プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

予定説によれば、たとえ善行したとしても、それによって救いがもたらされるわけではありませんよね。
誰に迷惑をかけるでもなく、真面目に働き家族を養っていたとしても、結果として家族が残酷な犯罪に巻き込まれ、辱められ、皆殺しにされ、その家族も自分も魂の救済も得られずに地獄に行く場合もあると考えるのですよね。

そういう人間の側の論理でみれば徹底して理不尽で無慈悲な存在が神というものであると考えるのが予定説だと理解しているのですが、であるならば、「悪魔」は別に必要ありませんよね。
何故、予定説を採用した場合でも、「悪魔」の概念が必要なのでしょうか。

御回答よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

悪魔がいなければ、人は罪を犯さないからだと思います。

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 プロテスタンティズムに悪魔の概念がそんなキーとして存在する事例があるのですか?


 私は寡聞にして知りませんが。

 想像で語れば、プロテスタンティズムが生じる以前、カソリシズムは布教に際して悪魔の概念を大活用した伝統がありますし、イエスは荒野で悪魔と会っています。史上にも聖書の中にある以上、やみくもに否定することもない、ということではないでしょうか。

 ちなみに、公式エクソシストがいるのも、カソリックです。

この回答への補足

御回答ありがとうございます。補足します。
たとえば、マックス・ウェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にも出てきますが、
プロテスタンティズム、予定説を採用する立場においては、神によって救済されるかされないかはあらかじめ予定されていて、善行を含む人間のいかなる行いによっても覆ることはないが、自分が救済されない側にいるかもしれないという不安は「悪魔の誘惑」として跳ねのけ、自分が救済される側の存在であることを確証するため天職である労働に勤しむことが要求されますよね。
ここでやはり「悪魔」という説明概念が登場するのではないですか。

補足日時:2007/06/26 21:26
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《「悪魔」は別に必要ありませんよね。

》とわたくしも思いました。という回答でよろしければ・・・。

(1)予定説を確認します。 

これは 人間が因果応報から自由であるという意味だと採ります。善因がかならず善果をもたらすとは限らず 悪因ゆえに必ず悪果になるとも限らないと。

悪因を持った人間が ある日あたかもエポケーによってのごとく その縁起というのでしょうか 因果の系列が断ち切られ 善果のほうへ向き直り さらにその軌道を歩むことになる。

その事件は 当の人間の意志を超えて 何者かによって予知されていたと解釈することだと考えます。

ということは 原因があるなら 実は人間の意志がはたらいていたと考えられる 考えられると同時に しかも その因果関係には左右されなかったという意味で 何者かの意志(予知)のほうが優っていたという内容です。

いまの例は 幸福な結末のほうで 質問に例示されたように 悪い結末の場合もあるようです。

なんであの人に こんな悪い事態が起こるのかという場合。

(2)悪魔とは何か。これも確認する必要があると思います。

わたしの理解する悪魔は みづからの意志を殺した存在です。存在をみづから死なしめた存在です。

それでも存在であるというのは 他人についてもその意志を発動させないようにする意志だけは残しているというものです。存在であろうとする意志をことごとく死滅させようとする意志であり 精神です。すべてを否定する精神であり その否定するという作用だけは保持したかたちにおいて精神です。

さらに言いかえると 死そのものです。

みづからの意志を死なしめることは とうぜん 死です。これは 第一の死です。この第一の死は しかしながら 人間という果敢ない有限の知恵の存在がおこなったことですので この精神の自殺という意志じたいが 有限のものだったとも考えられます。この否定のさらに否定がありうるかも知れません。死が死ぬかも知れません。

否定の否定は そのまま 再生と言いますか 生の肯定になりますが それにもかかわらず そもそもこの生という事じたいを否定する精神であり それを固持するのが 悪魔でした。そこで 第一の死が とうとう 固まります。死が死なないという状態になります。これを 第二の死というのだと思います。永遠の死です。

しかも まだ 世界中の意志という意志 生という生を死なしめようとするはたらきとして あたかもその存在が 続きます。

別の見方では 単純に 悪魔は 死がこわかったのです。どうしようもなく恐かった。何がどうあっても 死だけは避けたいとして その予行演習のごとく 精神だけ死なしめておこうとしたとも考えられます。これを精神がおこなっているのです。


(3)これら予定説と悪魔とのかかわりや如何に。

よくわかりません。このご質問のように考えたことはなかったものですから 自信はないのですが 特別のかかわりはないように思えるのですが。 

ただし 善行をしているにせよ 悪行をしているにせよ その時々において 悪魔のことが 悪魔として認識していなくとも 脳裡にちらつくということはあるのではないかと考えます。誘われるか はねつけるかは また それぞれだと思いますが。

