プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

どうも最近は正義(というか道徳的に正しいこと)が嫌われてるような気がします。
幼稚園の頃や小学校低学年の頃は「いいことをする」のは当たり前でした。
親や先生にもいいことの出来る人になりなさいと教えられましたし、そうなることを望んでいました。
しかし年齢が上がるにつれ、その「正義」は当たり前のことではなくなったと感じます。

「みんなと仲良くする」ことは八方美人に。
「困ってる人をたすける」ことは良い格好しぃに。
「悪いことを注意する」ことは偽善者に。
「ちゃんと勉強する」ことはガリベンに。
「正しいことを言う」ことは奇麗事に。
良いことのはずなのに、何故こんな不名誉な風に言われてしまうんでしょう。
そして未成年のタバコなど、犯罪が憧れられています。
本来逆では?と思うのですが…。

これは思春期特有の反抗期(つまり大人が言う「良いこと」に反発している)からかとも思ったのですが、大人にもこういう人がいるので違うのかもしれません。
マンガや本などでも、昔のような典型的正義の味方は少なく、クロサギなどダークヒーローものが多くなっています。
これは、現代人が昔のような「綺麗な正義」を好きじゃなくなっているということでしょうか。

同時に、神様も嫌われる傾向にあるようです。
最近の主人公は天使よりも悪魔が多く、神・天使などは「神の名の元に人間皆殺しを考えていた」などとして悪者にされることが多い気がします。(私が読んだモノがそうだっただけかも?)
そして私の周りでは「神なんていない」という人が圧倒的に多く、そう言う人はだいたい神様が嫌いです。
幼い頃は神様が嫌い(または神なんていない)という子は少なかったはずなのに、なぜ今は神様がこんなに嫌われてしまってるんでしょうか?

哲学に関して全く無知なので、どなたか分かり易い回答お願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

#14です。


お礼の書き込みありがとうございました。

>それでも言い方や付き合い方はどうあれ、「イジメはダメ」≒「皆と仲良く」という内容の根本的な所は学校でも幼稚園でも塾でも一致していると思います

いいえ、それは違いますよ。
塾というのは「成績を上げるため」という目的がはっきりしているため、学校のように「いい人間になりましょう」という「建前」ではない「本音」で生徒とつきあえるのです。
だから塾でいじめがあったら「いじめはだめ」「みんなと仲良く」という理想論を言うのではなく、生徒に「いじめたくなる気持ちもわかるけどさ・・」という話から入ります。
これは教師としてではなく、人生の先輩として語るのです。
「いじめはあってはならない」「いじめる方が絶対に悪い」というのは理想論に過ぎません。
人間の本音を言わせてもらえば
「いじめられる方にも原因がある」
「どこの世界にいってもいじめはある」
「いじめられる方が改善しないといじめはなくならない」
ということです。

「不潔にしてたり無愛想でいる子と、誰だって仲良くなんてしたくないよね」という共感は生徒に対して私は持ちます。
その上で「でもいじめる方もみっともないし、くだらない」という話をすると、いじめる側だった子たちは「ふんふん」と頷いて聞いてくれるのです。
これは学校教育で「みんな仲良くしましょう」「いじめたりしてはいけませんよ」と言っても、生徒の核心、人間の本質を無視した、ただの理想論だから、誰もついてこないのです。

もともと、幼稚園や小学校低学年で教えられる「いい人間になりましょう」というのが「いい子ぶりっ子」なのです。
人間は善だけでできているのではありません。
もともと善も悪も持っています。
善だけを伸ばして行きたいという教育方針でも結構ですが、もともと持っている悪の存在を認めず、無視しているから結局は反発されるのです。
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>「みんなと仲良くする」ことは八方美人に。


「困ってる人をたすける」ことは良い格好しぃに。
「悪いことを注意する」ことは偽善者に。
「ちゃんと勉強する」ことはガリベンに。
「正しいことを言う」ことは奇麗事に。

