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http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=414224
この中で、現職の高校英語教師だという方が、「日本の高校生用の受験文法書とは距離をおくことをおすすめします。あれらの本のほとんどに古い、あるいは間違った英語が色々と載っています。」と仰っています。こういう話はよく耳にします。

受験英語が現代に生きているのは、主に、旧国立大学を筆頭に、大学入試に使われ続けているの原因のようですが、よく考えるととても不思議です。(参考質問:日本の英語の元締めは文部科学省?)

なぜ、本当の英語とは似て非なるもの、今では使われない古い英語、間違った文章が、「英語を知っているはずの大学教授」によって出題され続けたのでしょうか?

ネイティブから「そんな英語は今時使わないよ。(笑)」「それは間違い」と一蹴されるようなものが、なぜ、「恥ずかしげもなく」使えるのでしょうか?

大学の入試を解き、分析、講評している予備校とその講師もなぜ、その間違いをしてしないのでしょう。本当の英語を知っているなら、間違いに気づくはずです。
間違い英語を堂々と高校生にとって人生の一大事である大学入試に使っている変な大学を「こんな大学で英語を習うのは自殺行為」となぜ生徒に指導しないのでしょう?

英語をよく知らない?大学教授や受験英語指導書を山ほど書いている予備校講師は本当に「英語」を知っているのでしょうか?

おかしな英語の出所は大学入試とそれに合わせた指導をしている高校・予備校(受験産業)が震源地のようですが、英語を良く知らない(裸の王様)のは、恥ずかしくないのでしょうか?

あまりによくわからない現象なので、皆さんのご意見をお聞きしたいと思います。
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

質問の趣旨とは少しずれるかもしれませんが、英語を止めていっそのことラテン語でも教えたらどうかと思うことがあります。

英語とラテン語の違いは死んでいるか生きているかです。英語のような生きている言語は会話では大学の英語講師よりも会話が出来る学生というのも少なくないんです。これじゃあ、面目が潰れますよね。
大学入試なんですが、個人の英語の能力というのはマークシートでなんか分からないんですよ。極端に言えば、英語も日本語も通じない環境で どれだけ自分の意思を伝えられるか?私はこれこそがコミュニケーション能力を測る最も適切な方法だと思います。でも、こんな破天荒な試験はできないでしょう。

この回答への補足

質問文の訂正です。
大学の入試を解き、分析、講評している予備校とその講師もなぜ、その間違いを「指摘」しないのでしょう。

もう少し疑問を述べると、
私が英語を習ったのは70年代です。当時はニュースといえばBBCが絶対的権威で、英語教育も日本人の意識が、英国英語から米国英語に切り替わって、そう時間が経っていませんでした。そういう時代だったので、英国英語と米国英語が混在していても仕方がないと私も思っていましたし、海外旅行者の数からもわかるように、一般人で英語が堪能な人も少ないのが当然で、文法の間違いを指摘するなど考えられない時代でした。それが今も続いていたとは驚異的としか思えません。

補足日時:2006/01/16 12:49
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ラテンが出来ても、歴史や書籍の研究、せいぜいヴァチカンでしか活用できないかも知れませんね。

ところで、フランス語を他人に教えるとき、間違っているとわかっているものをわざわざ教えますか?
このサイトでも、回答が間違っていれば、誰かが正解を投稿しますよね。当たり前だと思うんですよね。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/16 13:03

英語講師や大学教授の中には、その違いを知っている人が多いと思いますよ。


大学受験などの方式を変えない限り、このような矛盾は続くでしょう。
私も英語を子供に教えていた事がありましたが、自分が「この表現、最近使うよなぁ」と思っても、答えは間違いなので、この表現は間違いだよ、と教えなければいけません。
NO1さんもおっしゃっていますが、英語は今現在使われていて、生きているものです。変化に伴なって名詞なのに動詞のように使われるのが当たり前になっても、「名詞」は「名詞」なのです。大学受験ではこれを動詞と考えたら「X」をもらいますよね。で、いくら「だって動詞として使ってるの聞いた事ある」と言っても通じません。それが通じたら試験自体が成り立たなくなってしまいます。
そうならないように、教師は大学受験を考慮して教える必要があるのではないですか?
私も常々変だなぁ~と思ってきましたが、こればっかりはこの国の英語教育とそのための受験の風習が変わらない限り、改善は先延ばしになりそうですよね。

