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最近教えてgooの哲学のカテゴリーをのぞくようになったのですが、攻撃的仏教徒の多さにびっくりしています。

経典を読んだり、参考書を読んだりしてたくさん勉強なさったんでしょう。でも仏教徒として、他人のあら捜しではなく、自分の煩悩をみつめ、ここに書き込みをして自らの知識を誇り、優越感にひたる自分を見つめるのが先ではなかろうか、とふと思います。

もちろん相手のことを考え慈悲に満ちた回答をなさっているかたも多いです。
一方で悟ってもいないのに、あたかも悟った人のように、真理をその手にしているように説教するかたも見受けられるように思います。

皆様、よくみかける攻撃的仏教徒についていかに思われますか?

「敵を愛する」ってのが根本教義の一つなのに、なんで長々と宗教戦争やったんだ、というキリスト教とかもそうで、宗教の攻撃性、排他性みたいなのは人間の愚かさの一つですかね?

ちなみに私は仏教徒でもキリスト教徒でもありません。

A 回答 (6件)

私も、各宗教の本質は、敵対心とは関連していないと思います。

ただ、キリスト教は、一神教ですよね。でも、相手を絶滅させてまで、のことは教えていないです。多少解釈の違いは出てくるでしょうけれど、どの宗教も、結局は相手への攻撃の”理由のひとつ”なんでしょうね。良いとこ取りをして、利用しているだけのように感じます。

攻撃的な仏教徒、キリスト教徒。何であっても、他者への攻撃姿勢は、本来の宗教徒の姿からは外れています。
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この回答へのお礼

私も聖書やいくつかの仏教の経典を読む限りでは、そんなに攻撃的でない教えだと思うのですが、(いずれにせよ全部読んでないし、分からないところも多いですが)
なかなかどうして、攻撃的な方って多いもので。

仰るように、たしかに良いとこどりで、利用しているっていうケースも多いと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/25 06:04

人を裁いて、自分が優位に立つ(っていると思い込む)。

特にネットで。その人は、精神的病に近いです。

相手にしないことです。同じ次元に立たないことです。
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この回答へのお礼

なるほど、大事ですよね、大人になるって。

ネットだと匿名性ゆえに、そうした精神病が表にでてきやすいんでしょうね。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/25 06:06

何度か、宗教・哲学などの質問に対し、回答をした事があります。



仏教の真の目的は、「人の幸福」という点にあります。

仏教が日本に渡る以前から、いくつかの宗派に別れ、日本に渡ってからも、多くの宗派が誕生しています。

しかし、本来仏教というものは1つであり、何十種類もの教えがあるわけではありません。中には(特に日本に渡ってからは)本来の仏の教えを無視したり、勝手に解釈して誕生した物も少なくありません。

冒頭に書いたような目的があるのに、勝手に変えてしまっては、幸福になるべき物が、不幸の原因にさえなってきます。

そして、その間違っている物を良しとして行じれば、知らず知らずのうちに、大変な結果を生んでしまうのです。
例えば、子供が危ない事をしようとしていれば、親として注意をしたり、止めたりするのは当然でしょう。
それと同様に、正しい法を教え、行じさせる必要があるのです。

近年の残虐なる犯罪の増加や、鬱などの精神的病の多さや、大規模な人身事故やテロ、自然災害なども、多くの人が誤った宗教を、当たり前のごとく盲目になり、諌めもせずに平気で暮らしている(教育制度にも問題はありますが)ところに、思想の乱れの結果として厳然と私たちの生活の上で起きてくるのです。

宗教的カテゴリーで、攻撃性・排他性を持った回答などは、正に誤れる宗教・思想が顕われているものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

宗教的カテゴリーで攻撃性・排他性をもった回答は、まさに誤れる宗教・思想が顕れているー

納得できるご意見です。

ただ、「正しい法を教え、行じさせる必要があるのです」
と仰るときに、それは私には攻撃性・排他性を持っているように感じてしまうのです。

宗教者の間で何が正しい教えで、何が行じさせるべき教えであるのか、というのは永遠に一致しないと思います。
お互いがお互いのことを、真実を理解しないバカだと思い、お互いが攻撃的・排他的になってしまう。
そのような形で、世界史では幾多の宗教戦争が起こってきたし、今だってイスラエル問題に宗教の影響があることは否めません。

だから、怖いなあ、と思うのです。
私のような、非宗教家にとってみると。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/25 06:22

私も仏教徒の一人です。



>よくみかける攻撃的仏教徒についていかに思われますか

皆仏教徒、修行中の身だと思います。

私の宗派は、法華経を経典としています。

法華経の序盤に、お釈迦様(釈尊)が教えを説かないとと言い、弟子が3度、教えを請いました。3度目で教えを説くと言った時、そこから立ち去った者達がいます。

お釈迦様(釈尊)が言うには、立ち去った者達は、教えを聞かず、自惚れ、傲慢、勘違いしているものだと言いました。

とある宗派に入り、数年、日々修行の中で、自分の勘違いに気付かされることが度々あります。また、知らざることを知ることもあります。

 同じ文章を読んでも理解できる時とできない時、信じれる時と信じれない時があります。

法華経には、成仏したもののすべての教えを理解することは、到底不可能と言われています。しかし、お釈迦様(釈尊)は、様々な方法でそれを解らせるから、私の言ったことを「とりあえず、しなさい」と書かれています。


仏の教えを理解し、信じ、生き方に反映するのは、それなりの仏になるための経験値が必要です。仏になるための経験値が低いと理解もできず、信じることもできず、生き方に反映することはできません。これは私の経験上です。

