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「太陽」「線分」「洞窟」の比喩の中で、知、無知、思惑(臆見)の三つの認識状態をどのように区別しているか、教えてください。

A 回答 (1件)

 


  まず、わたしはまことに無知であるので、このような問題について確かにこうであるとは言えないということを前置きします。参考URLにある、プラトーンの『国家編』からの引用の文章を読んで、どういうことか考えてみました(本当は、この本は読んでおかねばならない本なのですが……「プラトン全集」は何のためにあるのか、と思います。本棚に並べているだけですね)。
 
  三つのこと、知、無知、臆見が問われていますが、ここでは、「無知」はどう扱えばよいのか分からないので置いておきます。最後に無知について考えてみます。
 
  引用のプラトーンの文章からも読みとれるように、プラトーンは、真理論について、「真知(エピステーメー)」と「臆見(ドクサ)」の二つの審級を立てました。また、感覚的認識と、知性的認識(または叡智的認識)の二つの認識の審級を立てました。プラトーンは色々なことを言っていますが、真知とドクサについては、これを区別しましたし、感覚と知性も、これを区別したことは事実です。
 
  人間は、認識能力として、感覚認識と、知性認識の両方を持ち、また、知識については、多くの人は、臆見に捕らわれているが、賢者は、真知を得ることが可能だとされます。無論、この場合の「真知」に更に、審級があるでしょうが。人間の身で、完全な真知、善のイデアーそのものを認識することなどできないからです。
 
  「太陽の比喩」では、太陽が善のイデアーの比喩になっています。そして太陽を認識する時、とりあえずは、感覚的認識で、それはまばゆいものだとか、熱いものだとか、光っているものだとか、色々な認識がある訳で、これらは、太陽という実在については、個人個人の思いこみで、臆見(ドクサ)のレヴェルにあるとも言えます。太陽そのものは、臆見の知識の上に、知識の源として、実在としてある訳です。そして、善のイデアーは、これを認識するには、叡智的認識が必要であるが、それでも、我々が認識できるのは、あるものは良い、それ故、このものには、善が分有されているというようなことで、善のイデアーそのものは認識できない実在として、超越的に留まっていると言うことが言えます。
 
  ここで、「太陽」が「善のイデアー」の比喩であるというのは、太陽は、単に、感覚的に認識され、臆見としての知識の源であるだけでなく、光を放射し、ものを育て、生成するという積極的機能を持っていると言うことです。普通の感覚的認識の対象としての実在と違い、実在を生成する役割が太陽にはあるというのです。これと類比的に、善のイデアーも、事物、実在を生成し、生み出す能力があると言います。善のイデアーはイデアーのイデアーとして静的に認識や観照の極致にあるだけでなく、実在を生成し、実在を支え、実在の根拠であるというのです。これは、新プラトン主義の「一者」からの事物・実在の階梯的生成・流出の原理論であるとも言えます。
 
  「線分の比喩」においては、一本の線分を二つに分け、一方を、叡智的認識の領域とし、先の善のイデアーの認識の領域、他方を、感覚的認識の領域、先の太陽の領域として、更に、この領域を、同じ比率で、分割し、全部で四つの領域を考えるのです。後の分割は、感覚的認識の領域で、似像あるいは影像(エイコーン)の領域と、その像の元になっている原像の領域とします。例えば、鳩なら、鳩の実在に対し、その感覚的認識の像としての影像(エイコーン)としての「認識像=臆見」があるのです。真の鳩の像、真知の鳩は、原像の側にあります。
 
  このような原像と影像の関係を、叡智的認識の領域に類比的に当てはめ、この領域の影像の領域に当たる部分では、魂は、感覚的認識の臆見は克服して、感覚的な認識の原像の真知を捉えているとしても、そこから、考えを知的にめぐらして、結局、自己の思いこみのなかで自己完結し、真の認識へと進まないという認識者=魂の段階に対し、他方の、原像に当たる領域では、魂は、感覚の臆見を越えた真知を手がかりに、知性の臆見を克服しようと、叡智への道を探求し、ものごとの本質、究極的には、善のイデアーへと、真知への道を一歩一歩進んで行くことができる段階・領域だと述べているのです。この第四領域の探求が、魂の愛智者としての望むべきありようで、この段階・領域に、諸々のイデアーの真知があるという比喩的な話なのだと思います。
 
  「洞窟の比喩」は、参考URLに載っていませんが、これは有名な比喩で、我々は暗い洞窟のなかにいるのであり、奥の壁を見ているのです。すると、壁には、色々なものの形が見えていて、我々は、この形を見て、馬はこういう動物であるのか、とか、悪い人間とは、こういうことをするのか、とか認識するのです。それは、感覚的認識の場合もあれば、知性認識の場合もあるでしょう(此処は、少し不確実ですが。比喩の訳文の部分でも参照しながら書けば、もっと正確になるのですが)。
 
  しかし、我々が壁に見ていたものは、実は、洞窟の外にある太陽あるいは、光の源が、元の原像に光を当て、その影が実は壁に映っていたのだとすればどうなるのか。わたしたちの認識は、事物の本当の姿ではなく、その影、影像(エイコーン)を見ていたのではないのか。エイコーンを元に感覚的に認識を行い、ドクサに捕らわれ、あるいは知性認識で、感覚のドクサを脱して、知性の真の知識を得たと、「思いこんでいた」だけではないのか。壁の方ではなく、洞窟の表を見れば、何が影の本来の原像であったか、更に、影を造っていた、光の源も見えるはずである。しかし、私たちには、振り返って背後を見ることが許されない。可能ではない。それ故、影像を元に、知性ある者でも、原像は何であろうか、光源は何であろうかと、臆測するだけである。
 
  しかし、叡智ある者は、事物の原像とは何かを知ることができるであろうし、魂の叡智的探求においては、原像の背後の光源そのもの、すなわち、イデアーのなかのイデアーである、「善のイデアー」とは何かの真知へと、近づくことが可能なのではないのか。その場合、神話という方法で、光の輝きを防ぐしかないのであるが。
 
  ここで、知(真知=エピステーメー episteemee)と臆見(ドクサ doksa)の関係が出てくるのですが、無知(アグノアイ)はどこで出て来るのかということです。或る意味、真知と臆見の懸隔や、感覚的認識と叡智的認識の関係を述べているところで、実は、無知が語られているのだとも言えます。臆見の上に真知があると言うことは、臆見を持つ者は、自分では「知識ある者(ソポス)」と思いこみながら、実は「無知な者」であるとなる訳で、知を持つ者も、その上に更に審級の高い真知があることを思うと、自己は無知であると悟らざるを得ないですし、何よりも、「洞窟の比喩」は、人の存在のありさまが、根元的に「無知」であることを語っているとも言えるでしょう。感覚的認識に対する叡智的認識の真理の審級からも、無知は出てくるのであり、真知の道は限りないということになり、また、その道を歩み始めると、常に自己が「無知」だと悟らざるを得ないということでしょう。
 

参考URL:http://www.ne.jp/asahi/village/good/platon.html
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって、すみません。m(_)m。大変参考になりました。レポートに、おおいに役立たせていただきました。プラトンは、すごく難しいので、たいへん嬉しいです。本当、ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/10 15:55

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