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自分でも嫌になるほどしつこいと思っています。

空気にも価値があるのでしょうか?

価値が対象と主体の関係に発生するカテゴリーとすれば、空気の存在そのものを科学的に知らなかった時代は価値がなく、空気の存在とその必要性を科学的に理解したと同時に価値が発生したのでしょうか?

価値に関してはこれで最後にしたいと思っています。

A 回答 (13件中1~10件)

 「価値観」は、本人次第でしょ。

それは人間の心が常に揺れ動くものであるため、その心によって生み出される価値観も定まることなく変化しています。
 ですから、コメントをしたところで、日ごろはそれほど固執したり深く考えているわけでもないのに、こと宗教や信仰になると、理屈を並べて反発するだけじゃないでしょうか?
 今回は、宗教とか信仰とかの「価値観」ではないのですが、押し付けることも出来ず、本人が気付かれるしかありません。
 如何ですか?
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この回答へのお礼

odd-artさんご回答有難うございます。
失礼ながら親近感を感じてしまいます、odd-artさんも私と同様、職人気質の頑固者のような感じがします。
宗教に関しては門外漢ですが、宗教や哲学がこれからの世界には重要になるような気がしています。
私も不慣れな哲学の分野に手を染めることになり、いつのまにか何のために質問しているのか忘れてしまいそうです。
他の質問者への回答もときどき興味深く拝見しています、今年もよろしくお願いします。

お礼日時:2002/01/06 07:15

fishbowlさん、お久しぶりです。

ご質問を心待ちにしておりました。

さて、経済学ではそれを入手するのに労働などの対価を必要としないものには価値がないということはご存じだと思います。

しかし、同時に人間は空気がないと生存できませんから、その意味ではかけがえのない価値があるとも言えます。

また同じ答えになってしまいますが、上の意味の価値と下の意味の価値は同じ意味でしょうか?

なお、前回のご質問のお礼の中で「価値という言葉が多義的といっても意味が多すぎて、言葉としての機能が失われてしまいませんか、」書かれておられますが、私は言葉の意味とは「(ある種の)本質」を示すものではなく「その語の用法」であると理解しております。

上の「言葉の意味」の問題も含めて、一連のご質問に対し、このようなQ&A形式の掲示板では充分に意をつくしたことが書けずもどかしい思いをしております。前回の私の回答のニュアンスはくみ取っていただけなかったようですが、参考URLをご覧下さいますようお願い申し上げます。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=189759

この回答への補足

aminouchiさんお世話になっています。

参考のURLでフリーメールに鍵があると思って、教えてgooにfishbowl66で登録しましたが、関係なかったら又ヒントを下さい。

補足日時:2002/01/07 18:45
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この回答へのお礼

aminouchiさん、いつもご回答有難うございます。
>経済学ではそれを入手するのに労働などの対価を必要としないものには価値がない
ここが納得できないのです、価値があると主体が認識する結果、対価や犠牲を払って「交換」という行為の要求が生まれるのではないでしょうか。
>上の意味の価値と下の意味の価値は同じ意味でしょうか?
「価値」という名詞の意味が用法によって変わってはやはりまずいのではないでしょうか、上の「価値」が「価格」なら理解できるのですが。

参考のURLを拝見しましたが、教えてgooのサイトに行きましたが、私はokwebを使用しているので使い方が解かりませんでした、もっと良い方法があれば教えてください。
今年もよろしくお願いします。

お礼日時:2002/01/06 07:42

 遠慮なさらずに何度でも質問なさればよいでしょうに。



 ただその、少々感じましたのは、前回の「ステーキ」もそうだったのですが、思考実験ならばもう少し吟味の上、余計な諸条件を排除しないと有効な推論にならないということです。(前回は、味とか香りといった付随的要素が、「食物であり栄養物である」という動物的価値に混じり込んでいたようでした)

 さて、「空気」ですが、価値があると思います。「価値がある」とは、言い換えれば「求めたいものである」という意味であり、やはりこれは「求める主体がいる」ことを含意します。
 しかし少し細やかに見てみましょう。古いですがアリストテレスの考えを持ち出します。ずーーーっと以前にココでも使った「霊魂論」なんですが、「植物にとってはどうか、動物にとってはどうか、植物にとってはどうか」と問うてみるわけです。