このとき 誘われるか誘われないか どちらになるかを予知されていたと言うとすれば どうなるでしょう? でも悪魔が介入したから 予知がどうこうなったとも言う必要はないように思われます。その限りで 悪魔は 必要がないと見えるのですが。

*No.2で補足されていた内容については 《悪魔の誘惑》があってもなくても 予定というか予知があり予知のほうが優っているということに変わりはないと思うのですが。

予知があれば 誘惑は必要ないというか あっても何ともないと思われます。それでも この予知の優ることをも くつがえそうというのが悪魔なのかも知れません。自分は救済されているか否かを知ろうとする人間の意志を超えているのが 予知であるはづなのですが。
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> 自分が救済されない側にいるかもしれないという不安は


> 「悪魔の誘惑」として跳ねのけ、

 ざっと、「プロテスタンティズムの~」を読み返したのですが、そういう記述を見つけられません。どのあたりにありますか? 岩波文庫ですが。
 記憶にも無いので、よほどさらっと書かれていたのではないかと思うのですが。

 いずれにせよ、マックス・ウェーバーがそう言ったとしても、比喩的な表現に近いのではないかと思いますよ。
 ここは、単なるキリスト教研究者であってキリスト教信者でない者の利点であり欠点が出る話ですが、文字通りイエスが対した悪魔のような存在だとは、考えにくいのです。
 イエスのケースは、極限状況における幻覚とも解釈できて、主観的には本当に何かと出会っていると言えなくは無いのですが、一般の仕事熱心なプロテスタントがそういう存在と主観的に出会っているとは、考えにくい。もしそうなら、過労死するほど働いている一部の日本人は、もっと祖先の霊や仏と出会っていると思います。

 その意味で、比喩ではなかろうかと。
 必要というのではなく、そんな概念があるから使ったという程度の意味と言いたいわけです。

 比喩としてなら、「悪魔の誘惑」は、普通に使えます。クリスチャンの使う言葉ですし、内容としても適切ですし。

 ちなみに、天職に没頭するメカニズムは、不安を払うための要求という、後ろ向きのものではないでしょう。
 信仰によって内面からモチベーションが上がってくるというメカニズムですから、マックス・ウェーバーなり、大塚久雄なりの表現ではないのではありませんか?

 仕事だって、結構まじめに没頭すると、ランナーズハイ(ワーカーズハイ?)になります。
 信仰によって自分の仕事が天職だと思えば、教養の無い人は特にまじめに没頭しますし、ルターやカルヴァンが宗教改革を成功させた時代はカソリシズムによる愚民化政策がピークに達していた時代でしたから、そういう人は多かったのです(というか、彼らが成功しなかったら、更に愚民化政策は進んでいたと言うべきですが)。
 そうしてワーカーズハイ状態になった人は、その恍惚感によって救われる側の人間だという実感を強化させても不思議はありませんし、牧師がそう説いても不思議はありません。
 それによって救われることを更に確信した人は、更に仕事に没頭するでしょう。
 天職への奉仕はそういうメカニズムですから、要求される、という表現には違和感があります。

この回答への補足

皆様、御回答ありがとうございます。
私も「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読み直したのですが、ちょっと該当表現を見つけ出すことができません(汗)。
その代わりといってはなんですが、藤原正彦著「国家の品格」71pに「悪魔の誘惑」という表現を見つけることができました。
新書で恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。

補足日時:2007/07/01 16:27
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まず、イエスが本当に言ったことがなんだったのか、誰一人知らない、という事実があります。


(ですが、ユダヤ教の概念を知ることによって、少しは理解が容易になるかもしれません。)


新約聖書が成立するまで、福音書とされるものだけでも400くらいあったそうです。

現在の福音書は4つですよね。
誰が4つだけをイエスが本当に言ったことだとして、他の書物をニセモノだとしたのか。

イエスに会ったことも会話したこともないし、もしかしたら、ユダヤ教というものがどんなものか知らない人たち。



新約聖書においてイエスが荒れ野の修行でサタンと対話したという記述があります。

サタンとはなにか。
敵対者という意味。

議論して真偽を測るとき、みんな同じ意見では議論になりません。
パネラーそれぞれが、赤組、白組と分かれて、それぞれに主張をぶつけあい、相手の矛盾を指摘することで、よりいいものを見つけ出そうとしますが、自分と反対の陣営において意見をぶつけてくる者。