この回答への補足

不思議ですよね。先生方が読んでいた英語研究の雑誌や研究発表は何をやっていたのでしょう?
毎月毎月、何十年も発行されていた雑誌は、受験英語の改善に何の貢献もしなかったのでしょうか?
文法を研究していた人たちは、研究会、学会?に所属していたはずなのに何をしていたのでしょう。本当に不思議です。内輪でよいしょし合っていただけなのですかねぇ。

補足日時:2006/01/16 13:08
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この回答へのお礼

>英語講師や大学教授の中には、その違いを知っている人が多いと思いますよ。

まぁ、そうでしょうね。そうでなければおかしいですよね。でも、時々、こういうことを考えるのですが、大学では院生でも英語で論文を書かなければなりませんよね。そういう時に、自校の英語科の教授や講師にチェックしてもらう人はいるのだろうかと。仕事の少ない講師にはいいアルバイトになると思うんですけど。受験英語を使っている人には、誰もチェックを頼まない・・・、現状がそうなのかもと・・・

>受験の風習が変わらない限り、改善は先延ばしになりそうですよね。

私は、「入試の間違いさがし」がブームになれば数年で改善すると思います。「英検」もTOEICにとられたお客さんを取り返すためにいろいろ考えるようになったように。
私はそんな英語力がないので出来ないのが残念ですが、どこかで誰かがやらないかと期待することにします。本一冊で世の中がころっと変わったことが何度もありますから。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/16 13:27

NO2です。


そういう研究などした先生方が、大学などの入試や英語教育の在り方に意義を唱えてくれたらなぁとは思います。
自分の子供の事などを考えたら、やっぱり社会に出て役に立つものを学んでもらえたら嬉しいですよね。
最近、私学の大学では、「より生きた英語を」と頑張っている所もありますけど、古くからの伝統校はどうなんでしょうね。

この回答への補足

上智や津田塾などの英語教育で定評のあるところでも入試に受験英語が使われていたとしたら根深すぎる問題でしょうね。
バイリンガルの教授や帰国子女たちは文法書や辞書の間違いにどのように対処していたのだろう。。。

ご意見大募集中です!

補足日時:2006/01/16 14:15
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この回答へのお礼

>自分の子供の事などを考えたら、やっぱり社会に出て役に立つものを

文部省のお役人や大学教授はどう考えていたのでしょう。自分たちの子供は一流私立校に行かせるから公教育はどうでもよかったのでしょうかねぇ。
そういえば最近は、私立高校で一年間、学校(2年生)ぐるみで留学するというのが流行っていますね。もう受験英語もそろそろ寿命を迎えつつあるようにも見えます。

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/17 09:32

そもそもなぜ、英語を学ぶのか?これは海外の難しい文献を読むためでした。

漢文からオランダ語、そして英語にシフトしたわけですが、英語を教える側の姿勢が、昔 漢文を教えていた時と大して変わらないということでしょう。

大学入試では英語が大きなウェイトを占めますが、これは受験者の学力を測る上での有効な物差しだからです。暗記力、論理力、国語力、推察力、そしてそれらの総合的な能力が英語の試験で測れます。でも、この目的だけなら別に英語でなくても何語でもいいんです。ちなみに、センター試験では英語の代わりに、ドイツ語、フランス語、中国語、韓国語でも受験できます。

外国語は何語でもいいのに日本では英語が独占的な位置づけにあるのは、英語が最も汎用性が高く、役に立つからでしょう。でも、教養という見地から言えば、フランス語やドイツ語だって引けをとりません。英語というのは背景に産業革命、技術革新、合理主義思想の文化があると思います。哲学の分野ならドイツとかフランスの方が大きな蓄積があります。ラテン語だって重要です。ラテン語はヨーロッパの多くの国で学ばれています。英語のアルファベットだって 元はといえばラテン語を書き表す文字でしたし、古代ローマの文明こそヨーロッパ文化の源と言っても過言ではないでしょう。ある意味 ヨーロッパでは英語よりも通用度が高いんですよ。


