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カテ違いだったらスイマセン。

今の現代においては
「与える愛」より「奪う愛」のほうが多い気がするのですが
どうでしょうか?

恋愛関係においても嫉妬に狂う人が多すぎる。

相手を愛しているなら受け入れるのが
「与える愛」だと思いますが。

どうでしょうか?

よろしくお願い致します。

A 回答 (11件中1~10件)

私は与える愛がすばらしくて、奪う愛が悪いなどと簡単に分けられるか難しく思います。



嫉妬に狂うことは悪いことでしょうか?
嫉妬とは簡単に言うとヤキモチですよね?
自分の恋人にヤキモチされたら、愛されていると少し嬉しくなったりすることもありますし、一概には言えないものだと思います。

与えたいから、ただそれだけのために与える。私達は自分の中の満たされる何かのために相手を愛しているのだと思いますよ。「君のためにこうしてあげたのに」といって恩着せがましく余計な世話を焼く人を心底から忌み嫌っている私なので、やや斜にかまえているのかもしれませんが。


奪う愛を「相手に無理矢理~させる・搾取する」という意味の愛か、それともいわゆる略奪愛なのか、文面からはわかりませんが、与えたいの反対なので無理やりのほうだと私は解釈したので、そちらについて考えてみたいと思います。
奪うということを考えると、甘えるというのも一つのやりかたになります。そして、甘えられた側の恋人は役に立ちたいのでその甘えを聞いてあげるわけです。それはジグソーパズルの凸凹がつながったようなもので、甘えを聞いた側がえらいというものではないと思います。それに「奪う」という言葉は「奪われた」側をほのめかします。「相手に奪われた」といっているようでは、それは愛ではなく、お歳暮のように出したら返されるべきものと勘違いしている節があります。優しさもそうですね。優しくしたからといって感謝されるとは限らない。返されることを期待して優しくしておくのは、打算という言葉のほうがより当てはまるのではと思います。

いろいろな愛の形があります。それらは善悪や利害とは関係ないないどころか、全くの別次元にあって愛という形を保っているのです。

私のはまだashugreuraさんの質問の意味も、あるいは愛も把握しきっていないので、あまり要領を得ない回答だと思います。恋愛観の一つ程度に考えてください。
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この回答へのお礼

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 12:55

私が考える愛は「自分と相手の成長を考え行動する事」です。



もしくはその考えを目指す行為だと思います。

それが無ければただの欲望なきがします。

一方的に与えることはありえません、与える時に自分も何か受け取っているはずですからね。

ただ相手の欲望にただ答え続けるのは僕のいう「与える」とは違い、どちらかというと「奪う」方に入る気がします。成長を奪い堕落を与え合うのだから・・・
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この回答へのお礼

「自分と相手の成長を考え行動する事」
私もこれを意識して生活していきたいと思います。

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 14:15

>相手を愛しているなら受け入れるのが「与える愛」だと思いますが。



いちばん大切なことはシンプルなことで、それと共に実践するのがいちばん難しいことです。それは自分の欲望を希釈しなければならないからです。

「与える」愛、他愛は自己愛にもとづくものならそれは嘘です。「与える愛」と混同しやすいのが「奉仕」です。尽くすことで自分を労わっているのならそれも自己愛です。
尽くすことで相手に好かれよう、認められよう、見捨てられないようにしようとするからです。それは相手に与えているようでいながら実は何かを奪っているのかもしれません。

また「奪う愛」といっても、必ずしも悪い場合ばかりじゃない。奪われる愛が不幸な場合は奪う愛の方が純粋なときもある。また嫉妬も悪い勘定ではなく、人間にとっての普通の感情でしょう。奪われる危険を察知する信号のようなものだから。嫉妬されて嬉しいことも自然な感情だし、嬉しいのが幸福を感じ取る瞬間ですからそれでいいと思います。まぁある程度の嫉妬は恋愛におけるスパイスでしょうね。