福音書作家は逆の説と自分の説をぶつけあって、自分が納得に至った という描写だと思います。

ある説によると、これはクムラン宗団の試験がその方式をとっていたとされます。
サタン役の師匠がいろいろ問答をふっかけてくるが、日ごろの思想が確立していないと、たちまち試験で露呈してしまい、不合格になってしまう。


真理を希求し、より自分で納得のいく思想を確立し平安な心になるという手法だったものが、時代とともに変化して、隙あらば人をそそのかし悪の道にいざなう角の生えた牛のような生き物がサタンであるかのようになってしまった。


どうしてかというと、奇跡のオンパレードのヨハネ書に「ユダにサタンが入った」という記述があったからだと思います。
ヨハネ書はヘレニズム地域で成立したとされ、その地方には悪魔という概念があったので、そういう捕らえ方になったのかもしれません。

オデッセイアだったと思いますが、そこに悪を行った人が謝罪として「自分は悪魔に誘惑されやってしまった」といい、その言い訳を被害をこうむった人はなんと「そうか。 君ではなく悪魔が君をそそのかしたたためそうなったのか、 そうだな 俺だって悪魔にそそのかされたらやったかもしれない。」と認め、赦してしまった と物語ではなっている。
ギリシャ方面でヨハネ書があのようになった理由はそういう思想があったからだと思えます。



キリスト教は征服するのに都合がいい宗教でもあった。
富んだ土地をローマ帝国の領土にし、その土地の地下資源や肥えた土地を手に入れるには、その侵略先の人々が信仰していた神を悪魔に仕立て弱体化する必要があったから。
メデューサ。 ギリシャ神話に登場したと思いますが、彼女は元々土着の神で土地の人々に信仰されていたが、後に父権社会に以降したとき、悪魔とされてしまった。
そういう土地柄で成立したのが、ヨハネ書。


その流れを汲むキリスト教は1000くらいの悪魔を創造しました。
侵略した土着の神を悪魔だとしていった。
1000近い悪魔の産みの親・創造主はキリスト教です。
悪魔の頭でもあるというのが皮肉なものです。



マタイ書では作家はイエスに「神の救いを追い求めものは幸いである 天の国はそのような者たちで成り立っている」と言わせたのに、キリスト教は「キリスト教徒あることで迫害されたものたちは喜べ、抵抗の末殺されたら天国に行ける 」みたいなことにしてしまった。


オウムと一緒で、信者は徹底的に抵抗し騒動を起こし、人々の心を惑わし社会を混乱させ、そして捕らえられて処刑されたりもした。

キリスト教徒が迫害されるに至った理由はあった。
社会を混乱に陥れ、社会不穏を起こしていたから。
ですが、欲望が強すぎて見えなくなり、自分達が社会を不幸にしていたという自覚が全く無かったわけです。

キリスト教徒も不幸だし、自分達が信仰してきた神を悪魔だとされた人たちも不幸。
不幸ずくし。
そこに救いは一切無い。
地獄なわけです。


どうしてこのようなことが起こったのかとうと歪みだと思えます。
「律法の一字一句たりともこの世が終わるまで変えてはならない」みたいなことをイエスが言ったとされますが、キリスト教は変えるどころか存在を全く否定した。
もともとユダヤ教はヘブル語で、それを変えてはならないとしたのに、ギリシャ語に変えてしまった。
それによって、意味が通じなくなってしまった。
「神の救いを希求する者」が「義のため迫害された者」となってしまった。


言語を変えてしまったため、本来の意味からズレていってしまったわけです。

そのズレズレに変わって本来の意味を伝えていないギリシャ語の聖書を持ってしまったため、堕ちていってしまった。

でも征服して自分達の違う教義を持つものを異端として迫害し、天下をとってしまった派は、もう自分達の間違いを指摘し教えてくれる人の存在がいなくなってしまったので、殿様になってしまった。
サタン(敵対者)を撃退してしまったので。


キリスト教は階級社会ですので、上の人たちに利益が吸い寄せられる構造になっていた。
下の人は上の人に決して逆らってはならず、上の人の独裁だったわけです。

敵無しとなると、上の人はもうなんでもありな事を「これがイエスの言ったことの解釈だ」と決定してしまえた。


すると「教皇は神の代理人で、神と直接話ができるものは教皇のみであるから、教皇の言うことが神の言うことである」となってしまった。

聖職者は絶対で、信者は聖職者をすごい方々だと拝むように仕向けたわけです。

おかしいと信者が思っても「君はまだ理解が浅すぎる。聖書をちゃんと読めばわかるものを もっと勉強しろ!」として、決して教えてくれない。

権力の集中がゆがみをさらに拡大させた。

これによって暗黒時代と後世に呼ばれるものがやってきて、キリスト教の腐敗と堕落が顕著になった。
異端審問など恐ろしい集団を作って、恐怖で人々を縛り上げて奴隷化していった。