何をやっても批判する人は必ずいます。批判する人がいないと独裁国家になってしまいます。
正しいと思えば正しく間違っていると思えば間違いで、善と思えば善、偽善と思えば偽善になるんじゃないかと。必ず表と裏があって何をしてもメリット、デメリットがあるように、良いほうに解釈もできれば、悪いほうにも解釈できるでしょう。最終的には何が善で何が偽善か何が悪かは神様が決める事で人間が決める事ではないようにも思います。
人間にできる事は自分の倫理観や基準に沿って自分が良いと思う事を試行錯誤しながらやるしかないと言う事だと思います。
善行をしたと思っても人から偽善だと言われてそれが嫌なら止めとけばいいわけで、偽善と言われても批判されても自分の信念に従って行動するしかないんじゃないでしょうか。

>なぜ今は神様がこんなに嫌われてしまってるんでしょうか

本来嫌ってはいないと思いますけど、目に見えないものなのでアテにできないと思う人が多い結果じゃないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が大幅に遅れてしまい、大変申し訳ありませんでした。
なるほどぉ…今までこういう考え方はしたことなかったのでとても新鮮です。
>善行をしたと思っても人から偽善だと言われてそれが嫌なら止めとけばいいわけで、
それで止めてしまう人がすごく勿体無い気がするんですよね…私のようにひねくれてしまう人もいるかもしれませんし。

お礼日時:2006/08/24 02:27

次に立てられたご質問にもお答えしておりますが、こちらでも思うことを書かせてください。



>幼稚園の頃や小学校低学年の頃は「いいことをする」のは当たり前でした。親や先生にもいいことの出来る人になりなさいと教えられました

学校教育の方が「建前」です。
大人の姿の方が「本物」です。
私の知り合いで教育者という人が二人いますが、Aさんは家では子供と一緒にゲームを楽しみ、Bさんは家でも教育者の裃を脱がず子供にゲームを禁止しています。
Aさんの子供はとても明るく素直に育ち、Bさんの子供はノイローゼになっています。


学校では先生は、朝寝坊もしなければお酒も飲まない性行為もしない聖人君子でなければなりません。
私は塾の講師の仕事をしていましたが、塾は学校と違って「建前教育」はしません。
だから生徒たちに本音でつきあうことができます。
本音でつきあうからこそ、「いじめなんてやめようよ」と言えば説得力があるのです。
学校の先生に「イジメはだめですよ」と言われても、綺麗ごとにしか捉えられませんよね。

私はもともとは正義だけで塗り固められた教育の方が不自然であると思ってます。
人間は本来汚れている、というよりも、「本音」の部分は聖人君子ではないということだと思います。
そして本音を自分で認め、本音をさらけ出すことの方が、私は「真の正義」だと思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が大幅に遅れてしまい、大変申し訳ありませんでした。
確かにこの世界には本音と建前がありますし、先生だって人間だ、というのも分かります。
しかし、ここでの「建前」というのは「そうなれれば理想だけど…」という姿ですよね。その理想に近づくにこしたことはないじゃないんでしょうか。
「本人が嫌がってるのに勉強を強制する」というのは「熱心に勉強する」という理想とは違いますよね。
対して、幼稚園や小学校低学年の頃は「いいことの出来る人になる」という理想に「自ら」近づいていこうとしていました。
これはBさん親子とは違って強制されてる訳ではないのだし、デメリットはないはずです。
ですが、成長するにつれその理想に近づいていくことに「恥ずかしい」「良い子ぶりっこ」というデメリットが発生しました。これは皆がその理想を否定したからです。
でも何故理想が否定されなければならないのでしょう。Bさんと違い、誰かに強制したわけではないのに。
本音を出した上での教育、というのは素晴らしいと思います。
それでも言い方や付き合い方はどうあれ、「イジメはダメ」≒「皆と仲良く」という内容の根本的な所は学校でも幼稚園でも塾でも一致していると思います。
でも、その根本的な理想を実行すると、何故か陰口を言われたり…というのが解せないのです。

