街中で見かけて「グッときた人」の思い出

 日本語を勉強中の中国人です。日本人の作者が書かれた日本語の参考書を読んでいますが、理解できない箇所がありますので、お聞かせください。

 「ご飯やみそ汁は、食卓においたままいただくのではなく、片手に茶わんやおわんを持ち、もう片手の手に持ったはしでいただきます。
 食卓にはご飯を向かって左に、みそ汁を右に置きます。おはしは、ご飯やみそ汁の手前に、はし先を左に向けて横にならべます。」

 「食卓には向かって、ご飯を左に、みそ汁を右に置きます。」なら理解できますが、「食卓にはご飯を向かって左に、みそ汁を右に置きます。」のような流れは理解できません。作者はどういうつもりで「食卓にはご飯を向かって左に、みそ汁を右に置きます。」と書かれたのでしょうか。「食卓にはご飯を向かって左に、みそ汁を右に置きます。」は「食卓には向かって、ご飯を左に、みそ汁を右に置きます。」と同じ意味でしょうか。それから、前者のほうがより自然な言い方になるのでしょうか。

 また、自然な日本語の文章を書きたいと思いますので、よろしければ質問文の添削もお願いできると有り難く思います。

A 回答 (26件中1~10件)

要するに回答は、「向かって右(左)」は一塊りで分割できない、と申せば足ると思いますがどうでしょう。

原文の「食卓には」は文末の「置きます」に掛かります。「向かって」に掛かるのではありません。原文(の当該部分)はいたって自然な日本語です。

念のため付け加えると、「ナントカに向かって右(左)」というふうに向かう対象を明示する場合には分かつこともできます。つまり「食卓に向かってご飯は左に、味噌汁は右に置きます」とすることは可能です。(ただしこれはいかにも冗漫な感じがします。人がものを喰うのに食卓に向かうのは当たり前すぎるから。やはり原文のかたちこそが適当。)

>「食卓には向かって、ご飯を左に、みそ汁を右に置きます。」

これは「食卓には向かって、」だけで早くも変です。後ろを読まなくても、もうまともな文にはならないと断定できそうです。「は、」を抜けば(ここは読点も不要。入れると読みにくくなる。)まともな日本語になります。さらに言うと、「食卓に向かって左に御飯を、右に味噌汁を置きます」は明らかに原文より質が落ちます。この文脈では「御飯・左」という語順のほうが「左・御飯」よりも頭に入りやすいからです。

原文の出来について評するなら、相当くどい書きぶりがちょっとアレですが、助詞の使い方を勉強させようという意図の結果と解するなら咎めるにはあたらないでしょう。ただし、ここで「いただく」という語を使うのはどうかと思います。「食べる」のほうがずっと良い。

>作者はどういうつもりで…と書かれたのでしょうか。

この「書かれた」は不可。こういうところに敬語を使ってはいけません。「書いた」としましょう。



最後にひとつお詫びせねばならぬことがあります。QNo.1993897の#2で不適切かつ無礼な言葉遣いをしてしまいました。「重複に鈍感」は「重複に無頓着」とするべきところでした。お許しください。

この回答への補足

>この「書かれた」は不可。こういうところに敬語を使ってはいけません。「書いた」としましょう。
 
 なぜ敬語としての「書かれた」は不可なのでしょうか。本の著者に敬意を払うつもりでしたが…

補足日時:2006/03/06 23:20
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この回答へのお礼

 ご丁寧に教えていただき誠にありがとうございます。ニュアンスを一つ一つ解説していただきとても助かりました。よく分かりました。
 この間のお言葉遣いに気を使っていただきありがとうございます。「不適切かつ無礼な言葉遣い」なんてそんなことはありませんよ^^。「重複に鈍感」と拝見した時、「鋭い!確かにそう!」と微笑んで頷きました。ご指摘をいただいて初めて重複のまずさに気づきました。文型と語彙の学力不足にいつも頭を悩ませています。ご指摘を通じて、自分の勉強内容と勉強方法も調整しますので、ぜひともお気になさらないで、どんどんご指摘をください。素直な指摘を大歓迎です!今後も私の書いた日本語にご意見をいただければ非常に嬉しいです。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/06 22:55