 植物は感覚を持ちませんから、当然、空気について「価値」という認識は持ちません。しかし、周囲に生育に適した空気があれば繁茂し、なければ枯れるという形で「環境を解釈し、自らの形態で表現」します。
 「植物-対-空気」という問題の範囲では、これはむしろ物理的因果関係に近いものであって、「価値」という言葉(少なくとも一般的な意味においての)で論じられる過程とは言えないと思います。「キレイなねーちゃんに視線が惹かれる」というプロセスよりも、「鉄が磁石に引かれる」というプロセスに近いってことです。
 ただ、その植物を「価値」とみなす存在によって、空気は二次的に「価値」と見なされることは考えられます。「この植物を育てて食うためには…空気が必要」というふうに。しかしやはり「二次的」で、植物以外の意識ある存在を想定しないと言えないことです。

 動物だと空気は「価値」になってくるでしょう。「求めたいもの」になってきます。このことはアタリマエのように空気を吸っている地上動物よりも、水中で暮らす魚を考えるとわかると思います。水に対する酸素の融解度は二酸化炭素1.71に対して0.049(水温0度の場合。『理科年表』による)。酸素は「ほとんど水に溶けない」と言ってよいほど溶けにくい気体です。魚たちは、そのわずかな酸素を吸って、水中で生きています(地上動物も肺の粘膜に溶けた形でしか酸素を取り入れられないので、基本的条件は同じですが)。水温や水流などに左右される水中酸素の多寡が、魚の捕食行動などに大きく影響することは知られています。
 つまり魚たちにとって、水中に酸素が豊富ならば、もうそれだけでラッキーなのです。ハッピーで、オッケーなのです。これは「価値」でしょう。

 しかしながら、動物たちにとっての「求めたいもの」という「価値」は、やはり人間が観念する「価値」というものとは次元が違うでしょう。植物の場合とは違って意識的な過程に含まれてきていますが、しかし自覚的ではありません。動物の意識における「価値」は、やはりまだ本能的・生理的欲求の次元に大半が根ざしており、対立と差異の網の目から価値と意味を切り出してカテゴリー化する人間的「価値」とは別のものだと思われます。
 端的に言うと「経済的価値になるかならないか」ではないでしょうか。
 動物たちは自分たちが吸っている空気で商売しようとは思わない。しかし人間の場合、旅行代理店が軽井沢の空気を売り物にすることは頻繁にあることでしょう。これになるともう、動物的・本能的・生理的価値に部分的に根ざしつつも、「ステーキ」の「味と香り」にも似た「人間的にカテゴライズされた価値」と言えると思います。これはもう動物たちにとっての「価値」とは別次元です。

 あんまり役に立つ回答とは思えませんが、一つ、「細やかに弁別すること」を思考を進める際の留意事項とされますようにと、申し上げたく思います。
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この回答へのお礼

serpent-owlさんいつもご回答有難うございます。
>思考実験ならばもう少し吟味の上、余計な諸条件を排除しないと有効な推論にならないということです
serpent-owlのご指摘はごもっともだと思います。ただ弁解させていただくとしたら、「価値」という個別な主観的な感情あるいは認識が、どのように客観性を持ち、「交換」を通じて価格に変化するかを考える上では、あまり抽象的な思考はかえってわかりにくくなるのではと考えてのことです、もちろん私の言語能力の不備もその理由にあることは当然反省したいと思っています。
さらに弁解すれば、私は科学に対して若干疑問を持っています、昨年の暮れどこかの大臣が、諫早湾の干拓問題で、のりの不作と、水門の関係は科学的に証明されていないから事実ではない、というような発言をしていました。
事実はあとから証明されるものであり、証明しなければ事実と認めない科学的思考方法は本当に正しいのだろうかと益々科学に対して疑問を抱くようになりました。
結果として経済学ではなく哲学のカテゴリーに質問することになりましたが、>「細やかに弁別すること」を思考を進める際の留意事項とされますようにと、申し上げたく思います。<哲学だからといっていいかげんな表現が許されるわけでは有りませんからこれからはさらに気をつけたいと思います。
ところで、空気の問題ですが、植物や、動物との比較は仰るとおりだと思いますが、空気の存在を理解していなかった人間にとって、空気は価値がないというニュアンスに近いと思いますが、誤解しているのでしょうか。
お礼が長々と弁解に終始してしまい、再回答を求めるような表現になりましたが無視してください。
今年もよろしくお願いします。