お礼日時:2006/08/24 02:22

#5です。


平和もしくは暇じゃないかと言ったのは、質問者様の事ではなく、八方美人とか偽善者とか思う人のことを指したつもりです。
たしかにおかしいですよね。でも残念ですがこういう風潮なのは仕方ないですよね。(T_T)
ダマす方よりダマされる方が悪いと言われかねない世の中ですし。
相手の言葉の裏を読み過ぎたり、自分がだまされないように、まっとうな捉え方ができなくなってきてますよね。 何が正しいかも分からないですし。
社会では、自分を正当化する事に一番注力してますよね。
国会議員も企業の経営者も。
「間違っている事」を「間違っていました」と言えない世の中はこの先どうなるのでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
善悪の区別は曖昧ですから、自分が善になるように境界をゆがめてしまっているんでしょうか…。

お礼日時:2006/05/14 23:27

No.11さんの回答で思い出したのですが、今ユダの福音書が修復されている(いた?)ようですね。

それによると、一番キリストを理解していたのは、実はユダだったのです、となっているそうです。
マグダラのマリアでしたっけ。彼女はキリストの愛人だったのではと。
そもそも今認められている福音書自体幾人ものキリストの弟子に語り継がれてからまとめられたものらしいですし。その後教会で様々な司教もろもろが解釈改変加えに加えて、アリウス派グノーシス主義もろもろ追い出し、現在のキリスト教になっていますからね。
父と子と精霊の三要素に全てをしわ寄せして、汚いものを見つめずに回収せずに来ていますから、後から何度も帳尻合わなくなるのですよ。
あたらしい物を作るのならともかく、最初からあるものは、認めるしかないのに・・・ね。
でも神様を信仰すること自体が悪いとも思えませんけどね・・・。多分親が「とにかく神は危ないんだ」とか「神なんて信仰してる奴は頭おかしい奴ばかりだ」とか適当な説明のしかたでもしてるんでしょう。大事なのは詳細だと思うんですがね・・・。うちの家ではきちんと「こうこうこういう理由でいけない」と説明されたりしましたが・・・。
なんにしても信仰というのは非常にコツのいる作業で、簡単にできるもんじゃないのだから、関わらないのが一番というのは確かでしょうね。最近は物騒な宗教も多いらしいですよ。良く知りませんが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ユダってイエスを売り渡した人ですよね。
その人が最も理解していた?…気になります。
宗教や神を信じること自体には罪はないと思うんですが…それによって人に迷惑をかけると色々おかしなことになってしまうんですかね。

お礼日時:2006/05/14 23:18

良いことについては、


質問者さんの意見にも一理ありますが
本当に「良い人」は他人の評価なんて気にしません。
たとえどんな悪い評価をされてもまったく気にせずに
良いことをし続けます。
良いことをしているのに悪い評価をされていることに
不満を持っているということは、
「良いことをしたんだから、良い評価をしてもらいたい」、
または、「良い評価をもらうために良いことをしている」という。
一般に言う「偽善」が含まれているのではないでしょうか、
私はたとえそれが偽善だとしても、「良いこと」をすることは良いことだと思いますが。

神について、
様々な神話を見れば良い神様も、悪い神様もいると思いますが、
キリスト教の神(絶対不可侵、全知全能)
について話します、彼はかなり理不尽です。
悪い人が増えたので一部の良い人たち(ノア一家)と一部の動物
を除いて大洪水ですべてを滅ぼす行為は、
「神の名の元に人間皆殺し」以外の何物でもないと思います。

また、神にそれぞれ「作物」と「家畜の肉」を捧げた兄弟
がいましたが、
動物も植物も同じ命には変わりが無いのに、
神は肉の方を喜びました、
作物を捧げた方は、神様に喜んでもらうために
「すべての動植物を与えられた上位の存在」である
人間の肉(家畜の肉を捧げた方)を神様に捧げました。
神様はその人を呪いました、
全知全能の神様ならそのぐらい予想できたはずです。


物語については
単に正義の味方が魔王を倒すというお決まりで単純なストーリーに
飽きてしまっただけでしょう、
一般に悪や邪と呼ばれる存在を主役にしたほうが話が複雑に
より深くできます。
最近のアニメは小さな子供がみても理解できないものが多いのではないかとも思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「偽善」まさに私のやってることですね(笑)
「偽」善と善の違いって何なんでしょう。最近よく分からなくなってきました。
キリスト教、旧約聖書ですね。理不尽というか何というか…。
この前仮面ライダーを見ましたが、プリキュアの前にやる内容には見えませんでした(笑)