ああ、ようやく合点がいきました。

なぜあなたがたが読み間違えるか分かりました。それはあなたがたが日本人で、しかもその自覚に乏しくていらっしゃるからですな。

#13さんは「向かって左」なんて言うから給仕人が出てくるとおっしゃり、#25さんはすでにしてそのへんを給仕人がうろうろしているので紛れのないように「向かって」を使う、とおっしゃる。

もはや、いや、最初から明らかなことのはずですが「向かって」という言葉を使うときには人間(主体)が二人は必要です。問題の文章が一貫して食べる人の立場で貫かれているとしたら、そりゃもう一人は食べさせる人になりましょう。

でもこの文章は食べる人が食べない人へ向けて書いたものじゃありませんか。日本食を飽きるほどに食ってる者が、食ったことはおろか見たことさえないかもしれない者をも視野に入れ、さあシミュレーションしてみましょう、といざなう言葉として理解しなくてはならない、そのことをあなたがたは忘れていらっしゃる。

ここにおける著者と読者の関係は「日本人:非日本人」すなわち「熟練者:未経験者」すなわち「教師:生徒」といった懸け離れた二者の関係です。

一方は知ってることを教えるつもり、もう一方は知らないことを教わるつもり、しかしこれを日本人が脇から覗くと全部わかりきったこと、教えるも教わるもない、さっさと食えばいいじゃん、というわけで二者関係はたちまち雲散霧消してしまう。読者は著者とあまりにも容易に一体化してしまう。よって空所に給仕人登場となるのでしょう。しかしそれがこの文章の正しい読み方でないのはもはや自明ではないでしょうか。


さて淡雪さん。ついてきていただけたでしょうか。私はもう言うべきことは言い尽くしたようです。いつ閉じてくだすっても構いません。#25さんの電話の道案内は「向かって右/左」の使用例および説明として非常に巧妙かつ適切なものです。熟読玩味なさってください。

最後についでだからアドバイスを一つ。感嘆符と疑問符の使い方の正則についてですが、どちらも次に文が続くならスペースを一つ空けなくてはなりません。「え? そうなんだ! 知りませんでした!」というような具合。どんな印刷物も必ずそうなっていますからご確認ください。全角一個ぶんがほとんどですが、極めて稀に半角になっていることがあります。例えば漱石全集がそうです。ではまた。

この回答への補足

 皆様、今回は本当にありがとうございました。皆様のおかげでよく理解できるようになりました。「向かって左・右」に関しては、後半で、ネイティブの方の中でも少し意見の分岐があるようですが、たくさんの方から貴重なご意見をくださり、外国人の私にとっては非常に参考になりました。感謝の気持ちでいっぱいです! どうもありがとうございました。これからもよろしくお願い申し上げます。

補足日時:2006/03/11 01:18
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この回答へのお礼

 感嘆符の貴重なご意見ありがとうございます。知りませんでした。もしかして、また私の回答文をチェックしておられるのでしょうか。心より感謝いたします。以前正式の感じの日本語では、句読点しか使わないと教わったので、「?」、「!」のような符号を書き言葉の中で出来るだけ控えています。でも、スペースを一つ空けるべきなのは知りませんでした。私はきっとどこかで間違えて使っていましたね。今後、教えていただいたルールにしたがって書きます。とても参考になりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/11 01:10

ご自分のされた質問に対して既に十分な回答は得ているとの認識がawayuki_chさんにはあるように思えるので、これ以上の回答はご迷惑かもしれませんが、「向かって右/左」に対する解釈についてもう少しだけ述べさせてください。


#22(及び#23)の内容について、うまく表現できなかったために真意が伝わっていない部分があるかもしれません。
#24さんの明快で深いご意見に対応する形で、言わんとしたことを再度述べさせていただきます。

#24さんは「>原文を書いた人(以後[著者]と書きます)の立場になって考えることだけ」とおっしゃっています。
私もそう思います。
ただ、著者自体が「食べる人の視点に立って(食べる人を主体にして)」書いているはずだということを述べたのです。
「>読者は想像の中で食卓について卓上を眺めることになります。」ともおっしゃっておられますが、それと同じような意味で言ったつもりです。