お礼日時:2002/01/06 08:24

お礼を読ませていただきました。



>ここが納得できないのです、価値があると主体が認識する結果、
>対価や犠牲を払って「交換」という行為の要求が生まれるのでは
>ないでしょうか。
なるほど、この点についての疑問が根底にあったのですね。そういうことは既にお判りになっておられるものとして答えてきましたので、納得がいかなかったことも理解できました。

私は、基本的に「価値」は創造されるもの、すなわち人間の手間が加えられているものであると考えております。fishbowlさんが今まで例としてあげてきた、「金」にしろ「ステーキ」にしろ、人の手が加わっています。例えば、「金」はまれに砂金として発見されますが 、基本的には金鉱石の形で存在し、それを人間が掘り出し、精錬して金の形にします。また、ステーキも同様で野生の牛であるか飼育された牛であるかにかかわらず、それを掴まえたり飼育したりする手間がかかり、さらにそれを解体して、食べやすい形に加工し、その上に料理するという手間がかかっています。それらの行為をすべて自分だけで行い、得られた成果も自分だけで消費してしまうならばそれには「価格」は付かないことはお判りですね。

ただ、それらの成果を誰か他の人と交換しようとする時に「価格」が発生します。また、手間を加えること=労働にも価格をつけることができます。こうして価格をつけることによって、労働という形で内在していた価値は表面に現れ、他のものと比較できるようになります。また、労働自体についてもその質や内容によって均一ではない価格が付くようになります。

さて、社会や経済が発展していくと、こうしたものごとの価値は創造されたものであるということが見えにくくなってきて、価値交換の媒介物でしかない貨幣に価値があるかのごとき錯覚が生じてしまいます。そして、fishbowlさんの一連の疑問に繋がっていくというのは話を単純化しすぎかもしれませんね。

まったく話が違いますが、コンピュータに将棋を指させるためのプログラミングを考えてください。このとき、将棋の各駒に例えば飛車は10点、角は9点・・、歩は1点というように評価して価値を与えます。この他にも局面の評価などを点数化して一番点数の高い結果を生むようにしていくわけですね。で、問題は王をどう点数化するかという事です。これが取られてしまえばゲームは終わりですから、他の諸要素に比べて異常に高い価値を付与するのが基本ですが、これを何点とするかはそのプログラマーの主観でしかありません(これは人の命の価値のアナロジーです)。

同様に、バーミアンの大仏・自然環境・空気などありとあらゆるものに対して、価値を見いだし、付与することは可能ですが、それは何を価値とするかという決定の下(これが価値が主観的に決定されるということ)での行為です。まあ、普通の人は価格で示される価値に従うとは思いますけれど・・

もとに戻りますと「空気の価値」は何を価値あるものとするか、価値とは何かと考えた時に異なってくるのは当然です。surpent-owlさんのご回答の指針である、「細やかに弁別すること」もこのことを踏まえているはずです。

最後に、もう一つ、参考URLを張り付けておきます。この#2の回答の意味をお考え下さるようお願いもうしあげます。

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=70876
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この回答へのお礼

aminouchi再度のご回答有難うございます。
価値についての一連の質問の前に、私の価値についての考えを定義していなかったことが問題になったようです。

「価値」とは主体である個人が現実の世界(自然と社会)に対して自分の表象世界を作る唯一の秤だと思っています。

それが価値対象である事物に由来するのか、主体の精神の中にあるのかで迷っていました。早いことや、のんびりしたこと・高いことや、安いことに価値を見出す個々の主観的価値を抽象的に思考することが難しく思われました。

