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最近、阿部 謹也さんの「「世間」とは何か」を読んだんですが、具体的には世間と社会の違いは何でしょうか?
自分としては世間は人間関係を重視したもので、社会は法律やインフラなど大きな取り決めを定めたものだと思うですが…
皆さんのお考えをお聞かせ下さい。

それと、海外にはいわゆる「世間」はないのでしょうか?
黒人社会、白人社会とは聞きますがこれは日本で言う世間とは違うのでしょうか?
違うとしたら何が違うのか教えて下さい。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

こんにちは。


確かに日本では明治以降輸入された概念である「社会」とそれ以前から自然発生的に形成されてきた「世間」とでは重なる部分もあるものの、やはり本質部分には異なるものがあると捉えている向きがあります。
よく「世間体が悪い」とか「世間様に申し訳が立たない」などと使いますが(最近ではあまりそういうことも言わないのかもしれませんが)、こういう場合「社会」的に明確な「悪」であるようなこととはまた違った意味合いであることが多いかと思います。
「世間」というのは所謂「ムラ社会」で形成される「見えない決まり」に照らしてどうであるかということが規範となります。
「見えない決まり」は主に慣習などからつくられていますが、そこには日本人が何より大事にする「和」の心が欠かせません。
「和」というと現代の民主主義社会の理念に近いような感じがしなくもないですが、実際にはそうではなく、「多数決によって多数の幸福を追求する」のではなしに、例え全体が「社会」的に悪い方向へ向かおうとも、全員が納得するやり方を尊重するということです。
納得さえすればいいので当初の目的が歪んだかたちで変更されたりしても構いませんし、要は「赤信号皆で渡れば怖くない」というような現象が起き易くもあるのです。
そのような「世間」で最も大事なことは何と言っても「足並みを乱さないこと」。
良くも悪くも「出る杭は打たれる」ということです。
ですから日本では「世間」と「社会」のどっちに従えばいいのだろうかというような問題も起きてきたりしますし、板挟みとなって苦悩するようなこともあるでしょう。
一方西洋の社会では「社会的規範」のようなものは近代国家が形成される以前に、キリスト教などの宗教によって既に下敷きがなされていたようなところがあります。
逆に言うと日本ではそういう強力な「ルール」をもつ宗教が「社会的規範」となり得るほどのウェイトを占めることが出来なかった為に、「世間」という具体的なようで実際には具体的でないものが形成されたのだと言えるかもしれません。
どうして「仏教」にしろ「キリスト教」にしろ、一旦は入ってきたにも拘らずそういうことになり得なかったかというと、やはり古来からの「和」の原理に敗れた、もしくは取り込まれてしまったからだということでしょう(太宰治も言っている「つくりかえる力」ということでしょうか)。
西洋では宗教というのは「神との契約」で、日本が「世間」でもって共同体のルールづくりを行ってきたのと同じようなことは宗教が担う役割でした。
「世間様に申し訳が立たない」のではなく「神様との約束を違えてしまう」ということが、西洋人を縛ってきたということです。
ですから「世間」の定義にもよりますが、日本と本質的に同じようなものは少なくとも西洋にはないと言えるかもしれません。
確かにあちらにもそれぞれ小さなコミュニティにおける「見えない決まり」は存在するでしょうが、それが日本のように宗教による拘束力のような力をもつことはまず有り得ません。
日本人にはわかり難いところですが、空気のように当たり前に宗教が存在するところでは決まりも何もそれを介さない訳にはいきません。
ちょうど日本人が意識せずに何事も「和」の原理の影響を受けていることと同じです。
日本も明治の文明開化以降、その目で西洋をつぶさに見てきた者達によって如何に向こうでは宗教というものが人々の精神的支柱となっているかということを思い知った為、単なる自然崇拝的なものであった「神道」を、無理矢理天皇を頂点とする強力な求心力をもったものにつくりかえようとしましたが、ご存知のように先の戦争に敗れてからはそれが「諸悪の根源」であるかのように言われる始末ですし、もしそれが無かったとしても何より「和」を重んじる民族性には合わないものですので、次第にもとのかたちに戻されていくような感じになったのではないかと思います。

何かダラダラ長くなってしまいましたが、何かしら質問者さんの思索の助けになる部分でもあれば幸いです。
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