「給仕する人」を持ち出したのは、「右に置きます。」「左に向けて横にならべます。」という動作から想起される2つの視点が著者の脳裏を「無意識的に」よぎるからではないかと思ったからです。
「>食べ方から入ってる」のも、「食べる人の視点で話を進めますよ」という宣言のようなものと感じます。
本来であれば、食べ物を用意してから食べるという順序になるはずですから。
初段と後段を置き換えてみると、「置きます」「ならべます」がいかにも不安定に響くのは私だけでしょうか。
また、ここに「給仕する人の視点と取り違えられないように」という著者の(たとえ無意識的にせよ)意図を感じるのは不自然でしょうか。
「食事の順序」を無視してまで「食べる人」を前面に出す必要があった。
ここに、「給仕する人」が出てくる余地のひとつがあると言えるかもしれません。

つまり、著者は「置きます」「ならべます」と書こうとしながら、「給仕する人」の視点が「無意識的に脳裏を」よぎった。
それで、無意識的に「向かって右/左」という慣用句を使った。
というのが私の考えです。
#24さんは【>著者はここで「向かって」と書いているのだから、そこに必然性があるなら尋常な日本語と認められる】とおっしゃっておられます。
この「必然性」こそ、「向かって」という語句を省いた表現にした場合、「左/右」と認識する視点の主体が「食べる人」ではなく「給仕する人」なのかと誤った解釈をされることを恐れたからではないか、と考えるわけです。

ひとつ別の事例を挙げてみます。
街中のビルにある会社に、Aという人物から道順を尋ねる電話がかかってきたとします。
電話に出た受付嬢は、
「○○の角を曲がると大きなビルがあります。向かって左側に通用門がありますから、そちらからお入り下さい。」と伝えます。
この場合、受付嬢は「A氏の視点に立つ必要がある」と無意識的に判断して「向かって左側」というのだろうと思うわけです。
つまり、単に「左側に通用門がありますから~」とだけしか言わないと、A氏が「左側って?ひょっとして受付嬢から見て左側ということも有りうるな。」などと無駄な推測をしなくて済むように。
(話す側が「自分の左」という意味で使ってしまうことは、うっかりするとありそうですから、これを懸念するということですが。)
「向かって」と言う以上は、このような会話における主体は明らかに「電話の主であるはず」ですから、A氏としても安心して「そうか、私から見て左側ということだな」と(これも無意識的に)受け止めることができるように思うのです。

原文のような内容は明らかに「食べる人を主体と認識した」、あるいは「食べる人の視点という暗黙の了解がなされた」上での文章だろうと思います。
しかし、「食べる人以外の人(原文の場合は給仕する人)」の視点と間違って受け止められる可能性もあったので、「向かって」という語句を持ち出して【視点の主体】を再認識させたということではないかと思います。
また、このような感覚はこの著者だけに限らずネイティブとして自然なもので、「無意識的」に使われる場合が多いため解釈が割れるのだろうと考えます。

どうも「蟷螂の斧」といった風情で甚だ心もとない説明ですが、あくまで個人的な感想程度としてお聞きくださるようお願いしておきます。
ご質問外のことに長々とスペースを使ってしまい、もうしわけありません。
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この回答へのお礼

 たびたびありがとうございます。「向かって右/左」という表現は私には初めてで、そんなにたくさんのご回答を頂けるとは思いもよりませんでした。「向かって右/左」を自然に使いたいです。大変参考になりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/09 00:28

#17に記した敬語の問題に関する#22さんのご指摘は傾聴に値するものです。

まったく正しいと思いますが、あそこで、あの先に述べたかったことは別のことでした。

そもそも私はあの「書かれた」という敬語表現が基づくものが国境を挟んだウチ/ソト意識であるとは考えませんでした。もしそれが真相なら、そういう選択はあるとしても、やはりまた言わずもがなのことでしょう。学びの道に国籍はなんら関わるものではないから。(一歩ゆずっても冒頭の一回だけにとどめるべきだったのではないかしら。)

やはりただ同好同学の徒相互の、希薄なりとは言え我々という連帯の意識に基づいて言葉を組み立てるほうが得策であろうし、ここがコミュニティを標榜する場であることとも符節を合わせることになります。