ステーキに関する質問は、誰かの加工が関与したことを問題にしたのではなく、価値の認識が精神の中にあるとする定義に対して、具体的なステーキの存在、五感に感じる存在自体の価値を強調して価値が事物にあるのではと思われる例として有効だと考え取り上げました。

価値と価格の違いを考えるため、経済学ではなく不慣れな哲学の世界に迷い込んでしまったのです。

お礼日時:2002/01/06 19:44

>空気の存在そのものを科学的に知らなかった時代


しかし、実感的に「知っていた」のではないでしょうか。それは、実感無く遠い宇宙のことを科学的に知るよりも「知っている」様に思います。何故なら、その実感というものはその主体と共にあり、又、主体はそれをものにしていると言えるからです。ストーンエイジの様な、とか、魔法想起時代に、とか、宇宙開拓時代なら、とか、よりも、「今」、どうなのかが、価値を考えるには重要だと思います。実感とは主体に伴うもので、その主体が僕とすると、僕は今、生きているわけです。ですから、今、あなたでどうなのか?ということが大事だと思います。
>価値が発生したのでしょうか?
発生するようなものは最初からありません。幻影のようなものです。価値があるとするならば、それはあるのです。「今」が発生したものと考えるなら、それはなくなります。しかし、あるものと思えるなら、それはあります。すべてにおいて、それはそうなんです。
>どのように客観性を持ち・・
客観性というものはありません。あれは嘘です。嘘は数多くあり、数多い者を求めるのは容易です。しかし、嘘でないものは確かですので、求める「べき」です。
客観性を得るというのは、息のかかった第三者になることであり、客観性を旗に説得的な主張は出来ても、ホントのことは言えません。哲学の場合、向かうべきは独我論です。独我論は、超えれます。そのとき、すべてがあることになります。価値の問題も、独我論と関わってくると思います。もし、それで虚無的になってしまったら、「空観」というようなものにあたられると、それはなくなります。「空観」は宗教ではありません。理解するのに信心は必要ありません(求心は必要かも)。切り札的に持っておいたら役に立ちます。しかし、それを理解するのと得るのとでは違います。理解は簡単ですが、得るのは至難です。しかし、得る「べき」です。ドラゴンボールで、ミスターポポがやってたやつです。たぶん、。ドラゴンボール知ってます?
>自分でも嫌になるほどしつこいと思っています。
そうですか?皆さんこうして応じてくださっているじゃないですか。ということは、だれもこの質問で、うんざりんなんてしてませんよ!マジでしつこい場合は、相手がうんざりしますから、、。(TT)
 
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この回答へのお礼

caballeroさんご回答有難うございます。

今回の質問は少し間違っていたと反省しています。
空気に価値があるのかと言う質問ではなく、空気の価値が科学的に空気の存在を知る以前と以後について質問するべきだったと反省しています。(いつも反省ばかりしています{笑})
空気を含めた自然の価値?(大切さ)をcaballeroの仰るように科学的に知る以前に何らかの形で知っていたのでしょうね。
哲学に詳しくないので、独我論や空観やドラゴンボールのことは詳しく知りませんが、ドラゴンボールってマンガじゃなかったのですか?うーむ知らないことがまた増えてしまいました。

蛇足ですが、インターネットの世界も知らないことが多すぎて質問の結果、又別の疑問が増えてくることは楽しいことだ前向きに考えていますが、一を聞いて十を知るようには進めませんのでのんびりお付き合いください。

お礼日時:2002/01/07 18:44

 「価格」というと、やはり経済との絡みになってきますね。

ただ、「価値という個別な主観的な感情あるいは認識が、どのように客観性を持ち、交換を通じて価格に変化するか」であれば、過去のご質問ですでに答えが出ていませんでしたでしょうか。ご存知の古典経済学で言えば、「欲しいと思う人が多ければ価格は上がり、少なければ価格は下がる」。もちろん、もう一方には供給という項もありますが。
 19世紀初頭に古典経済学が現れて、多くの人がそれに酔ったのは、「バラバラの個人が、それぞれの欲望に基づいて利益追求のために行動しても、市場全体のバランスは自然と保たれるし、全体的資産を増大させる」という逆説的にも見える摂理を明快に理論化ていたからでしょう。ここでは「個々人の個別的・主観的感情ないし認識」としての「価値」は、それだけで、何の変化も操作も加えられることなく、多くの他者が(そしてその欲望が)存在しているというその「場」に媒介されて、「価格」になっていったはずです。このプロセスは「客観化」というよりは「間主観化」かなあ…ってところでしょう。釈迦に説法でしょうが。