予備校は試験の点数や偏差値を上げさせるのが仕事です。正しい英語とかはどうでもいいんですよ。これがビジネスですから。

私も、日本式不自然英語には少し疑問を感じますが、
大学というのは学問を教えるところです。外国語の会話教室とは大きく違います。

この回答への補足

ありがとうございます。
>英語を教える側の姿勢が、昔 漢文を教えていた時と大して変わらない
>大学入試では英語が大きなウェイトを占めますが、--- この目的だけなら別に英語でなくても何語でもいいんです。
>予備校は試験の点数や偏差値を上げさせるのが仕事です。正しい英語とかはどうでもいいんですよ。
>大学というのは学問を教えるところです。

受験英語が未だに生き続けていた構造、構図が何となく見えてきました。
大学教授の意識、自分の研究、学問以外は我関せずというのが大きいのでしょうね。あえて虎の尻尾を踏んで睨まれるより、目をつぶっていればいい・・・
それに加え、入試には入試独自の価値観とお金が働く構図。これらの複合によって、英語学習者は受験英語の犠牲者として苦労させられ続けていたと。

--- やはり、薬害エイズや耐震強度偽装でみんなして言い訳しているような構造に見えます。
ご意見まだまだ募集中! 色んな観点からのご意見お待ちしています。

補足日時:2006/01/16 14:26
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 最近は変化してきましたが、原則として日本の「大学教育」は実践にならないこと教える場所です。

これについては、大企業は熟知しており、新入社員が組織に加わると、改めて「外国で通用する英語やその他の知識の習得」に努めさせています。大企業にとっては、大学に期待するのは、教育の中身ではなく、意味のない勉強に耐えるだけの意志(あるいは、盲従の姿勢)をもった偏差値の高い学生だけです。
 次に裸の王様を裸の王様を裸と言えるには、国民に理解しやすい事柄でなくてはなりません。受験用の英語が、Nativeもあきれるようなものであることは、時々新聞に記事として掲載されますが、普通人にとっては、中学、高校で習った何か訳の分からない言語という意識しかなく、従って誰の目にも理解しやく、また批判できることではありません。
 日本のアカデミズム(というのも恥ずかしいのですが、特に文系では)では、先人の業績にケチをつけることは、組織の和を乱す者として排除されます。つまり「出る杭は打たれる」ということです。また、大部分の人間がおかしいと分かっていても、変化しないということは「血液製剤事件」で明るみに出たように、ボスが「黒を白と言えば、それは黒なのです。」これが、日本の大学の実体です。
 さらに、日本式英語を教えても誰も困らないという実情もあります。大学教授や予備校の講師は、参考書を書きますが、それで入試に役立つなら、金銭的なこともあり、誰もが利益を得て、丸く収まるという産官学の複合体が出来ています。
 以上、簡単に書きましたが、30年以上前の学園紛争の時代も「大学のあり方」が問われたのです。しかし、日本の大学は何も変化しませんでした。これからも変わることはないでしょう。

この回答への補足

ありがとうございます。
最近気づいたのですが、化学物質、地球温暖化、ダイオキシン、アスベストなどの問題を必ず誰かが最初に警告しだすわけです。しかし、
1.当初、ほとんどすべての人は理解しない、できない。従来型思考に基づく反論に同意し、警告を退ける。(場合によっては)警告者を非難、バッシングする。
2.徐々に「あぶないらしい」という頭の上での知識を持つようになる人が増加する。しかし、本当の危険性、緊急性の共通認識はできない。
3.ほとんど全ての人が当初の警告の正しさを理解でき、問題の早急な解決を求める(自分達が問題先送りに加担していたことは無視してだが)。

ほとんど全ての社会問題に関して、これら3段階のフェーズ、構造を持つのです。
つまり、「問題を正しく認識できる」ことは即、解決の方向性を見出すということなのです。
「受験英語」、つまり「学校で教えている英語」がおかしいとは従来から言われています。つまり、1の段階は通り過ぎています。私にすれば今の日本は2から3の段階に向かって驀進中に見えます。ネットの普及で情報共有と波及のスピードが速いからです。