お礼日時:2006/05/06 05:17

正義も善も悪も人間が勝手に決めた概念に過ぎません。


まあ、いわゆる善悪で考えた場合、そもそも人間自体が『悪』なのかも知れません。高齢者なんてひどい人が多いし、いろいろ言われていますが若い人の方が純粋で真面目な人が多い。
また、宗教もひどい!
宗教裁判、魔女狩り、火炙り、侵略、戦争………
ハレンチ住職や牧師とか。援交を禁止する法令が施行された時、逮捕された犯罪者第一号は住職でしたね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
環境面から見れば人間の存在自体が悪ですしねぇ…。
援交逮捕者一号が住職とは!驚きです。

お礼日時:2006/05/06 23:26

「正義」は逆の立場から見れば「悪」に過ぎない、そしてその逆もあるということです。

「正義」「悪」は主観的、相対的です。客観的、絶対的ではありません。
>ちなみに私は自分のために「いいこと」をしていますよ。
 嫌われている子とあえて話すのは、それだけ自分への信頼が増えるか ら。友達の頼みを断らないのは、貸しをつくることと評判を上げるた め。相談に乗ってあげるのは、情報を手に入れるため。(言いふらし たりしないのは、評判が下がるから)
 仲間はずれにしないのも、助けてあげるのも、相談に乗るのも、一般 には「いいこと」です。(たとえ下心があったとしても。)
No.2さんへの回答ですがこれもそうです。あなたにとって「いいこと」が本当は「悪いこと」かもしれません。
例えば嫌われている子があなたの意図を疑うかもしれないし、嫌われている子と話すあなたを見てほかの人たちも不信感を抱くかもしれません。また、友達はあなたを便利屋と思うかもしれません。
(これらはあくまで可能性です。)
それに、あなたの言う「いいこと」はあなたの主観的なもので「一般には」そうとは断言できません。
>「みんなと仲良くする」ことは八方美人に。
 「困ってる人をたすける」ことは良い格好しぃに。
 「悪いことを注意する」ことは偽善者に。
 「ちゃんと勉強する」ことはガリベンに。
 「正しいことを言う」ことは奇麗事に。
 良いことのはずなのに、何故こんな不名誉な風に言われてしまうんで しょう
「みんな」「困ってる人」「悪いこと」「ちゃんと」「正しいこと」の定義のせいです。これもまた主観的、相対的です。
神が嫌われたのは、神を信じてない人間(無神論者、仏教徒等)や神を信じたり祈ったりしていたのにひどい目にあったりした人間の増加、
科学の発達などが主な原因ではないでしょうか。それと悪魔は人間に優しいという利点があります。これはあなたが言うところの「下心」です。逆に神は基本的に人間に厳しいです。
私自身は神に対しては曖昧な立場です。神がいてもいなくてもどうでもいい、と思っています。もしいれば神が絶対の支配者なら人間の抵抗は無意味、神が傍観者なら存在を無視できる、ただそれだけのことです。

この回答への補足

ご指摘の通り、私の言葉のほとんどは主観的です。
しかし、「みんなと~」以下の5つは一般的にいいことであり、良くないというのは少数だと思います。
というのも、これらは私が幼いころに「善い」と教えられたことだからです。
一般に「良くない」とされていることを子供に教えるでしょうか?

それと定義が曖昧、とのことなので、実例を挙げます。
クラスの子と分け隔てなく話したり遊んだりした。(みんなと仲良くする)
荷物を抱えている人のためにドアを開けてあげた。(困ってる人をたすける)
校則違反を注意した。(悪いことを注意・正しいことを言う)
日ごろから予習・復習をして、テストの結果も上位だった。(ちゃんと勉強する)
これらは結果として陰口を叩かれたり非難を浴びたりしています。
子供に教えるということは、一般的にもいいことのはず。なぜそれがこういう結果になってしまうのか、気になります。
それとも私のこの考えがズレているんでしょうか?