 さて、「空気の存在を理解していなかった人間にとって、空気は価値がない…」についてです。
 少しく「細やかに弁別」すれば、「一つの生物体・動物としての人間にとっては、認識があろうがなかろうが価値はある」が、しかし他方「何らの認識もないならば人間的・精神的な価値はないだろう」ということになります。
 この一文の前半で言っていることは、「動物にとっては空気は価値がある」といったのと同じことで、空気はこの場合「本能的・生理的次元で価値を持つ」ということです。後半で言っていることは、「言語的に分節し、もろもろの意味を付与して、場合によっては自ら消費・蕩尽することなく貯め込んだり他者と交換したりする対象として価値を持つ」みたいな感じでしょうか。
 それで、「認識がなければ人間的・精神的価値はないだろう」の方に関してですが、ここで言う認識は「科学」に限定することはできないと思います。とりわけ「科学」という語のフツーのイメージでいう「近代科学」となると、やはりそれ以前から空気には価値が認められていたことは確かでしょうし、もう少し広げて「学問・ロゴス」としても、やはりもう一面に「ミュトス(神話)」というのもあって、神話的認識を通しても、人間は空気に独特の価値を与えていたはずです。いや、何もそんなに大風呂敷を広げることもないかもしれません。何のことはない、人間誰しも、一度でも息を止められるだけ止めてみようと自ら実験してみたことがあれば、その人は「空気」なるものを単に本能的・生理的なだけの連関から引き離して自覚化するはずです。「ああ、これが空気…」って。「水に溺れた」でもいいし、「誰かに首を締められた」でもいいのです。その苦しさが反照して「空気」の価値を自覚させます。

 「証明しなければ事実と認めない」のは、論理を重んじる説明の方式、「ロゴスの知」にはあてはまるでしょうが、人間の知のあり方はそれだけではありません。その「それ以外」まで広げれば、科学以前に価値を持っていた物事はいくらでも例がみつかると思います。
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この回答へのお礼

serpent-owlさん無視して下さいと言いながら再度回答をしなければと思われるような御礼の仕方をして申し訳ありませんでした。
今回の質問は#1・#5の回答に対するお礼の中で申し上げたように、質問の仕方に問題があったと反省しています。
価値に関して多くの皆様から回答を頂き自分の間違っていた部分に気がつきました、その結果残る疑問を整理せずに質問をしてしまいご迷惑をかけたと思っています。
ただ価値と価格の関係は、需要と供給の関係で決まるとしても、価値と価格が同じ物かどうかについてまだ疑問を持っています(表現があいまいなのをお許しください)。
最後の部分に関しては現在の社会が科学万能主義のような風潮があってそのことに反発しているのですが気持ちは解って貰えると思っています。
最後に言い訳ですが、健康のため夜インターネットに繋がない設定をしています、お礼が拙速なことをお許しください。有難うございました。

お礼日時:2002/01/08 20:44

●科学的に知らなかった時代 というよりも


 それも含めて意識しなかったら と言い換えたほうが論点がはっきりしますね。
●空気を意識しなければ 空気に価値なんて概念あるはずないじゃん!
 空気をなんらかの形で(例えば科学的に)意識した時に空気という言葉が生まれ
 他者とのかかわりにおいて それを位置づけしなければならないときに価値
 という概念が空気に生れるのです。
●空気は 大切であり重要である。だから価値がある。
 どれくらいの価値があるの? えーとー・・・値段をつけられないくらい!
 そうなんです。あなたのように価値という言葉をちゃんと使えないひとが
 おおすぎるんです。値段をつけられないような大切なものに価値なんて
 下世話な概念を引き当ててはいけないのです。
 空気とは それほど大切なものなのです。
●結論!空気を意識しなければそこに価値は無い!
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この回答へのお礼

chihokoご回答有難うございます。
あきれてもう回答していただけないのかと危惧していましたが、回答を頂きほっとしています。
でもchihoko怒っていませんか。哲学と言う神聖な学問に価値という下世話な概念を持ち込んだことに怒っているのですかね。価値についてchihokoさんと私の意見が違うことに怒ってもらっては困ってしまいます。意見の違いを楽しみたいのですが。つづく