ちなみに「薬害エイズ」では最初に製薬会社、次に学者が非難されましたが、問題の黒幕であり、自らの過失を隠蔽し続けたのは「厚生省」でした。
私はこのサイトなどで得た知識を元に事態を考えていました。そして今、「教育の最高責任は文部科学省」にあると信じています。教科書検定、学校教育、教員養成、入試内容、これらを是正する力を持っているのは、文部省です。これを支えたのが、旧国立大学に君臨する白い巨塔の教授たち。そして、特殊な英語を教えることにより莫大な利益を上げた予備校を筆頭とする受験産業。
我々日本人はこの産官学複合体の犠牲者だったと思うのです。

補足日時:2006/01/17 09:35
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>原則として日本の「大学教育」は実践にならない

以前、ヘレンケラーが著書の中で大学に対する失望を書いているのを読んだとき、どこも同じ(日本が真似したから当然)なのだと感じました。

>受験用の英語が、Nativeもあきれるようなもの---普通人にとっては、---

入試という点では自分の子供、親族。国際化する社会という観点では日本、日本人の一大事とは受け止めないのですか。。。

受験産業に関しては皆さんが指摘のことを考えたのですが、ネイティブにも教えにくい英語(普通の日本人も国語で小林秀雄は教えられない)が存在する方が利益につながるのは確かに言えるなと。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/17 10:06

Gです。



taroandjiroさんのような方がこのような質問を立ち上げなければ誰も今の教育方法は変わらないでしょう。 私も私なりに「批判と向上への行動」をバランスを取りながら回答してきたつもりです。 

批判だけなら誰でも出来ます。 だから「出る杭は打たれる」ことが起こっても打たれただけでもう終わりです。 しかし、真剣にこの問題を感じ、おかしいものはおかしいと言い続けることは日本人として当然のことなのではないでしょうか。

英語を全部知っているなんて事は絶対ありえないのです。 しかし、ネイティブでもおかしいと感じる英文、間違った文章の理解、言葉を何か科学的な機械文章などと無意識に感じているような解釈と理解に基づいた教え方、などが「キチガイ沙汰」と呼ばれてもおかしくないはずなのです。

私は、6年も学校で教わっていながら使えない、一言もいえない、と言うこと自体おかしいと言うことから始まっています。 出来る人は後からできるようになる人がでてくるのが本当は怖いんだろう、だから自分さえ良ければ良いんだ、そして優越感を感じるために教えているに違いない、なんても思ったりすることがあります。 私を個人攻撃した人がその典型的な例ですね。

1)先日、「受験英語クラス」と「使える英語クラス」を作ったらどうだろうかなんて冗談じみて書きましたが、いつまでも英語を「英語学」と言う姿勢で教えていては生徒がかわいそうだ。

2)その英語学でさえ間違ったことを教えている。 帰国子女を生徒に持ちたがらなくなるわけです。

3)使える英語を教えられる教師であればクラスあたり50人でも100でも授業は進行できるはずです。

4)受験産業、英語会話産業は英語の教育方法が変われば自然消滅していくはずです。

5)おかしいとを知っている先生方はたくさんいると思います。 しかし、私への回答で覚えていることがひとつあります。 「やりたくても出来ない」立場にいるのが教師なんだ、と。 もうこれは教師のレベルではなく、そういう社会を現存させていきたいと言う巨大なものがあるとしか言えません。

6) 国と国との戦争に一般市民は残念ながら批判する以上のことはなかなかできませんね。 しかし、一般市民のレベルで国境を越えた友情に結ばれた平和は作れますね。 私は、この個人のレベルで日本での英語と言うものの見方は変えることは出来ると信じています。 このサイトもその一部です。 たくさんの人がtaroandjiroさんのご質問でなんとなくおかしいと思っていたことが本当におかしいと感じるようになった人はたくさんいると思うのです。

7) おかしいと思う人が増えれば増えるほど、また、英語を使える人がもっとそれをみんなに伝えることが出来るはずです。 今の教育方法は180度変えないといけないと実感できる時代になってきているのです。 有名な人が言ったから正しいと言う時代ではなくなって来ているわけです。 

8)塾の先生ですか? 知っているでしょう。 しかし、今の時代に「俺が教えていることは間違っている」なんていえないでしょう。 その間違ったことを試験に出るから仕方ないから教えるのが塾の先生なんですから。 生活がかかっているのです。  逆の言い方をすると、「しても恥ずかしくない」立場にいるのです。 残念ながら。