一見静的ですが「受け入れる」「許す」ということも与える愛のひとつでしょう。それは耐性を必要とされますが、それも理解や積極的な意志からのものであるなら能動性によって、単なる一方的な忍耐の状態ではないと思います。

一見「愛」にみえてもそうじゃないようなもの。
「同志」というのは一見同じ経験、境遇、環境、痛みを共有する者同士の感慨を共通項とした関係ですが、同じ問題を互いを通して鏡のように見せあうため、愛憎関係となる可能性を孕んでいるのではないでしょうか。

また「同情」って愛情の一種なのでしょうか?例えばカウンセリング理論ではカウンセラーのクライエントへの共感的態度はよいが、同情は禁物であるとうたわれています。私自身カウンセリングを受けていたとき、同情されてその頭にきてやめたことがあります。見下されているような気がしたのでもなく、私がプライドが高いからきた感情でもなく、さらに自分が哀れになったんですね。むしろ私が悪いと言われたほうがどんなによかったか。でもそのカウンセラーは同情するのはおかしいことではないと言っていましたのでますます腹がたちましたけれど。
同情を寄せることは自然な感情だけれどそれをあからさまに示すと相手のプライドを奪うんですね。
同じ感情や経験を共有した者が互いに抱く「共感」は経験したことのないできごとに対して自分は無関係であったし、人のふりみて悲劇を学ぶからこそ「同情」できるのかもしれない。対等かそうでないか、その違いだと思います。いずれにおいても「共感」できる人は同じ経験を共有した者に対して「可愛そう」とは言えない。それがどれほど相手を傷つけるか知っているからです。

痛みを相手に投影すること。単にそういう心の作用や法則にのっとったものであっても、対象が幸福になればそれでいい。

「現代の愛」の特徴は・・・。そうですね、「愛」があまりにも氾濫しすぎているということでしょうか。歌を作れば歌詞が必要になるから、とってつけたような「愛」が謳われる。歌う本人も、愛の何たるかを知らないから、心に響いてこない。映画やドラマも同様で、「悩んでいるふりをしている若者」(by.加納典明)のような群集劇はモノに豊かで心貧しい日本人の恋愛ごっこのようなもの。資源の無駄です。

だから「愛」とはもっとも使われやすい概念であり、陳腐なことであり、あるときはその真実を追うばかりに地に堕ちてしまう対象であるけれど、誰しも愛を求めない人はいないし、「愛なんていらない」と言うニヒリストでも、実は最も愛を求めているのかもしれない。
私も哲学的に真の愛こそはアガペーにあると思いますが、実践や現実化に難しい至高のものであるから、ほうぼうで「愛、愛」と軽く口にすればするほど純度がうすまってくような気がする。
でも誰しもが日常の顕在意識の中で「愛」を意識の隅においておいても、無意識には誰しも愛を意識せざるをえない。人生そのものが愛を求める原動力、愛が人生の原動力となっているからだと思うんです。
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この回答へのお礼

「悩んでいるふりをしている若者」
読んで見たいと思います。


大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 14:08

カテゴリーはここで正解です。



「愛」といえば他の方も言っているアガペーのみが本物です。

ちなみに与える愛の対極は求める愛と定義したほうがよろしいでしょう。

現代において奪う愛が多いというのは間違いです。
これは自らの心がけが表れているだけで、質問者様自身が人様のどのような行いを見ても求める愛を連想してしまっているだけです。

求める愛についてなら私は何度でも語っていますが、これは愛欲と言う欲望です。欲望と言うのはけして満たされることはありません。したがってやがて、嫉妬、恨み、憎しみなどに変わる心理構造の火種となります。
どうしてこのようになるかと言うと、コンプレックスと言う言葉を本来の意味である観念の複合体として捉えるとわかりやすいです。
心理学ではフロイトの提唱した創成期からミラーと言う自らの意思にことごとく逆らう心の動きが自らの心の中に存在することが知られていますが、全ての間違った愛はアガペーとそのミラーのコンプレックスです。
観念が複雑に複合しているから真実の愛がわかりにくくなっているのです。
解決法は人それぞれですが、医者には頼れない自分だけの問題です。
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この回答へのお礼

