きますが、この時には、ロシア宮廷、そしてロシア上流貴族のあいだでは、フランス語を習得することが、基本教養となっており、貴族の子弟は、子供時代からフランス語をフランス人家庭教師から学び、成人した頃には、流暢なフランス語が話せるようになっていたのでしょう。
  
  イェカテリーナの死の5年後、19世紀の最初の年にロシア皇帝になったのが、アレクサンドル一世で、ナポレオンの侵攻と対峙したのは彼であり、彼の治世に、ナポレオンのモスクワ遠征は起こり、レフ・トルストイの『戦争と平和』は、この時代を活写したものとも言えます。
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=177627
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この回答へのお礼

 大変詳しく説明いただき、ありがとうございます。質問のみならず、ロシアの歴史まで、簡潔に分かりやすいです。
 ロシア正教会は、普通のキリスト教会とは違うんですね。それまでは単にキリストの一宗派とばかり思ってたので驚きました。
 それにしても、ロシアもなかなか凄まじい歴史を刻んでいるのですね。それまではあまり興味がありませんでしたが、この回答をきっかけに興味が湧いてきました。

お礼日時:2001/12/04 18:48

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