それを前提とすれば問題の敬語表現「書かれた」は、自己の学業に裨益する書物の著者であるから師礼を取ると言っては仰々し過ぎるけれども、そのような意識によるものと私が受け取ったのも不自然なことではありますまい。

そして質問者と回答者を我々意識においてウチとし、ここでソトの者(ここでは参考書著者)に質問者が不用意もしくは不適切に敬語を使えば、内部集団では言葉遣いに同調圧力が掛かるから、それは傍迷惑に感ぜられる、ということになるでしょう。

不用意というのは敬意の対象たるべき所以が本人以外には分からない場合であり、不適切というのは#17で述べた距離が遠すぎる場合で、後者のほうが一般性が高いがゆえに学習者には利が大きいと見て、これを理由としました。

ああ、またしても時間がなくなってきた。結論は「敬語も節約したほうがいい」ということにしてここは打ちきりもう一つの問題へゆきます。

「向かって右/左」に関しては#22さんのご意見にはまったく賛成できません。

この問題は食べる人の立場になって考えたら駄目です。考え方は一つ。原文を書いた人の立場になって考えることだけでしょう。著者はここで「向かって」と書いているのだから、そこに必然性があるなら尋常な日本語と認められるし、ないなら不可として退けるのみで、私は十分に必然性を認めるものです。

給仕人なんぞのことを考える必要はありません。なぜってそんなことを著者は考えてないから。もし考えていたら、こんな順序の叙述にはなりますまい。食べ物を卓上に配置することから初めるでしょう。

でもこれは食べ方から入ってる。しかもはなはだ現代的なことに左ぎっちょのことを配慮して「右手は箸を持つほう、左手はお茶碗を持つ手」という子供に左右概念を教える常套句さえ捨てる気組さえ露わにしています。

初段の主意は、食器は手に持て、ということです。

これは左右をわざわざ言わないのですから、著者は十分にそれを意識していることになります。そこへ「向かって」が現れる。視点は二つに分裂します。

分裂するからその一方を担うべく読者は想像の中で食卓について卓上を眺めることになります。

後段の主意は、食器の配置は決まっている、ということです。初段が食器は上下に動かせ、だったのと対照的に後段は左右に動かすな、になっているのかもしれない。

まあそれは深読みに過ぎるかもしれませんが、日本語でものを言えばそこには必ず、常に、話し手と聞き手の関係が包含されてしまう、それは日本語の宿業とでも呼ぶべきもので、この「向かって」はただ一語でわざとかたまたまか知りませんがそれを露頭せしめたようにも思います。

これでも給仕人が出てくる余地はあるでしょうか。
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この回答へのお礼

 たびたびありがとうございます。「敬語も節約したほうがいい」ということに留意します。「向かって右/左」の問題も大変参考になりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/08 19:05

#22です。


自分の回答内容を読み返してみましたが、どうも気に入りません。
わかりずらいのは表現不足(謙遜ではありません)ということで御寛恕いただきたいと思いますが、とりあえず1箇所だけ訂正させて下さい。
第三項の
【つまり、この「向かって右/左」という表現は、話し手(または筆者)が、「聞き手(または読者)が、【主体の視点】を取り違えないようにするための配慮」と言えるような気がします。】という部分を以下のように訂正します。

==================

最初に述べたように、このような文は「食べる人の立場に立って」書かれているはずです。
それにも拘わらず、動作主体が複数(食べる人・給仕する人)の場合もあります。
『どちらの場合であっても、「右/左」というのは「食べる人 対 食卓」の関係ですよ。』という意味で、「向かって右/左」が使われているのでしょう。
つまり、この「向かって右/左」という表現は話し手(または筆者)が、「聞き手(または読者)が、【視点の主体】を取り違えないようにするための配慮」と言えるような気がします。
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この回答へのお礼

 再びありがとうございます。おっしゃったことは理解できます。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/08 14:15


私の勘違いかもしれませんが、どうも「林を見て森を見ず(でしたっけ?)」あるいは「盲人が象を語る」類の論になってきているような気がします。
つまり、誰も間違ってはいないけれど根本的な答えになっていない、と思うわけです。
「森」の姿が見えてくるかどうかわかりませんが、試してみたいので参加させてください。