与える愛⇔求める愛 ですね。

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 14:02

愛をアクセサリーのひとつと考えているから、愛を奪う、または与えるという発想が出るのではないでしょうか。

つまり愛をコントロールできると、しかし、コントロールされ利用された愛は愛でしょうか。コントロールしている人が中心にあるすべての行為は愛による行為とは思えません。
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この回答へのお礼

人が愛をコントロールするのではなく、
愛によって人の心が動かされたらなと思いました。

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 13:58

No3ではありますが、別の形のアプローチを。


愛という言葉にもいろいろな定義わけがされているようです。

私のかつて読んだ本には(ゴソゴソ…持ってくる)

エロス…肉体的、官能的な愛(一目ぼれなど)
ストーゲイ…友愛的な愛(友達から始まる恋)
ルダス…遊び感覚の愛(いわゆる「遊び」)
マニア・・・依存的かつ独占的で耽溺的な愛(相手を思い通りにしたい)
プラグマ…実利、現実的愛(経済力が好きになるポイントなど)
アガペ・・・献身的・自己犠牲的愛(相手さえよければそれでいい)

に分けられ、その中で基本形としてエロス、アガペ、マニアがあり、それらの派生、特殊型でストーゲイ、ルダス、プラグマが定義されるという形になります。

この分け方だと、与える愛はアガペ、奪う愛=相手を思い通りにしたいという愛はマニアに該当しますね。

また、他の分類でも、大まかにエロスとアガペーがあり、エロスは男女の愛、アガペーは自己犠牲的かつ宗教的な愛(キリストの万人への慈愛が一例、ブッダの慈悲も該当?など)とするものもあります。
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この回答へのお礼

わかり易い回答で助かりました。

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 13:56

アガペーは「与える愛」以外にありません。


「奪う愛」というものがあるなら、それは煩悩です。
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この回答へのお礼

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 13:08

>今の現代においては


「与える愛」より「奪う愛」のほうが多い気がするのですが
どうでしょうか?

昔もそうだったかもしれませんよ。動物だって、嫉妬して喧嘩しているじゃないですか。

>相手を愛しているなら受け入れるのが
「与える愛」だと思いますが。

どうでしょうか?


 確かに、嫉妬せず、喜んであげた方がいいですよね。そもそも、相手を愛するということが、親切心ではなく、愛着、自分のものにするという執着があるときこんなことはできないと思います。
 相手は自分のものではないから、自分の思い通りにならないことを悟って、親切心から相手を愛する方がいいのではないかと思っています。
 相手が自分のものではないことが分からないと、愛する相手を奪われてしまったとき、自分が損したという自己中心的な考えによって苦しんでしまうので、極度に人やものに愛着を持つことはできるだけ避けた方がいいと思います。
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この回答へのお礼

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 12:57

> 愛する人が自分の思い通りにいかないからといって


> 怒る人が多すぎると思います。

私見では、戦後日本は「自由」を取り入れたつもりで、
実は、「わがまま」を取り入れたからです。
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この回答へのお礼

自由=わがまま

難しいですね。

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 12:56

いわゆる『愛』と、恋愛の『愛』とは、字は同じでも内容はまるで違います。



いわゆる『愛』は、神の愛に代表されるように、『惜しげなく与えるもの』ですが、恋愛の愛は『惜しげなく奪うもの』です。

特に女は、男に対して、要求ばかりしています。

これは恋愛の時ばかりでなく、普段の時でもそうですが。

『おじさん改造論』とか『男は女の気持ちがまるで分かってない』などという議論は盛んに行われて男に要求ばかりしていますが、『オバサン改造論』とか『女は男の気持ちがまるで分かっていない』という議論はまったく行われないのが良い証拠です。
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この回答へのお礼

確かにそうですね。

大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/15 12:53

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