(仏になるための経験値を「功徳」という)

仏教徒と言っても、功徳の高さは人それぞれです。そして、理解に長けるもの、戒律を守り修行するもの、きまぐれで修行する人、半信半疑で修行をするもの、疑い深く修行するもの、正しいことをしているという後ろだてが欲しい者、さまざまです。


成仏とはかけ離れた人間は、人を憎み、人をいじめ、人を傷つけ、優越を求め、汚い言葉を発し、衝動的な欲を抑えられず、禅定(落ち着いた)なる心を亡くし、自分の愚かさを愚かと思えず、自分の醜さを醜いと思えず、自分さえよければ良いと思って生きるものです。

成仏の境地とはこの反対ですが、修行をしたからと言って、ピタッとなくなるわけでも、止まるわけでもありません。
 私自身、日々の生活で人を憎み、人に対し怒り、衝動的な欲を抑えきれずに生きています。それでも修行をし、憎しみの心を沈め、怒りの心を沈め、衝動的な欲をこらえる時があります。
 できる時があるだけで、いつも完璧にできる訳ではありませんし、できる時が出始めたのは、つい数週間前です。

故に、皆、仏教徒であり、修行中の身だと思うのです。

私が思うに成仏した人ができることの1つとして、未来において必ず、心から喜べることができる人、後悔のしないことができる人だとおもいます。
 それをするのに必要なのが、仏の知恵であり、仏の性格(慈悲)であり、仏の勇気だと思います。

 ですので、攻撃的になるは止めた方が良いと思うのですが、そういう性格だとしか良いようがないと思います。それを亡くすために修行をする訳ですから。

私は、私自身がしている宗派が一番良いと思うのですが、それが正しいかどうかは解りません。ですが、仏道修行をして、何も変らず、心穏やかになれないのであれば、私の宗派に帰依し修行してもらいたいと思います。


後、最後に悟るとは、成仏することではないと思います。悟ることが成仏に繋がるわけですが、悟ることは成仏までにたくさんあります。私が上記の経験談も悟ったことの1つだと思います。ですが、それですべてを悟ったわけではありません。数多くの悟りの1つだと思っています。

そして、その中で究極の悟りが「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」だと思っていますが、悟っていないのでこれが何を意味するのか解りません。

以上、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

迫力ある回答ありがとうございました。

攻撃的な人はそれで仕方ない、でもその人もそうした攻撃性を乗り越える修行中の身である―

その通りだと思います。

でもその攻撃性を自覚なさってる方と、自覚なされてない方っていらっしゃって、
後者の方の書き込みを見ると、オイオイと
思うのです。

本人は良いことをしているつもりでも、実はそれが自分の傲慢さ、自分が信じたいことを人に強制的に押し付ける、といった低レベルの自己愛であるような気がして。

ま、そうした他人の自己愛を見て腹を立てるのは、ロシュフーコーの言うように、ほかならぬ自分の自己愛なんでしょうけどw

ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/25 06:14

人の数だけ宗教があると考えてみましょう。



仏教徒の数だけ(いや、非仏教徒も含めた方がいいのかもしれない)仏教があり、キリスト教にしてもしかりです。

特に信心の問題ですから、自分こそが正しいと信じてしまうと手がつけられなくなります。


たとえば、権力者がおごりたかぶっている、ああいう人になってはいけない、と説いた人がいたとして、周りは「その人こそ自分が権力を持ちたいだけなのだ」という悪臭を感じとっていたりします。
攻撃性というのは、他者を切り捨てることによって自分を確固たるものとしようという性質であると私は考えます。他者を切り捨てれば切り捨てるほど、自分もそれだけちっぽけなことになるとはあまり思わないようで。
それよりは、他者を全て認め受け入れることができる人ほど、大物だということになるでしょう。

したがって、本当に攻撃性のある人の言うことなど、小物なので相手にしないことです。


ところが。
もしその人が<本当に悟っている人>ならば、「攻撃性」というのはまた違った解釈をしなければいけなくなります。
悟れていない人の立場からしてみると「攻撃されている」と感じるということです。それは悟れていない側の問題で、悟っている側の方には責任がない、という風にも考えられます。

しかし、誰が悟っていて誰が悟っていないというのは、なかなか他人には確認できないものなので……難しいですね。


ただ、攻撃性や排他性というのは宗教だけの問題ではなく、生物のもつ自然な生理なのかもしれません。
だとすると、それを否定しようとすることもまた愚かといえなくもないことになりそうです。
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この回答へのお礼

攻撃性や排他性っていうのは、生物のもつ自然の生理……

たしかにそういう側面はありますよね。

そういう攻撃性を普段抑圧して、いい顔をしている人ほど裏側で幼児虐待に走ったり。

仏教的な意味で「悟ってる人」というのは、ごくごく僅か、という話がどこかの経典にあったと思います。
実際そうだと思います。

仏教的な意味の悟りではなく、単に大物、というだけでも、大物の攻撃性っていうのにはすごく惹かれるんでしょうね。会ったことないですが。
カリスマというやつです。
ヒットラーとかも実際あの当時はとんでもないカリスマだったんでしょうし。

散漫な感想ですみませんが、
回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/26 06:06

「他人のあら捜しではなく、


 自分の煩悩をみつめ、ここに書き込みをして自らの知識を誇り、優越感にひたる自分、
 を見つめるのが先」
ということを教えてくれた「反面教師」として、
その方に感謝すればいいと思います。
なかなか私もできないことですが・・・。(^_^;)
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