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与謝野晶子の詩歌、
「君死にたまふことなかれ」
ああ 弟よ 君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せと教えしや
人を殺して死ねよとて
二十四までを育てしや

この短歌は、世間に対してどんなことを訴えようとしているのか
読み取ろう。

→私の考え 今まで育ってきた弟が戦死してしまうなんておかしいから戦争なんて間違っているというのをうったえているのだとおもいます

私の考えについて、それよりこういう考えの方がよくなるのではないかなど、アドバイス、添削していただけるとうれしいです

A 回答 (6件)

質問者様の引用部分に入っていませんが、「堺の商人の息子が何で戦に出なあかんのや」という趣旨の部分がありますね。

この部分を無視すると、この詩の意味が全く分かりません。

江戸時代以前、町人が自らの意思と関係なく戦場に出ることはありませんでした。大坂の陣のような都市を舞台とした合戦では、大坂城下の商人は市外の親戚などの所に逃げ、店は焼かれて損害を蒙ったでしょうが、豊臣家が大坂城防衛のために大坂の町人の倅を徴兵して足軽にする、などという形で戦に巻き込まれることは全くあり得ないことでした。特に都市の町人にとっては、戦は「武士が勝手にやっていること」だったのです。

与謝野晶子の弟がどういう人だったのか分かりませんが、陸士や海兵を出た将校、あるいは兵役終了後に下士官を志願して軍に残った職業軍人でなかったのは確実です。彼女としては、「商人の息子が兵隊に取られて戦わされる」ことへの悲しみを素直に詠んだのでしょう。これは、現代の私たちにも分かりやすいことです。決して「戦争なんて間違っている」などという「大それたこと」は考えていない筈です。

No1さんが、与謝野晶子が自分の息子が海軍大尉として出征する際に武運を願う(戦争を肯定する)歌を詠んだことを紹介しています。この息子(与謝野四郎)の詳細な経歴は分かりませんが、恐らく海軍兵学校か機関学校を出た海軍士官だったのでしょう。その場合、自分の意思で軍人となることを選んだ息子なのですから、その出征を祝するのは当たり前です。

要するに、彼女は日露戦争の時は反戦詩人、大東亜戦争の時は戦争賛美詩人だったとかいうわけではなく、

「商人の息子なのに徴兵されて一兵卒として辛い生活をし、敵陣に突撃される弟はかわいそう」という姉としての立場

「海軍士官となり、軍鑑に乗って戦地に向かう息子の武運長久を祈る」という母としての立場

をそれぞれ正直に詠んだ、ということです。どちらも矛盾していません。
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私は反戦歌というより家族愛の歌と感じます。


生死の定かならぬ弟の身を案じて、その感情をぶつけたものではないでしょうか。

それを反戦歌と誤解したのは当時の好戦的風潮によると思います。
後に非難に対し簡単に謝罪しているのも彼女に反戦の思想が少なかった為と思います。

真の家族愛はこのようなものである筈だとおもうのですが・・・
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 有名なこの歌は与謝野晶子という人物をを語る上で欠かせないものになっていますが、私はちょっと違った見方をしています。

結論から先に言えば、この歌を詠ったときの与謝野晶子の心情としては、一般的によく思われているような戦争反対という先進的革新的な勇気ある行動というよりは、単に弟の戦死を悲しみ、肉親の情としての悲しみを戦争にぶつけたものだと理解してよいと私は思います。

 ではなぜそう思うかということですが、与謝野晶子の弟は日露戦争の激戦地であった203高地で戦死したことになっていますが、実はそれは彼女の勘違いであって、弟は203高地に派遣された師団とはまったく違った大阪の師団に所属していて、日露戦争集結後無事に帰ってきています。そしてそのこともあり、また当時の軍国主義的社会の風潮もあって、このような歌は反国家的であるという様々な方面からの非難を受け、あっさりと謝罪文を後に雑誌に投稿しているからです。

ちょっとご質問の趣旨に反するような回答になってしまいましたが、お許しください。
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戦争中は、どの国でも勇ましいことが正しいことです。


家族の中で色んなことを、言ってても対外的には死んで来いと言わなければなりません。
同時テロ911の後のアメリカも、イラク戦争に反対した、マスコミ関係者が、飛ばされ、
学校で反対した高校生(だったかな?)も他に転校しました。
やっと落ち着いてきて、反対する人も出てきています。
それが、もっとも極端に出ているのが、イラクだと思います。
親父の仇を討ちに行った兄貴の仇を弟が・・・。
日本でも、戦争前に御前会議(ごぜんかいぎ)で、戦争のための燃料が一年しかないのに、
下から上に上がっている内に段々と水増しされていった。
勢いがすべて?
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A9%BA%E6%B0 …
戦争中は、普通が異常になると思います。
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与謝野晶子は、教科書などでも一般に反戦詩人として扱われがちですが、#1さんのおっしゃるように、単純な反戦論者ではなく、人間というものに対する深い観察力のある詩人です。


中学や高校などでは、反戦の歌と捉えてもよいでしょうが、文学という視点からは、親の情愛など人間的な視点からの読みが必要となるでしょう。
今回は「歴史」というカテゴリーの質問ですので、あなたの考えが正解かも知れません。「文学」のカテゴリーだとすると読みの浅いものとなります。
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あなたの考えの通りで正しいと思います。



ただ、与謝野晶子は自分の息子が戦場に出向く時に下のような歌も詠んでいます。

 水軍の大尉となりて我が四郎み軍にゆくたけく戦へ
 子が乗れるみ軍船(いくさぶね)のおとなひを
           待つにもあらず武運あれかし

君死に給うことなかれは日露戦争、上の歌は太平洋戦争の時の作品です。このような背景も交えると、単なる反戦詩人ではなく、与謝野晶子という人の人間としての多面性が見えてくるように思います。
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