教会に逆らうと地獄に落とされるかのような印象を人々は持った。
金持ちは罪を犯したと思っても、教会に金を渡せば、罪が消えたとされた。
天国は金次第だとなった。


この腐敗極まりないキリスト教に対し、ものを言う人がでてきた。
「特に教皇のみが神と対話できるなんておかしいんじゃないか」「信者一人一人も直接神と向き合えるんじゃないか」「罪を犯しても教会に金を払えば罪が消えるなんておかしいんじゃないか」「金持ちに都合にいい世界なんて聖書と違う」
ルターです。
たちまち破門。


ですが、ルターの出現が起爆剤となり、宗教改革が起こった。
奴隷解放なわけです。


カトリックは、あまりにも威張りすぎたことを反省し、もう少しつつましくなり、「我々キリスト教幹部が人々が天国に行けるどうか決定などできない。 神は人智を超えたもので、我々は神の意向を知ることなどできないのだから」となったんじゃないかと思うんですね。


「人智を超えた存在なので、我々がいいことだと思うことであっても、それが神にとっていい事だとは、我々はわからない。だから我々のやってきたことは、神からすればとてもいいことかもしれない。従って謝る必要もないし、悪いことでもない。 死なないと真実はわからない。」

まあ この開き直りの連続でカトリックは成り立っているという。
これが救いというものだといわれれば、犯罪者天国主義。


プロテスタントは違います。
「自分達の努力次第で神はそれに報いてくれる」としている。



予定説が「人智を超えたものが神であるなら、神がいいことだと思うことは、人間にはわからない」であるとすれば、他力の思想ですよね。
特に俗世で悪人とされた人にとても有効な思想。
人とどれだけ殺しても それが宗教においては罪でもなんでもないのだから。
俗世で考える悪人にこそ必要な宗教。
俗世で善人な人は必要ないわけです。


と、ここまで来るとイエスの言ったことが思い出される。
「赦しなさい」と。
100億回悪を働いた人であっても、赦されたら罪が消えるという思想。
どこからくるかというとユダヤ教。

贖罪日(ヨム・キプル)
人はどうしても罪を犯してしまう。
でも、どんな罪も消すことができる。
それは、被害者が「赦します」と言ってくれたとき。
被害者の許しが無ければ、犯した罪は消えない という思想がユダヤ教にはある。


それで、誠心誠意謝罪することについてラビ文学では語っていたと思います。

これを 繋ぐ、ほどく という言葉でユダヤ教は表していたと思います。
律法につながれていなさい=律法を守っていなさい。そうすれば罪にはならない。=律法で罪と定めていないので罪にならない。
律法によりほどかれる=律法では赦されている。

律法を守れなかったため、他者に被害を与えたら、相手に誠心誠意誤り、相手の許しを求めなさい。相手が赦してくれたとき、罪は消える。


こういうことをイエスの作家はユダヤ教の概念からイエスを登場させ、ユダヤ聖書をよく知らない一般の信者に向かってわかりやすく説明しようとしたのだと思います。

ユダヤ教は聖職者の間で主に研究されていて、俗世の信者はもちろん聖書なるものなど持っていなかった。
シナゴークに行って、そのほんの一端を祭祀に伝えられていたにすぎない。


アラム語が人々の間で広まったことで、聖職者のみだったユダヤ教の内部がだんだん一般の信者にも公開されるようになった時代、イエス作家が開放されだした教義を外に出しだしたのだと思います。


ですが、それは長年勉強していなければ理解できない難しいものだったと思え、、、、、、

サタンがヘレニズム世界の悪魔の概念に摩り替わってしまい、ユダヤ教の教義を理解できなかったものが、神は人智を超えるものだから理解できない となってしまい、、、 ぐちゃぐちゃになってしまって、人々の心を彷徨わせることになってしまった。と。


ということで、長くなりましたが、彷徨った結果、矛盾が同居するに至ってしまったんじゃないかと。


尚、バアル、キリスト教では悪魔ですが、実はヤハウエイでもあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC% …

キリスト教は悪魔でもある神を崇拝してもいるという矛盾をはらんでいるわけです。
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神の救いと予定説は関係ないでしょう。


結果を見て考えている 私は救われたなぜなら神の計画だ
しかし神の計画なんて誰も知らない
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予定説とは結局カルマの法則のことだと思います。