お礼日時:2002/01/09 06:06

毎回同じようなことを言わなきゃなんないんで切り口を変えます。


●人生とは考えることにあらず 感じることなり!
 わたしは快楽至上主義です。真の快楽至上主義は生きることを間違いません。
 エクスタシーは感じることに宿るのです。
 考えることはよりよきエクスタシーを得るための手段と言い換えることが
 できます。
●おいしい空気を吸ったときエクスタシーを感じます。
 「この空気はなによりも価値がある」と考えたとき そのときは既に
 エクスタシーではないのです。(わたしは そんな風には考えませんけど。)
 エクスタシーは考えることの以前に宿っているのです。
 つまり価値とは後発的なものであるわけです。(脳のなかで。)
●すべての事象をことばで処理(考える)するわけですから
 あることをないとも ないことをあるとも言うことは可能です。
 (過去の哲学者の発言を見てわかるように。)
●大切なのはどう生きるかです。
 わたしは快楽至上主義です。そのために考えてます。
 価値とは他者との関係を処理するための概念である。
●大切なのは感じることであり 自分にとってのその本質をつかむことです。
 そのことに価値という概念はまったく必要ありません。

 考えることによってエクスタシーがあるとしたなら
 それは 摂理に考えがたどりつくか添って流れるかした場合いでしょう。
 正に感じることとイコールなのです。
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この回答へのお礼

chihokoさんご回答有難うございます。
つづき
>価値とは他者との関係を処理するための概念である。
私は下世話な経済学?(経済学関係の皆さんすみません)の出身ですのでどうしても、人と物の関係が中心になって、人と人の関係に関心がないわけではないのですがあまり深く考えていないですね。つづく

お礼日時:2002/01/09 06:17

あとひとつ これも言っときましょう。


●必要性=価値 とはなりません。
 必要性に価値を感じるかも人それぞれですし 科学的価値にしても
 人それぞれです。
●あなたのご両親はあなたの存在に必要不可欠ですよね
 でもご両親に価値を感じますか?感じることも可能ですが
 ふつうは感じませんよね。ご両親はそれだけあなたにとって大切だという証拠です。

 このレベルのはなしですと哲学というよりも文学とか言語学に
 なりそうですね・・・。ま 哲学は両者も含みますからいいんですけど。
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この回答へのお礼

chihoko何度もご回答有難うございます。
つづき
両親に価値は感じませんねぇ兄弟や子供にも価値と言う感覚は起きませんが、友人や上司・部下になるとなんかもやもやとした価値が感じられそうですか、前にもお礼したように人と物の関係が中心なんです、それと、私は哲学をやろうとは全く考えていませんよ。つづく

お礼日時:2002/01/09 06:27

文学的な分析



下世話な話
●なあ 空気って価値あるよなぁ なきゃ死ぬもん。
 水とどっち価値あると思う?
 わたしは水 ぼくは空気 拙者はどちらにも価値は無いと思う。
 (価値はひとそれぞれの概念だから こんな会話です。)

科学的な話
●なあ 空気って必要だよねえ。 なきゃ死ぬもん。
 水とどっちが より必要だろう?
 ははは 必要なものに順位は無いよ! なーるほど・・・。
 (科学は人間社会の共通の概念だから こんな会話です。)
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この回答へのお礼

chihokoさんご回答有難うございます。
つづき
やっぱり下世話な話に怒っていません(笑)
哲学の世界でなく現実の社会では必要なものに(下世話な生活の必要品等のことです)毎日順位をつけて生活しているとは思いますが、その順位づけの価格の前に価値が元々あった筈だと思っていますが、おわり。

お礼日時:2002/01/09 06:40

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