補足日時:2006/05/06 04:45
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
現代人にとっての神は科学だ、というようなことを聞いたことがあります。(ウロ覚え)
科学による証明は宗教的なものを覆していきますしね。(アダムとイヴあたりもそうでしょうか)

お礼日時:2006/05/06 04:45

がるです。


結局のところ、人は多くの場合において「よかれ」とおもって行動をすると思うのですが。
その行動が「本当に相手にとってありがたいことなのか」を常に自問自答すると共に、常にそれが「ありがた迷惑であると嫌がられる」「周囲から非難される」可能性を胸に秘めておく必要があるのだろうと思います。
「自分が良かれと思ったのに相手にとってはよくないことで、そのために非難されて他人を救う気をなくす」のであれば、多分それは始めっからやらないほうがマシでしょうし。

よく「相手の立場になって」といいますが。これほどまでに難しい言葉はないと思います。なにせ相手の立場になど間違ってもなれないのですから。時々「相手の立場に"自分が"なった」ことを想定する人がいますが、無意味ですし。

とはいえ、偏屈な人間は例外として、多くの人が普通に「喜んでくれるであろうこと」をするのは、それはそれで「あり」なんじゃないかなぁって思ってます。
それこそまさに書かれているとおり。席を譲るとか。悩んでる人には、愚痴を聞いてあげるだけでも、ある程度までは結構助かったりするものですし。

神様については…多神教ベースだと「いいジャン色々いるし~」って感じですよね、まさに。
ちなみに「ぬいぐるみの神様」は、ツクモガミって名前で実際にあるとされている神様です。昼寝は…いたかなぁ? 探したらいそうだ(笑
こういう多神教レベルでの神様って、身近に感じるとなんか気持ちが豊かになれるように思うのは私だけでしょうか???

字面の定義としての正義やら神様やらでなくて。なにか人として大切なものを探していくと。
きっとそこには、そんな風な「なにか」が見つかるのではないでしょうか?
清く正しくただひたすらに白い何かではなくて。白と黒の境目にある、清濁を併せ呑んだ先にある、ご自身にとっての「素敵ななにか」が見つかることを、心よりお祈り申し上げます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
本当に相手のためになるかどうか、よく吟味するのが大切なんですね。
その「素敵ななにか」を見つけ出すことができるよう、自分なりにも色々考えていこうと思います。

お礼日時:2006/05/06 04:34

#4さんの回答を読ませていただき、私も今悩んでいることがあります。


町内に鳩が多いのですけど、餌をやる方がいます。
鳩に餌をやることは、動物愛護の観点から正しいことですし、やらなければ多くの鳩が死んでしまい可愛そうです。
ところが別の面から考えると、増えた鳩によって洗濯物が汚され、植木が枯れてしまい、大変な迷惑なんです。
この立場で考えれば、鳩に餌をやらず、自然淘汰(死んでいく)に任せる事が正義であり、むやみに餌をやる人間は悪の化身に他なりません。
ご質問者が書いている、困った人を助けるという行為も、例えば自立しようと頑張っている障害者などにとっては、訳もなく手助けされることは、自分の自助力を奪われることで、迷惑な話ですし、悪いことを注意するにしても、何が悪いことなのか理解できないこともあります。
人殺しは悪いと言われますが、先般の安楽死など、打つべき手を尽くしてもうこれ以上は患者の負担が増すばかりと、安楽死を選択した外科部長と、命ある限り全力を尽くすという内科の院長の考え方の違いもあるようですが、門外漢にはどちらが正しいのか全く分かりません。
勉強でも、机の上の勉強をする暇があればもっといろいろな体験をした方がよいという方もいます。
価値観があまりに多様化しすぎて、分からない世の中になったということもあるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
近くの公園でもエサ禁止の札を見かけます。どちらも「善」であり「悪」なんですね…。
価値観の多様化…これも良い現象なのか判断しにくいですね。

お礼日時:2006/05/06 04:27

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