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江戸時代、享保期から五公五民の税率になったようですが、それは幕末までずっと、五公五民だったのでしょうか?

A 回答 (2件)

年貢率は藩によって六公四民という場合や七公三民という場合もありそれぞれ異なっていましたし、五公五民という年貢率が一般的であったことはありません。


また、この年貢率というのはあくまでも検地高に対しての年貢であり実際の収穫高に対する年貢はもっと低く、また時代が下がるにつれて下がっていっています。
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はっきりした答えはありません。

藩毎に違っていますし、地方の天領は年貢の徴収が出来ず放置されていました。有名なのは庄内南部の天領で、実質年貢ゼロだったのですが、庄内藩の転封問題が起きた後(転封は中止となった)、そのお詫びとして幕府が庄内南部の天領を庄内藩に組み入れることになりました。いままで年貢ゼロだったのに明らかに徴税可能な藩の領地になるという事で一揆が起きています。会津や和歌山は酷かったと言われており、会津降伏後に新政府が進駐したら領民の体型が異様に小さかったと報告され、米の配給を行う政策が行われています。また、会津の転封予定先であった猪苗代では、会津の地獄統治を知っていましたので、転封反対運動が起きています。
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