基本的には#9さんのご意見に近いのですが、「森」を見るためのヒントが#18さんのご回答にあるように思います。
【食べる人の立場になって考える】という一節です。

確かに、前半の「茶碗やおわんを持ったり、はしでいただく」のは「食べる人」でしょう。
しかし、後半の「ごはんやみそ汁を置いたり、はしを並べたりする」のは、必ずしも「食べる人」とは限らないように思います。
つまり、#13さん(=#18さん)のおっしゃるように「給仕する人」かもしれないわけです。
給仕する人は、常に食卓の手前(食べる人の側)から給仕するとは限りません。
お客さん(あるいは家族)に【対面する形】で給仕する場合も多いはずです。
というか殆んどでしょう。
この場合、ごはんは給仕する人から見て右側に置かれることになります。
しかし、食べる人から見ると左側になります。


つまり、前半と後半で述べられている内容は、【着目される主体】が「食べる人」から「給仕する人」へと変化する場合が実際問題としては多い、ということが言えるのではないでしょうか。
しかし、この文は日本の食習慣を説明している文なので、「動作する主体」が一人ではないかもしれないという可能性を軽視して(と言うと大げさですが)、どちらも一律に「日本人一般」としてしまっていると思われます。
そして、その(主体の)視点の混同を避ける為に、あるいはその不明瞭さを補うために、「向かって右/左」という慣用句が(無意識的に)用いられているのではないでしょうか。

主体がどちらも「食べる人」であることが明確になっている場合であれば、後半は、
「食卓にはご飯が左に、みそ汁は右に置かれます。おはしは、ご飯やみそ汁の手前に、はし先を左に向けて横にならぶことになります。」
などのように、【向かって】という言葉を除いても自然に聞こえるように思われることからも、そう思います。
つまり、この「向かって右/左」という表現は、話し手(または筆者)が、「聞き手(または読者)が、【主体の視点】を取り違えないようにするための配慮」と言えるような気がします。

awayuki_chさんの意図した回答内容とは異なっているかもしれませんが、大事な点だと思うので個人的感想を述べさせていただきました。


awayuki_chさんの著者に対する敬語についても少し私見を述べさせてください。
「敬語不要論」という#17さん(=#9さん)の説明は興味深い内容で、正鵠を得ているように思います。

ただ、最後の段落で述べられている「敬語は相手を巻き込む」という点に多少異論があります。
awayuki_chさんにしてみれば、回答者の殆んどは日本人なわけですから(しかも回答をお願いしている)、「日本人の作者(著者)」の「作者」ではなく「日本人」という部分に対して、つい敬語を使用してしまったように思います。
「日本語の参考書」で済むところを、思うところあって「日本人の作者が書いた」という注釈をつけることにしたのでしょう。
その際、この質問文を読む日本人である回答者の面々が想起され、「日本人の」と注釈を付けた以上は敬語を使うべきだとした判断は、むしろネイティブに近いものと思われます。

我々回答者としては、身内に使われた敬語を、自分が同じように使わなければならないことが無いのと同様に解釈すれば良いのだろうと思う次第です。
ただ、繰返しますが基本的には正鵠を得たご意見であろうと思いますし、この点に関して全く異を唱えるものではありません。
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この回答へのお礼

 毎度お世話になります。
 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。「着目される主体」の問題なのですね。大変参考になりました。
 また、敬語へのご説明に感謝いたします。たぶんhakobuluさんのご察したとおりに、無意識に「日本人の作者」の「日本人」という部分に対して、つい敬語を使用してしまいました。「中国人の作者」なら、「中国人の作者が書いた日本語の参考書を読んでいますが」と書くつもりですので。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/08 13:48

では左手に達磨を抱き、右手に筆ペンを構えて物知り博士に尋ねてみましょうか。



「ねえねえ、ダルマさんに願掛けするときってどっちの目を塗ればいいの?」
「左。」
「左って?」
「左目。つまり向かって右の目。」


このように、視点の置き所が複数あって(達磨の視点もあるわけです)、しかも誰がどこを向いての右左かがコンテクストから明らかなときに「向かって」右とか左とかあっさり言うのです。