9) しかし、もうひとつ大きな問題があります。 英語学を教えているから仕方なんだ。 そしてその英語学の内容を変えることはそう簡単には出来ないんだ、試験と言う形しか判断する方法がないんだ、と言う3つのことの黙認してみましょう。 しかし、それじゃなぜ、学校で教えている(間違っていても)英語が出来なくても学年があがっていくのでしょうか。 言ってみれば、中学に入ったら高校まで英語エスカレーターに乗るんです。 中一の英語が出来なくても中2の英語を教えてしまう。 分からなくたって関係ない、と言う姿勢です。 もっと分からなくなります。 分からなければなぜ中一英語をもう一度やらせないのでしょうか。 社会に入ってこのカテで出来ないのであれば中一の英語の教科書からなりなおしてください、と言う私もするアドバイスがありますね。 なぜ、それを中2になる前にやらせないのでしょうか。 

答えはひとつ、英語を重要視していない教師や政府が存在するからなんです。 口先だけでは恥ずかしいと言う感情はもてないでしょう。 重要視すれば自然に恥ずかしいと感じる状況に自分がいるということに気がつくはずです。

さて、受験英語をする必要がないとし、「使える英語クラス」だけ選択科目としてどこが悪いのでしょうか。 この方が正しい英語を身につけられると思うのはおかしいですか? 今のところどうせ一部の人しか受験英語で人生を変える人はいないのですから。

と言うことで、恥ずかしいと思っても思わないないようにしている先生は多いと思います。 また、このカテでの変化を見て、逆に教室て逆質問されて困っている先生もいると思います。

5年後10年後にこの質問を見てやっぱりねと思う日が必ず来ると思います。 今まで以上に英語を使える人が多くなり、英語自体が特技とはいえなくなる時代が来るでしょう。 (できれば日本語が国際言語のなれればよかったですが、10年ほどでその気迫は衰えてしまいました)

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 

この回答への補足

おっしゃる通りだと思います。

>「キチガイ沙汰」と呼ばれてもおかしくないはず

大学などで多くの人たちが長年、英文法研究に打ち込んでいたことを考えれば、馬鹿げた話としか思えません。

>「使える英語クラス」

私立校ではネイティブ教師に指導させるのが常識になりつつあります。ただ、多くの大学でも以前からそれなりにネイティブ指導はあったはずなので・・・

>「やりたくても出来ない」立場にいるのが教師なんだ、

原因は「文部科学省」です! それなのに教師の指導力、英語力のせいにしている!
生活のために仕方なく教えている点では塾の教師と同じのようです。
※ 大手有名予備校は入試の問題点を指摘できる力が充分にある。最近は入試問題を請け負っている。

学校では、つい最近まで社会主義的平等主義がはびこっていて、今でも習熟度別クラスに対する抵抗があるらしいのです。また、「以前の段階に戻って学習する」、「実力相応のやさしい学習書を使う」というアドバイスは日本の英語学習にほとんど存在しませんでした。
教師や一般人の間、つまり日本全体に、英語は難しいもの、難しいものを避けてはいけない、いずれ理解できるという固定観念が蔓延っていました。これは「多読学習法」「簡単なフレーズに習熟する習得法」などの急速な普及(これも21世紀に入ってから)で是正されつつあります。今や成人学習者の間では常識ですが、生徒・学生レベルではまだまだのようだったので、できるだけやさしい教材を使うようにアドバイスしていました。

そういえば、以前と違い、全体の質問のレベルも高度化し、10代の質問者が増えていますね。このような変化にお役所、お役人はいつまで我々日本人の足を引っ張れるか・・・
私は5-10年後と言わず、今日、役所の害、「役害英語」。公僕の害「公害英語」に終止符を打ちたい、おさらばしたいと思います。

補足日時:2006/01/17 10:38
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私もGさんと日本式文法家の想像もつかないバトルを目の当たりにしなければ、単に「へんな文法オタクもいるもんだ」で終わっていました。
Gさんの努力が英語学習者の目覚めにつながったのです。感謝いたします。

日本で数年、気楽にやるという選択肢はありませんか?
お身体を大切になさってください。ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/17 10:42

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