しかし、これは内容が難しすぎて理解できないので、いろいろと教えを出したりしたのですが、それとて、不完全な教えであり、それを実践して守ったからといって、天国に還れるわけではないと言うことです。
しかし不完全ながらも一応はキリストが教えを説いたわけですから、それを邪魔をするのが悪魔ということでしょう。
つまり最終的には完全な世界ができるという予定のもとに、ならば、現時点で悪魔がいてもおかしくはないのではないかと言うことではないでしょうか。
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No.5です。



訂正です。

調べてみたところ、予定説を考え付いた人はジャン・カルヴァン。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E5%AE%9A% …

『予定説は、カトリック教会のトリエント公会議で異端として排斥され、また東方正教会でも同様に異端とみなされている。』


カトリックは予定説を会議において異端とたことから、『神の救済に与る者と、滅びに至る者が予め決められているとする』とは考えていないってわけですね。


『救済に与れるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすれば、虚無的な思想に陥るほかないように思われるが、実際にはそうではない。
プロテスタントの信仰を持った人は自分こそ救済されるべき選ばれた人間であると考え、救済された証しを得るために現世での職務に励んだのである。』

だそうです。

カトリックは悪魔を創造することで、人々に恐怖を与え、キリスト教が正義の者だとなり、<正義の者だとするために> 悪魔が必要だったため、土着の神を悪魔にしたてていった。

悪がいないと、自分達が正義であるということにならないため、悪魔が存在するということが不可欠だったわけです。

悪が存在しないと善が存在しえなくなる という。



で、予定説を採る人は「自分達が救われるかどうかはわからない。」ではなく、【自分こそ救済されるべき選ばれた人である】としたわけですね。

【自分こそ救済されるべき選ばれた人である】とするのに、どうして悪魔の存在が必要になるか。


共同訳聖書にサタンについて説明が書いてあります。

【悪魔と同じ意味。元の意味は「中傷する者」「訴える者」。旧約では、人間の罪を神に告白する者といった意味で普通名詞であったが(ヨブ)、後に悪魔の名となった。】

こういう話を聞いたことがあります。
神は人間も創造したが、天使も創造した。
神は人間を愛していたので、人間が罪を犯して不幸になってしまわないよう天使に人間の行動を監視させ、報告させていた。
ところが、天使は神に愛された人間に嫉妬し、人間がちょっとでもおかしいことをすると、すぐ神に告げ口するようになった。

これがサタンの原型だと思えます。

そして予定説の悪魔は、「救済されない者」という立場に立っている。

従って予定説を採る人は、自分は悪魔(救済されない者)ではなく、救済されるものであるとするため。

【救済されるものである私】が存在するためには、悪魔(救済されない他人)の存在が不可欠になってくるわけです。


というふうに考えられます。
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> そういう人間の側の論理でみれば徹底して理不尽で無慈悲な存在が


> 神というものであると考えるのが予定説だと理解しているのですが、

そもそも、予定説の「理解」が違うのではないでしょうか。

予定説は神様の救いに関する「説」なので、神様が理不尽だとか、
無慈悲だとかいうことは、この際、主観的な感想だと思います。

敢えていうならば、予定説によれば、神様は、その救いにあずかる
人たちを(聖書には「求めよ、さらば与えられん」と書いてあるので、
つまるところ、救いを求める人たちを)決して見捨てることがないと
いっているわけですから、むしろ神様は、理不尽なくらい慈悲深いと
いえるのではないでしょうか?

No. 8 >> 調べてみたところ、予定説を考え付いた人はジャン・カルヴァン。

そういうわけではありません。例えば、Goo 辞書(国語)を調べて
みてください。http://dictionary.goo.ne.jp/
あるいは、Wikipedia 英語版で “Predestination” を調べてみてください。

No. 8 >> で、予定説を採る人は「自分達が救われるかどうかはわからない。」
No. 8 >> ではなく、【自分こそ救済されるべき選ばれた人である】としたわけ
No. 8 >> ですね。

これは、「予定説を採る人」の考えとは、相容れないように私には
思われます。ぜひ、よく調べていただきたいように思います。

> 何故、予定説を採用した場合でも、「悪魔」の概念が必要なのでしょうか。

予定説というのは、救いに関して聖書に書かれていることから導かれた
説なわけですから、聖書に悪魔について書かれているときに、「悪魔の
概念が必要」かどうかという質問は、あまり、意味をなしていないように
思います。
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No.4への補足


> 私も「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を
> 読み直したのですが、ちょっと該当表現を見つけ出すこと
> ができません(汗)。
> その代わりといってはなんですが、藤原正彦著「国家の品
> 格」71pに「悪魔の誘惑」という表現を見つけることが
> できました。

 結局それは、「必要」という問いの設定が根拠を失ったということですね。
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