この例をご覧になれば、べつに自分と向かい合うものに対してのみ使うわけでもなければ、当人と同じ場所にいたら使えないわけでもないことは自ずから明らかでしょう。


>誤解したのは「食卓には」の意味ではありませんか。

それは皮相な見方です。その誤解は「向かって右/左」という本来なら必須と思われる視点と指向対象の明示を欠く表現をご存知なかったことの結果にすぎません。元凶たる「向かって右/左」を理解していただけなかったら我々の問答は無駄だったということです。


「ねえねえ、願いがかなったらどっちの目を塗るの?」
「残ってるほう。」
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この回答へのお礼

 「向かって右/左」についての面白い例文、ありがとうございます。「向かって右/左」は初めてなので、確かに頭を悩ませました。大変参考になりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/08 13:24

awayuki_chさん、皆さん、途中から入り込んできてこの場を混乱させたようで、申し訳ありません。



ただ、日本語として正しくわかりやすい文を質問者さんに覚えていただくように手助けするのが、ここで回答するものの務めだろうと思いましたので、日本人の中にも疑問に思う人が出るようなこの言い回しを、そのままスッと流してしまうのはどうかと思い、しゃしゃり出てきたようなわけです。

awayuki_chさん、素晴らしい日本語をお使いになりますね!いつも感心して読ませていただいておりました。
どうぞこれからも頑張ってください。
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この回答へのお礼

tjhirokoさん

 たびたびありがとうございます。tjhirokoさんは全然悪くないので、どうぞ謝らないでください。人によって言葉のイメージは違うものですね。「向かって」についてのご意見は日本語の学習者である私にはとても参考になりました。ネイティブの方の中でも、疑問に思う方がいらっしゃったと覚えておきます。
 いつも応援していただき、本当にありがとうございました。これからも頑張ります!よろしくお願い致します。

お礼日時:2006/03/08 12:50

awayuki chさん、疑問は解けたでしょうか?回答がバラエティに富んでいるのでかえって混乱が起きたかも知れませんね。



回答者のみなさん、
回答する相手はawayuki chさんです。思うところを淡々と述べましょう。説明が分からなければ質問者が再度尋ねるはずです。回答者間で議論しても仕方がありません。

私は質問者の疑問は食卓の礼儀作法でもなく、向かって右でも左でもなく、日本語として理解しがたいという一点だと理解して回答しました。質問者が誤解したのは「食卓には、」の意味ではありませんか。日本語の教材本にある例文としてはもう少し外国人に分かりやすい説明が必要だと思います。
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この回答へのお礼

martinbuhoさん

 お気を使っていただきありがとうございます。疑問はすでに解けました。「食卓には置く」を「食卓には向かう」と勘違いしたほかに、「向かって左・右」という表現も分からなかったので、文の構造で行き詰まってしまいました。皆さんのおかげで、もうすっきりしました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/08 12:35

#13ですが、#9,17さんの回答を読んで一言書かせていただきます。

ただ、お使いになってる語や言い回しがとても難しくて(これでも私は40代後半の日本人ですが)意味を勘違いして読んでいるかもしれません、もしそうであったらお詫びいたします。

この質問文では語り手や読み手の位置や存在を意識するまでもないのではないかと思います。ただ単に、「食卓にはご飯は左、みそ汁は右に置きます」ということを説明できればいいのですから。

私が「自分」を持ち出したのは、食卓についた時の「食べる人」をイメージしないと状況がわかりにくいと思ったからでして、自分だろうがあなただろうが語り手だろうが読み手だろうが、この場合はみんなが食卓のこちら側の、食べる人の身になればいいと思います。

料理の作り方の説明文ではみんなが作る人の立場になって読みますよね。この、食卓での食器の並べ方の説明文でも同じで、みんなが食べる人の立場になって考えるのが普通でしょうから、食べる人から見たら「食卓にはご飯を向かって左に置きます」という文が私には違和感があると書いたまでです。

ということですので、どうぞそんなにお怒りにならないでください^^;;
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この回答へのお礼

 たびたびありがとうございます。
 「食卓にはご飯を向かって左に置きます」という文には違和感があるネイティブの方もいらっしゃったと覚えておきます。言葉から受けたイメージは人それぞれなので、よく分かります。
 ご意見本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/03/08 12:24

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